こころのいばしょ、じぶんのありか。

いっぽずつ、自分らしく生きていくために。

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考えたこと
気づいたこと

すべての自分を認めてあげるために、

その先にある「答え」 にたどり着くために。


テーマ:

「手放す」という言葉も、また、
カウンセリングの中で使われやすい言葉のひとつかな
と思います。
 
 
「手放す」が、でてくるのは、
何回か、カウンセリングを受けていただ場合などに
 
問題や悩みの「核」みたいなものが
クライアントさんご自身でも、はっきりしてきたとき、
 
もう、これ以上「同じこと」を繰り返しても、キツイだけだな、
ってわかってきたとき、
 
そんな「終わり」が見えてきたタイミングで
「もう、手放した方がいいんですかね。。。」的に
使われることが多いかなと、私は思っています。
 
 
でも、そもそも、
「手放す」って、そんなにメジャーな言葉だっけ、
一般的に使う言葉だったっけ?と、ふと思ってしまう。
 
「自分と向き合う」とか
「自分を見つめる」とか
それこそ「気づき」だとか、
そんな言葉と同様に
 
心理学とか、心の世界系の話に、触れたことのある人にとっては
馴染み深い、
そして、なかなか使い勝手の良い言葉なのに、
 
ご近所の方なんかと話すときには、
なぜか使いにくくなる不思議な言葉の中に
「手放す」も入ると思います。
 
日常の会話の中で、
「最近〇〇するのが、辛くって。。。」とか
「いっつもやっている〇〇が、以前みたいに出来ないんですよ」
って話をふられて、
 
「それは、何かを手放すときかもしれませんね」って言い出したら、
「はい?」って空気が流れると思います。
(断捨離とかお互いに知ってると、ニュアンス的に伝わりやすいかもしれないですが)
 
 
自分が苦しんできた、その根本にあった執着とか
自分を窮屈にしてた、こだわりとかを、
「手放す」ことで、
身軽になろう、素の自分に戻ろうというのは、
もちろん大切だと思います。
 
いまの自分にとって、余分なもの、不要なものを捨てるという意味での
「手放す」は、よく使われているし、理にかなっている。
 
 
でも、「手放す」を使う、そのとき
その「やり方」「方法」を、
「やっぱり、こうするものですよね」的な
いつでも使える万能な方法みたいにして
盲目的に使うと、かえって自分から離れてしまう。
 
「それが、本当にしたいことなの」って話。
 
自分の抱えていたものを、
それこそ「根こそぎ、手放す」のは
ちょっと、どうなのかな?と感じてしまうことがある。
 
 
特に、
カウンセリングの中で、扱わせていただくことの多い
家族や、両親や、大切な人への「想い」については
 
「手放す」ことが、いつでも「正解」だとは、私には思えない。
 
たとえ、それが、
長年、自分を苦しめていた悩みの根っこにあるものだったとしても。
 
 
特に、特に、
「これは、もう手放さなきゃいけないんですよね」って言う
その人の姿に、
何とも言えない無力感「あきらめた」感じとか、
「無感覚」な感じが伴っている場合は、注意が必要。
 
 
「手放す」ことを、決めた、そのとき
ずっと持っていた大事なものまで、いっしょに
手放そうとしていないか。
 
「手放す」、というより
「最初から、何もなかった」的な扱いになっていないか。
 
「手放す」と「あきらめる」がゴッチャになっていないか。
 
 
「手放す」という言葉には、本来
否定的な感覚・要素は、混じってはいないはず。
 
だって、素の自分になるために
今までの余分なものを「手放して」
本来の素晴らしい自分に戻るんだから。
 
 
だから、
「手放す」ことに向かおうとするとき、

何だか、身体に力が入らない感じがしたり、
心のどこかで、憤りを感じていたり、
それこそ、
手放そうとする自分のことを、心から良しと思えない
「自分が許せない」状態での
「手放す」は、何かが違っている。
 
 
「手放す」ことが、
自分の中の大切なものを
「あきらめる」ことに、なっていないか。
 
 
 
「手放す」って、結構、不思議な言葉だと私は思っていて
 
“ あなたが「手放す」その何かの
 「自分にとっての本当の大切さ」を、わかっていないときには、
 決して、手放してはいけないけれど、
 「自分にしかわからない大切さ」を、身に染みてわかったとき
 手放すときがくるものって
 ナ~ンダ?”
 
みたいな、それこそナゾナゾか?って要素があると
私は思っています。
 
そもそも
「手放す」ことに、最終的にはなっていくぐらいだから、
いまの自分には不必要なものだし、
それこそ、自分のために
本来の自分に戻るために「手放す」んだけど、
 
 
じゃあ、その自分を苦しめてしまうぐらいの何かを
なんで、自分は背負おうとしてしまったのか
自分の責任みたいに思い込んでしまったのか
 
もう「手放す」ことを、許されたはずなのに、
自分でも「そうしていい」と、頭では理解できているのに
どうしても、ぬぐえない抵抗感があるのは、なぜか。
 
 
あきらめられない
それこそ、
あきらめてしまったら、自分が自分でなくなってしまうぐらい
大切に、ずっと持ち続けていたもの
 
どんなに苦しくても、
それを、することによって、
叶えられると信じた「願い」が、きっとある。
 
 
そして、
たぶん、その「願い」は、自分のためでは、ない。
 
だから、そんな辛く、大変な「本来、自分のものではないもの」を
背負えたはず。
 
人は、自分のためにできること、頑張れることには限界があるけど、
大切な人のためには、その限界すらなくなる。
 
 
今の自分にとっては、いらなくなった何かを「手放す」ことが、
これまで自分が抱えてきた「願い」を「あきらめる」ことになっていないか。



で、
「手放す」、その本当のタイミングのときって、
 
何と言うか、
「変えなきゃいけない人」「何とかしてあげなきゃいけない人」が、
いなくなる。
 
それこそ、
誰ひとり、「悪い人」がいなくなる。
 
もちろん自分自身も含めて。
 
だって、それが本来の自然な姿だから。
 
無理に何かを抱えている必要もなくて
安心して手放して、もう大丈夫。
 
 
「そのとき」になったら、
 
これまで、
自分を縛り、苦しめてきたものを
「手放す」こと、それこそが、
 
これから、
ずっと抱えてきた
「願い」をかなえることに、なるのだから
 
何ひとつ、「あきらめること」は、ないのだから。
 
 
大切な願いに気づく、それだけで、
すべてが、報われる。
 
だから、
もう、手放していい。
 
 
ただ、
「手放す」ときの
「さみしさ」は、
どうしても、なくならないのだけれど。
 
 
 
 
 

 
 
 
 

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