甲州最前線

山梨のアルジャジーラ「甲州最前線」の公式サイトです。山梨県出身や縁のある方へのインタビュー記事を掲載しています。


戦国武将・武田信玄で知られ、桃やぶどうの生産量日本一を誇る山梨県は、2012年現在危機的状況に直面しています。

かつて賑わいをみせていた甲府市中心街は今、人通りはなく店のシャッターは閉じられたまま。若者たちは何処へ行ってしまったのでしょうか。

だけんど、うちらの美しい故郷・山梨にシャッターを下ろすわけにはいかんら、だっちもねえこん言っちょし!とてこれを打破し山梨を盛り上げるべく、都内在住の20代を中心に若いメンバーで結成されたのが甲州最前線です。

風と火を、風林火山再び!
Wind and Fire are back to us. Welcome back, Furinkazan!

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moshimoss──本日山梨県甲府市のカフェ・六曜館に来ております。ゲストは山梨県在住ながら日本、そして世界に発信しておられるmoshimossさんです。
ロックの素地とシンセサイザー
──では恒例なんですけどもご出身と生い立ちをお聞きしても良いですか?
竜王です。竜王小から竜王中に行って、高校は甲府西高でした。部活はやってなかったです。中学の時は何かしなくちゃいけなくてバスケに入ってたんだけどすぐ逃げました(笑)。

──なるほど。音楽はその頃から興味があったと。
爺ちゃんに買ってもらったギターを一人で弾いてましたね、Xとか。高校に入ってからはパンクとかが好きでちょっとづつ作り出したんです。バンドも学祭に向けて組むとかはありましたが、所謂バンドマン的な活動はしていなかったです。卒業後は上京して一瞬だけ音楽の専門学校に行ったんです。でも本当に肌に合わなくてすぐ辞めました(笑)。

──音楽専門学校をすぐ辞めるというのは珍しいケースですね。
そう、生徒が先生の言う事を一言一句鵜呑みにしてノートしているのが何か馬鹿馬鹿しいなと思ったんです。パンク以外にもハードロックが好きだったし上手くなりたいっていうのはあったけど、全然馴染めない。ただ高校卒業して皆大学行こうとしてる中で、自分は進路どうすんの?って考えたらとりあえず音楽の学校に行ってみるのは有りかな、みたいなことをボンヤリしか考えられなかったんですよ。しかしパンクが好きなのにギター習いに学校に行ってる時点でちょっと何考えてんのっていう。本当に数回で行かなくなっちゃいました。親に対して反省してます。

──元々テクニックに傾倒しすぎたロックに対するカウンターがパンクなのに(笑)。その後はどうしたんですか?
辞めてからは1年ほどいた東京から山梨に引き上げてふらふらしてました。ちょうど12年前くらいでしたね。その頃は山梨出身の友人と東京でバンドを組んで活動もしていたんですがそれもなんとなく上手くいかなくて。でも音楽はやりたいんですよ。だから何か1人でできないかなぁと、山梨に戻ってから甲府のパセオ(甲府市中心街にあったデパート)の島村楽器で打ち込みをできるようなシンセサイザー(MC505)を買ったんです。

──おぉ、文明の利器ですな。
シンセを買ったことで「1人でやるなら何だろう、テクノ?」みたいな感じでテクノに興味を持ちました。それまでそういう電子音楽はあんまり聴いた事なかったし、一人でやることを余儀なくされて、流れ着いたという感じでしたね。シンセ買った以降は、エイフェックスツインとかドラムンベースとかそういう音楽も聴き始めました。

──当時山梨でそれらの音源を掘るのも難航したろうと推測されますが、ギターからシンセ、打ち込みに転向するというのはよく聞く話ではありますね。
でもシンセいじるのはもう勉強って感覚がまったく無いんですよ。楽しすぎて。初めて買って2日くらい説明書も見ずに徹夜でいじりました。今はパソコンで音源作ったりすぐできますけど、当時は自分の音源をつくって聴くっていうこと自体が自分の中でセンセーショナルな事だったんです。だから楽しくて楽しくて体壊すほどのめり込みました。

ダイヤルアップでMP3
それからまた東京に少しだけ戻ってバイトをして作りまくったりしながらDJもやってました。本名のKosuke Anamizu名義で本格的に活動を始めるのは24歳で、デモCDを初めてレーベルに送り始めた時です。24って厄年じゃないですか。そしたら本当に年の初めに暴漢に襲われて新聞沙汰になったり大変だったんですよ(笑)。でも「これで厄が落ちた」と思ったのでガンガンやろうと。丁度それをドイツのレーベルであるTraumに送ったんですよ。Eメールでなく直接CD付きの手紙を。

──何故、ドイツのTraumに送ったんですか?
自分の持ってるレコードで自分のテイストに近いかなという物のレーベルで、住所が載ってるものをピックアップして選びました。当時はメールより書いてある住所に送る方が普通だったんですよ。何よりまだダイヤルアップ回線の時代でMP3の音源を送るなんて重過ぎて無理だし、soundcloudみたいなものもないし。

──つい十数年前の話ですからねこれ!遅ーいダイヤルアップでピリリリリ、通信費がかさんで親に怒られ、ひたすら忍耐という。光ファイバーとか無線LANで音楽やってるなんて甘っちょろいんですよそもそも!笑
それに何となくずっと東京っていうか、中心に対して「なめんなよ」って気持ちもあったんですよ。敵対してるって感じでは無いんだけど何処に住んでても出来るでしょみたいな。あと当時のテクノはケンイシイがベルギーのR&Sからリリースしてバリバリやってたし、何処にいても世界と1対1でやれるんだという空気がありましたね。そしたら送った「moopy」という曲をTraumから毎年1枚出すコンピレーションアルバムに収録したい、と返答が来たんです。嬉しかったですね。その後もなんか評判が良かったみたいで12インチ(アナログレコード盤)で音源も出す事になったり。でもあまり実感は沸かなかったです。そこからまた苦しいんですよ。自分が何を作っていいかわからなくなって。

自己模倣、迷走、そして解放
──と、言いますと?
リリースはできて良かったんですけど、最初に出した音源の影を追う感じになってしまったんです。自分がやりたいから物をつくる、というよりリリースが決まって納期に向かってやる感じ。まだ未熟だったっていうか何がやりたいか固まってなかったので、分からなくなったんです。その当時を思い返すと、気持ちは暗くて毎日ひたすら模索してるので遊びにも殆ど出ない。そんな何を作ったら良いのかよく分からない中でアルバムの発売だけが日本のレーベルで決まっていて、とりあえず製作したんですが「これじゃ出せない」とダメ出しされてしまいました。へこんだんですけど、確かに自分でも良いと思わないものはリリースできないな、と。

それが良い機会で好き勝手やる、という原点に戻るべく敢えて一度ダンスミュージックから離れて好きなものを作ろうと。そしたら段々頭も整理されてきて、何がしたいか見えてきた。

──なるほど。それが今の一連の音楽制作に結実していくわけですか。
そうです。後々自分でレーベルを立ち上げたりmoshimossの活動も始めていくことになります。
去年はmoshimossとして「endless endings」をnothings66というレーベルからリリースしたり、Preghostという別名義の作品もアメリカのn5MDからリリースしましたし。

──DJカルチュアでは一アーティストが別名義で作品を出したりはよくある話ですが、住み分けの様なものはありますか?
Preghost名義に関してはアルバムの制作時期がmoshimossのアルバムの製作時期と重なってたというか、少し連動していて。moshimossのアルバム製作で息詰ってボツ曲というかちょっと暗めだったりアルバムにハマらないような音に気分転換する感じでmoshimossでは使わない強めのビートを入れたりして色々試して発展させていったら、自然に何曲も出来そうだったのでこれはこれでまとめて別名義でリリースしたいなーと思ったんです。それをn5mdにデモを送ってスタートしたって感じ。moshimossよりもダンス寄りなビートが入ってます。

──なるほど。ところで、今でさえ山梨日日新聞に取り上げられますけどデビュー当時(2003年)は話題にならなかったんですか?高校生だった僕はまったく存じ上げなかったんですが。
山梨なめんな
興味ある人も少ないし、そもそも話題になるとかそんな次元じゃない。勝手に山梨代表って言ってたけど山梨には向けてないというか、自分は一人で勝手にやりますよって感じでした。でも当時は「何でそんなに山梨推しするの?」ってよく言われましたね。今と違って地方推しする風潮はほとんど無かったから。日本=東京って感じがあったし。山梨自体が自分自身みたいなところがなんとなくあって、山梨って駄目だ、みたいな風潮が山梨ではあるから「なめんなよ」と。何にも無いからこそクリエイティブな気持ちが出てくると思うんですよ。盆地で山に囲まれているし、日本も海に囲まれてて鎖国とかしてたじゃないですか。なんとなく日本の縮図だと思うし、土着性が凄くあると思うんです。良くも悪くも。

──分かりやすい見立てだと思います。ヒップホップのレペゼン文化定着前からその様な気概を持っていた、と。
どうですかね。レペゼン文化についてはよくわかりません。
それにしても山梨の人って本当山梨好きですよね。「山梨原人」って本をstillichimiya(スティルイチミヤ)と出したんですけど県人気質的に「こんなのぜってえ売れるわけねえじゃんけ」と文句言われると思ってたんですが、凄い気に入って貰えてたみたい。ツンデレですよね。滅茶苦茶地元愛あると思いますよ。

──確かに!
でも、山梨を盛り上げよう!みたいな活動が空を切る感じは少なからずある気がします。山梨の為とかいうよりも、面白いと思ったことをみんな好き勝手やればいいと思ってて。面白いかどうかが優先順位で上にないとダメかなーと。なので、みんなが自分のしたいことを勝手に楽しんでやっていればそれが廻り回って山梨の為になるかもくらいな感じで思ってます。頑張るとか、行動するってこと自体が目的になって気持ち良くなってたら駄目かな。
そもそも、自分は山梨のためにやってないです。もちろんいつか良い感じで役に立てたらいいなとは思いますけどね。

──それを聞いて僕が思うのはやはり去年の国文祭ですね。文化の国体と言われる28回の歴史で初めて通年の開催になって知事も「今年の目標は国文祭の成功だ」なんて表明していましたけども、結局決定打が無く終わったという(笑)。それよりも年末に林真理子さんが打った教養イベントのエンジン01の方が全然突破力があった。

それでは最後に山梨の若者に一言お願いします!

偉そうな事言える立場ではないんですが「山梨のせいにすんなよ」ってことですかね。山梨って、実は良い。無いから良い。逆にチャンスだと思ってます。

──ありがとうございました。

編集後記(小池)
大分更新滞りましたがみなさまお久しぶりです。
雪の爪痕もまだ癒える間もないですが、僕にできるのは文化復興なのではないかと、このインタビューをドロップさせていただきます。

今、山梨は本当に面白い!ヒップホップカルチャーが一番キーですが、moshimossさんも然り。それから今年3月末スタートのNHK朝ドラ「花子とアン」の舞台は甲府市、20周年を迎えた「美少女戦士セーラームーン」も原作の武内直子さんは甲府市出身ですし、加えて今はご当地アイドルも乱立して熱い!特に今頭ひとつ抜けてる小学生3人組「Peach sugar snow」は都内でも着実に人気を掴んでいます。

雪の被害をバネに甲州がつくしの様に芽を出す事を願って、それではまた次回!


kosuke anamizu / moshimoss(モシモス) - 1979年山梨県生まれ。音楽家・イラストレーター。山梨の音楽レーベル、Neguse Groupを主催し、Kosuke Anamizu名義で、ドイツのTraumからProcessとのスプリットEPやmule electronicからリリースした、ミニマルハウス・ダブなどの作品で知られる。
2010年、サンフランシスコを拠点とするdynamophone recordsより「Hidden Tape No.66」をリリース。2011年には、L.E.D. feat. 原田郁子の「I'll」のRemix EPにリミキサーとして参加、リミックスワークも多数手がける。2012年には moshimossとしてFujirock Festival'12 への出演を果たす。2013年5月にはmoshimossの2ndアルバム「endless endings」をnothings66からリリース。新たにスタートしたPreghost名義でのアルバム「Ghost Story」も同年11月にn5MDよりリリース。
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小池直也と宮川典子松下幸之助の遺産
──では、松下政経塾にいたころのお話を聞かせてください。
毎朝6時に起きて、ラジオ体操をして、塾生5人くらいで敷地6000坪の掃除、それからランニング3キロもしていました。毎日、朝はこれの繰り返し。剣道・茶道・書道も必修でした。農業研修、漁業研修、林業研修、陸海空全部の自衛隊研修とかもやりましたよ。あれは大変でしたね。

──ええ!ホフク前進とかもですか?
そうそう。木の模擬銃を持ってね、「第4ホフク!」とか言って「撃てっ!」の合図で「ダァー!!」と走っていったり。あとは、降下練習もしたかな。地上15メートルのところからロープで降りるっていう。一気に降りなきゃいけないから怪我することもあるみたい。だから降下の踏切地点にいる教官が「辞世の句を言え」と言うの。私は「将来の子供たちのことはみんなに任せたぞー!」と言ってドドーンと飛んだりして。でも、意外と降下訓練は得意だったけどね。

──全然辞世の句になってないじゃないですか!笑
それから非正規雇用の方たちと一緒に、窓ガラスの端にあるゴムパッキンを毎日朝8時から夜6時くらいまでひたすらはめるという、単純作業をやり続ける研修もありました。
こちらもそれなりには社会人経験を積んできているわけなんですが「頭の中詰まってたってこんなこともできねえのか。情けねぇ」と怒られるわけですよ。ものづくりに携わる人にとって、欠陥商品を出すなんて言語道断ですからね。立ちっぱなし、危険と隣合わせ、かといって正規雇用ではない。ある時疲れていた私は現場の人に「この仕事、楽しいですか?」と訊いたんです。すると「別に疲れないけど」と言う。慣れてるからかな、と最初は思っていたんだけど「だって家を作るって夢のあることでしょ。例えば、自分が作業した窓がある家にどういう人が住んで、どういう人がこの窓を覗くのかなって想像したら、すごく夢がある仕事でしょ」と言われたんです。この時「自分は本当に世の中の細やかな部分を知らないな」と恥ずかしくなりました。給料は安いし、生活は保障されない仕事だけど住んでいる人を想像して夢をもって仕事ができる。「喜びっていうのは何処に見つかるかわからないんだな」と思った時に、こういう人たちが希望を持って働ける社会にしなきゃなと強く感じました。

そのあともその作った家を売るための営業の仕事も経験したのですが、まぁ全然売れない。一生懸命アピールするけれど生産者と消費者の立場は違うんです。日本のいい物が売れなくて質は劣るけど安い外国産の物がどんどん売れていく。こういうことは現場に入って体験しないと絶対に分からない。こういう専門外のことも経験して、たくさんの人に会って指導を受けたりとても一個人ではできないことや松下幸之助先生が創ってくれた人脈が、創立28年後の私たち28期生にも残っていて。その恩恵にあずかることができたことは何ものにも代えがたい経験になりました。

教育は政治から
──すごいですね。そして卒業後はそのまま議員になろうと?
最初は、山梨で不登校やメンタルの不安定さに悩む子たちが学べる学校を、自分で開校しようと思っていたんです。でも、2009年の政権交代があって、自分が目指している日本や教育の姿とまったく違うものを追い求める人たちが政権を取ってしまった。その時はある地方自治体の教育委員会に特別研究員として勤めていたんですが、2週間くらいしたらガラッと方針が変わったんですよ。もう私にとっては受け入れられない考え方で生徒より大人さえ良ければいいという考えに変わってしまったというものだった。そう感じた時に「やっぱり政治だ」と。政治の根幹をしっかりしておかないと現場で頑張っている人たちはいつまで経っても充実した実感を得られないのではないかという想いが一気に大きくなったんですよね。しかし、私のような知名度も潤沢な資金もない若輩者が国政選挙に出られるなんていうチャンスはなかなかないわけです。
でもちょうどその時、自民党山梨県連が初めて公募で候補者選考をするということを聞いて、自分自身も半信半疑で応募してみたんです。そうしたらありがたいことに候補者として選んで頂けたんです。それが30歳の時。
「おまんは頭がおかしいだか」(甲州弁でお前は頭が狂ってるのか、の意)とよく言われましたよ。本当に毎日、何十回も。政権をとられた自民党、30歳無名の新人、お金は無い、知名度もない。当時、自民党所属国会議員は山梨に1人もいませんでしたからね。毎日怒られたり、時には叩かれたり。大逆風の中ではそんなことが当たり前になっていました。他党の支持者の家に挨拶に行ったりなんかしたら真冬でも水をかけられたりもしました。教育改革をしたいと説いても「おまんの仕事はそんなこんじゃねえ、どんだけ山梨に金持って来れるだ?おらんとこの前の道を30センチ広げてみろ。それができねえ奴は政治家じゃねえ」と。それでも、金権政治は絶対しない、主張は曲げない、つらいからと言って別の党に移ったりしない、という決心は揺らがなかった。これからの若い人が「政治に参画しよう」と思った時に「あの時、宮川典子が粘ってくれたから自分たちはきれいな選挙ができるし、言いたいことを言って故郷のために活動できるんだ」と思ってもらえるような環境にしたかったんです。

3年前、参議院議員選挙に落選してからは本当に無収入の無職になって。慶弔費の捻出にも困って、なけなしの貯金を崩したり、短期バイトをしたり。職がないというのは苦しかったですね。毎日ひいひい言いながら、全ての活動業務を全部自分でやらなきゃいけない。とても心細かったし大変だったけれど、その姿を見て応援してくれる人がまた現れてまた新しいチャンスをもらえて。まさに「捨てる神あれば、拾う神あり」の心境でした。でも、そういう日々の積み重ねがあったから今こうして議員バッチをつけて仕事をすることができているんです。本当に、支えてくださった皆様のおかげです。

逆境上等
──まさか無職・フリーター・ニートの現場まで体験していたとは思いませんでした。議員の地元との歪んだ関係の問題というのは、映画「サウダーヂ」にも描かれていましたね。
それでは最後に山梨の若者に一言お願いします。

私たちの世代、それよりももっと若い世代の人はこれから生きていく上でさまざまな決断をし、時には苦渋を味わうこともあるかもしれません。でも、そんな時ほど「順風満帆な人生よりも艱難辛苦の多い人生のほうが明らかに自分のためになる!絶対的な仲間も増える!」と信じて突き進んでほしいなと思います。
私自身も落選したからこそ見えた自分・モノ・考え・ヒント・出逢いがたくさんありました。だから浪人中の2年5ヶ月は無駄ではなかったと断言できます。こんなに「感謝」とか「ありがたい」という言葉を口癖のごとく言うようになったのも、あの2年5ヶ月があったから。

山梨はもっと若い人たちが頑張らなきゃいけない。誰かが立ち上がるのを待っているのではなく、思い立った人が行動に移してほしい。そして「初めて」には壁がつきものですから、そんなことは承知の上でチャレンジするくらいのタフさを持ってほしいと思います。

──ありがとうございます。今までのインタビューで一番重くボディブローの様に効くものになったと思いますが、このインタビューを見て何かを感じる人が一人でもいることを期待します。
本日のゲストは、衆議院議員宮川典子さんでした。ありがとうございました。

編集後記(小池)
甲州最前線久々の更新は僕の恩師、宮川典子さん。政治家というよりも彼女の人となりにスポットを当てました。そして当企画初の前後編でしたが皆様いかがでしたでしょうか?
この様なネット上の対談企画と言えばYouTubeやニコニコ動画が主流になり、文字のものは少なくなりつつありますが、やはり宮川議員も紙媒体以外で文字に成るような企画は初めてだったようです。しかし文字や文章は力にも癒しにも成る事実は皆様お忘れなく。それからネット上、TwitterやFacebookの匿名アカウントで宮川議員を言われもない理由で批判している方は恥を知るべきです。
それではまた次回!


宮川典子(みやがわのりこ) - 1979年、山梨県山梨市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、教師として母校である山梨学院大学附属中学高等学校に奉職。5年間務めた後、2007年に退職し松下政経塾に入塾。入塾中に自由民主党山梨県参議院選挙区第2支部長に就任。卒塾した2010年に自由民主党公認候補として第22回参議院議員通常選挙に山梨選挙区から出馬。対抗馬である民主党・輿石東氏に3700票の僅差で敗れ落選。その後、自由民主党山梨県第1選挙区支部長に就任し衆議院に鞍替え、2012年の第46回衆議院議員総選挙に山梨県第1区から出馬し初当選を果たした。
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宮川典子──本日は日本に於ける政治の中心、永田町にある議員会館に来ています。

近頃は右傾化がどうの、外交がどうの、憲法改正がどうのと、まさに国中が踊る日々が続いておりますのは皆様ご存知のとおり。日本を考えるのは勿論ですが、その上で甲州の人間は何をすべきであるのでしょうか。信玄公だったらどのような手を打ったでしょうか。

さてそんな乱世ですが、甲州最前線の本日のゲストは、山梨出身の女性議員の宮川典子さんです。

教育に興味を持つまで
──まずは山梨のどこ出身か教えてください。
山梨市出身で、地元の小学校から中学校は甲府にある女子校の山梨英和中学校に進みました。女子校の雰囲気に男っぽい私は馴染めず、男の子もいる方が良いんじゃないかと共学の山梨学院大学附属高校に入学しました。高校卒業後は慶應義塾大学に進学しました。

小さい頃は医者になろうと思っていたんです。10歳の時に父親を亡くしたのですが、その父が学生時代医学部生だった影響もあって。でも、その頃は高度経済成長期だったので、一風変わったところがあった父は途中で工学部に入り直し、当時成長していた企業に就職をしました。
しかし、一方では、人の命を救うという尊い仕事を自分の息子か娘のどちらかに成し遂げてもらいたいという強い思いがあったようです。小さい頃からよく言われていましたから。父が亡くなって、その時「どうして助けてあげられなかったのかな」と感じた時からずっと、医者になりたいとは思っていました。不勉強だったので道を変えてしまいましたけれどね。

そうは言っても一番重要なテーマだと思うんですよね、「死と向き合う」って。真剣に自分自身の人生と向き合ったり、振り返ったりする時期が生命に関わる病気に罹った時でしょうから、そういう人を支える仕事には就きたいと今でも思います。高校生までは、そう強く思っていました。

大学時代、山梨に帰省している間、幼稚園の園児たちに水泳を教えるバイトをしていたんですよ。そこで子供たちを見ているうちに、「教育に携わるっていうのも面白いかもなぁ」と感じました。やっぱり教育というのは子供たちのために大人が関わる一大プロジェクトだから深く勉強してみたいなと思って、教育学を専攻するようになったんです。大学2年生の時から教職課程は履修していましたが、学校の先生になるつもりはまったくありませんでした。教育の勉強を進めていくと「これは制度を変えなきゃいけない、システム自体を変えないと現場の先生たちが報われない!」と危機感をもつようになって、文部科学省へ入省することを目指していたんです。

でも大学4年生の時、転機が訪れました。教育実習で母校に戻った時、毎日後輩のみんなが生き生きとしている姿、前日には悩み相談をして帰っても次の日元気に登校してくる姿を見ると、心の底から本当に嬉しかった。「子供たちと関わると、日常の小さなことをこんなにも嬉しいと感じることができるんだ」と思った時に、教育現場の魅力を感じましたね。

それでもまだ、教師になろうという思いは起こらなかった。それなのに、母校から「山梨に帰ってきて、うちの学校で後輩たちを教えないか?」とお誘いを頂いたんですよ。教師になるつもりがなかった私は、3ヶ月くらい断り続けました。当時、子供たちの人生を背負う自信もなかったですしね。

今まで自分が思い描いていた人生展開と180度違ったので、「自分の人生、教師のままで終わっていいのか?」という想いとともに、プチ家出をして放浪の旅に出たりもしました。

ただ、私を教師の道に進ませる決定打がありました。それは大学のゼミの先生の一言。
「君はこれまでずっと“教育改革”っていろんなところで言われていることはすべて“机上の空論”だと言ってきたよね?現場の人のために『こういうことを具体的にやらなきゃいけない』とずっと研究をやってきたのに君が現場を経験せずに文科省に入ったら、また机上の空論を唱える人になるんじゃないのか。だとしたら、君がこのゼミで3年間言い続けたことは絵空事だ。だから、1年でも2年でもいい。現場でしっかり子供たちと向き合って、『教育とは何か』『子供とは何か』『成長とは何か』『現場で本当は何をしなきゃいけないか』をしっかり見極める力をつけるべきだ。それがないなら、あなたは今まで批判してきた人たちと同じ存在でしかない。現場の経験のない人に、○○すべきという“べき論”は言えないよ。」
その先生は元々地元の高校で実際に教鞭をとっていらして、その時の想いを忘れずに研究をしていらっしゃる方でした。だからこそ、その言葉は重く響きました。それをきっかけに「1年でも2年でも、とにかくやってみるか」と、教師になることを決めました。自分が「どうしてもなりたい!」と思っていたというよりも、たくさんの人との出逢いや転機があって教師への道が開けた、という感じです。

幸せな教師生活
結局、5年間教師として働きました。個性の強い子ばかりの学校だったので、日々忙しくて大変でした。2年目から担任を持つことになって、初めて持ったクラスに小池君がいましたね。

──そうなんです。実は宮川先生は僕の恩師なんです。入学前のガイダンス時に長髪だった僕に「入学式までに髪切ってこれるかな?」と申し訳なさそうに言ったのを今でも覚えています(笑)
初めて受け持つ担任のクラスは、最初いろんな心配もしましたが、生徒が皆良い子たちばかりだったので「こんなに日々幸せで良いのかな?」と心底思っていました。だから、教師生活2年目以降は自分のことはほとんど考えなくなりました。「どこへ行きたい」とか「何がしたい」とか「何を買いたい」とか、自分の欲っていうのがほとんどなくて。今でもそう思っています。とにかく、毎日教室に行くのが楽しみで楽しみで。自分がどんな状況でも、常に元気をもらうのは生徒たちからでした。その分、3年目で初担任のクラスを外れることになった時は、「世の中にこんな理不尽があるものなのか」と、自分の運命を恨みましたけどね。教師という仕事の魅力は、普通の仕事をしていたら気づかないような小さな幸福感や喜びだったり、自分じゃない人のことを心の底から喜べるようになるということだと思います。

──いやはや、教えられている側はなかなか気づかないものですね。毎日「眠いなぁ」とか、「今日の弁当は何かな」とか考えてるんですからね。教師の愛や情熱は勿論多少はリアルタイムでも伝わるでしょうが、じわじわ効いてくる側面があります。まさに今じわじわ来てるところなわけですが。

では、その5年間の教師生活を終えるきっかけは何だったんですか?

大丈夫じゃない社会へ
あのまま行けば、多分ずっと、今も教師を続けていたと思います。でも、生徒みんなの将来のことを思うと色々考えることがあって。例えば、高校を卒業して大学に行った卒業生が、夏休みとかに母校に遊びに来るじゃないですか。そこで、「人間関係や就職活動が上手くいかない」という相談を受けるんです。高校時代に見たことがないような表情をして、「何でもっと僕たちに生きる力を与えといてくれなかったんですか」と言われたりするんです。確かに、社会に出る時には大変ながらそういう経験をしなきゃ人間は成長しないのだけど、日本の社会はあまりにも努力が報われない社会なんじゃないかなって。私の世代も“就職氷河期”だなんて言われていたけど、あの時よりも「もっと氷河期、永久凍土みたいな世の中になってしまうんじゃないか」と、卒業生の様子を見ていて思ったんです。いじめや何かではなく、一生懸命努力しても成績が伸びないとか、これから社会の中で生き残っていけるかという不安感を持つ子がすごく増えた。
本当なら、生徒たちが何歳になっても、 私たちが毎日「大丈夫、安心して夢を持て。努力すれば必ず叶うから。」と言ってそばで支えてあげたいと思うんだけど、社会に一歩出てしまったら教師が彼らを支えられることなんて10の内1か2くらい。あとの8や9をどうしたらいいかというと、世の中の仕組みとか政治が手厚い支援をするという単純なことでなくて、若者が自分の力で道を切り拓けるような社会にしておかないといけない。そうでなければ私たち教師の言っていることはまことに空虚だし、子供たちが報われないですよね。

「そういう世の中で在るべきではない」という想いから学校ではないところで勉強したいな、と。「今、生徒たちが足を踏み入れていく社会というのは10年前に自分が経験した社会とどう変わったんだろう」というのを純粋に学びたくて。文献を読み込むとか論文を書くとかということではなくて、現地現場で学べるところはないかなと模索していた時に見つけたのが、松下政経塾だったんです。
見つけたのが願書締め切りの4日前だったから、資料請求して論文を書いて願書を出したのが締め切り時間の3分前。窓口で「ほぼアウトですよ」と言われましたがどうしても諦める思いになれず「いや、3分前です。セーフです。よろしくお願いします」と押し切りました。

──なるほど。確かに、僕も含めて若者が応答に使う言葉がある時期から全て「大丈夫」に変わりましたね。言葉は知らず知らずのうちに社会の影響を受け変化し波及しますが、自分でもいつから「元気?」「おいしい?」「学校は楽しい?」などの質問に対して全て「大丈夫」で済ませるようになったんだろう、と不思議に思っています。きっと相当「大丈夫じゃない」世の中なんだな、と。(後編につづく


宮川典子(みやがわのりこ) - 1979年、山梨県山梨市生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、教師として母校である山梨学院大学附属中学高等学校に奉職。5年間務めた後、2007年に退職し松下政経塾に入塾。入塾中に自由民主党山梨県参議院選挙区第2支部長に就任。卒塾した2010年に自由民主党公認候補として第22回参議院議員通常選挙に山梨選挙区から出馬。対抗馬である民主党・輿石東氏に3700票の僅差で敗れ落選。その後、自由民主党山梨県第1選挙区支部長に就任し衆議院に鞍替え、2012年の第46回衆議院議員総選挙に山梨県第1区から出馬し初当選を果たした。
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長田カーティス──本日は渋谷のカフェミヤマに来ています。今回のゲストは、僕の中学時代からの友人であり、今飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍をみせているバンド「indigo la End」より、ギターの長田カーティス君をお呼びしました。よろしくお願いします。
ギターは遊びで
──それではまず生い立ちを教えてください。
旧敷島町(現・甲斐市)の出身です。中2の頃、塾が一緒の幼馴染が「ギターやろうぜ」と突然言いだして。元々、父親が音楽好きで家にギターがあったのでちょっと弾きはじめたんです。そんなに練習とかはしてなくて、実際にちゃんと弾き始めたのは高校2年生くらい。

──これだ!って思ったわけですね。
いえ、全然(笑) 遊びです。
当時はBUMP OF CHICKENさんやASIAN KUNG-FU GENERATIONさん、The band apartさんなどのバンドを聴いたりコピーをしたりしていました。大学に入学して上京したんですけどスタンスは同じ。軽音楽サークルで色々なバンドを組んでひたすらコピーしまくるという―。そのうちオリジナル曲を演奏するバンドとかも少しづつやり始めたけど遊びなのは変わらなくて。就職して社会人でいいや、みたいな感じでいたんですが就活が面白くなかったんです。エントリーシートもたくさん書いたし説明会もたくさん行ったし。茶髪でリクルートスーツも買わなかったけど。
でも、どこで説明を聞いても同じようなことしか言っていない様な気がしてこれは長くは働けないなと―。だったらやりたいことをやろうかなと思ったんです。それがバンドだった。

そんな時、就活の合間に見ていた当時の大学生必須ツール、mixiのメン募(メンバー募集)コミュ(ニティ)に良い感じのバンドがあったんです。“悪くないな”と思ってコンタクトを取って加入したんです。
それがindigo la Endだった。卒業間近の2月。
indigo la End OFFICIAL SITE http://indigolaend.com/

──普通のバンドマンだったら在学中にバンドを組んで、それが漫画のBECK風に言うと「パーマネントだ」とか言って就活をすっ飛ばしてそのまま卒業になだれ込んで行くものですが、就活にぶつかって違うなと思ってから反転してバンド加入、しかもSNSで、というのはとても珍しいケースですね。
以前のインタビューでBig Benさんが言ってたのは「自分が本当に何が好きなのかを自問してほしい」ということなんですけど、自分が何が好きなのか分からなかったら何か違うなと感じても社会をドロップアウトした僕みたいなフリーターになりかねませんからね(笑)
これは本当に重要なことで、最近はどんな音楽が好きか訊いても「何でも聴くよ(だから決められないや)」という人が本当に増えたし、そういう人は大体メタルとかジャズとかノイズとかギャングスタ・ラップとか敬遠する嘘吐きだから絶対信用できない!YouTubeの副作用だと思いますけどね。それからバンドマン誰しもが直面する問題が家族の音楽活動に対しての反応だと思いますが、親は長田君のその決断に関して何も言わなかったんですか?

そりゃ言いますよ。就活してて無理だ、とは思ったんですけど「就職しないで音楽やります」とは中々言えなかった。うちの親は絶対うるさいから言えないな、と。なのでずっと「就活してるけど全然決まらない」と言って就活しているのを装っていたんですが、年末に実家に帰った時に「俺就職しないから。音楽やるから。」と言ったんです。そうしたら「時期が時期だし、もう諦めてるから。」と返ってきてさらっとOK?が出ました。あまりのあっさりぶりに驚きましたけど。

遊びじゃ無くなった
──そして晴れてバンド活動に専念する、と。
そうです。ちょうど結成した頃、ロッキング・オンのオーディション(RO69 JACK2010)を知ったんです。とりあえず出してみようとそれのためにレコーディングして応募したら入賞しちゃったんですよね。結成2ヵ月の録音だからびっくりしましたけど。それで冬にも新しい録音を作ったのでまたとりあえず出してみようと(RO69 JACK10/11)。前回よりも良いから絶対入賞はするだろうな、なんて思ってたら本当に入賞して!そんなこともあってライヴにもだんだんお客さんも来てくれるようになりました。遊びでギターを始めた僕ですが、意識も変わったのかバンドのリハ(ーサル)も週2回4時間に増えました(現在は週3回)。

音源のリリースも色々なレーベルから話をもらいましたけど、最終的に今のeninal(エニナル)というスペースシャワーTV(以下、スペシャ)のレーベルに落ち着きました。メジャーレーベルからの話もありましたが、それは全てお断りして。
理由はPVがスペシャでオンエアされるってことにメリットがまずあるし、単純にスペシャの人が良い方々ばかりだったという事です。レーベルの人って思いっきり音楽業界のおじさんで、上から物を言ってくる人が多いけど、スペシャの人は近所のお兄さんって感じですごく好感が持てた。やっぱり最後は人間力ですね。

──今、お客さんはサービスや価格よりも人につくとも言われてますね。それが音楽業界でも有効なんだと言うことが今証明された訳ですけど。それからが怒濤のリリースと再生ラッシュですね。
はい(笑) そのレーベルから1枚目のミニアルバム「さようなら、素晴らしい世界」をリリースしました。おかげ様でリードトラック「緑の少女」のPVは25万回も再生されています。作った時は良いものができたと思いましたけど、今聴くとちょっと浮かれてるかな。2枚目のep「渚にて」の方が浮かれてる感も無く地に足ついてできてると思います。
いつかはミスチルみたいになりたい。僕はギターロックバンドにリードギターは要らないと思ってます。聴きたいのは歌だから。でもそこに留まってたら駄目で、歌を聴かせる前提でギターが追いついていかないといけないんです。ギターはコードを弾くというよりもメロディを奏でる楽器だと思ってるので、歌と同じレベルのメロディを弾きたいですね。それをできるギタリストはそうそういないし。そこが僕の味だと思ってます。
indigo la End「緑の少女」MV http://youtu.be/BrwYudRnnYU
indigo la End「渚にて幻」MV http://youtu.be/KsgDeli9Z3M

レペゼンヤマナシ
──ありがとうございます。では次に山梨のことについて伺いたいのですが、差し当たり思うことなどありますか?
去年の年末帰った時に甲府駅から歩いてたんです。人通り少なくなったなあと思いながら一つ路地に入ったら店が全部シャッター閉まってて本当にびっくりしました。商店街全部閉まってて真ん中に椅子がぽつんと置いてある。東京から1時間半であれだとギャップが凄い。

──東京と甲州街道で接続されながら最果ての地だと言われていますからね。
そうそう。月に2回くらい名古屋でラジオをやっているので名古屋行ったり大阪行ったりしてファンの子とかと話す機会があるんですけど、「今度東京行きます」って言ってくれるんだよね。しかもそれが高校生とかで。自分が高校生の時にそんなことしようと思ったことがまず無いし、周りにもそんな風潮やエネルギーは無かったと思います。そういう意味でも遠いなと感じる。音楽だけじゃなくて色々な情報も知らない人が多い気もするし。
だからもっと東京や僕らを身近に感じてもらおうと最近はインタビューなどの時は必要以上に山梨推ししてますよ。ポスターのサインの横に山梨出身って書いたり(笑) あと最近知ったけど、ゆずのバックでギターとベースを弾いてた人も山梨出身だって話も聞いたことあるし、結構ミュージシャンもいるのかも。

──その通りだと思います。僕は音楽だけと言わず山梨出身のアーティストでユニオンを作るべきなんじゃないかと思ってます。ヒップホップみたいにくっつきすぎると怖いんだけど。それを踏まえて僕のやってる「火と風」っていうパーティでは山梨出身ミュージシャンのサルベージも裏テーマにしているんです。

では山梨の若者に何かあればお願いします。

意思と人間力
先ほどの通り、僕が音楽を始めようと思ったのが大学4年生の時だったんですけど、もっと早くて良かったなと思ってます。自分のやりたいことを早くから考えて先にやっとけば良かったなって。正直な話、高校に行く事すらも悪く言えばレールに乗ったというか、皆がこうしてるから自分もこうしなきゃいけないとか大学進学もみんな行くし勉強してるからやらなきゃって感じだった。自分がどうしたいかではなくて周りがやってるからやっていたと思います。でも就活を辞めて、ようやくレールから外れられた。就活さえレールだったし。

レールを外れないと分からないことがある。別にレールから無理に外れなくても良いけど、何か意欲(意思)を持って取り組まないと駄目なんじゃないかと。つまりさっきのレーベルの話に戻るけど人間力なのかな。

──ゆとり教育の理念は意思教育だった、と僕も何度も言ってますけど、もっと学生時代にあった総合学習の時間を思い出さないと駄目ですね。ただぼんやり流されているだけが一番危ないぞ、と。やるならレールを乗りこなすくらいにならないと。この前の選挙で明確に分かったことですがSNS世論は所詮東京などの一部都市の物に過ぎず、若者の投票率を上げるには地方の意識から変えていかないと国は動かない。

今日はありがとうございました。本日のゲストは長田カーティス君でした。

ありがとうございました。山梨にもライヴに行きたいと思っているので今後ともよろしくお願いします。

編集後記(小池)
今回は、山梨の人が知らない山梨出身アーティスト・長田カーティス君でした。彼とは中学以来の友人ですが、彼の活躍と山梨推しがどこまでいくのか必見ですね。個人的にはメジャーレーベルを蹴ったという下りに爽快感がありました!笑

それから、僕がインタビューを担当するのははstillichimiyaのお二人以来なので大分久しぶりです。というのも、渾身のインタビュー群にほとんど誰も反応してくれなかった、というかほぼ無反応という反応を受けたことによって意気消沈していたからです。みっともない理由なのですが、そんな虚無主義にうなだれている訳には行きませんので山梨愛をくすぐる記事をもっと書いていきます!2013年も甲州最前線をよろしくお願いします!


長田カーティス(おさだかーてぃす) - 1988年生まれ。バンド「indigo la End」のギタリスト。山梨大学教育人間科学部附属中学校卒業。山梨学院大学附属高校卒業。法政大学社会学部卒業。2013/02/06 1st full album「夜に魔法をかけられて」リリース。スペースシャワー列伝JAPAN TOUR2013出演。
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笠井レオ──第7回のインタビューは、学生ながら世界で活躍する若きベンチャー起業家の笠井レオさんにお話をお伺するため、東京都渋谷区神泉に来ております。今回は、笠井さんが代表取締役CEOを務める株式会社Prosbeeの取締役COO池田知晶さんにもご同席頂いております。
小さい頃からフィールドは世界
──まずは現在に至るまでを教えてください。
生まれは山梨県山梨市です。ずっとサッカーをやっていて、中学生の時はクラブチームに所属していたんですが、そこにスペインの代理人の方がいたことで、レアル・マドリードにサッカー留学しまして、その後日本に帰って来たんですが、高校はオーストラリアの学校に進学しました。大学進学前に日本に帰国し、大学は国内の学校へ進学しました。

──小さい頃から海外に出て、良い刺激を受けていますね!そもそも起業したきっかけって何ですか?
そうですね。親戚がサンフランシスコにいて、15才の時にひとりで旅行に行ったのですが、その時に色々な起業家の方に会ったりして、そこで自分も漠然と起業したいなって思う様にはなりました。

もともと僕が大学生向けに授業の講義ノートを電子化して売買できるサービス「Curapo」を立ち上げたんですね。2日位で炎上しちゃって終ったんですが、ものすごい反響があったんです。

せっかくの新しいサービスが終っちゃって困ってたら、その時たまたま今僕たちに投資してくれているインキュベートファンドの方に、いわゆる電子書籍ってつながりでまたやってみないかってお話を頂いて、インキュベートキャンプに呼んで頂いたんです。そこで投資して頂いて、気付いたら起業していたって感じですね。

──すごいですね!では、株式会社Prosbeeが今取組んでいる事業内容を教えて頂けますか?
今取組んでいる「Booklap」というサービスは、本の中の心に残ったフレーズを共有するサービスなんですが、本を読んでいてすごい気に入った箇所とかに付箋を貼ったり、覚えておきたいところのページの隅を折ってドッグ・イヤーすると思うんですが、そんな自分がお気に入りのフレーズをBooklapに保存しておく事ができて、さらに他の読者と共有したり、Facebookでシェアすることができます。そこから本の購入に繋がったりなどもありますね。

まだ今は招待制で300名程度の利用者数なんですが、今後正式リリースのタイミングでもっと利用者数を増やしていって、将来的には電子書籍との連携も視野に入れています。

あとは、今年の7月に台湾で行われたアジア最大級のITイベント「IDEAS SHOW」に参加したり、今月シリコンバレーで開かれるスタートアップ・コンペティション「G-Startup」に参加して、「世界の注目スタートアップTOP20」に選んで頂いているので、プレゼンもする予定です。

山梨でもベンチャー支援を
──では、山梨についてお伺いします。
かつて賑わいを見せていた甲府市中心街も、郊外に大型ショッピング施設が進出したこともあり、週末でも閑散としています。これについてどう思いますか?

山梨には3ヶ月に1度の間隔で帰っていますが、確かにそういった印象はあります。でも、それに関しては仕方ないかなって思いますね。

青森県八戸市の話なんですが、八戸市長って頻繁にIT界隈では話に出てきて、実際にベンチャーキャピタルのイベントを開催したり、新しい起業家を発掘する等、ベンチャー支援に力入れてて、すごい活気づいてるんです。八戸市の他にも、最近は福岡や佐賀も力入れてるって聞きますし。そういった行政の取り組みが必要なのかもしれませんね。

山梨の場合は都心に近いので、ソフトウェアとかIT系を誘致できたら良いですよね。家賃も安いですし(笑)

──八戸市のお話は非常に興味深いですね!
では最後に、山梨県内の同世代の若者に何か一言お願いします。

難しいですが、あえて言うなら「泥臭く!」ですかね。小さくまとまるなと。

──なるほど!笠井さんのように、世界をフィールドに活躍するベンチャー起業家がどんどん出てくると、山梨はもとより、日本経済の未来は明るいはずです。
笠井さん、そしてご同席頂いた池田さん、インタビューへのご協力ありがとうございました。


笠井レオ(かさいれお) - 1992年山梨県生まれ。スペイン・レアルマドリード、アメリカ、オーストラリアでのサッカー留学の経験を持ち、株式会社Prosbee(プロスビー)の代表取締役CEOを務めている。Incubate Camp 3rdの最年少出場者。
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山野靖博──皆様、ご無沙汰しております。前回からだいぶ期間が空いてしまいましたが、第6回目のインタビューを始めさせて頂きます。本日はJR中野駅近くの居酒屋にて、東京藝術大学音楽学部声楽科に在学中の声楽家・山野靖博さんにお話を伺います。宜しくお願い致します。
高校からの藝大志望
──まずは生い立ちから。中学は山梨大学教育人間科学部附属中、高校は甲府西高校ですよね。小中と運動部に所属していたと伺いましたが、音楽を始めるきっかけを教えて下さい。
小さい頃から歌は好きでしたが、元々テレビが好きで、今から10数年前のテレビって面白かったじゃないですか?「なるほど!ザ・ワールド」や「マジカル頭脳パワー!!」等。そんな感じで音楽番組でも「速報!歌の大辞テン」や「HEY!HEY!HEY!」とか好きで、特に深夜の「THE夜もヒッパレ」って番組があったんですけど知ってます?この番組、昭和歌謡もやるんですね。小学生の僕は当時、そっち(昭和歌謡)が面白いなって感じてたんです。

──小学生にしては渋いですね!
そうなんです。歌うのも好きで、登下校や教室とかでもひとりで歌っちゃってたんですけど、ある日職員室の掃除をしていたら事務の先生が古い曲好きならって、さだまさしのCDを貸してくれたんです。小学4年生くらいかな。それがきっかけでまずシンガーソングライターに憧れたんですね。ギターやり始めて路上ライブもやったりして。でも、音楽はずっと好きだったんですけど、ピアノ習ったりとか専門的な音楽教育は受けた事がないんです。小学校はサッカーで、中学ではバスケ部でしたし。でも、西高への進学が決まって、バスケを続けようとは思わずに、吹奏楽部に入部したんです。

──高校から吹奏楽部って珍しいですよね?
そうですね。比率で言ったら少ないかもしれません。それに女の子が多いですからね(笑)
吹奏楽やってるとクラシックに触れる機会が増えるんですね。オペラの編曲もの演奏したりするので。あと、それとは別に高校の授業で芸術科目選択っていうのがあって、美術・音楽・工芸・書道から選ぶんですが、絵を描くのが苦手で字も下手だったので、消去法で音楽を選択したんですけど、そしたら音楽の先生が面白がってくれて、僕に興味を持ってくれたんです。
西高って全校生徒と保護者も呼んで行われる発表会が12月の土曜日にあって、音楽選択した人は合唱をするんですが、その中で3人だけソリストとして順番に歌うコーナーがあるんです。先生はそのトップバッターに僕を選んでくれたんです。

──高校生でそんな人前で歌うのって恥ずかしくて嫌じゃないですか?
僕はそれが嫌じゃなかったんですよね。目立ちたがりやなんですかね(笑)
それで歌うのが楽しいなって思ったんです。それに褒められて嬉しいですし。ただ、まだこの時点では今の進路は決めてなかったんです。

高校一年の冬、音楽の先生に「藝大いけるかもしれないよ」って言われたんです。ただ、ピアノやバイオリンとか音楽に関して専門的に勉強してないし、藝大に行けるなんて思わないじゃないですか。でも、行けるって言われたら行きたいって思ったんです。そこからですね、本格的に勉強し始めたのは。

──藝大って聞くと、小さい頃から英才教育で、絶対音感とかのイメージですけど、高校から目指す人もいるんですね。
僕が好運だったのは歌だったということです。器楽はやっぱり英才教育や絶対音感も必要ですけど、歌は特に男声って声変わりがあるじゃないですか?声変わりの時点で新しく楽器が生まれるって思ってもらえれば、声変わりした所からがスタートなんですよ。だから、高校からでも間に合ったってことですね。
器楽科とかの受験の場合は、ある程度完成されたものを篩にかけて落とすんですが、声楽の場合はまだ完成してる人はほとんどいなくて、その人の伸びしろやポテンシャルで判断します。

──面白いですね!そういった違いがあるんですね。でも、短期間で勉強してストレートで合格はすごいですね!藝大に通ってみてどうですか?
そうですね。うちは大学というか高度な専門職を育成する学校と思ってもらって良いですね。普通の大学って、1~2年で基礎科目を履修して単位やらサークルやらと盛り上がって、3年くらいから就活がみえてきて、そこから就活の話題一色で、4年になれば卒業出来る出来ないとなりますが、うちの場合は入った瞬間に誰がトップに出るかという事を始めますね。だからトップスピードから入るので、だんだん自分の実力が分かり始め、学校に来ない人も出てきます。

──でも良い環境ですね。皆それぞれ目的意識がはっきりとしていて。では、今後の活動について教えて下さい。
今、仲間と一緒に「Cloud of Arts」という組織を作って、新しい価値を市場に供給して、それで何か対価を得られないかなと考えたりしてます。フリーランスで自ら演奏会を企画して、自分の歌で稼いでる方もいらっしゃるんですけど、自分ひとりで会場や出演者の手配、経理やスケジュールの管理、フライヤーの制作まで、全部ひとりでやるのが一概にスゴいとは言えないと思うんです。カリスマが一人いるよりも、作業を分担して、組織として継承していく方が重要だと思うんです。

山梨には僕の趣味に合うアパレルが無い
──そういえば、10月27日に山梨でコンサートを開くんですよね?
はい。今までお世話になった方も多くいますし、大好きな山梨で今回コンサートを開催することが出来るのは嬉しいですね。あと、山梨って演奏会の数も少ないですし、音楽を勉強する環境があまり無く、僕の趣味に合うアパレル店とか面白い書店も無いなって思うんです。何も無いとは言いませんが、局地的過ぎると言うか、ネットワークが無いというか、内輪で止まっている印象を受けるんです。そう感じたのもあって、僕が携わる事で文化が集まって、もっと県内の高校生や若者が音楽などに触れる機会を作れるんじゃないかって思っています。
でもそれには、僕がもっと東京で勉強して、色んな人にあって仲間を作っていく必要がありますが、東京ないし各地の文化的リソースをもっと山梨に流していきたいんです!
その思いの一端として今回のコンサートを開くんですが、東京藝術大学で親しくしていて「Cloud of Arts」でも一緒に活動している、テノールの佐々木洋平とソプラノの廣橋英枝、あとピアニストにはタワレコで特集を組まれている程の活躍をみせるジャズピアニストの桑原あいを招いて行います。僕が一番下手で、本当にスゴいメンバーなんですよ!

──山野君じゃないと実現出来なかったコンサートなんですね!これは是非多くの方に来て欲しいですね。
コンサート名を「ちょっと特別な時間」って付けたのも、山梨って娯楽が少ないじゃないですか。テレビ観るかイオン行くか悪い事するか(笑)
そうじゃなくて、ちょっと手触りが違うジャズイベントに出会って欲しいなって思うんです。ホント少しでも興味があれば気軽に集まって欲しいですね。特に今回はクラシックを1曲もやらずに、ミュージカルとアメリカのスタンダードジャズ、あと日本の歌謡曲をメインにやろうと決めたので、カジュアルに来て欲しいなって。それを継続的にやっていきたいですね。既に2回目も決まっていて、来年2月に同じ会場でやるので。だから今回は“Vol.1”って付けました。

──それは素晴らしいですね。それと、チラシに“全国国民文化祭プレ企画”と記載されていますが、国文祭とも重なって、タイミングも良いですね!
幸運でした!高校生とか中学生にたくさん観に来て欲しいって思いがあったので、主催や後援で甲府市の教育委員会や文化協会に賛同して頂け、それと市内の小中高には全部チラシを送っていますし、どれだけ来てくれるか分からないですが、楽しみですね。

自分のニーズを知ったほうがいい
──では、最後に県内の若者(中高生)へメッセージをお願いします。
僕は自分が幸運だったと思うんです。中学でも高校でも良い仲間に恵まれ、波長があって上手くいったし、藝大という環境も自分の生き方や考え方、価値観に合っていたし、常に自分にとってプラスの集団や環境に属すことが良いと思うし、そうした方が良いと思います。
でも、そのためには自分自身のニーズを知る事が必要で、自分は本当に何がしたいのかを理解して、行動するべきですね。

──確かに、自分の潜在的なニーズを見つける事が出来れば、そこに一生懸命取り組めて、豊かな人生に繋がりますね。
山野さん、本日はありがとうございました。


山野靖博(やまのやすひろ) - 1989年山梨県甲府市生まれ。山梨大学教育人間科学部附属中学校、甲府西高校を経て東京藝術大学音楽学部声楽科に入学。声楽をこれまでに高橋康人、直野資、佐野正一の各氏に師事。バスという希少な声種を活かし在学中よりヴェルディ「仮面舞踏会」トム役、シュトラウス「こうもり」フランク役、プッチーニ「ジャンニスキッキ」ピネッリーノ役などでオペラに出演。2012年3月には大学の友人らと共に、東京と山梨県韮崎にてモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」を上演し、ドン・アルフォンソ役を演じる。同公演は2会場で500名近くの動員を得た。Cloud of Artsに所属。東京藝術大学5年次に在籍中。
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stillichimiya──本日は山梨県笛吹市一宮町にあります御食事処竹春に来ております。レッドカツカレー(25倍)を頂きながらのインタビューです(笑)
本日のゲストは山梨県が誇るヒップホップグループstillichimiyaよりYoung-GさんとBig Benさんです。宜しくお願い致します。

山梨から東京へ、東京からヤマナシへ
──皆様のご活躍については最早、言わずもがなでネットに情報が溢れていると思うので改めてお聞きするのも気が引けますが、まずは皆さんのヒップホップに傾倒していった経緯や結成までをお聞きしてもよろしいでしょうか。
Young-G:ヒップホップは元々、さんピンCAMPとか日本語ラップに興味があったのと、クラブに行ってたことの2つが影響してる。特に今は無いけど山梨の「ベイクドポテト」っていうクラブに高校1年の時から行き始めてハマッたのが大きいかな。そっからターンテーブル買って、DJとか音作りを始めた。

Big Ben:俺は元々ソウルミュージックが好きでヒップホップのバックトラックにそれが使われているものがあるんだけど、そういうのを聴いてたのがYoung-G達だった。中学の時から元々YOUNG-Gとバンドとかもやってたし。週末によく集まってたよ。

Young-G:でも、やろうって集まったというよりは自然に集まったんだよね。集まったからやったみたいな。集まってたから名前どうしようかっていう。stillichimiyaという名前ができたのは故郷の山梨県一宮町が合併して無くなる2004年。敢えて俺らに名前をつけるとしたらってことで。その年の10月10日(合併前夜)に一宮町の花見台っていう山の上の公園で「Last Holiday Festival」ていうイベントをサウンドシステムを持ち込んでやったんだけど、そこで遊びで録って配ったCDのタイトルが「stillichimiya」だった。だから厳密に言うと元々は俺らの名前でも無かった。

おみゆきCHANNEL http://www.maryjoy.net/artists/omiyuki.html
stillichimiya no hoomu peeji. http://stillichimiya.com/

──なるほど、それが発足のきっかけだったんですね。そのまま山梨で活動開始されたんですか?
Young-G:いや、そこからすぐ東京に出たよ。むしろ東京に行くのが決まってて。俺はアメリカから帰ってきてstillichimiyaやって、やることも無いし東京に行こうかと。俺とMMMと田我流がまず上京して他のメンバーも徐々に出てきて。東京ではひたすら遊んでましたね(笑)。曲も作ったりしてたけど、ただ遊んでコネができた感じ。でもそこで遊んでたコネが広がって今の活動のベースとなる人脈だったりスタイルができあがった。
俺と田我流とMMMは3人で三鷹の牟礼やさぐれハウスってとこに住んでて。まあ、どれくらいやさぐれてたかっていうと、誰も掃除しないしゴミも捨てないからリビングの天井までゴミが積み重なって気づいたら床に白いプチプチがあって、よく見ると虫の卵だったという(笑)。

Big Ben:その床で俺とか寝てたりしてね(笑)。

──ヤバいですね。ということは、活動が本格化したのは山梨に帰ってきてからなんですか?
Young-G:いや、東京にいる時からライブはやってたよ。ホームみたいなハコはなかったけど。だって東京だもんね(笑)。常にアウェー。アウェーで色んな現場に行きまくるみたいな。山梨のライブも多かったからよく帰ってやったりしてたけど。でも2~3年して結局東京は家賃も高いし、One Peachってアルバムも出したし、やるべき事も全部やった。それに今いるレーベルとの出会いもあったから本腰入れてがっつりやるならもう山梨帰ったほうが良いなってみんな山梨に戻った。

──山梨に戻って何か変わりましたか。活動のスタンスなど。
Young-G:うーん、まあ心にゆとりができたね。東京は人も多い、金もかかる、自然も無い、でかい音で音楽も聴けない。まずそれが全部無くなる。それから東京にいる時よりも金が使えるから機材とかも揃えることができて今のスタジオも作った。これがまずひとつ。それから一回東京に行って帰ってきたことによって客観的に見れる様になった。東京も山梨も。音楽的なこともそうじゃないことも。それが俺らにとって多分すごく良かった事で、例えばヒップホップに関して言えば東京ででしかできないヒップホップもあるし、東京には無いヒップホップがあるってことが分かったし。それを顕著に現しているのは俺らの作品で言ったら最近の「やべ~勢いですげー盛り上がる」のPV。あれは絶対東京じゃできない。まずノーヘルで運転とかできないし、軽トラ箱乗りとかトラクター乗り回すとか(笑)。やろうとしたらそれなりの場所に行って金かけなきゃ駄目。田舎で自由だからできるPVであってあれは東京ではできない。

──確かに!ただ面白いPVじゃなかったんですね。
Young-G:あとは富田監督の映画「国道20号線」じゃないけど、地方都市は国道沿いにチェーン店が乱立して、地方の若者の苦悩だったり精神状態だったり、そういう人たちが陥ってく悪い状況ってのが今まで普通のことだったかもしれないけど、東京に出た事によって客観的に見えるわけ。山梨は何も無いからドラッグとかシンナーに走ったりとか。山梨の若者って文化がないから皆でラウンドワンに行ってちょっと悪い奴はシンナー吸って暴走族になったりする。でも東京だと文化があるからCD屋行けばマニアックなものまであってのめり込めたり、美術館行ったり選択肢がたくさんある。選択肢が無い地方の出口の無い感じとかも東京へ行ったからこそよく見える。全てに於いて視点が変わった。富田さんの映画もそれで共鳴したんだけどね。
富田さんの映画を初めて観た時、完全に持ってかれて「クソヤベえ」ってなった。俺らと歌ってる内容とかと完全にリンクしてて一気に仲良くなって。普通の人が観たら「意味わかんない!」とか「何これ?」みたいな反応が多いと思う。でも意味なんか無いんだよ、映画っぽくないじゃんあれ。ホームビデオの延長みたいな。普通映画って起承転結があって、みたいなそういうのじゃないんだよ。ただそこに現実的なものを映してそれに意味づけるのはやっぱり自分。本当にあの映画はすごいよ。 映画史に残るでしょ。

──僕も富田監督の「サウダーヂ」にはやられましたよ。この甲州最前線を立ち上げる原動力になったひとつのファクターです。この映画がスマートフォン以前、(昭和町に)イオン(ができる)以前のタイミングに撮られたというのも奇跡だと思います。スマートフォンとイオンでまた局面が変わったと思いますから。
にしても、あれだけ東京や世界で絶賛されたのに山梨の人の反応は薄いような気がします。でも、あの映画が山梨から出たというのは大きいですよね。

Young-G:でも、必然だったと思うんだよね。山梨って日本の最果ての地方都市だと思う。

──そう。東京に限りなく近い最果て、ですね。
Young-G:そう。東京の真横だからこそ遠いんだよね。西東京って田舎でしょ。八王子とか、西東京の延長が山梨なんだと思う。近いから週末みんな東京行くじゃん、そうなると金がどんどん流れていって衰退してく。大きな原因のひとつじゃないかな。大概の奴が東京のクラブは行くけど山梨のクラブには行ったことがない。神奈川とか千葉とかはどういう理由か知らないけど人が集まる。
最近、田我流のソロツアーで全国色々行くけど、どの街行っても都会だな、と思える。甲府ってこんなひどいんだと。山梨って最先端の寂れ方をしてる。何でそうなったかって言うとやっぱり今までの俺らより上の人がやってきた政治が良くなかったんだと思う。30~40年前の政治の結果がこれだからね。そういう奴らは責任取れないし、俺らも取れないけど駄目だったから今までと同じ、じゃ駄目なわけじゃん。
でもまだ同じことをやろうとしてる。日本全体がそうだけど、政治家も馬鹿じゃないから気付いてるんだけど辞められないんだよね。辞められないほど利権だったりおいしい蜜を吸ってる人間が多すぎる。良い仕事の人はやっぱりそこから抜け出せないし。だから根本は深すぎる。
でも、だからこそ山梨で最先端のことが起きると思うし面白いことをしたいよね。音楽に限らず。

鵜呑みにしないように
──映画「サウダーヂ」、田我流さんの甲府でのワンマンライヴ、それから最近文学賞を取って注目されている辻村深月さんなどみなさん意見の中で共通しているのは「地方都市再考(最高)」ではないでしょうか。都心に一極集中で、がら空きの地方にワンパンチ入れるのは今しか無い。これは地方都市だけの為でなく日本の為でもありますよね。
では最後に山梨の若者たちに何かメッセージを。

Big Ben:何でも良いんだけど、自分が「これが好き」ってものを持ってる人が少ないと思う。流行とか周りとかに影響されない自分好きなものを見つけてほしい。自分で考えて色々やってみるとしか言えないし小さい時の教育もあると思うけど、ぼーっとしてる時とか部屋の中とかでもう一度自分に向き合うべき。自分も含めて周りを見て行動する癖が付いてるから、周りの情報を遮断してでも自分の心がどんなものに反応するのかとかを冷静に考えてみるってことだね。

Young-G:自分で考え自分で行動し、やりたいことをやって頑張って諦めないで欲しい。やりたいことをやって頑張って諦めなければ色々よくなると思う。無茶苦茶当たり前なことだけどね。先生とかが言いそうな。でもこれ大事。
あとは、今言った全部のことはあまり鵜呑みにしないように(笑)。俺みたいな奴に講釈垂れられてるんじゃねえぞ、てこと。

──気をつけます(笑)。大変興味深いインタビューでした。ありがとうございました。
編集後記(小池)
もともとTwitter上で僕が「サウダーヂやべえやべえ」とひとりで大騒ぎして総スカンを受けた時に彼らが直接反応してくれたのが出会いのきっかけです。
その後、Big Benさんのソロアルバム(今秋ドロップ予定)のレコーディングを手伝ったり、僕のライブでラップしてもらってりと結構交流があって今回のインタビューにつながりました。
世には「ヒップホップ=B-boy文化=御馬鹿さん」という非常に愚直な等式が蔓延っておりますが(というか元々B-boyのBはバッドの意じゃなくブレイクのBなのだが)彼らはインテリジェントな詩人だし、しかも尖ってる。
それとYoung-Gさんは「Pan Asia」というミックスCDを最近ドロップしました。これもヤバいです。要チェキ!

あと、甲府エクランの新星堂さんは山梨県出身アーティストのコーナーをいい加減更新してはどうでしょう。ほとんどアーティスト解散してるじゃないか(笑)。
それではまた次回。


Young-G(ヤングG) - stillichimiyaのプロデューサー、MCでもあり、音楽面でクルーを牽引するブレイン。田我流「作品集~JUST~」や、stillichimiya「ONE PEACH」「Place 2 Place」「天照一宮」では、プロデューサーとしてだけでなく、レコーディング、ミキシングも手がけている。ソウルフルでグルーブのあるサウンドと、手の込んだドラムの打ち込みは特徴的。サンプラー、ドラムマシン、Pro ToolsやMax MSPなどのソフトウェアも使いこなす。 stillichimiyaクルー以外にも、
NORIKIYO "黄昏公園 (Remix)"「RE-ROLLED UP 28 BLUNTS
Meiso "ソラニシラレヌ (Young-G Remix)" 「夜の盗賊
BRON-K "空を切れ"「CONCRETE GREEN Vol.7
鎮座DOPENESS "ドンスタ"「100% RAP
などの作品のプロデュース、リミックスを手がけて、高い評価を受けている。


Big Ben(ビッグベン) - stillichimiyaの屋台骨として、殆どの作品にMC、プロデューサーとして参加。田我流「作品集~JUST~」や、stillichimiya「ONE PEACH」「Place 2 Place」のプロデュースを手がける。ヒップホップだけでなく、ブラック・ミュージック、ダンス・ミュージックに精通し、レコードディガーとしてレコード屋、リサイクルショップなどでレコードを漁っている。主に打ち込みでビートを製作するが、キーボードやギターなど楽器の演奏に長け、哀愁漂う、いなたいメロディを創作し演奏するのを得意としている。アナログのきめ細かくザラついた質感と、無骨さをビートに残す職人気質のプロデューサーである。ラップでも常に全力投球なステージが評価されている。 主なプロデュース作は、
田我流 feat. Big Ben "墓場のDigger"「作品集~JUST~
NORIKIYO feat. SEEDA "RAIN (Remix)"「RE-ROLLED UP 28 BLUNTS
などを手がけ高い評価を受けている。


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内田ユイ──更新に間が空いてしまい申し訳ありませんでした。
直木賞をとる前から密かに思い慕っていた辻村深月さんにもオファーしようと考えていたのですが、あえなくNG。さらに個人的にも色々と忙しい時期が重なりまして、という言い訳を添えて第4回目のインタビューを始めさせて頂きます。
本日は山梨県出身で絵画や4コママンガ等、多彩な活動をなさっている内田ユイさんです。よろしくお願いします。

人と違うことをしてひとつ抜き出たい
普段は会社でグラフィックデザイナーとしてポスターやカタログの平面系のデザインをしています。その傍ら、絵を描いたり現代アートでインスタレーション(空間芸術)を作ったり、趣味で4コママンガも描いたりしています。
びだいせーのゆるい話 http://yuiuchida.web.fc2.com/bidaiseinoyuruihanashi.html

──なるほど。では、そもそもアートの道を志すきっかけを教えていただけますか。
もともと中学2年生の時に行った山梨県立文学館で観た樋口一葉の日記の一節「あはれくれ竹の一節ぬけて出しながなとぞ願いける 」(訳:人と違うことをしてひとつ抜き出たい)に感銘を受けて、何か人と違うことをしたいなと中学3年生の時は舞台役者になりたかったんです。当然親は大反対。でも高校1年生くらいまでそれを引きずっていて 将来は日大の芸術学部演劇学科に行くと決めていました。それでも反対されて「じゃあ私は何になったらいいの!」と泣きながら親に叫んだのですが、それでも現実的でないと一蹴されてしまいました。しかし先ほどの樋口一葉の一節がどうしても忘れられなかったので、それなら美大に行こうと決意しました。もともと絵を描くのが好きだったし、県のコンクールとかでもよく入賞していたので親もそれには承諾してくれたんです。
ただ美大に行こうと決めたのが高2の秋だったんですよ。普通の美大受験生にしては遅すぎたんです(笑)。急いでデッサン予備校に行って「え、今から?」みたい な。でも浪人はできないと親から言われていたので猛勉強しました。結果無事に第一志望の大学に合格してそこに通う事になりました。

でも入学していきなりガッカリしました。自分の思ってたよりも周りの意識が低すぎたんです。この大学終わってるな、と感じて違う大学に編入しようか本気で考えたくらいです。でもそんなことばっかり言ってると友達もできないので、とりあえず流される感じでよくある普通のキャンパスライフをキャピキャピと送っていました(笑)
でも勉強したり、色々な作品や作家のインタビューを観たりするうちにこの雰囲気に絶対流されちゃ駄目だなと2年生の終わりに本当に思ったんです。その流れで 現代美術に触れて、こういう美術もあるんだなと傾倒していきました。特にジョーン・ジョナスという作家には影響を受けて自分が「女性作家である」ということを意識するようになりました。
ジョーン・ジョナス / Joan Jonas http://www.wako-art.jp/artists/joan_jonas/index2.php

──なるほど、「女だからって馬鹿にしないでよ、絶対負けない」という気負いでジェンダーを越えようとする女性アーティストがどのジャンルにも多く現れている中で内田さんは女としての自分に気付いたわけですね。大和撫子というか。若くして男/女という対立を無効にするのではなく女性として表現していくことを自覚した、というのはとても興味深いです。
これは中高共学だった私がいきなり女子大に入ったというのが大きいと思います。正直、女社会がすごい嫌で昔から男の子友達とばかり遊んでいました。でもたくさんの女流作家たちに出会って嫌な面ばかりでなく、女にしか持てない感性や表現があるということに気付いたんです。それらの作家たちに励まされ、最初に思った様にこの大学終わってるなとか言ったりせずに縁あって入ったわけだからもっと勉強しようと思えるようになりました。
その後は図書館に篭って勉強することが多くなりあまり友達に会ったりとかもしなくなってしまったので孤独ではありましたが、それがバネになって卒業制作にも打ち込めました。この卒制が自分で作った課題とかでは無い初めての作品と呼べるもの だと思ってます。それが今の活動の原点。11月にはまたギャラリーでグループ展に絵を出す予定です。

70s学生の遺志とゆとりの意志
──面白いですね。ありがとうございます。それから、そのような志を持つ内田さんを育んだ故郷山梨についてもお聞きしたいのですが、甲州最前線が提起した仮説「山梨の文化的被災」や若者についてはどうお思いですか。
やっぱり甲府に降り立つと寂しいですよね。閉まってるじゃないですか、シャッターとか。東京に出てから山梨の良いところと悪いところに気づいたんですが、ずっと中にいると分からないんだと思います。外に出た人が火を付けて行く、という点で甲州最前線という活動はとても面白いと思いますよ。
震災以降色々なことが変わって来ていますよね、デモが起きたりだとか。試しにこの前私も行って来たんですよ。変な団体のおじさんとかも勿論いるんですが、普通の大学生や家族連れの人とかもいました。よくある胡散臭いものとは様相が違うなと感じたんですよね。

──まあ、その過激なイメージは70年代の左翼の皆さんの功績ですよね。坂本龍一さんとか高校生の時から参加してたらしいですけど(笑)。
実は私、70年代の学生闘争とか結構好きで全共闘とかの映像をYouTubeで見るんですよ。

──おお(笑)、そういえばこの前チャリンコ屋に行って「今からチャリンコでデモ行くんで空気入れてください」って言ったらおじさんに「昔のデモはヤバかった。この一帯も皆店閉めちゃって投石とかに怯えていたんだぞ。それに比べたら最近のはお行儀が良すぎるわい」なんてシュポシュポしながら言われましたけどね。それだけ激しい運動だったんだっていう。
というのも、若者が自分たちの体制を変えたいという意思を主張している、というのにとても共感するんです。別に火炎瓶投げろとかそういうんじゃなくて、結局間違ったベクトルに向かった70年代の若者たちですけれど、当時の現状についてすごく色々考えていたんです。23~24の若者はもう十分日本(山梨)に加勢(政)できる年齢じゃないですか。だから現代の若者ももっと主張するべきだと思います。別に原発に賛成でも反対でもどちらでも結構ですけど、主張したり意思を持つというのがとても大事だと思います。
それから山梨に関して言えば、ちょっと前に「こうふのまちの芸術祭(http://kofuart.net/)」というイベントに行ったんですけど良かったです。シャッター街を使った現代アートのイベントで。地元に縁のあるアーティストを集めていて面白いなと思いました。

──ありがとうございます。意思を育てる教育を目指したのがもともとのゆとり教育の理念だったと寺脇研さんも散々主張しています。YouTubeとテレビの一番違うところはキーワードをタイピングするかしないかじゃないですか。僕はタイプするワード=ある種の意志だと思っています。つまり自分が見たいものがなかったら成り立たないんですよ。だから意志教育こそ今必要なんじゃないかなと思うんです。そう考えるとこのインタビュー活動もゆとり教育の延長線上だなんて思ったりしてしまいますね。
では今後のアーティストとしての展望について教えてください。

ググれ
今色んな分野に取り組んでいて、絵を描いたり漫画を描いたり、インスタレーションをしたりでまだ自分の中で何が良いのか迷走している部分もあるんですよ。
でも、長い目でもっと考えようと思っているので、まだ何にもやってないなとも感じています。これから何をしたいっていうのも特に無いんですが、とにかく今できるものを作ったり描いたりしたいです。

それと、アートをやるということで一番大事なのは「続ける」ってことなんですよ。音楽でも何でもそうだと思うんですけど、続けられるかどうかが才能だとも思っているのでまずは「続ける」ってことをやりたいと思います。
特に女性で続ける人ってほとんどいないんですよ。結婚して子どもが生まれると自分のやりたいことなんてやってる場合じゃないとか。私は欲張りで頑固なんで、子どもも産みたいし結婚もしたいし絵も描きたいです。それに女性って子供産むと変わるらしいですね?(笑)

──え、いえ、僕は男なのでよくわからないですけど(笑)
変わるらしいんですよ。ホルモン的にとか生物学的にも意識とかも。私は今子どもの絵ばかり描いてるんですけど、そういう面では女性ということを意識しているし、母性とかも女性しか持って無いものだと思うのでそこを大事にしたいですね。

──なるほど。では最後に、山梨の若者に一言お願いします。
とにかく自分の面白いと思ったものを是非続けてください。面白いと思えるものが見つからない人はググってください。何もしなくても情報が入ってくる時代です。ネットでも何でも良いので色んなことをして自分から探していくべきだと思います。

──自分から進んで行動して欲しいというのは今までのゲストの全員に共通する主張ですね。
本日のゲストは内田ユイさんでした。ありがとうございました。

編集後記(小池)
1時間半にも及ぶインタビューだったので、今回も涙を呑んでカットにつぐカットだったのですが、今回は初の女性ゲストということでとても新鮮でした。
特にジェンダーについての考え方は興味深かったです。母性ということに関しては青鞜やモダンガールの登場以来多くの議論が交わされてきたと思いますが、今もその問題は有効で考えられるべきなのだと。
他に上った議題として2.5次元ファッションやヲタクカルチャー、中二病など。山梨って本当に面白い人がたくさんいますね。それではまた次回!


内田ユイ(ウチダユイ) - 1988年山梨県生まれ。女子美術大学 芸術学部メディアアート学科卒業。現在はグラフィックデザイナーとして勤務しながら、イラスト絵画の他にインスタレーションなど現代アートの制作活動を行う。卒業制作選抜展「女子美スタイル☆最前線2010」(2011)「Girls Illust Exhibition#14」グランプリ受賞(2011)「日常と並列させるために」(2011)個展「リクビダートル」(2012)
公式サイトはこちら


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佐藤大輔──渋谷の東京メインダイニングというお店に来ています。本日のゲストは佐藤大輔君です。
佐藤君と僕は高校時代からの知人であるわけですが、乃木坂46のPVやテレビ朝日の映像コンテスト「Vドリーム」で関東優勝、またヤングチャンピオンや味の素の映像制作などで活躍されています。高校時代そんなこと全くやってなかったので勝手に驚いているわけですけが、始めるきっかけというのはそもそも何だったんでしょうか?


数学教師から映像作家へ
元々数学の教師になりたかったんです。小池君と同じ高校に通ってたんですが、その時の数学の先生に憧れて。それで教師になるために教 職(過程)とかもとってたんですけど、大学4年生の頃友達に「映画の撮 影手伝ってよ」と誘われて参加してみたんです。ボランティアで。そしたら(当時としては)想像を絶する過酷な毎日で、とても疲れたし筋肉痛も酷かったけどすごく面白くて蒸発もせずに最後までやりきった。それで後日すぐ30万のカメラをクレジットで買いました(笑)
ラブ・コール アナタヘノオモイ 予告編 http://youtu.be/kZrG5ASAvtM

──おお、いきなりピークだったわけですね。
いいカメラを買ったはいいけど最初せっかくの性能も活かせなかった。でも始めてから数週間経って日本の良さを30秒で伝える「MyJapan」というCMコンテストに折り紙をテーマに初めての映像(http://youtu.be/gJqBNbA4Y6s)を撮りました。
それから「よし、団体をつくろう」と思って。ノウハウも知らないけど、とりあえず幼馴染ともう1人で今も続いているプロダクション・ エノログをという映像制作団体を立ち上げました。それが2010年。それから「桜雪」という初めての映画を作って、そこからCMとかPVとかただ映画を作るだけじゃなくて多岐に渡った映像製作全般に今取り組んでいます。

──なるほど。ということは佐藤君の目標は映画と言うよりも映像全般にアタックするということですか?
僕の最終目標はあくまでも映画監督。でも別に映画じゃなくても本当は良かった。ていうのは漫画でも小説でも良かったし、イラストレートとか音楽でも良かった。自己表現、何かを作るということが昔から すごい好きで。何で映像を選んだかというと、音楽も入れられるし小説は脚本につながるしっていう映画の持つ総合アートとしての側面に惹かれたから。例えば僕は音楽できないから小池君みたいな音楽家に手伝ってもらうこともできるし、自分の好きなイラストレートやってる友達に挿絵とかメインビジュアルのポスターとかも作ってもらえ るかもしれない。ひとつの箱舟としての魅力がある。それから映像製作全般というのはPV作ろうがCMだろうがバラエティ番組だろうが全部映画に活かせると思ってるから、盲目的に毎日映画だけをひたすら観て目指す映画監督にはなりたくなくて。そこまで映画が好きかって言われたらそうじゃないし。なんでもかんでも全てが好きなんです。昨日まで宮古島にスキューバダイビングしに行ってきたんですけど、とてもいい経験になりました。色んなことを体験して、考えて、知って、笑って、泣いて、怒って—。そして、自分の映画を固めていきたいです。

──僕は駆け出しですけどジャズなど演奏するんですが、ジャズ界もまったく同じ事が言えると思います。オールドスクールなジャズを至高 な物だとして信奉している方はいる。それからブラックミュージックの系列としてのヒップホップやファンク、R&Dとかに反れてからジャ ズに戻ってくる人もいる。戻ってこれなくなった人もいますけどね。映像を撮る時のこだわりとかも聞かせてください。
先日、駒沢大学マスコミュニケーション研究所に呼ばれて映像の講義をやった時に改めて感じたことなんですけど、例えば「少子化」というテーマがあってからこういう映画を撮りたいっていうのが一般的な思考ルーティンであるし、そうあるべきかもしれないですけど、僕は逆でこの前撮った映画「私の小旅行」はとりあえず「ミニスカの女の子に穴を掘らせたいな」と思って、このシーンをクライマックスに持っていきたいなというところから発想を膨らませて肉付けしていったんです。だからどちらかと言うと僕は何かをしたいっていう視覚寄りなところから広げていきますね。そこから自分の中にある幾つかの伝えたいことが物語とマッチングしたら調整して当てはめる。必ずしも毎回そうではないし、全てそうではいけないけどこれが僕のスタイルだと思います。

選択肢はある
──それでは次に山梨についてお聞きしたいのですが、僕ら甲州最前線の主張も含め、思うところはありますか?
この前山梨に帰って甲府に行ったんですけど人がいなくて本当にびっくりしました。前々から徐々にシャッターがとは思ってましたが、遂にパチンコしかやってないみたいな。ひどい(笑)。岡島(百貨店)も潰れるんじゃないかなっていう感じだったし。甲府駅北口も再開発してきれいなったけど効果あったのかな。人をさらに呼びたいと思ってイベントとかやってるみたいだけどそれもあまり効果が無いと思う。正直一発屋にもなっていない様な印象があります。僕の記憶が正しければ中学の頃は甲府の中心街の七夕祭りとか甲府大好き祭とか人がすごく人がいっぱいいた。それさえも人が集まってないんじゃないかと思うと不安でいっぱい。それくらいこの前帰った時はびっくりした。

──街並みはきれいになったけど人通りまできれいさっぱり、という(笑)。では何か山梨の若者に言いたいことなどあればお願いします。
が後悔しているのは、選択肢がたくさんあるってことを知っておけたら良かったなってこと。高校卒業した時点であたかも将来を決めるみたいに大学で数学勉強したり経済学部とか行ったりするんだけど、4年間いたら変わる。正直な話、今映像やってるけどそれが50年続くかわからないし、映像からさらに違うものに取り組んでもっといい形になるかもしれない。だから僕の青春だったカラオケとサイゼ(リヤ)もいいんだけど、その時間にもっと視野を広げる活動をしたら面白いのかなと。受身じゃなくて能動的自発的になった方がいいと思う。例えばSNSやってたら誰かクリエイティブな人に「是非お会いしてお話聞きたいです」とかコンタクトしてみるとか。高校生とかにそんなこと言われたらみんな喜んで会ってくれると思うし。僕なら全然会う(特に山梨学院の後輩待ってます!)。どんどん食いかかって行くべき。どんどん色々な人に出会って話しを聴いて体験してみる。カラオケ、サイゼ(リヤ)、みんなでおしゃべりも楽しいけどもっと色んなことをどんどんやる、ゆとり教育はそういうことを教えたかったんじゃないかなと今思います。

──はい。本日のゲストは佐藤大輔君でした。ありがとうございました。今後の彼の活躍に乞うご期待です。

編集後記(小池)
前回のインタビュー(徳山史典)でキーワードになったのがジャンルを横断する、「クロスボーダー」。佐藤君の話にもそのニュアンスがかなり含まれていて驚きました。ルネサンス期は色んな学問が近かった。だから絵も科学もすんげえって個人が存在したわけですが、その後は細分化によって学問はバラバラになりました。しかし今は一度細分化されたものがまた統合に向かってる気がする。ネット、特にSNSによって横断が容易になったのが原因ですね。それでここからが重要な事だと思うんですが、ゆとり教育の本当の意味って此処にあるのかもしれないと思うわけです。所謂「総合教育の時間」ってのは国語・数学・理科・社会のボーダーを取り除く試みだったのではないか、という。
なおインタビューは他にもゆとり教育問題や情報過多の問題、他にもたくさん話が展開していったのですが泣く泣くカット。それではまた次回!


佐藤大輔(サトウダイスケ) - 映像クリエイター。上智大学に通いながら自ら立ち上げたプロダクション・エノログで映画、CM、PV、番組などの映像制作を行なっている。来年、株式会社エンドローグを登記予定。
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徳山史典


──本日お台場は湾岸警察署の隣にあるお洒落ラウンジthe SOHOに来ています。というのも、このインタビューが終わってからここでゲストの方とライヴをするからなのですが。さて、今回のゲストは私小池の中学校来の友人であり音楽に於いては戦友でもある徳山史典君です。宜しくお願いします。
宜しくお願いします。

──改めて伺いますけど、お仕事は何をされていますか?
大学院を卒業して、現在はアトリエ系設計事務所で働いています。最終的に個人作家として活動するための経験として、それから所謂ネクタイ締めて出社する会社みたいなのが嫌いだったのでアトリエに入りました。ネクタイ以外は色々絞まってますが(笑)、身動きがとれない。

──なるほど、大変ですね。徳山君は音楽活動もされているそうですが、というか私とよく一緒にやってるんだけど、将来的にはどのような活動を視野に入れてますか?
芸大入って考えたことが結構デカいと思うんですけど、僕は建築家なら建築家とか、そういう典型的なやつ以外を模索する事を常に考えてるし、それは音楽でも建築でもそう。修士研究でもそういうことをやったし。なので今はアトリエで修行していますけど、完全にフリーになった時に自分が何を始めるかはわからないです。

建築にポップを
──修士研究はどのようなことをしたんですか?
建築学生の修士製作とか修士設計って、ものすごく乱暴にジャンル分けすると、まずは実際の敷地があって、まじめに建物たてる第一のタイプ。次にそれからこれは芸大に多いタイプなんですけど、私小説的なところから空間の可能性を模索する、大々的には言わないけれど事実上ファインアートとしての側面も持った第二のタイプ。僕が勝手に呼んでるんですけどね。その第二のタイプというのは誰もが納得できるような論理では説明できないものを作るって感じですかね、それはそれでかっこいいと思うし凄いと思うけど、そういうのも全部パターン化してきている感じがして。まあ最後だし、そういうかっこ良さでお茶を濁すのも何か違うなと思ったわけです。だから僕は第一のタイプでも第二のタイプでもない、第三のタイプをやりたくて。

──ニュータイプじゃないですか!アムロレイみたいな。
そうそう(笑)、でもすごい苦しんでずっと同じところをぐるぐるして最後の何カ月かで固めた感じです。
建築家の仕事といえば設計なんですけど、今回は「設計する」という行為を何というか、おざなりにして、いったん置いといて、設計したものを説明するためのプレゼンテーションツールを作ることを目指しました。楽譜にも近い。新しい楽譜を開発する感じ。修士製作の一個前の課題では人が歩いていってそれが映像として頭に残る、その映像とか体験自体を楽譜にするというということもやったこともありますが。まあそれの延長ではあるかもしれないですけど今度は模型とか図面とかに代わる違う言葉を作ろうと。例えば今建築って言われてもKポップよりも全然マイナーな気がする。

──頭文字は同じKなのにね。
ポップさが足りないと思う。単純に図面ボン、模型ボンて置かれてもまあその言葉を喋れない人には意味無いからユニバーサルな言語を作ろうと。そうすればもっと建築を身近に感じられると思うし。

──絶対音感を持ってる人が譜面見ただけで頭で弾けるみたいな感じね。
簡単に言うと中に入れる模型を作ったわけです。別にでかい模型を作ったというわけではなくて、基本的に建築はでかすぎだから100分の1とか50分の1とかで模型を作るんだけど、そんなのよりもっと面白くてわかりやすい説明の仕方を考えた。そういう事を考えていると例えば「建築のデザイン!」とかひとつの道を突き進むというより、音楽、グラフィック、映像、Webデザインやらプログラミングとかの道にそれながらその道を結びつけていくみたいな事をやりたいから、まあそれはそれで一個の道を極める力がない言い訳でもあるんだけど、技のデパートじゃないけどそういうスタンスでいたいとは思う。個人のサイトもデパートをモチーフにしてるし。そうすれば「ああそれもできるんだ」とか「すげえ」ってなるからね。まあ最終的には飯をどうやって食うかってことなんだけど。
個人サイト「TOQU百科展」http://toqu.xxxxxxxx.jp/

──私もバイトしてますけどね。
そうそう。つまり横断的なスタンスで活動して新しい働き方というか飯の食い方を探すのが目標。

毎日山梨から送られてくる被災状況
──あと、甲州最前線は「東北の超自然的被災に対し、山梨は文化的社会的な眼に見えない被災に遭った 。同じく復興が必要である。」という立場に立ってますが、それに対してどう思いますか?
え、それは文化的でくくっていいのかな。色々モータリゼーションの問題とかあると思うけど。

──まあ要は活気が無いってこと。商店街とか若者とかにさ。
わかるわかる。でも僕はなんか寧ろ商店街とかより文化的被災だなと思うことはFacebook。アイコンとか写真でもう山梨にいる奴か東京にいる奴かわかること。山梨にいる奴は大抵ダサいから(笑)、それ見てて「ああ、被災状況だな」って。それが報告されてくるわけじゃん毎日(笑)。(こんなこと言っちゃ)駄目かな、これ山梨の人が見るのに(笑)

──大丈夫大丈夫。もっと言って。
普通はメディアによって(東京とか山梨とかの格差が)無くなりそうなものだけどね。フラットになりそうなものだけど。でも実際にはなかなか「おっ」て思うことを山梨でやる奴はいなくてさ。

──そうなんだよ。日本がぶっ壊れる時ってのは地方から壊れるからね。だから地方都市とか山梨の今の状況はまさに最前線なわけ。創造の最先端東京と崩壊の最前線山梨。これについての認識が無さ過ぎる。このままじゃいずれ日本中のシャッターが閉まっちゃう。だから山梨で今面白いことするってのはすごく意味がある。
過疎+超高速インターネット=加速
M1(大学院1年)の時、徳島で古民家の改修プロジェクトで大工仕事したり色々やりに行ったんだけど、そこの町が明らかに過疎地域で商店街にも古い店が2~3軒開いてるだけって感じなんだけど、最近その町が「クローズアップ現代」とか「ワールドビジネスサテライト」的なのにバンバン出るわけ。何故かって言うとその町は自治体とかNPOで超高速インターネット回線をひいたの。でも使う人が誰もいない。だからさらに加速するっていう(笑)
NPOグリーンバレーhttp://www.in-kamiyama.jp/diary/11701/

──回線も過疎も加速するわけですね。
川とかでも超高速無線LANがあったりするから川に浸かりながら仕事したり。それに目をつけた東京とかの会社がサテライトオフィスを作ってたりする。そういうのも崩壊最前線の崩壊を緩やかにするモデルタイプになるかなと思う。自分らで何かをするというよりもどうやって付加価値をつけて都会の人間を呼んでくるかってこと。それは観光じゃ駄目な気がしてて。確かに観光はお金は落ちてくけどそのお金がうまく使えなきゃっていうか人の活気につながらなきゃ意味ないし。だからこれもある意味クロスボーダーなことで、思いついた人がどんどんやるべきだとは思う。

YouTube見ろ
──では最後に山梨の同年代の人々に一言。
僕は人一倍ググるのが早くて、疑問に思った瞬間にググるわけ。情報の能動的収集というか。テレビしか見ない人は受動的収集。そういう人に言いたいのはYouTubeの方が面白いよってことだよね。テレビより。無関心が一番損をするぞっていう。

──テレビ依存からの卒業ですね。ありがとうございました。本日のゲストは徳山史典君でした。では今から元気に演奏してきます。


徳山史典(トクヤマフミノリ) - 1987年、山梨県甲府市生まれ。甲府第一高校卒業。横浜国立大学工学部建設学科建築学コース卒業。東京芸術大学大学院美術研究科建築専攻修了。2012年春より都内設計事務所に勤務。

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