ウイイイイイイッス!どうも、二十日莉奈でーす。

 

今日は野獣の日ですね。

お久しぶりです。全然更新できないまま月日が流れてしまいました。私も旅日記等書きたいとは思うのですが、大学院での仕事や研究が忙しかったり、twitterでコロナの論争を見て凹んだりして、手つかずになっていました。

 

たまに読んでみたりしているのですが、今更いいねやコメントをするのも憚られるほどに、遠い存在になってしまったな…と。

 

そして、旅日記をアップしていたり、Vにハマりだした時期から5年も経つということに驚きます。

当時のブログとか読み返していても、世界史ネタとか進学校自虐ネタとか、自分がいかに良い成績をとっているかという自慢がやたら目立ち、恥ずかしくなりました。

あの頃は今の大学に受かるかも不安で、一人暮らしなんて想像もできていませんでした。それでも過去は美しく見えるものです。

 

 

初めて18切符で長野と松本を往復した中1の夏から、
受験のプレッシャーの中、115系に揺られて黒姫まで行った高3の夏までの期間と、

高3の夏から今年の夏までの期間。

 

同じ5年間なのですが、何というか自分の中の時間の流れとしては、比率が3:1くらいに感じるんですよ。自分の中で月日の流れが速くなっていくのを感じるんですよ。

 

受験生だった私は見事に志望していた大学に合格し、その4年もあっという間に過ぎてしまいました。

あの頃思い描いていた生活ができたかというと、そんなことはありません。ずっと不安定なままです。

 

今でも青は澄んでいますねぇ。

 

 

 

 

 

さて、まあ本題というかなんというか、似たような話になるんですけど、

 

まあこの3年くらい、莉奈ちゃんといえばホロライブ、ホロライブといえば莉奈ちゃんと言っても過言ではないほど、

ホロライブやVtuberへの推し活に励んできたのですが、ここで以前のように推せなくなってきています。

 

推しが別コンテンツ界隈から難癖をつけられて炎上する度に、りな2ブログの方で「声明」「所感」と称してアツい抗議文を投稿するくらいには大好きだったんですがねぇ…。

(今もこちら側が悪いとは一切思っていない)

 

ホロという記号の意味が変容し、そして人生の意味の分断に直面して悩んでおります。

 

 

2020-21年の頃は授業もオンラインで実家にいた時期も長く、ホロライブのメンバーの配信をリアタイで見たり、歌ってみた動画を一晩中聴いたりとかしていたんですよ。

2022年以降は卒論や院試などで、以前のように時間がとれなくなったり、ずんだもんとかスーツさんの動画の方が短い時間で見やすいと感じるようになった、というのも大きいのですが、

 

やはりファンの民度がかなり気になる、ようになったんですよね。

 

 

twitter民主主義では、今日も今日とて感染対策継続派と正常化派が戦っているわけですけども、

 

その中で、

表現の自由を大切にするオタクを自称している層なんですが、

twitter上で有名な医師に共感し、感染対策の継続を支持して、黙食やマスクの見直しについて発言して目の敵にされている知事とかそういう、その正しさにそぐわない、「鼻持ちならない存在」を叩きのめそうとする空気感は不気味だなーと思いながら見ているわけですよ。

 

そういう方がホロライブに対して好意的な投稿をしていたりイラストをRTしていたりするので、他人事として見過ごすことができなくなっていて。特に幹部の方とか、シャチの方とか、6期生を推しているのをよく見かけます。彼らが流行を追っているだけなのか、ホロにそうした人たちを引き付ける何かがあるのか…。

(ただ、例えばプロセカとか推しの子とか呪術廻戦とか、今の若い子が好きなものを好きと言っている人は少ない、というかほぼいないのでは。)

 

あと、医師アカウントの中でも根強い人気を誇るとある猫アイコンの方が、やたらホロライブやナナヲアカリ好きアピールするのも目についていて。

 

 

ここでは特定の人物に対する批判はしませんが(個人にも国の方針にもいろいろ思うことはあれど今回の主眼ではないので)、

個人の言動や素質について、あるいは国のコロナ対策の方針について批判するのは自由です。問題だと思ったのなら大いにやってもらって構わない。

しかし、戦い方がとにかく悪いというか、何というか。

 

 

 

私自身も発達特性で小6の頃はつらい思いをしたので、特に教室の中で周縁に置かれている子供たちに寄り添いたいと考えており、(コロナに限らず)特定の子だけが負わされないよう学校や社会の在り方ともっと向き合ってもらいたいとは思います。

(コロナに関して、私自身、近所の学校に顔を出す機会があったのですが、そういったことを気にしている子はぱっと見いないんですよね。マスクしていなくてもすごい休んでる子が多い、ということもないですし。見えていないだけ、の可能性もあるのですが。)

 

 

私なんかよりも、日ごろから弱者の権利や福祉に関心が高く、少数であっても、社会構造そのものを問題視してきた方々が、コロナによって浮き彫りになった社会の理不尽を正すべき、と提唱すること自体は自然だと思いますし、

社会全体で弱者を守るべきだという信念は素晴らしいし多くの人が見習うべきだと思うのですよ。

(そこで政治的な党派性と結びついてしまうのも難点ですが…。)

 

 

 

そうした提起に対して、共感するどころかむしろ痛烈に批判し、個人の自由の尊重を主張してきた方が、

コロナに関しては医師アカウントに同調して、特に熱心に感染対策によって他者や医療を守る道義を説いて、陽キャのフェスを叩き、「弱者を大切にしない人」に怒っているのは、なんというか洒落にならなくなってきていると感じるんですよ。

 

確かに、持病があるなど、重症化しやすい属性であったり、子供の頃に教室で肩身の狭い思いをしたといった集合的トラウマがあって、「明るい元気な子」的な教育現場にありがちな規範に強い反発を抱いているとか、社会が戻りつつあることに反発している方にも、本人なりの理由があるのだと思うし、

コロナは、個人の価値観の問題でもあるわけですから、個人で気を付ける分には、文句を言われる筋合いはないんですよ。そしてそれがある程度許される社会であるべきです。

 

ただ、そこで自分たちの正しさに基づいた新たな規範を社会に求めたりするのは、これまで叩いてきた相手と何が違うのか、というわけですよ。

 

 

私事ですが、全員顔見知りの研究室ではしていないけれどイオンではマスクつけるし、外出した日は少女レイの1番を歌いきるまでの間うがいして、そのあとハナノアで鼻うがいをするし、旅の最中でも窓がある座席を選び、咳している人がいたら車両を変えるくらいには気を付けているわけですが、
つけない人が増えたこと自体は、最近は好意的に見ることができるようになってきています。

 

変わりましたね、私。

 

私もかつて敵対していた方が好きだったコンテンツのイベントでクラスターが起きたことや、ホロライブの炎上を冷笑していた個人が自粛しなかったことをしつこく責め立てたりとかしていたので、あまり人のことは言えないのですが…。

 

言い訳させてもらうと、有名な学者の方に自分の推しを非難されたショックから、当時はまだ立ち直れておらず、社会に対して抱いていた怒りの意匠返しの側面もあったんですよ。

 


そんなわけで、まあ彼らの抱える苦痛も分かるんですよ。

そりゃ自分の好きなものを否定されたら怒りに打ち震えるのは当然でしょうし、その政治的態度の背景には、本人なりの理由があるのでしょう。

しかしやはり、どうしようもない人たちだった、と気づき始め、困惑しています。

いや、個人が何を好きになるのかも個人の勝手なわけで仕方ないわけなので、「どうしようもない人たち」そのものはともかく、「どうしようもない人たち」へと社会的に方向づけたtwitter民主主義の場が、恐ろしいです。

 

 

 

 

そんな人様の思想を監視して、おかしい!と騒ぎ立て、勝手に失望すること自体、健全ではないのかもしれません。

まあ一部の過激なファンが暴れてさらに推しが叩かれる、といったことが多い界隈でしたので、私も集合的トラウマの毒牙にかかっているのかもしれません。

すみません。嫌なことが頭から離れない特性なもので。こうして愚痴ってなんとか自我を保とうとしているので、本当すみませんね。

 

 

私はホロライブを好きなことが問題だとは考えてはいません。善良なファンには好きで居続けてほしいし、興味がない人にも知ってもらって好きになってもらいたいとすら思っています。そして、最推しとホロのみんなの描く未来が実現することを信じています。

 

それでも純粋に楽しめない、といった思いが日に日に強まっているんですよね。ましてや自分の最推しがそうした奴らも推していると思うだけで、虫唾が走ります(三項関係)。

冷めてしまう感覚に抗う事が出来ず、まるで夏油さんのように葛藤しています。

 

 

さて、私の最推しなんですが、地上波の音楽番組に出たり、フェスへの出演が決まったり、とVtuber文化の最前線で活動範囲を大きく広げてくれていて、本当に嬉しいのですが、

そういう呪霊みたいな奴らもみちづれにするのは、やめてくれよ…。(懇願)

 

まあ自分は、良い意味でも悪い意味でも権威にものすごく弱いんだと思います。

 

 

 

とはいえ、線路に立ち入る撮り鉄が問題になってメディアとかで取り上げられていても、だから私自身鉄道を楽しめなくなった、とはならないわけで、その差って何なんでしょうねぇ…。



 

 

 

 

 

 

最近、YouTubeの後で見るフォルダの整理をしていて、賞味期限切れの切り抜き動画を見たりして、やっぱり面白いな、とは思うんですけど、時間の流れや、自分の中の否認したい変化を感じさせられるんですよ。

 

2年前の夏はとても暑い夏でした。

あの頃もかなりデルタ株とか東京五輪とかで騒がしい季節で、ラーメンズのコントにハマってずっと見ていたり、七人のホロと題した空想を考えたり、大学からの帰りに夕焼け空を独り占めしてケンタッキーとメロンパンで利香さんの誕生日を祝ったり、楽しく過ごしていました。

 

夏という季節は儚く、あっという間に過ぎてしまうものです。

あの頃の延長を生きているが、何かが変わってしまった。

そんな感情です。

 

 

 


おまけ

 

去年の夏にふと思い立って、中2の頃のブログにあげていた私小説を読み返してみたんですけど、

かなり拙いし、普通に恥ずかしすぎた。

でもそれ以上に展開が、七人のホロと似ていて、成長しない自己の内面を感じて余計に。

 

(こんな画像も去年更新しようと思ったときに作ったのですが、結局アップできなかったので供養です)


ホロメンを当てはめてみると、里奈ちゃんはトワ様、佳乃はすいちゃんになるのかな。

つか、自分の名前を主人公につけるとか、なろう小説みたいですね。イタすぎだろ!

佳乃の先生は、実際私が中学の頃好きだった社会の先生がモデルでして・・・。その人は結構右の人だったのですが、何というか漠然とした不安に、男気とともにしっかり答えてくださった方で、中道であろうとしている私は思想は違うわけですが、今でも尊敬しています。

 

 

まあ東側になった日本で、寝台特急に乗ってソ連と国境を接する南樺太に行く、という展開で、かなりしっかり膨らませることができれば面白い話にできるのではないかと個人的に思うのですが、時勢がね…。

 

実はその「先生」は、熱心な皇国主義者で、西側による祖国統一のために暗躍していることがバレそうになり、慕っていた教え子の佳乃に自分を密告させることで彼女を守った、佳乃はずっとそのことがつらくて樺太で彼を探す…とか、当時は思いつかなかった展開を思いついたり…。

 

 

 

 

ヒワのように笑っていた私はどこに行ったんだろう。