あの頃の気持ち
テーマ:ブログこんばんは。
少しお天気が下り坂のようですね![]()
![]()
ってことは、春の足音が聞こえ始めたってことですね![]()
一年のうちで一番、春が好きです。
春生まれだからかな![]()
早く来ないかな、春![]()
色とりどりの花が咲き乱れ、私の頭も咲き乱れるあの春よ、早く来い![]()
今日の一限目、お師匠様が基本の手技を教えられ、私は体を貸した状態で3人に同じ手技をやられました。
お師匠様曰く、
「基礎は大事です。同じ手技をやったとしても、その手技の出来不出来によって刺激の浸透力が違うので、自ずと効果が違います。」
ああ、その通りでございますとも!
推拿は手技の数が幾種類もあり、さらに同じ手技でも基本のやり方と少し応用させたやり方があり、同じ手技をやってもらってもやる人によって全然違うのであります。
効果のありそうな派手な手技をいきなりやりたくなるものですが、実は基礎の出来不出来こそが治療効果の明暗を分けると言えるのです。
実際のところ、お師匠様にちょっと手技をやってもらうと一つ一つがしっかり刺激を浸透させてきます。
間違っても“何されているか分からない手技”というのはありません。
動きの正確さ、ブレのなさ、そして何に対して働きかけようとしているかの明確さ。
毎回、これはすごいと思わされます。
その昔、私が手技を仕事とし始めた頃、ただ必死でやっていただけでした。
正直なところ、お客様の体の上でがむしゃらに練習していたといえるでしょう。
そのまま一年つっぱしり、ようやく“このままでいいのか?”という疑問が湧き、出会ったのが推拿でした。
推拿の動きの美しさ、余分な力を抜くことの難しさ、本当に上手くなるには陰の努力ほど物をいうという真実。
それが二年目に分かったことでした。
米袋の上で、寝ても覚めても滾法ばかり練習し、“えっ?もしかしてこうだったのかも?”と、コツをつかんだのが半年経過した頃でした。
ところが人体の上では上手くいきません。
“多分これだ!”と米袋の上と同じ動きが出来たのがその数か月後。
その感覚を失いたくなくて、それから数年、ほぼ毎日米袋の練習を続けました。
先週のことですが、私が新米講師だった頃に推拿を教えた生徒さんが4日で詰めて足ツボを習いに来てくれました。
遠方の方なので4日間1~5限目というツメツメで教えたのです。
昔の記憶でも、覚えのいい方だったので、今回も引き受けたのですが。
8、9年程前に教えた方だったと思います。
今回再会するまでの間、オイルマッサージをされていたようです。
その彼女が、
「先生は、どれくらいの頃に触ってここが悪いのでは?と分かるようになりました?」
と、聞いてきました。
前のスクールでは講師一本でしたので、本当はいつからなのか分かりませんが、
国際中医学院に来て久々にサロン復帰した時に、急に分かるようになったのでした。
もちろん普通に揉むとか押すとかで違和感を感じて分かるというのもあるのですが、
手を置いただけで伝わる違和感に“もしや?”と思って触るとやはりそうだった、というのが急に分かるようになっていたのでした。
そういえば今日、お師匠様が手技を教えつつ私の腰の痛いと事に無意識に手を置いておられ、
“偶然?それともバレてる?”と、思っていたら
「ここ、ちょっとおかしいね?」と言って肘圧を入れておられました。
お師匠様って、なんか不思議な方です。
横道にそれましたが・・・
一施術者から新米講師になり、そして現在に至るまで、あの頃と変わらぬ気持ちの一つに、
“何とかして知りたい。理解したい。”
というのがあります。
何を?と言われると色々ですが。
技術、知識、症状についてはもちろんです。
でも一言で言うなら、
“その人について”でしょうね。
推拿の手法は、擦揉滾按動叩擦の順に刺激を加えていくのですが、どの手法をしながらでも“その人について知りたい”と思い続けることが大事なのだと思います。
人の体は物体でありつつ、ただの物体でもないので、“その人そのものを理解しよう”とすることは大切なのです。
懸命に練習をする生徒さんの手技を受けつつ、そうだった、あの頃の気持ちも今と変わらす“何とかして知りたい。”だったよな、と思わされた一日でした。
そしてあの頃の気持ちのまま、整体師としてやっていきたいと改めて思ったのでした。
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