日露戰爭に關する本を讀んでゐると、面白い事に氣づく。大活躍した陸の軍人は皆、陸大を出てゐない。将軍も優秀なのは藩閥出身者舊幕軍出身者である。


例へば、日露戰爭で第一の武勳を擧げた乃木希典は長州のサラブレッド、名將黒木元帥は薩摩の出である。立見尚文大將は幕軍最強の雷神隊を率ゐてゐた男、まあ、こんな感じである。


滿洲に參謀本部が出來てこれら優秀な將軍達の作戰に口を堕すになると、日本軍の進軍速度は目に見えて遲くなつた。これら陸大出の參謀達は、日露戰爭後に處分され、資料編纂室等に左遷された。


この左遷された參謀たちが日露戰爭についての歴史を書いてゐるのだから、これは割り引いて讀む必要がある。彼らは參謀は優秀なのに現場の將軍は、といふ詐話を書き散らした。


これらの詐話を本氣にしたのが司馬遼太郎である。乃木が無能で、兒玉が現地指導して旅順が陷ちた、なんて話を廣めたので、私の知人にもこの詐話を眞に受けてゐる人達がゐる。


無能だつたのは兒玉達參謀の方である。旅順に籠る露兵は一萬五千人くらゐと見積り、第三軍には五萬程度の兵しか割當てなかつた。實際には四、五萬の露兵がゐた。


恆久要塞に互角の兵で攻めては、苦戰も當り前である。二十八サンチ砲で旅順を陷したといふのも嘘である。效果はそれなりにあつたが、どんな大砲でも塹壕線を突破する事はできない


結局、旅順陷落乃木伊地知(現地の參謀、薩摩)の功と謂ふべきで、能く寡兵で短期間に陷したものだと感心する。奉天會戰も、必敗の戰を乃木が獨斷專行して勝利に導いた


さて、その後の事である。藩閥が陸軍を握る事への反撥は何故か強まり、高級參謀や將軍達は陸大出のエリートばかりになつた。これらの將軍達の質が明治の藩閥將軍に劣つてゐた事は歴史が證明した。


これらの史實は、我々に優秀な人間とは何かを問ひかけてゐる。試驗ではなく現實の問題に對應できる人間が優秀なのである。今日でも、一流企業の創業者の大半は舊帝大を出てゐない私は出てるけど