6月3日、雲仙普賢岳の大火砕流発生から22年が経過したことをニュースキャスターが静かに伝えていました。
1991年11月に198年ぶりの噴火を起こした雲仙普賢岳はその後も火山活動が衰えることなく溶岩ドームが発達しました。
そして、大島三原山のように溶岩が流れ出るとの予測を覆し、溶岩ドームは崩落の後、1991年6月3日、大火砕流が発生したのでした。
もちろん、私は地質学者でも火山研究家でもありません。
「カサイリュウ」という言葉を知ったのもこの惨事で初めて知ったのでした。
43名の犠牲者と引き換えに、私だけではなく多くの人々が火砕流の恐ろしさを知ったのだと思います。
この犠牲者の半数近くは、この噴火をカメラにおさめようとした報道関係者であり、そのほとんどがカメラマンでした。
当時、このような危険な地域にカメラマンを送り込んだ報道各社がバッシングの的となり、カメラマンを現地まで乗せ、亡くなったタクシー運転手の遺族はタクシー会社と新聞社に対して訴訟を起こす騒ぎとなりました。
ここで犠牲になったカメラマンは、「その瞬間」をおさめようと危険を顧みずに立ち向かい、自然の猛威に命を散らした無知な人間なのでしょうか。
皮肉にも、火砕流という自然現象が国民の標準的知識となった惨事でしたが、一方、後世の国民にその「猛威」を知らしめるとともに、報道のありかた、さらには国民が必要とする知識を知らしめる事象だったと私は思います。
「スイチョクビヨク(垂直尾翼)」も「リンカイ(臨界)」も「ケイカイ(啓開)」も「メルトダウン」もそれぞれの業界の特殊用語であるとともに、国民の命に係わる重要な用語です。
そして、これらの用語はみな、大きな犠牲と引き換えに国民が得ることとなった知識です。
きっとカメラマンたちはこんな用語を説明したかったわけではないでしょう。
「命に係わること」であることを伝えるために一番必要な写真や映像を最前線で記録しているカメラマンは、誰よりもこのような命に係わる情報を発信し、伝えなければいけないという使命感を持っているのではないでしょうか。
カメラマンの使命感が全うできるよう、リスクを考え、情報を分析し、自制作用をつくりだすのは背後にひかえる企業幹部の仕事なのかもしれません。
「報道」という最前線(カメラマン)と自制機能(企業幹部)の絶妙なチームワークによって、我々が生き残ることができる「命の用語」を毎日伝えてくれています。
「伝える」仕事をしている私も、信頼と信用のチームワークを篤くし、必要とされる存在になっていきたいと思います。
※ちなみに、「垂直尾翼」は日航ジャンボ事故(1985年)で、「臨界」は東海村JCO臨界事故(1999年)で、「啓開」と「メルトダウン」は東日本大震災(2011年)で私がはじめて知った用語です。