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◇☆★◇★                ★◇★   2006年12月号 クジ味 
☆★◇★~月刊・歴史チップス~ ★◇★☆   [2006.12/1発行]
★◇★                ★◇★☆◇    (SINCE 2001.11)
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  ☆ こんなのあり!? 悩むならクジで選ぼう新将軍!
  ~ 鎌倉公方・足利持氏の怒りの挙兵「永享の乱」!! 
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■今月の味付け■
 序 文.クジと談合
 本文1.クジ将軍 ~ 足利義教登場
 本文2.京鎌冷戦 ~ 足利持氏憤々
 本文3.関東分裂 ~ 上杉憲実退去
 本文4.両軍激突 ~ 永享の乱決着
 本文5.鎌倉無情 ~ 鎌倉公方最期
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 毎年十二月になると「年末ジャンボ宝くじ」の話題が出る。
「今年は当たるかなっ」
 なーんて何枚か購入してワクワクしているうちに年末になり、
「やっぱり買わなきゃよかった」
 てな繰り返しになるのである。

 何億何千万といった大金は、一般人にとっては夢のまた夢のお話である。
 ところが世の中には、何億何千万といった仕事をズルして自分のところに
回してもらおうとする不埒(ふらち)なヤカラがいるのである。
 お分かりであろう。
 いわゆる「談合」をたしなむ人々である。

 最近、地方自治体の談合発覚が相次いでいる。
 福島県と和歌山県では、それぞれ佐藤栄佐久(さとうえいさく)県知事と木
村良樹(きむらよしき)県知事が引責辞任し、宮崎県・福井県・名古屋市・奈
良市などでも続々とボロが出てきている。
 中でも奈良市では、テレビの前で公然と談合が行われていた。
「はよクジ作れや!」
 あろうことか、落札業者をクジで決めていたのである。
 本来クジとは、神の意をうかがうために用いられた神聖なものである。
 こういった悪いことに利用された神もいい迷惑であろう。

 ところが、日本の歴史を振り返ってみると、もっと信じられないことにク
ジが用いられたことがある。
「よし、次の将軍はクジで決めよう!」
 あろうことか、一国の宰相をクジで決めてしまった時代もあったのであ
る。
「そんなバカなー!」
 当然、反発する者も現れた。
 長年の鬱憤(うっぷん)を一気に爆発し、結局自滅してしまった哀れな武将
が鎌倉にいた。
 今回は最後の鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ)が起こした関東の大
乱「永享の乱(えいきょうのらん)」を御紹介したい。 


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   1.クジ将軍 ~ 足利義教登場
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 応永三十五年(1428)一月、大御所・足利義持(あしかがよしもち)は死の床
についた。足から黴菌(ばいきん)が入り、悪化して重態に陥ったという。
 時に将軍は空位であった。
 応永三十二年(1425)二月に五代将軍・足利義量(よしかず。義持の子)がわ
ずか十九歳でアル中で夭折(ようせつ)して以降、前将軍義持が事実上の将軍
として政務を執ってきたのである。

「余に跡継ぎはいない」
 義持にとって、義量が唯一の嗣子であった。
 弟はいた。
 父・三代将軍足利義満(よしみつ)が溺愛(でき)し、臣下初の即位を目指し
た「天皇崩れ」のお坊ちゃま・義嗣(よしつぐ)という弟がいたが、謀反に加
担して命を奪われていた。
 このほかにも何人かの弟がいたが、いずれも出家している。

「義嗣がいれば……」
 義持は後悔した。
「こんな世の中だ。一度や二度反抗したぐらいで殺していては、おぞましい
数の者どもを葬り去らなければならなくなる。義嗣も殺すべきではなかった
……」
 だからこそ義持は、反抗と謝罪を繰り返している鎌倉公方(かまくらくぼ
う。室町幕府関東支店長)・足利持氏(もちうじ)を応永三十二年(1425)に猶
子(ゆうし)、つまり事実上の後継者に指名したのである。

 が、管領(かんれい。今でいう副総理)・畠山満家(はたけやまみついえ)、
宿老・山名時煕(やまなときひろ)、黒衣の宰相・三宝院満済(さんぽういん
まんさい・まんぜい)ら幕閣はそれを許さなかった。
「もし、鎌倉公方が将軍になれば、管領には関東管領(関東支店長補佐)が就
くであろう」
「その他幕閣も鎌倉府(室町幕府関東支店)の者で固めるであろう」
「それでは我々の立場がない。商売上がったりよ」

 幕閣は持氏の存在を黙殺した。
 畠山満家はあえて持氏の名を出さず、虫の息の義持に迫った。
「将軍後継にふさわしい大御所様の弟様は四人。青蓮院(しょうれんいん。
京都市東山区)の義円(ぎえん)様、大覚寺(だいかくじ。京都市右京区)の義
昭(ぎしょう)様、相国寺(しょうこくじ。京都市上京区)の永隆(えいりゅう)
様、三千院(さんぜんいん。京都市左京区)の義承(ぎじょう)様。いずれも出
家済みですが、この中から選ぶのがスジというものでございます。さあ、ど
なたを後継者になさいますか?」
 満家は河内(かわち。大阪府東部)紀伊(きい。和歌山県)越中(えっちゅう
。富山県)大和宇智(奈良県宇智郡)守護を兼ねる、畠山氏屈指の権勢家であ
る。
 義持はうめいた。
「余がその名を口にしても、そなたらが入れなければ意味がない。言わぬ。
そなたたちに任せる」
「では、この中から我々が勝手に選出してもいいのですね?」
 義持は笑っちまった。
「フッ、四人の弟は仲が悪い。昔から常に張り合っていた。たとえ誰を将軍
に選んだとしても、ほかの三人が恨み言を言うだけだ。口ですめばいい。骨
肉相食む争乱になるやも知れぬ。弟たちの中から一人を選ぶということは、
そういうことなのだ。それともなんだ? 争いを起こさず、四人が四人とも
納得するような妙案があるというのか?」
「ございますとも」
 口を挟んだのは三宝院満済。
 三宝院門跡・醍醐寺(だいごじ。京都市伏見区)座主で、大僧正(仏教界首
領)・准后(じゅごう。准三宮。中宮に準じる者)を極め、四天王寺別当・東
寺長者等を歴任、政治・外交・宗教に精通する怪僧である。
 義持は驚いた。
「どんな方法があるというのだ?」
「クジでございます」
 但馬(たじま。兵庫県北部)備後(びんご。広島県東部)守護を兼ね、まもな
く安芸(あき。広島県西部)守護も兼ねる「ミスター守護請(しゅごうけ)」山
名時煕は吹き出した。
「ハハハッ! さすがは満済殿。それ以上に恨みっこなしの妙案はございま
せんな」
 満家は義持に迫った。
「大御所様。これなら文句はありませんな?」
「う、うーむ」

 一月十八日、大御所足利義持は逝った。享年四十三歳。
 これを受けて満済がクジを作り、時煕が閉封、満家が若宮八幡宮(わかみ
やはちまんぐう。現京都市東山区。六条左女牛八幡宮)にてクジを引いたの
である。
 クジ引き地は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう。京都府八幡市)とい
う説もあるが私は支持しない。保延六年(1140)石清水八幡宮炎上以降、その
神霊は若宮八幡宮に遷ったとされていたため、若宮八幡宮のことを石清水八
幡宮と記録したに違いないからである。

「将軍後継は青蓮院義円様!」
「え、拙僧が? ホントに拙僧でいいの? どうも~」
 翌十九日、義円は権中納言・裏松義資(うらまつよしすけ)邸に入居、三月
に還俗して「義宣(よしのぶ)」と改名、ついで永享元年(1429)三月に「義教
(よしのり)」と再改名し、参議・左近衛中将(さこのえちゅうじょう)・征夷
大将軍に就任した。
 そして、彼は豹変(ひょうへん)したのである。
「余はこの間までの拙僧ではない。天下の征夷大将軍じゃ! みなの者、一
人残らず余にひれ伏し、我が『正道』に屈せよ! そして、この京の都に栄
華の大輪を咲かせるのじゃー!」
「ははーあー」


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   2.京鎌冷戦 ~ 足利持氏憤々
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 足利義教室町幕府六代将軍就任の報は、ただちに鎌倉にもたらされた。
 足利持氏は怒り狂った。
「新将軍は青蓮院義円!? なぜだ! なぜ、余という猶子がいるのに、わざわ
ざボーズを還俗させて国政を担わせるのかっ!」
 関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が答えた。
「新将軍は三宝院満済の進言で、大御所の弟四人の中から、な、なっ、なん
とクジで選ばれたそうです」
 憲実は上野白井(こうづけしろい。群馬県渋川市)城主、上野・伊豆(いず。
静岡県伊豆半島)両守護で、下野足利(しもつけあしかが。栃木県足利市)に
足利学校を再興した才人である。
 持氏は納得いかなかった。
「クジィィ~! クソ満済っ! 天下の将軍をそんなバカげた方法で選びやが
って! しかも候補の中にどうして余の名前が入っていないのか! 憲実、抗
議の上洛だー!」
「なりませぬ! 幕府は後南朝(南朝の残党。小倉宮・北畠満雅ら)勢力も我
々がそそのかしていると勘違いしているのですぞ! ただでさえにらまれて
いる今、そんなことをすればますます疑われることでしょう。しかも新将軍
はことのほか短気と聞いております。一刻も早く新将軍就任のお祝いの使者
をお遣わしください」
「嫌なこった! 余は新将軍など認めぬし、こびもせぬ! 新参者の将軍のほ
うこそ、この鎌倉にあいさつに来やがれ!」

 正長二年(1429)九月、年号が「永享(えいきょう)」と改元されたが、
持氏はしばらくこれを用いなかった。
「室町が幕府の本家ならば、鎌倉は幕府の元祖である。しかも武勇も才能も
なく、運だけで将軍になった『還俗将軍』なんぞに鎌倉公方が服従する筋合
いがない。悔しければ攻めてきやがれってんだ、バーカ!」

 持氏の態度に義教は黙っていなかった。
 持氏も高飛車だが、義教はもっと高圧的であった。
「鎌倉の田舎公方が従わぬなら、遠慮なく討伐するまでじゃ」
「いけませぬ!」
 満済らが必死で止めた。
「鎌倉府は幕府の単なる一地方機関ではございませぬ! 鎌倉を敵に回すと
いうことは、東国すべてを敵に回すということです。しかも関東管領上杉憲
実は大傑物。これを敵に回してはなりませぬ!」
「ぬぬぬ……」
 義教は持氏討伐をあきらめた。
「富士遊覧」と称して駿河(するが。静岡県東部)まで赴き、牽制(けんせい)
しただけであった。
 義教も持氏も、側近たちの必死の制止によってかろうじて暴発を免れてい
たのである。

 ところが、年を経るにつれ義教を封印していたタガが外れてきた。
 永享五年(1433)に元管領(永享元年退任)畠山満家が六十二歳で、前管領
(永享四年退任)斯波義淳(しばよしあつ)が三十七歳で没したのである。
 さらに永享七年(1435)には、三宝院満済が五十八歳で、山名時煕も六十九
歳で死んでしまった。
 義教は伸びをした。
「これで余は自由じゃ。もはや余を止められる者は誰もおらぬ。これからの
余は、思うがままに『正道』を行うのじゃ! 余をアホ呼ばわりするヤツは
許さぬ。これからは容赦(ようしゃ)なく天誅(てんちゅう)を食らわす! 後
世の歴史家に聞いてみよ! 余は室町幕府中興の英主となっているであろ
う!」
 新管領(永享四年就任)細川持之(ほそかわもちゆき)は拒まなかった。
「御存分にどうぞ」
 反抗する者には、もれなく領地や生命の没収が待っているからであった。


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   3.関東分裂 ~ 上杉憲実退去
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 一方、足利持氏もあいかわらず高飛車であった。
 陸奥篠山(むつささやま。福島県郡山市。または稲村)御所・足利満貞(み
つさだ)・常陸(ひたち。茨城県)半国守護・山入与義(やまいりともよし)・
下野(しもつけ。栃木県)の豪族・那須氏資(なすうじすけ)ら、従わぬ者に片
っ端から軍勢を差し向けていた。
 上杉憲実はそのたびに反発した。
「おやめください! こんなことは鎌倉のためになりませぬ!」
 持氏はすでに憲実の言うことを聞かなくなっていた。
 駿河守護・今川家の家督相続(永享の内訌)に介入し、信濃(しなの。長野
県)の紛争にも出兵しようとしたのである。
 憲実は訴えた。
「信濃はいけません! 鎌倉府の領国は関東諸国と伊豆・甲斐(かい。山梨
県)・陸奥(むつ。福島・宮城・岩手・青森県)・出羽(でわ。秋田・山形県)
のみ。信濃守護と戦うことは、幕府に対して公然と歯向かうことになるので
すぞ!」
 当時、信濃では、信濃守護・小笠原政康(おがさわらまさやす)が同国豪族
・村上頼清(むらかみよりきよ)と争っていた。持氏は頼清に助勢するため、
配下の上杉憲直(のりなお)・一色直兼(いっしきなおかね)らを派兵しようと
したのである。
「信濃だけはいけません!」
 憲実のあまりの剣幕に、今度ばかりは持氏も折れた。
「分かった。信濃出兵は中止だ」

 が、信濃方面軍は解散しなかった。
 こんなうわさがまことしやかにささやかれ始めた。
「憲実様に仕事を奪われた上杉憲直・一色直兼両名が怒っているそうな」
「両名は関東管領の命をねらっているそうな」
「軍勢を解散しないのは、管領に戦を仕掛けるためだそうな」

 身の危険を感じた憲実は、相模藤沢(さがみふじさわ。神奈川県藤沢市)に
逃れた。
 驚いた持氏は憲実を追いかけて説得した。
「だから信濃出兵は中止だって言っているじゃないか~。逃げないでくれ
よ~」
「ではなぜ軍を解散しないのですか? 私を襲うためではないのですか?」
「そんなことするわけないじゃないか! 誰がそんなことを言ったのか?」
「そういううわさが飛び交っております」
「わかったわかった。憲直と直兼は処罰する。それならいいであろう」  
 こうして憲直と直兼は追放され、憲実は鎌倉に戻された。

 永享十年(1438)六月、持氏の長男・賢王丸(けんおうまる)が元服すること
になった。
 元服式を控え、憲実が提案した。
「京への使者はわが弟・憲方(のりかた)をお遣わしください」
 持氏は聞いた。
「なぜ京なんぞに使者を送るのか?」
「初代基氏(もとうじ)公以来、歴代の鎌倉公方は時の将軍の御名から一字ず
つ漢字をいただいております。今回もそれをいただくための使者をお遣わし
ください」
 そうであった。
 初代基氏の「氏」、二代氏満(うじみつ)・三代満兼(みつかね)の「満」、
四代持氏の「持」の字は、それぞれ初代将軍尊氏(たかうじ)・三代将軍義満
・四代将軍義持からいただいたものなのである。
 しかし持氏は言った。
「今回は名前をもらいに行く必要はない。賢王丸の元服名はすでに決めてあ
る。『義久(よしひさ)』だ」
「『義久』!」
 憲実は仰天した。
「義」の字は清和源氏の直系、将軍そのものが代々継承する漢字なのであ
る。
 憲実は叫んだ。
「おやめください! 鎌倉公方は将軍ではございませぬっ!」
「黙れ、憲実! 鎌倉公方は正真正銘源氏の直系だ! 西の将軍と双璧をなす
、清和源氏の直系の当主なのだ! 将軍が名乗ってよいものを鎌倉公方が名
乗って悪いことはない!」
「しかし……」
 持氏は憲実をさえぎって言い継いだ。
「もう一つ、そなたに伝えたいことがある」
「なんでしょうか?」
「たいしたことではない。めでたい席だ。両名の罪を許して元服式に出席さ
せることにした」
「両名とは……?」
 持氏は両名を呼んだ。
 両名はニタニタと出てきた。
 例の憲直と直兼であった。
 二人は憲実を見ると、皮肉たっぷりに言った。
「管領様、お久しぶりでございます~」
「あなた様のおかげさまでしばらくおヒマをいただいておりました~」
 二人の目は殺気立っていた。
(タダじゃすまないよ~)
(ぶっ殺してやるからね~)
 明らかにそう訴えかけていた。
 憲実は恐怖した。退席しながら言った。
「ごっ、御勝手になされよっ」

 足利義久元服の日、憲実は出席しなかった。
 持氏は不思議がった。
「どうして憲実は来ないのか?」
 憲直と直兼はかわるがわる言った。
「謀反でも考えているのでは?」
「早急に討伐なさるべきかと」
「フッ、バカな」
 持氏は本気にしなかったが、その欠席は責めた。
「とにかく、主君の嫡子の元服式に出席しないとは何事だっ」

 また、うわさが飛び交った。
「鎌倉殿はお怒りだそうな」
「放生会(八月十六日)の翌日に管領退治の兵を挙げるそうな」
「憲直と直兼がヨダレを垂らしながら喜んで攻めて来るそうな」

 憲実は困った。思い悩んだ。
「ああ! 拙者はどうすればいいのじゃ! 持氏公は少々短気だが、悪い方で
はない。しかし取り巻きが悪すぎる。このままでは拙者も禅秀(ぜんしゅう)
の二の舞かも知れぬ」
 応永二十三年(1416)、時の前関東管領・上杉禅秀(氏憲)は持氏に反旗、鎌
倉を占拠したが、幕府の援軍もあり、結局その翌年に巻き返されて討ち取ら
れていた(上杉禅秀の乱)。
 
 重臣・長尾忠政(ながおただまさ)が勧めた。
「殿、ここにいては危険です。こうなったらもう幕府につくしかありませ
ん」
「主君を裏切れと申すのか! 君臣の道にそむけと申すのか!」
「いいえ、裏切るのではありません。幕府の力を借り、持氏公に真の忠臣は
誰なのか知らしめるだけです。幕府は殿の離反を待っています。殿さえ離反
すれば、いつでも鎌倉を攻撃できる態勢は整っているのです。さあ、殿、御
決断を! 奸臣(かんしん)を討ち、持氏公を目覚めさせる方法はこのほかに
ありません!」
「分かった。君の過ちを正すことも臣の務めであったな」
「その通りです」
 八月十四日、憲実は鎌倉を脱出した。
 上野へ帰り、居城白井城(しろい・しらいじょう。群馬県渋川市)に引きこ
もったのである(同県藤岡市の平井城にこもったともいう)。


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   4.両軍激突 ~ 永享の乱決着
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「関東管領上杉憲実殿離反! 上野白井城へ退去しました!」
 一報は京へ飛んだ。
 足利義教は踊り上がって喜んだ。
「持氏はアホじゃ! 余は勝った! 憲実のいない鎌倉府など、赤子の手をひ
ねるようなものじゃ!」
 義教は時の帝・後花園天皇(ごはなぞのてんのう)に綸旨(りんじ。天皇の
命令)を出させると、足利持氏追討軍派兵を決定、先発隊として上杉持房
(もちふさ。禅秀の子)、美濃(みの。岐阜県南部)守護・土岐持益(ときもち
ます)、斯波(しば)氏重臣・朝倉教景(あさくらのりかげ)ら美濃・越前(え
ちぜん。福井県東部)の兵二万五千騎を東下させた。
 細川持之が聞いた。
「御大将は誰になさいますか?」
「余じゃ。余自ら太刀(たち)を振るって成敗してくれるわ!」
「なんとぉ!」
 持之は仰天した。
 さすがにこればかりは侍所所司(さむらいどころしょし。頭人)・赤松満祐
(あかまつみつすけ)、但馬(たじま。兵庫県北部)等守護・山名持豊(もちと
よ。時煕の子。後の宗全)らとともに必死になって制止した。
「いけません! 将軍に万が一のことがあっては、天下が混乱いたします
る!」
「どうか、出馬ばかりは御勘弁を~」
 義教はやむなく出馬を取りやめた。

 また、駿河守護・今川範忠(いまがわのりただ)、甲斐守護・武田信重(た
けだのぶしげ)、信濃守護・小笠原政康らや、京都御扶持衆(きょうとおんふ
ちしゅう。鎌倉府領国内にいる幕府方武将)の足利満貞や山入与義らに憲実
救援令を発し、持氏を完全包囲したのである。

 一方、持氏は八月十六日に鎌倉の留守を相模(さがみ。ほぼ神奈川県)守護
・三浦時高(みうらときたか)に任せると、憲実を討つため武蔵府中(むさし
ふちゅう。東京都府中市)高安寺(こうあんじ)に出陣した。
「幕府軍およそ二万五千! 箱根(はこね。神奈川県箱根町)を目指して東下
中!」
「なあに。箱根は破れぬ」
「幕府軍、箱根と足柄(あしがら。神奈川県南足柄市)、二手に分かれまし
たー」
「なんと! 憲直、すぐに足柄へ向かえ!」
「了解」

 九月に入り、幕府軍と鎌倉軍は箱根と足柄で激突した。
 案の定、箱根は破られなかったが、憲直の守る足柄のほうが突破された。
「頼りにならないヤツめ!」
 持氏は府中から相模海老名(さがみえびな。神奈川県海老名市)へ進んだ。

 ここでおかしなことが起こった。
 鎌倉の留守を任せていた時高が本拠の相模三浦(みうら。神奈川県三浦市)
に帰ってしまったのである。
「えへへ、ちよっと武器を調達してきますんで」
 でも、時高はなかなか鎌倉に帰らなかった。
 持氏はいぶかしがった。
「早く留守番に戻ってくれよ」
 使者を送ってせかすと、時高はついに本性をむき出した。
「うるせー! ホントはおれは負けるほうにつきたくねーんだよ!」
 時高は裏切った。
 十月、突如として鎌倉を攻撃したのである。

「三浦時高、裏切って鎌倉を攻撃ー!」
「上杉憲実、武蔵分倍河原(ぶばいがわら。東京都府中市)へ布陣ー!」
「幕府軍、箱根を突破! 大将軍・上杉持房、高麗寺(こまでら。光来神社。
大磯町)に着陣ー!」
 持氏はジタバタした。
「いつの間にやら周囲は敵ばかりになっているではないか! これでは動き
ようがない!」
 上総(かずさ。千葉県中部)下総(しもうさ。千葉県北部)守護・千葉胤直
(ちばたねなお)が進言した。
「この状況を打開するには、管領憲実殿との和平しかございませぬ。他の武
将たちはともかく、管領殿は本心からの離反ではございませぬ。なにとぞ、
若君(義久)を管領殿にお遣わしくだされ! 関東が一つになれば、幕府も手
は出せませぬ!」
 が、持氏の側近・簗田満助(やなだみつすけ)が反発した。
「敵に人質をやるようなものではないか!」
「管領殿は敵ではございませぬ!」
「現に戦っているではないか!」
 持氏はなだめた。
「憲実は敵ではない。憲実は幕府ではなく、関東の武将なのだ。何よりも君
臣の道を重視する忠臣中の忠臣、武士の鑑なのだ。いざとなれば、必ずや助
けてくれるであろう。余は憲実を信じている」
「では、若君をお遣わしに?」
「いや、その前に鎌倉を死守することだ」

 持氏らは鎌倉救援に向かった。
 進言を退けられた胤直はついてこなかった。
「どうせ拙者どもに用はないんでしょ~」
 で、本拠下総に帰ってしまったのである。
 
 十一月、三浦時高は鎌倉府の本拠・大倉御所を焼き討ちにした。
 足利義久・足利満直(持氏の叔父。稲村御所)らはバタついた。
「ひえー! なにすんのー!」
「君たち、味方じゃなかったのー!」
「早く! 御所様や若君はお逃げくだされー!」
 簗田満助らは戦死し、義久・満直は報恩寺へ逃亡、足利安王丸(やすおうま
る。持氏の次男)・春王丸(はるおうまる・しゅんおうまる。持氏の三男)は下
野へ、永寿王丸(えいじゅおうまる。持氏の四男。後の古河公方・足利成氏)
は信濃へ逃れた。

 一方、持氏は鎌倉へ向かう途中の相模藤沢(神奈川県藤沢市)で軍勢に取り
囲まれた。
「誰だ? 敵か? 味方か?」
「上杉憲実配下の長尾忠政です」
 軍勢の正体を知った持氏は少し安心して苦笑した。
「そうか。どっちかといえば味方だな」
 忠政は勧めた。
「鎌倉勢は四面楚歌(しめんそか)、もはや勝ち目はありませぬ。なにとぞ御
投降を」
「投降したところで許してもらえるであろうか?」
「関東管領は上杉憲直・一色直兼両名の処罰を望んでいるだけです。それ以
上のことは望んでおりません。公方様は一刻も早く出家して恭順の意を示さ
れることです」
「それがいいであろうな」
 持氏はおとなしく忠政に従った。
 で、十一月五日に武蔵の称名寺(しょうみょうじ。横浜市金沢区)で出家し
たのである。

 十一月七日、忠政が数千騎を引き連れて称名寺にやって来た。
「公方様を鎌倉の永安寺へお移しします」
「そうか」
 持氏は従った。
「それにしても護送にしてはなんだこの大軍は」
「ハハッ! 大げさだな」
 当然のように持氏に付き従おうとした憲直と直兼に、忠政らが取り巻いて
刃物を突きつけた。
「残念ですが、あなた方奸臣はここで死んでもらいます」
「なんで? おれたち何か悪いことした?」
「えーい、こうなったら反抗だぁー! 食らえー!」
 チャリーン!
 チャリーン!
 ばっさ!
 ぶっさ!
「やられたー!」
「すげぇいてぇ!」

 こうして憲直と直兼は殺された。
 ついでに二人の子たちもぶっ殺された。
 持氏は泣きながら永安寺へ向かった。
「許せ。おぬしらが死ぬことによって、余は助かるのだ」


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   5.鎌倉無情 ~ 鎌倉公方最期
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 上杉憲実は足利持氏の助命と足利義久の鎌倉公方就任を申し出た。
 何度も何度も自ら上洛したり、使者を送ったりして懇願した。
 が、足利義教の答えはいつも同じであった。
「反逆者を生かしておくわけにはいかぬ」

 永享十一年(1439)、義教は憲実に厳命した。
「持氏を殺(や)れ。一家眷属(けんぞく)も皆殺しにせよ。後世に憂いを残し
てはならぬ。これが正道というものじゃ」
 憲実は拒否した。
「できませぬ! 拙者は鎌倉殿の家臣でございまする! 臣が主を討つことは
君臣の道にそむきまする! 鎌倉殿は今後一切政治に関与いたしませぬ! 義
久公の公方就任も望みませぬ! ただただ、お命だけはお助けください! 代
わりに私の命を差し上げまする! 喜んで切腹して果てまする! どうか主君
一族の命だけはお助けくださいっ!」
 義教は一喝した。
「だまれ! お前が持氏の代わりに切腹したところで、そんなものは忠義で
もなんでもない! お前が持氏一族の助命を願ったところで、そんなものは
君臣の道でもなんでもない! お前は鎌倉を見限り、幕府についたのじゃ!
持氏を見限り、この義教の臣下になったのじゃ! お前の今の主君はこの義
教ぞっ! お前は主君の命令が聞けぬというかっ! 主君の敵に情けをかける
は君臣の道にあらず! 主君の正道を助けてこそ、この上なき忠義なり!」
 憲実は観念した。
 涙をのんで歯を食いしばって決断した。
「承知いたしました。かくなる上は、拙者自ら鎌倉殿を成敗いたしまする」
「それが前主君に対する最期の忠義だと思え」
「ははあー」

 二月十日、憲実は上杉持朝(もちとも)・千葉胤直らとともに軍勢を率いて
永安寺を攻め囲んだ。
「将軍の御命令である! 鎌倉殿を討ち取れぇー!」
 境内に稲わらがばらまかれ、次々と火矢が放たれた。
「公方様ー! 関東管領の軍勢が押し寄せてまいりましたー!」
「何だと!」
「うげ!」
 伝えた木戸伊豆守(きどいずのかみ)は矢に当たって死んだ。
 持氏は絶叫した。
「憲実めー! これが君臣の道かぁー!」

 持氏は自害した。享年四十二。
 また、行動をともにしていた足利満直も自害した。享年不明。
 持氏の夫人ほか数十人の女房たちは三重塔に隠れたが、ことごとく焼き殺
された。
 二十八日には報国寺にいた義久も自殺した。享年十歳。
 ここに四代約百年続いた鎌倉府は、事実上滅亡したのである。


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