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2012-02-20 07:52:45

大神山神社の秘伝【7】

テーマ:大神山神社の秘伝

この動きに、相見家は肝を冷やしたはずです。


ところが恐らくこの頃、出雲大社の御祭神がスサノヲ命から大国主命に代わっているのです。


またスサノヲ命降臨地の名称が、鳥上の峰から船通山に代わったのも同時期のようです。


つまり、天皇一族による大国主命に対する扱いに、変化が生じているのです。


相見家が、この変化を察知していたかどうかは分かりません。


たとえ察知していても、生半可なことで警戒を緩めることはなかったと考えられます。


明治・大正・戦前と、天皇は「神」であり、「神国日本」の民はその臣であるとの教育がなされてきました。


その教育の中で、大国主命は天皇家の祖たる高天原一族の忠実な臣であり、排除される存在などではありません。


戦後、天皇は人間宣言をし、「神」ではなくなりました。


もはや血脈狩りなど考えられません。


それでもなお、相見家は警戒を解かず、現宮司まで一子相伝の秘密を維持していたのです。


しかし、従来の古事記解釈とは全く異なった発想による私の「古事記外伝―イズモ・クロニクル―」出版を見て、2000年に及ぶ警戒を解いたのです。


現在の我々から見れば「何でそんなに警戒するの?」といった類のことですが、当事者にとっては生死を賭けた一大事だったのです。


恐らく、祖に近い子孫は、「全ての男子が見付け出されては殺される現場」を見ているのだと思います。


では、なぜそのようなことが行われたのか?


これは私の推測ですが、「国譲り」は、古事記に記されているような「話し合い」と「代表者の戦い」程度で実現したのではなかったのでしょう。


見せしめの虐殺・出雲部族内の裏切り・あちこちでの戦闘・反対勢力の徹底抹殺などがあったと考えられます。


最も恐れたのが出雲再興でしょう。


ですからその中心となる家系は、抹消しなければならなかったのでしょう。





古事記おじさんのブログ-神話の国出雲

2012-02-09 10:43:45

大神山神社の秘伝【6】

テーマ:大神山神社の秘伝

三代将軍家光の時代には、徳川家の覇権は盤石となり、家康は日光東照宮に「神」として鎮座します。


とは言っても、将軍職の任命権者である天皇が最高権威者で、これまた「神」の子孫ということになっています。


徳川幕府は、京都にある天皇家を権威の象徴として遇してはいましたが、政治権力の中心は関東に移っており、天皇家の扱いは形骸化していきます。


京都の権威集団は怒り心頭に達していたと思われますが、為す術はありませんでした。


家康を「神」とする徳川権力は、「神」の子孫であることを権威の拠り所とする天皇家を「如何ほどの者か」と考えていたのではないでしょうか。


ですから天皇一族による抹消の対象であったアジスキタカヒコネの血統=相見家を厚遇したのではないでしょうか。


ところが、1700年代後半、京都に医学を学びに行った本居宣長が古事記を入手し、35年をかけて古事記伝を著します。


そして1800年代初めに、平田篤胤が宣長に触発されて、当時の神仏習合神道への批判を展開します。(彼の考え方は尊皇論へ引き継がれ、明治維新の思想的背景となり、神仏分離や廃仏毀釈へとつながっていきました。)


更に1837年、大阪で幕府高級官僚の大塩平八郎が武力蜂起します。いわゆる大塩平八郎の乱です。


徳川幕藩体制の制度疲労が具体化し始めたのです。


宣長から大塩平八郎の乱に至る過程に、京都の朝廷が関わっていることを示すものは全くありません。


しかし私は、古事記伝も平田篤胤出現も更には大塩の乱も、偶然ではないと考えています。


権威をないがしろにされ続けた京都勢力が、200年に及ぶ忍従の時を経て動き出していたのではないでしょうか。



…つづく



古事記おじさんのブログ-神話の国出雲

2012-01-31 08:45:20

大神山神社の秘伝【5】

テーマ:大神山神社の秘伝
それから七百年ばかりの間、相見家は、岡山県と鳥取県の県境地帯、つまり中国山地の分水嶺から北の地域で、目立たず滅びずの生き方をしたようです。

江戸時代初期、徳川直系である池田家に重用されたことは既に述べました。

過去に、権力にすり寄ることの危険を経験している「血」は、極めて臆病だったであろうと想像できます。

現在、大国主命は「国譲り」の最大貢献者として処遇されているように見えます。

大和朝廷成立時にもそのように遇されていたのであれば、大国主の息子であるアジスキタカヒコネの血筋は、その家系を隠す必要はなかったはずです。

しかし現実には、血筋抹消を恐れて隠し続けてきたのです。

それに、結果を知る我々だから言えることなのかも知れませんが、相見家は平家・後醍醐天皇といった当時の新勢力に与しています。

これは、出雲を乗っ取って成立した権力に対する怨念と恐怖が、そうさせたのではないでしょうか。

しかし二度の失敗に懲りて、最終勝者の分からない戦国の世では、家系存続に徹したと思われます。

信長・秀吉が倒れ、家康が台頭したことにより覇権争いに終止符が打たれました。

備前岡山の最高権力家は、宇喜多→小早川→池田と変遷し、明治に至ります。

つまり池田家が確立した段階になると、徳川の一時天下ではないとの確信が得られたのでしょう。

相見家は池田家の信任を背景として、鳥取県西部の経営に参画しています。

それでも尚、その血統を隠し続けたのです。


…つづく



古事記おじさんのブログ-神話の国出雲



2012-01-21 08:28:03

大神山神社の秘伝【4】

テーマ:大神山神社の秘伝
現在、鳥取県米子市の南に「南部町」という町があります。

これは近年、西伯町と会見(あいみ)町が合併してできた町ですが、会見町の前身は会見郡で、今の境港市も米子市もその一部でした。

つまり鳥取県西部の25%程度が会見郡だったのですが、その名のゆかりは「相見家」が統率する地域であったことによるようです。

では池田家に重用される前の相見家はどうだったのか?

中央から官吏として派遣されてきたのですが、トップとしてではありません。

歴代当主は、アジスキタカヒコネの血筋であることを秘匿しているのですから、血筋調べが行われるような役職に就くことは避けたはずです。

目立たないように職務を果たしながら、ひたすら家系存続に努めたようです。

家系抹消とは、嫡男家だけではなく血筋の全てを消し去るということですから、全ての男は殺されるのだそうです。

時には名前を変え、住む場所も変えて血筋を維持してきたそうです。

ですから系図に空白部分があるのだそうですが、それには相応の理由がありました。

血筋を隠蔽しながら生きてきた相見家ですが、何故か源平時代には、平氏に属しているのだそうです。

一時は良かったのでしょうが、壇ノ浦での敗戦後、追われる身となり、名を変えて山陰の山奥に隠れ棲んでいたようです。

ところがそれから約百数十年後、今度は後醍醐天皇派に属します。

これにより再度追われることになり、身を隠したようです。

その場所が現在の鳥取県西部の山間地、つまり日野郡・西伯郡の山奥だったと考えられます。



…つづく



古事記おじさんのブログ-神話の国出雲


2012-01-11 21:14:20

大神山神社の秘伝【3】

テーマ:大神山神社の秘伝
相見宮司によりますと、アジスキタカヒコネの血を引く相見家の始祖は、奈良から当地へ官吏として赴任したようです。

伯耆の国府は倉吉にあったのですが、彼は西部地区の責任者のような立場だったようで、今で言う西伯郡地区の管理者だったと考えられます。

現在でも、鳥取県西部には相見姓が点在していますが、2代前の日南町長が相見姓に興味を持ち、家系を辿ったそうです。

その時、日南町にある相見家の全てが「分家」であって、「本家」は「米子の方に出た」と聞かされたのだそうです。

そこで米子地区にある相見姓を辿った所、大神山宮司家に行き着いたのだそうです。

しかしその時は、岡山の池田家に重用された家筋レベルの話で、古代にまでは話が及ばなかったそうです。

当時の相見宮司は、一子相伝の秘話を語る心境ではありませんでしたから、戦国時代の話でお茶を濁したようです。

池田家が相見家を重用した理由は分からないのですが、宮司は「池田家は、相見家の家系を薄々知っていたのではないか」と仰っていました。

単に武力の脅威で地域をまとめるのは簡単ですが、それは表面上です。

ましてや下剋上直後の世ですから、地域に割拠する集団の意思統一を図るには、地域が認める「調停役」が必要です。

落語で、長屋のまとめ役として「近所のご隠居」が出てきますが、誰もが「あの人が言うのなら」と納得する存在です。

血気盛んな戦国の世に、この「ご隠居」役をこなせる家系は多くはなかったはずです。

相見家は、この希少な家系であったのではないでしょうか。




古事記おじさんのブログ-神話の国出雲


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