2007年08月19日

残像 その7

テーマ:小説 残像

「だって若かったし、相手だって学生だったし……将来のことを考えたのよ…
それのどこが悪いの?もちろん良いことだなんて思ってやしない。ずっと罪悪感を抱えていたわ。……水子供養だってあなたには黙っていたけど毎年行っているわ。申し訳なかったって思っているわ……
そんなこといちいちあなたに話さなきゃいけなかった?あなただってそれを聴いたら嫌な気持ちになったでしょう。
だから……言えなかった、あなたのこと……好きだったから、余計に言えなかった…」


 すすり泣きながら言い訳をする彼女の言い分はもっともなのかも知れない。しかし自分の胸に吹き上げてくるこの感情をいったいどうすればいいのだろう。言葉にならないほどの怒り。屈辱。
 気が付くと自分の唇が震えていた。手はこぶしを握り異様に力が入っている。
「悪いけどとても酷いことを言ってしまいそうだ。ちょっと出て来る。先に休んでて」


 上着を引っつかんで僕は外に出た。ドアが閉まった瞬間、妙子のわぁっという泣き声が聞こえてきた。
 それを聞いても僕は何も感じなかった。むしろ彼女には当然の罰のように思える。冷たい風が僕の背中を通り越してゆく。いつもの街並みなのに、何かが違っている。違うように見えるのはなぜなのだろう。


 足は勝手に速い歩調を取り駅前に向かう。踏切を渡り、立ち並ぶ飲み屋の看板を見やりながら大量に酒を呷ったら忘れられるものなのかどうか考えた。
今は何も考えたくない。考えたくない。そう思っても裏切られたという思いが、憎しみに似た強い感情が体中から噴出して未だに固く握り締めた手に込められていた。


 あてもなく商店街を突っ切り、再び住宅街に入ったことに気が付いて、くるりとまた戻る。いくつもの明るい店、看板の光が僕に突き刺さってくるようだ。
 貸しビデオ屋、すし屋、ファーストフードの店、中古書店。僕の居場所は無かった。それでも足は勝手に動いていく。ふと漫画喫茶があったことに気が付いて次の角を曲がり店への階段を上った。
「いらっしゃいませ、当店のシステムは御存知でしょうか」
頷いた。
「ナイトパックで」
家に帰りたくなかった。妻の顔を見るのも嫌だ。リクライニングシートを選び、昔読んだサッカー漫画を5,6冊書棚から取り出してテーブルの上に置いて読み始めた。
どうしても漫画に気が行かない。目は確かにコマを追って台詞を読んでいる。それなのに頭の中では妙子を罵っていた。
なんて女だ。
水子供養なんかで許されると思い込んでいる。
俺は許せない、許せない、許さない…

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2005年12月26日

残像その6

テーマ:小説 残像

 聞いた瞬間、僕は彼女がほかの男に抱かれている様子を想像してしまった。なぜかその想像の中で彼女は僕に対してよりも淫らに振舞っているように思えた。嬌声までが聞こえてくるようだった。あらぬ想像と分かっていても僕の頭の中を埋め尽くして僕は彼女に対して怒っていた。いや怒りに似た強い感情、むき出しになった赤黒い嫉妬そのものだった。僕の子供は孕まないのにほかの男の子供は簡単に孕むのか。相手の男に対しても腹が立っていた。僕の妻が誰だか分からない男に汚されたようなそんな気持ちになった。得体の知れないどこかのだらしのない男に、そいつはろくに避妊もしないで彼女の心と身体を傷つけ、今こうして僕のことまで傷つけている。


 僕は彼女が伏せた目を開くときの柔らかな感じが好きだ。一輪挿しに挿す花の向きをあれこれ確認しているときの神経質な手つきが好きだ。僕が寝ているときに頭の上にふと置かれるやさしい手の重みが好きだ。ちょっと気が強くて僕が何か言うとむきになって言い返してくる、そのときの唇の尖り方が可愛いと思う。
 それはほぼ日常の中に埋もれてしまっているけれど、そういう瞬間僕は彼女と一緒になってよかったなと思うのだ。
 もちろん彼女の人間性を僕は信じていた。子供を堕ろすことと、殺人とどう違うのか僕はあまり考えたことがなかった。


 僕の教えている子供たちは肢体不自由の子供たちだ。さまざまな原因で障害を負っている。面談で介助に疲れきり、将来の不安を訴える親が、ときに投げやりになってふと「生まれてこなければ良かった」と呟く時がある。そんな時僕は言葉を無くす。僕は教師に過ぎず、彼らは僕の上を通り過ぎていくだけだからだ。彼らの将来や、人生を負っているわけではない。

 けれど子供たちが日々がんばっている様子を見ると僕は励まされるし、親たちも嬉しそうにしている。何度も何度も同じことを繰り返し、挑戦して出来たときの喜び。その嬉しさを顔中、体中を使って表現してくる。そんな時僕は子供たちの笑顔ひとつひとつが人間の存在の重さを表していると感じている。命は可能性そのものなのだと十年以上教師を続けてそう思った。だからどんな理由であれ、それを絶つというのは僕にとっては信じられない行為だ。

 胎児が人間なのかそうでないのか法的なことは良く分からない。けれど命はひとつの可能性であって、誰かがどうにかしていいものではないと思っている。結婚前まだ付き合っているときにそんな話を妙子にしたことがあった。あの時に
「そうね、私もそう思うわ」と優しげなまなざしで頷いてくれた。その妙子がそんなことをしていたなんて騙しもいいところ、偽善も甚だしいではないか。
 僕の抱いていた妻に対する気持ちがぐしゃぐしゃになって破壊されていく。いったいこの女はどういう女なのだろう。どういう神経をしているのだろう。僕の妻はこんな女だったのか。


気が付くとソファに座っている僕の足元に身を投げ出すようにして彼女は泣いていた。

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2005年11月30日

残像 その5

テーマ:小説 残像

普段どおりなんともなく家に帰ると妙子はぼくの顔を見るなり
「どうだった?」と聞いてきた。
僕はなんと返事をすべきか良くわからなかったので
「別に…」
とだけ答えた。ケーキの包みを見て確かに笑ってくれたけれど、心なしか目が笑っていないような気がする。彼女は何か問いたげで、その疑問符のついた目から顔を逸らして僕はソファに座り買ってきた雑誌を読んでいる振りをした。夕食の後ケーキも食べたけれど、雰囲気はいつもとは少し違った。それは今日に限ったことではなくて、先週の僕への申し渡し以来だ。


 どうして彼女の検査の前に僕に一言もなかったのか、それだけがぼくの中でブランコのように行きつ戻りつしている。検査の屈辱感もあったけれど、なんだか妻の考えていることがわからない。今まで彼女のことを分かっていると思っていたのは僕の思い込みだったのだろうか。それなのに、どうして僕はちゃんと聞けないのだろう。夕食の洗い物をしている彼女のうしろ姿がなんだか遠く思えた。それがなんだか寂しくなってつい呼びかけてしまった。


「なぁ、妙子」
「うん?」
「どうして、検査の前に一言相談してくれなかったの」
妙子はしばらく黙って食器を洗い続けていた。
「ねぇ」
彼女は相変わらず黙っていた。
「お袋になんか言われたの?」
「別に…」
何か隠し事でもあるのだろうか。やっぱりいつもの彼女と違う。
「二人のことなんだから…さ…」
沈黙が重かった。かちゃかちゃと食器の触れ合う音と、水音だけがその場を支配していた。やがて、タンと蛇口を止める音がして妙子がようやく口を開いた。
「黙っていたことがあるの」


彼女は食器棚から乱暴に布巾を取り出して今度は皿を拭き始めた。
「学生の頃、子供を堕したことがあるの。だから…」
僕はなんだか頭を殴られたような気がした。ショックだった。
「堕したって…」
「だからそのせいで子供が出来ないのかと思って…」


妻は次々と皿を拭いていく。彼女の声がどんどん細く小さくなっていく。
「わざわざ言うようなことじゃないし、だから…、だけど…隠すつもりも無かったんだけど…だけど…」
僕はただただ呆然としていた。
確かに、社会人になって知り合って付き合い始めて、前の男のことなんか聞いても仕方が無いし、僕も過去のことを言うつもりも無かった。お互いがはじめて付き合う異性じゃないのだし、そんなことがあったとしても、ちっとも不思議じゃないだろう。


けれどそのことと、自分の妻が以前にほかの男の子供を堕したことがあるということはまったく別の問題だった。

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2005年11月16日

残像 その4

テーマ:小説 残像

 そろそろ夕方だった。僕は行き場をなくして大きな公園のベンチに座っていた。この間まで汗をかいていたのにもう秋とは早いものだ。まだ少し紅葉には早いものの、よく見ると落ち葉も少し散っている。なんとなく家族連れが目に入ってくるのはやっぱり子供が欲しいのだろうか。そんなことを改めて考えたことなどなかった。
 小さな子供を連れた若い夫婦が目の前を歩いていく。自分達と同じぐらいの年恰好に見えた。歩くたびにピョコピョコと動く小さな赤い髪留めをしているから女の子なのだろう。よちよち歩きの小さな手を父親が握っている。おぼつかない足元と、それでも歩きたいという小さな意思を父親が支えていた。よく見ると隣を歩いている母親はそれほど目立たないけれど妊娠しているようだった。スニーカーを履いている。
かつさん  なんでもなくそこに子供がいる。僕だってずっとそう思っていた。なんとなくいつかそんな日が来ような気がしていた。妙子も僕も健康だった。夫婦仲だって決して悪いほうではないと思う。それなのになぜ彼女は僕に黙って検査を受けに行ったのだろう。一言ぐらい何かあっても良かった。そうしたらこんな気持ちにはならなかったのに。いつから一人で悩んでいたのだろう。今年のお盆に帰省したときに母が何か言ったのだろうか、僕の居ないときに。なんて言ったんだろう。
 もし僕に何か問題があったとしたら妙子はどうするのだろう。検査の結果だってまだ出ていないのに悪いほうばかり考えてしまう。離婚すると言い始めるのだろうか。不妊治療をするのだろうか。それとも案外なんでもなく子供が出来てあの夫婦のように幸せに暮らしていけるのかもしれない。
 幸せ?
 さっき見た彼らは幸せなのだろうか。もしかしたらそうじゃないかもしれない。でも僕には僕よりは幸せそうに見える。あんな風に娘と手をつないでいたら幸せに決まっている。僕だって先々週までは自分は幸せだと思っていた。
 
久しぶりにやったパチンコ台がふとまぶたの裏に蘇って来た。天釘までは一直線にはじかれ、その先で微妙にズレ始める。さっきは自分の精子のようだと思ったけれど、今では自分の人生のように思える。
パチンコ玉の一つ一つが大学の同級生の顔に重なる。就職という天釘に当たり、思い思いの方向に弾かれていった。僕は恵まれたほうだったけれど、そうじゃないやつもたくさんいる。いまだに結婚していないやつだっているし、せっかく入った会社を辞めてフリーターもどきのやつもいる。いろんな人生がある。僕というパチンコ玉はどこへ転がっていくのだろう。
 教師という職業を選んだから、特別金持ちになろうとか、野心などは初めから持っていなかった。僕みたいにおっとりした人間はそのほうが合っているように思えた。毎年毎年同じことの繰り返しだったが、僕は教えることが好きだし、生徒達の個性はさまざまで、それなりに充実している。あのパチンコ台でいえば大当たりまでは行かなくても、へそのチェッカーに入るくらいの人生を送ってきたつもりだった。そこまで考えると少し自信が持ててきた。帰りに妙子の好きなモンブランでも買って帰って二人で一緒に食べることにしよう。彼女の笑顔が見られるかもしれない。


Photo by paradogs-katsu

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2005年11月14日

残像 その3

テーマ:小説 残像
病院

 妙子の言うことを聞くと、なるほど理屈にかなっていた。僕はそのうち自然に子供は出来るだろうと思っていたけれど、33になる妙子があせるのも理解できる。結局彼女の言いなりに来週の予約をとってもらうことにしたが、どこか釈然としない。彼女はいつ頃からそんなことで悩んでいたのだろう。どうして僕に話してくれなかったのだろう。
 新婚の頃、男の子がいいか、女の子がいいか二人で想像して笑いあった。僕たちは2,3人子供のいるごく普通の家庭を想像していた。結局そうなるかどうかもわからないのに男の子と女の子と言うことにして、おかしな名前をあれこれ考えたものだ。僕も彼女も、それきり子供の話をしたことがなかったように思う。それなのにいきなり精液検査なんて。ちょっと待ってくれよ、俺にも心の準備をさせて欲しいというのが正直なところだ。納得のいかないまま土曜日を迎えた。

 大学病院の看護婦にトイレの中で射精するように言い渡され、ビーカーを持って個室に入る。半ば呆然としてしまった。こんなところでいったい何をどうすれば良いのだろう。尿検査とは違うのだ。屈辱以外の何ものでもないではないか。10分ほどそのまま個室にいたが馬鹿馬鹿しくなってトイレを出た。ドアが壁に当たってバタンと大きな音を立てた。先ほどの看護婦を見つけて
「あのぅ、ちょっとその気になれないんですけど」
と言うと、年配の看護婦は申し訳なさそうに笑った。
「それはわかるんですけど、でもそれでは検査が出来ませんので」
事務的な口調だ。
「……」
「初めて検査される方は、皆さんそうおっしゃいますけど…時間がかかってもかまわないのでお願いします」
「そういう問題じゃ…」
「……」
 看護婦は気の毒そうな顔をして下を向いてしまった。
 仕方なく僕はもう一度トイレに戻った。
 再び10分ほど何度もため息をついた挙句、覚悟を決めて何も考えずに機械的に作業を始める。そう、作業と言う言葉がぴったりと来る。小さなビーカーの中に放出された精液が跳ね返って僕を汚した。暗澹たる気持ちでトイレットペーパーを丸めてそれを拭いながら僕は妙子に対して怒っていた。
 惨めだった。今までした中で一番惨めな自慰行為だった。いったいなんだって真昼間から僕がこんなことをしなくちゃならないんだろう。こんな思いをしなければならないんだったら子供なんて要らない。もう、二度とごめんだ。
 看護婦は「初めて検査される方は、皆さんそうおっしゃいますけど…」と言っていた。もし結果が悪かったりしたら何回もあれをやらされるのだろうか。みんなあんなことが我慢できるのだろうか。

 保険は利かないと言われていたのに、会計で請求された金額はたいしたことなかった。どうしても真っ直ぐ帰る気にならず、新宿でつまらない映画を見た後、パチンコ屋に寄る。普段はパチンコなどすることもないがどうしても家に帰る気がしない。妙子の顔など見たくない。


 何年かぶりに入るパチンコ屋は、タバコの煙で燻っていた。適当な台に座って打ち始める。初めのうちは次々に流れていく玉をただ無心に見つめていた。天釘のほぼ同じところに当たるのにその後の玉の行方はバラバラだった。玉が釘が当たるときの振動や、微妙な角度、風車の勢いや、タイミングで変わってくる。ひたすらへそを狙っているはずなのになかなか入らないのはなぜだろう。それでも何回かドラムが回転して台が点滅した。大当たりは出ない。自分のやっている行為の空しさを知りながらほかに行き場がないのが辛かった。夜だったら飲み屋に行くことも出来たのに。
 2枚目のカードがなくなるころ、なぜかパチンコ玉と自分の精液のイメージが重なった。僕はたまらなくなってその店を飛び出した。どうかしている。


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2005年11月13日

残像 その2

テーマ:小説 残像

妻が耳栓を欲しがったことの合点がいった。エレベーターのボタンを押しながらまたしばらく彼女は荒れるのかなと思って僕は少しうんざりした。


 妻は昔から音に敏感だった。官舎の隣の家は子供が3人いて、その物音が彼女を始終苛んでいた。不妊治療に莫大な金額を費やしてしまった後で、すぐに引越しをするほどの余裕はもうなかった。もう彼女とはやっていけない。結婚したころの妻とは人が変わってしまったようだ。明るくて快活な妻はいったいどこに行ったのだろう。


友人の紹介で知り合った彼女とごく普通に恋愛して結婚した。編集者だった彼女は月半ばが忙しい様子だったが、概して楽しく暮らしていた。結婚して3年ほどたったある日曜の朝、突然それは始まったのだった。
「ねぇ、悪いけどR大学病院で、精子の検査をしてくれない?」
「えっ」
あまりにも唐突な言葉に僕は戸惑ってしまった。
「この間私検査に行って、特に異常がないって言われたのよ。ご主人に問題があるかもしれませんねって」
妻は淡々と言った。今までそんな話をしたことはなかったから、妻がそんなことを考えていたなんて知らなかった。
「妙子、それは、…そんなこと突然言われても」
妻に異常がないということは、僕に異常があるということだろう。そのことに思い至って、なんだか酷くプライドを傷つけられたような気がした。
妙子は淡々とトーストにバターを塗っていた。僕とは目を合わせない。
「今は生殖技術が発達しているから、多少のことだったらどうにかなりますよって」
僕は気分が悪かった。そんな大事なことを彼女はなぜ相談もなく一人で決めてしまうのだろう。
「土曜日だったら大丈夫でしょう、予約を入れておくから」
僕はむっとして言った。
「そんなこと、なんで独りで決めるんだよ。検査の前に相談ぐらいしろよ」
妻は気まずそうなようすも見せない。それどころか、どこか挑戦的な声の響きがあった。
「まず自分の検査をして、私に異常があったら相談しようと思っていたわよ。だけど異常がなかったから、あなたが検査してって言っているだけ」


確かに、実際的な妻の言うことは間違ってはいなかった。相談されても、一度検査をしようという結論にしかならない。今から言っても仕方がないのかもしれないが、どうせだったら一緒に検査を受けたかった。こんな風に相手に異常がないと言われてしまえば僕にプレッシャーがかかる。
「なんだか気分が悪いな」
「わかるけど…二人ともに異常がなくても出来ない場合もあるらしいし、だけど調べてみて、それからちゃんと二人で考えましょうよ」
彼女の言葉とは裏腹になんだか責められているような感じがするのは気のせいだろうか。僕に異常があったらどうしよう。なんだか濡れ衣を着せられたような、しかし、検査を受けてみなければ、実際のところはわからない。種無しの烙印を自分に押すのは嫌だった。


「わかったよ、そのうち行くよ」
検査なんか受けなくても、子供なんてそのうちに出来るに決まっている。だいたいこの間の夜だって、疲れているからと拒絶したのは彼女じゃないか。
「そのうちじゃ困るのよ、予約を入れないといけないから」
あくまでも食い下がる妻に僕は違和感を感じた。それがすべての始まりだった。

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2005年11月10日

残像 その1

テーマ:小説 残像

その引き戸を開けると妻がいるはずだった。そして彼女になんと話しかけたものか、長い廊下を歩きながらずっと考え続けていたのに、いまだに答えは出ていなかった。出たとこ勝負と覚悟を決めてガラリと戸を開ける。
「妙子…」

力のない声しか出なかった。


妻はベッドの上に真っ直ぐに横たわっていた。看護婦が整えたのだろうか、きっちりと緩みなくかけられた布団のせいか、なぜか遺体を思わせた。妙子はパッチリと目を開け天井を眺めている。染みひとつない病室の天井を見つめているわけではないのだろう。僕はなんと声をかけたら良いのかわからずに黙っていた。


妻はやはり蒼白な顔をしていた。相当出血したと聞く。唇の赤みがいつもよりずっと薄かった。僕が部屋に入ってきたことを知っているのに、ちらともこちらを見ない。ただ、真っ直ぐに天井を見詰めている。いつものように唇はしっかりと閉じられて、こめかみの辺りは青みさえ感じられた。
こういうときに、なんと声をかけるのが正解なのだろう。いくら彼女の顔を見つめても答えは出なかった。


「残念だったね、次があるよ」もうきっと次はなかった。
「大変だったね、もう諦めよう」彼女の執念がそれを許すのだろうか。
「子供なんかもういい、二人で生きていこう」僕自身に彼女とやっていく自信がなかった。


突然唇が開いて、かすれたような細い彼女の声が聞こえる。
「神様って意地が悪いと思う」
僕は黙って次の言葉を待っていた。沈黙に耐えられなくなったとき再び聞こえる妻の声。
「予告編だけ見せておいて、……これでお終いなんて…」

「妙子」

見開かれた目が僕を拒絶するように閉じられた。僕は魔法にかかったように身じろぎ一つできないでいた。


病院

細い声は続いた。感情の感じ取れない調子。遠くの方から響いてくるようだった。

「悪いけど、今度来るときにi Podを持ってきてくれない?」
「あぁ」
「それと、売店かどこかに耳栓売っていないかしら」
「耳栓?」
「うん」
「今買ってこようか?」
妻はうなずいた。
「ほかに必要なものがあったら…」
「ママに頼むから…お金持ってる?」
「あぁ」
救急で運ばれたのだから着替えや下着が必要だろう。財布から2万円取り出して置き場所に迷った挙句、ベッドサイドのキャビネットの引き出しに剥き出しのまま入れた。
「じゃ、買ってくる」
居たたまれなくなって僕は逃げるように病室を出た。急ぎ足で廊下を歩いていくと、すぐ近くから赤ん坊の泣き声が聞こえた。


Photo by paradogs-katsu

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