ようやく1週間が終って、ゆっくり身体を休めたいと思うのだが...。やっぱり、もう僕はおじさんなのかもしれない。
AM 5:30 勝手に目が覚め、自然に身体が動き出す...。煙草を吸いにベランダに出ると四月だというのに外は霙...。思わぬ寒さに、エアコンを暖房に設定しスイッチを入れ、神楽坂で買ってきたインドプランテーションの珈琲豆を挽き、フィルターに落として、ゆっくり蒸らし、そこからは一気に少し覚ました湯を注ぎサーバーに落とす...。
同時に洗濯機のスイッチをONにして、洗濯をはじめ、しばらく珈琲を飲みながらネットサーフィンをした後、今度はいつものように部屋中にクイックルワイパーをかける...。
ここまででゆうに1時間はかかり、こうして再びPCに向う。
土曜日の朝のお決まりの過ごし方である...。
さて、今週、通勤と朝の珈琲タイムと帰宅という、それぞれ30分毎の読書タイムで読んでしまった書籍は2冊。
『Love Letter』 石田衣良 他著 幻冬舎文庫

と...。
『スイートリトルライズ』 江國香織著 幻冬舎文庫

やはり1冊を読破するのは、2回の通勤帰宅の往復と2回の朝の珈琲タイムで十分なので、1冊あたり3時間弱...。なので金曜日の昨日には読むべき本が無くなってしまって、再び龍さん(村上)の「恋はいつも未知なるもの」を読みかえしてしまった...。
さて、まずは1冊目。11人の小説家による11編のラブレターにまつわるショートショートで構成されている『LOVE LETTER』は、どの小説も読みやすく、本当にテンポよく軽やかに僕のキモチに馴染んでいった...。
11編の中でも、秀逸だと感じたのは、やはりトップを飾る、石田衣良さんの「ありがとう」と、島村洋子さんの「空」。そして、桐生典子さんの「竜が舞うときに」と、最後を締めた、いしいしんじさんの「きまじめユストフ」の四篇である。
実は僕、石田衣良さんの小説をほとんど読んでいない...。とはいえエッセイなりコラムなりを読んで非常に感じることは何度もあった。ストーリー的にはある意味凡庸で何処にでもあるような、恋人の死を描いた作品なのだが...。石田衣良さんの独特の、優しさに溢れる言葉で紡がれるこのストーリーで僕の頭の中には鮮明にある光景が浮かびあがった。死に行く恋人の名前は美しい丘と書いて、美丘。だからなのだろう。去年の夏、北海道を妻と義父と義母とで旅したあの美瑛の丘を思い浮かべた。とても哀しく切ないストーリーなのに、読み終えた後には喪失感ではなく、なぜか希望という淡く優しい光が僕のキモチの中に立ちこめて来た...。
島村洋子さんの「空」には、突然連絡が途絶えた恋人を追ってスペインに向った妹と、それを気遣う姉とが織り成すストーリーだった。この小説には、何の「確証」も描かれていない...。「確証」など何も得られていないのに、妹は恋人との未来に対して希望を見出し、物語は終る。一般的に見れば、ありえないことなのだと思う。けれど、僕にはなんとなくよくわかる。男と女に必要なのは「確証」などではない...。一緒に過ごす「時間」も「空間」でもない。どんな未来でもそこに「希望」を見出せるかどうかである。「希望」の尺度は誰もが異なる。どんなに強い光に導かれた広い未来への道が広がっていたとしても、そこに不安しか抱けない者もいるだろうし、ゴロゴロと石の転がる狭い坂道にだって希望を抱ける者もいるだろう...。その希望を信じあうことができるか、どうか?なのだと思う。
桐生典子さんの「竜が舞うときに」も、やはり恋人の死が主題となっている。けれど、石田衣良さんの「ありがとう」とは対照的で、主人公の「きみ」は絶望の淵にいる。けれど。その脆く淡い命の光を「生」に向わせようとするのは、命が果ててしまった「ぼく」なのである...。”死は生の対極ではなくその一部として存在する”というかの春樹さん(村上)が創出した普遍をこの小説も体現しようと努力している。誰かを失うことの苦しみ、孤独、悲壮が描かれるこの作品なのだけど、失われた命は潤いのある生の源泉となるものだと僕も思う。
いしいしんじさんの「きまじめユストフ」の主人公は狡猾な泥棒である。その狡猾な泥棒が”友情”という絆を糧に更生してゆく...なんて書いてしまうとなんだかありふれた面白くも無い小説なのだけれど
...。
あなたにはEメールでも、電話でもなく、手紙を書きたいと思える相手がいるだろうか?
このインタラクティブなインフラが整った現代社会において、「手紙」を書くにはそれなりの勇気と覚悟が必要で、誰もに対して書けるものではない。
でも僕には、手紙でしか自分の思いを伝えることが出来ない大切な人というのが何人かいる。
その人たちと交わすメッセージのやり取りで、僕は勇気と希望を得ることが出来る。
薄っぺらい紙の上に、誠意と情熱と真心が乗れば、それはただの紙切れではなく、まさにそれが「絆の証」となる...。
このブログを読み返していると何度も何度も「希望」という文字が出てくるけれど、人は将来に対する希望を見出すことができなければうまくは生きてゆけない...。
この11篇の小説を読めば希望を見出すことが出来るかどうかは、読む者次第だと思う。
けれど、ここには生に対して希望を見出すためのヒントが幾らかちりばめられているように、僕は思う...。
AM 5:30 勝手に目が覚め、自然に身体が動き出す...。煙草を吸いにベランダに出ると四月だというのに外は霙...。思わぬ寒さに、エアコンを暖房に設定しスイッチを入れ、神楽坂で買ってきたインドプランテーションの珈琲豆を挽き、フィルターに落として、ゆっくり蒸らし、そこからは一気に少し覚ました湯を注ぎサーバーに落とす...。
同時に洗濯機のスイッチをONにして、洗濯をはじめ、しばらく珈琲を飲みながらネットサーフィンをした後、今度はいつものように部屋中にクイックルワイパーをかける...。
ここまででゆうに1時間はかかり、こうして再びPCに向う。
土曜日の朝のお決まりの過ごし方である...。
さて、今週、通勤と朝の珈琲タイムと帰宅という、それぞれ30分毎の読書タイムで読んでしまった書籍は2冊。
『Love Letter』 石田衣良 他著 幻冬舎文庫

と...。
『スイートリトルライズ』 江國香織著 幻冬舎文庫

やはり1冊を読破するのは、2回の通勤帰宅の往復と2回の朝の珈琲タイムで十分なので、1冊あたり3時間弱...。なので金曜日の昨日には読むべき本が無くなってしまって、再び龍さん(村上)の「恋はいつも未知なるもの」を読みかえしてしまった...。
さて、まずは1冊目。11人の小説家による11編のラブレターにまつわるショートショートで構成されている『LOVE LETTER』は、どの小説も読みやすく、本当にテンポよく軽やかに僕のキモチに馴染んでいった...。
11編の中でも、秀逸だと感じたのは、やはりトップを飾る、石田衣良さんの「ありがとう」と、島村洋子さんの「空」。そして、桐生典子さんの「竜が舞うときに」と、最後を締めた、いしいしんじさんの「きまじめユストフ」の四篇である。
実は僕、石田衣良さんの小説をほとんど読んでいない...。とはいえエッセイなりコラムなりを読んで非常に感じることは何度もあった。ストーリー的にはある意味凡庸で何処にでもあるような、恋人の死を描いた作品なのだが...。石田衣良さんの独特の、優しさに溢れる言葉で紡がれるこのストーリーで僕の頭の中には鮮明にある光景が浮かびあがった。死に行く恋人の名前は美しい丘と書いて、美丘。だからなのだろう。去年の夏、北海道を妻と義父と義母とで旅したあの美瑛の丘を思い浮かべた。とても哀しく切ないストーリーなのに、読み終えた後には喪失感ではなく、なぜか希望という淡く優しい光が僕のキモチの中に立ちこめて来た...。
島村洋子さんの「空」には、突然連絡が途絶えた恋人を追ってスペインに向った妹と、それを気遣う姉とが織り成すストーリーだった。この小説には、何の「確証」も描かれていない...。「確証」など何も得られていないのに、妹は恋人との未来に対して希望を見出し、物語は終る。一般的に見れば、ありえないことなのだと思う。けれど、僕にはなんとなくよくわかる。男と女に必要なのは「確証」などではない...。一緒に過ごす「時間」も「空間」でもない。どんな未来でもそこに「希望」を見出せるかどうかである。「希望」の尺度は誰もが異なる。どんなに強い光に導かれた広い未来への道が広がっていたとしても、そこに不安しか抱けない者もいるだろうし、ゴロゴロと石の転がる狭い坂道にだって希望を抱ける者もいるだろう...。その希望を信じあうことができるか、どうか?なのだと思う。
桐生典子さんの「竜が舞うときに」も、やはり恋人の死が主題となっている。けれど、石田衣良さんの「ありがとう」とは対照的で、主人公の「きみ」は絶望の淵にいる。けれど。その脆く淡い命の光を「生」に向わせようとするのは、命が果ててしまった「ぼく」なのである...。”死は生の対極ではなくその一部として存在する”というかの春樹さん(村上)が創出した普遍をこの小説も体現しようと努力している。誰かを失うことの苦しみ、孤独、悲壮が描かれるこの作品なのだけど、失われた命は潤いのある生の源泉となるものだと僕も思う。
いしいしんじさんの「きまじめユストフ」の主人公は狡猾な泥棒である。その狡猾な泥棒が”友情”という絆を糧に更生してゆく...なんて書いてしまうとなんだかありふれた面白くも無い小説なのだけれど
...。
あなたにはEメールでも、電話でもなく、手紙を書きたいと思える相手がいるだろうか?
このインタラクティブなインフラが整った現代社会において、「手紙」を書くにはそれなりの勇気と覚悟が必要で、誰もに対して書けるものではない。
でも僕には、手紙でしか自分の思いを伝えることが出来ない大切な人というのが何人かいる。
その人たちと交わすメッセージのやり取りで、僕は勇気と希望を得ることが出来る。
薄っぺらい紙の上に、誠意と情熱と真心が乗れば、それはただの紙切れではなく、まさにそれが「絆の証」となる...。
このブログを読み返していると何度も何度も「希望」という文字が出てくるけれど、人は将来に対する希望を見出すことができなければうまくは生きてゆけない...。
この11篇の小説を読めば希望を見出すことが出来るかどうかは、読む者次第だと思う。
けれど、ここには生に対して希望を見出すためのヒントが幾らかちりばめられているように、僕は思う...。
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