幕末史(19)幕府の滅亡 その6 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

戊辰戦争、とひとくくりにされて説明されていますが、現在の歴史学では大きく三段階に分けて理解されています。

第一段階が、鳥羽・伏見の戦いから江戸開城まで。
これは幕府と薩摩藩の「私闘」として始まり、幕府を滅ぼすまでの戦い、という理解です。

幕府はいつ滅んだと理解すべきか…

よく生徒には説明するのですが…

歴史の節目、というのは実にぼんやりとしていて、現在からふりかえって見れば明確に区別はできますが、当時の人や近くの時代の人にとっては、きれいな区別はできないものです。

あたかも

 虹

のようなもの。

虹は七色とハッキリ色分けできますが、それぞれの境目はどこから何色に変わるかハッキリとはわからないもんです。
どこからが赤から橙に変わったか、と、議論するのは、わりと無意味なんですよね。

大政奉還で幕府は滅んだ、とは、当時の人の認識ではなかったことは確かです。

幕末、洋行して幕府の外国奉行所の役人などになり、開国論を唱え、さらには大政奉還の際には、徳川慶喜をフランスのナポレオン3世に擬した政権をつくる構想を幕末の小栗忠順に献策した人物に

 福地源一郎

という人物がいます。

彼は後年、『幕府衰亡論』という本を著し、「江戸開城」をもって幕府が滅亡した、という考え方に立っています。
実は私もそう考えている派です。

よって幕府を滅ぼす戦いとしての戊辰戦争は第一段階でおしまい…

ちなみに第二段階は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟との戦いである東北戦争。
これは「幕府が滅亡した後」、明治天皇を支持し、恭順するも、「君側の奸」薩長には従わない、という勢力と明治政府の戦いです。
そして第三段階が、第一段階と第二段階の、「残党の糾合勢力」との戦い。
つまり五稜郭の戦いを終点とする箱館戦争です。

学校の教科書、および入試では、この分類をやんわりと受けつつ、三段階に説明しています。

(1)
・鳥羽・伏見の戦いで敗れた慶喜が江戸に逃れる。
・徳川慶喜は朝敵となるが慶喜は上野寛永寺に自ら謹慎して恭順の姿勢をとる。
・幕府の全権勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛が交渉して江戸城を明け渡す。

(2)
・奥羽越列藩同盟と東征軍が戦う。
・会津若松城が落城する。

(3)
・旧幕府海軍の榎本武揚が五稜郭にたてこもって抗戦する。
・榎本武揚が降伏する。

1868年1月から1869年5月までの経緯は以上となります。

さて、これもまた授業ではよく説明するのですが…

幕府を滅ぼしてから新政府が発足した、という「順番」ではありません。

幕府・旧勢力を滅ぼしながら、一方で新政府の建設を「並行して」進めていた、ということです。
新政府は、人材を「戦争担当」と「政治担当」の二つに分けます。

この点、話をすっ飛ばしますが、源頼朝が平氏政権を倒した流れとよく似ています。
幕府の組織を整えながら(侍所の設置→問注所・公文所の設置→守護・地頭の設置)、並行して源平の合戦(一ノ谷の戦い→屋島の戦い→壇ノ浦の戦い)を進めていきました。
平氏を滅ぼしてから鎌倉幕府ができたのではありません。

「戦争担当」は西郷隆盛・大村益次郎・板垣退助
「政治担当」は大久保利通・木戸孝允

そして東征軍の総督は、有栖川宮熾仁親王…
和宮との仲を幕府によって引き裂かれた宮さまが、その幕府を滅ぼす、という不思議な因縁となった、とは以前にお話したとおりです。

鳥羽・伏見の戦い
五箇条の誓文
江戸城開城
政体書
一世一元制
東北戦争
東京遷都
五稜郭の戦い

戦いと政治は並行して進んでいた、というのがポイントになります。

(次回最終回)