1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2017年09月26日

日本海海戦とアルゼンチンとの不思議な縁

テーマ:ブログ(たわごと)

日本海海戦に元アルゼンチン海軍籍の軍艦が2隻あった。

しかもその2隻の軍艦は日本の勝利に多大な貢献をした。

 

このような事実は日露戦争後であれば、日本国民全員が周知していた常識であった。しかし、大東亜戦争に米国・連合軍に敗戦し、米国占領政策に丸々教育され、戦前を語りたいものは者萎縮し、よくも悪も全て一羽ひとからげ、過去の遠い世界に消え去ろうとしている。

 

戦前、悪かったことは多々ある。良かったこともその何倍かある。しかし十羽一絡げで全てを忘却の世界に幽閉してしまている。いいんだろうか?

 

司馬さんが『坂の上の雲』をお書きになる時も、大きな壁を意識して書かれたのではないかと思う。

 

今回ひょんなことから、日露戦争、日本海海戦関連の100年前の本を紐解いている。

 

そうは言っても、夏目漱石も慶応3年(1867年)2月9日生まれ、此の年の11月13日は坂本竜馬が暗殺された日。150年前だ。漱石の本が今も読まれ続けられている。

 

竜馬のことは日本だけでなく竜馬会が海外でも熱心な会員が増えているという。

 

漱石の読み人の現代の若者は大いに難儀しながら読んでいることだろう。もしすらすらよめるかたが居たら、彼はかなり漢籍や漢詩に詳しい勉学の徒であろう。

 

道草にずれてしまった。

アルゼンチンと日本の縁は、アルゼンチン海軍大佐マヌエル・ドメック・ガルシアの日本海海戦『アルゼンチン観戦武官の記録』による。

 

日本は幕末、米国、英国、ロシア阿蘭陀と不平等条約条約をを結ばざるを得なかった。生まれたての明治政府はこれら不平等条約を改正努めていた。

しかし彼らに有利な条約を締結の各国はなかなか改正しようとはしていなかった。

 

一方、明治政府は、新興の中南米の国々と平等条約を締結していった。

1888年・明治21年メキシコと初めての平等条約を交わした。1897年にはチリと、1898年にはアルゼンチンと対等な友好、通商、航海条約を調印した。日本語、スペイン語、英語の3ヶ国語によるこの条約は1901年・明治24年両国で批准され発効した。

 

1902年英国はロシアの極東進出だけでなく、インドを目指して南下政策を具体化しだした。脅威を感じた英国はドイツ、日本の英独日同盟を画策したが、ロシアと国境を接せるドイツは不参加。ここにのち日露戦争時に大きな効力を発揮した、日英同盟が調印された。

 

1902年・明治35年。大西洋側のアルゼンチンは、背中合わせの太平洋側のチリと国境紛争が生じ、海軍力強化のため、イタリアに最新式の巡洋艦2隻「リバタビア「モレノ」」の新造船を急いでいた。

 

両巡洋艦は9月に進水。ドメック・ガルシア大佐がアルゼンチン海軍命令によりイタリア・ジェノアにて建造を監督し、両艦の艤装を指揮していた。

 

翌1903年、明治36年、英国の斡旋でアルゼンチン、チリ両国間で合意が成立した。

この結果アルゼンチン政府は新造2巡洋艦の海軍への編入の要が無くなった。

 

世界情勢を細かく、収集、分析していた日本政府は在ブラジル公使館に、外務大臣小村壽太郎から、「アルゼンチン政府から装甲巡洋艦2隻の購入交渉を始めよ」の訓令電報が入る。

 

当時アルゼンチンと密接な関係にあった英国は、日英同盟を前年交わしたばかり、日本への装甲巡洋艦2隻の譲渡を強く示唆した。

 

同年12月26日フリオ・ロカ大統領、オノフレ・ベットべエル海軍大臣は堀口九万一(詩人堀口大学の父)と会見譲渡に同意した。

 

日露開戦の1年2か月前という際どい勝負どころであったのだ。

 

当時ドイツベルリンに留学中の海軍中佐鈴木貫太郎(海軍大将)のもとに極秘でイタリア・ジェノア行きの命令電報。

 

アルゼンチン海軍装甲巡洋艦「リバダビア」は「春日」。「モレノ」は「日進」と改名。両艦とも7700トン。

 

竹内平太郎大佐、鈴木貫太郎中佐は回航委員に任命された。

購入代金百五十万英ポンド。

 

このころ、ロシアもジェノアでの日本、アルゼンチン、英国、イタリアの動きを察し、日露開戦なれば、即座に新造船で、艤装もままならぬ、両艦を爆沈せんとジェノア港沖合で待ちかまえている。その名も戦艦「オスビラ―ヤ」12674トン。(日本海戦で沈没)

 

ジェノアの港を見下ろすホテルには日露両国の、海軍軍人、在イタリアロシア公使もローマから出張し監視のため滞在して、ホールやレストランでは顔を合わせることもままあった。・・・・・・まるでスパイ映画の一場面のような緊張があっただろう。

 

出港前に日露国交断絶になれば、兵員のいない2巡洋艦はロシアの戦艦に沈められる運命であった。

1904年・明治37年1月8日ジェノア港出港。実に開戦に1年と34日前であった。

 

急ぎ、急ぎの出港の為、両船とも英国籍とし、回航の船員は240名の英国人、機関員はイタリア人。艤装は運航しながら、「日進」「春日」の間には英国の新鋭重量巡洋艦「キング・アルフレッド」が出動、英人船員を保護の目的で地中海を1列で東航。

一行の前方海上にはロシア戦艦「オスビラ―ヤ」が砲口を開いている。

日進、春日両艦は出港を急ぎに急いだため砲弾を積んでいなかったのだ。

 

ポートサイドまでしつこくロシア艦」は追随してきた。もしロシア戦艦「オスビラ―ヤ」が禁を破って砲撃してきたらとの恐れを抱きながらの航海であった。

 

ポートサイドからインド洋スリランカまでは英国巡洋艦「キング・アルフレッド」の護衛に守られてきた。

 

スリランカから「日進」「春日」二隻で先を急ぎ、2月16日に横須賀港到着。

 

港は歓迎の渦、新橋までの各駅は飾られ日本中が歓喜し、新聞は2艦の記事で埋まり、如何に2艦の譲渡が日本の運命に寄与するか全国民が周知していたかわかる。

 

回航英国船員、イタリア船員は鈴木貫太郎中佐の独断による、賃金の倍支払い約束も、海軍大臣の了承を得、無事払われた。彼らは日本各地で大歓迎を受けた。

 

それだけの価値のあるアルゼンチン政府の多大の厚意であったのである。

 

日本海海戦時ロシア艦からの砲撃被害の1番大きかったのが、戦艦・旗艦「三笠」であり、2番目に被害の大きかったのは「日進」であった。

 

アルゼンチン海軍ドメック・ガルシアはジェノアで日本海軍に両艦を引き渡したのち、

日本での観戦武官を命じられ、家族と別れ、ジェノア、パリ、ロンドン、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、、ホノルルを経て1904年5月20日横浜到着。日本海海戦の1年と7日前であった。

 

直後から日進「に乗艦日本海軍の内外を観察、開戦時にも「日進」に乗船していた。

 

その故にか、冷静に開戦を観察、ロシア海軍の良しあし、日本海軍の良しあしを記録に残していた。

 

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。