ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。


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 3
 
 京都での生活も3週間が過ぎた頃、
 その日、定村は仕事が遅番で昼過ぎまで部屋でのんびり過ごし、
 四条河原町の事務所に向かって四条大橋を歩いていると、
 ある男性が急に声を掛けてきた。
 
「失礼ですが、間違っていたら御免なさい。
 もしかして、あなたは定村の弟くんではありませんか?」
 

 その人の顔を穴の開くほど見つめ、定村は小さく頷いた。
 何も変わってはいなかった。
 
 
「やはり、そうですか。
弟くんですよね。
奇遇です。
こんな所で、弟くんと出会うなんて。
僕ですよ。
君の兄さんの生涯の友、中島です」

 
 そう言われる前に、定村は目の前の人物に気づいていた。
 15年ぶりに出会ったこの人が何を隠そう、
 兄の親友であった、中島であることに。
 
 
「弟くん。
 立ち話もなんですから、そこいらで軽くお茶でもどうですか?」
 

 15年間の空白がどこか遠くへ消えたように、
 中島は高校時代に舞い戻って、中学生の定村に対峙した。
 それでも、時の流れは隠せないもので、
 当時は見上げるほどだった中島が定村より数センチ小さくなっていたのである。
 
 
「済みませんが。
 これから、仕事です」
 定村は正直に応えた。
「東男の弟くんが、昼下がりの京の都でこれから仕事ですか?」
 
 中島は小首を傾げた。
 

「はい。そうです。
 東京から京都に来たばかりなのですが、
 幸先良く仕事が見つかりました。
 僕はこの近くの英会話スクールで事務をやっています」
 
 
「そうですか。
 何か特別な事情がお有りのようですね。
 構いません。
 それなら、僕は弟くんの仕事が終わるまでお待ちましょう。
 日本が誇る、
 千二百年の歴史を有する国際都市の京都とはいえ、
 日付が変わる頃には英会話スクールも終わることでしょう」
 
 中島はそう呟いた。
 

「夜の9時に最後のレッスンが終わります。
 それから、後片付けをしてそれから10分程度で自由になります。 
 それで、中島さんがよろしかったら」

 ありのままに、定村応えた。

 
 中島は腕を伸ばし、
 上着をずらすような仕草で左手首の腕時計を確認した。

「ここでお会いしたのも何かの縁。
 今宵今夜の午後9時、八百年の時を超えて、
 江戸から参った弁慶は義兄弟の定村の弟君を、
 五条の橋から場所替えした、ここ四条大橋でお待ち致します」
 
 
 自ら名乗るかの如く、
 中島演ずる弁慶は四条大橋を渡った南座で演じられる歌舞伎の舞台から抜け出したきた役者にでもなりきって、 
 見栄を張り、決まり文句を真似て、時代がかった台詞を吐いた。
 かつての親友の弟に了解を求めるまでもなく、
 振り返りもせず、再会の舞台から立ち去った。
 

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 1 
 
 秋、定村英一郎と水野ゆりは離れ離れになった。
 二人の別れの要因となった松井孝介の芝居をそれぞれ別々に観に行き、
 幕が下りる前に席を離れた定村がそれきり、
 ゆりの前に姿を現さなかったからである。

                   
 ゆりが近場の山頂から姿を消して以来、
 いつものように出社する定村の愛車のダッシュボードには、
 松井が主する劇団の招待券がペアのチケットがチラシと一緒に封に収められていた。
 
 
 使われなかったゆりのチケットを受付に預けたまま、
 今出て来たばかりの劇場を振り返ることもなく、
 定村はコインパーキングに急いだ。
 

 いつもなら音楽を友にする彼が今夜に限って、
 フォルクスワーゲン・ビートルの後部から流れるエンジン音に耳を傾けて漆黒の暗闇を走り、東京都と隣県の狭間のホテルにチェックイン。
 ゆりが姿を消した東京郊外の二人の家に戻ることなく、
 その夜、定村はそこに一泊した。
 

 翌日、そのまま、西に向かって走り続けた。
 高速道とはいえ、時速80キロのスピードで減速車線に張り付まま、 
 言葉を交わす相手もなく、行く当てもなく、ビートルは無機質な音を奏で続けた。
 
 
 果てることのない孤独なドライブは、景色を見渡す心の余裕も与えず、ザ・フーのサウンドに浸らせ続けた。
『わたしを見て、
 わたしを感じて、
 わたしに触って』
 5年前の春の日の、ゆりの大学卒業式当日。
 彼女に聴かせた思いでの曲をリピートして繰り返し聴きながら、
 定村にアイディアが閃いた。
 

 いっそのこと、このまま、兄さんが亡くなった京都に行ってみようか。
 ある夏の日々を思い出していた。
 

 中学1年の夏休みで、
 直前に入ったサッカー部の練習も一息ついて、
 暇を持てあましてだしたちょうどその頃。 
 当時、高校2年生だった兄を含めたバンドメンバーの4人が湖畔のバンガローに誘われた。
 おまけと言っては何だが、定村も彼らに同行した。
 
 
 湖で事件で起きた。
 バンバローの到着した当日、全員で食事の支度をして、
 湖の畔の木製のベンチを囲むようにして、
 わいわいガヤガヤと楽しげに夕飯を平らげ、
 みんなで後片付けを済ませた直後、
 仲間を誘った張本人の同級生の中沢さんが湖に飛び込んだ。
 
 
 翌早朝、レスキュー隊の捜索で湖底より中沢さんの遺体が引き上げられた。
 担架に横たわったた中沢さんの最期の姿は高校生としては、
 躍動感に欠けるきらいがあったとはいえ
 ほんの半日前まで、それなりの生命力を持った生前の面影もなかった。
 言葉を発することもなく、頬が落ちた青白かった顔がより一層こけ、
 ブリーフから濡れて浮き出した異常なほど程長い生殖器を、
 隊員が人目に付かぬように毛布を掛けて隠されているのが印象的だった。
 

 結局、彼は17歳の若さで、帰らぬ人となった。
 定村と兄と仲間は、現地で元気な息子の姿を舞っていた常軌を逸した母親からこの世の物とも想えない罵声を浴び、
 警察に連れられ、取り調べを受けた。
 解放されて、来た道を戻るように電車で各々の自宅に戻った直後、
 定村の兄が失踪した。

 
 兄さんが僕の前から姿を消して、
 もう十数年にわたって僕の頭の隅に張り付いたままで、
 忘れようにも忘れられず、
 今日のこの日まで、僕の心を悩まし続けているのですが、
 忘れもしない、あの夏の暑い日、
 兄さんが亡くなってからというもの、
 ある種のトラウマとともなっているのですが、
 一つ、兄さんに伺ってもいいですか。
 

 湖で死んだ中沢さんの後を追って京都まで行ったのでしょうか。
 そして、結果的に命を落としたのではないかと、
 僕は考えていました。

 
 申し遅れましたが、兄さんが家を離れて、
 旅先から僕宛てに便りをくれた頃、
 僕らと一緒に湖畔まで行った親友の中島さんが心配して家に訪ねて来ました。
 兄さんの部屋でレコードを聴きながらの雑談中に、
 中島さんから、同級生の是川網子という訳有りな女の存在を教えてもらいました。
 
 
 すると、どうでしょう。
 中島さんの訪問から数日後、今度はその網子がやって来た。
 

 僕が勝手に抱いたイメージ通りの網子は、
 催促するように厚かましく我が家の2階まで上がり、
 僕の部屋を覗き、兄さんの部屋まで入り込むと、
 兄さんの大切なオーディオ・セットに大層興味を惹かれたようで、 
 柄にもなく彼女はロックには疎いと謙遜し、
 それでも、女の勘なのか、
 兄さんが大事にしていたレコード棚からストーンズの、 
『ブラック・アンド・ブルー』をさっと抜き取った。
 
 
 その後、網子から手紙が来ました。
 何でも、彼女は朧気ながらストーンズの名前を知っていた程度で、
 彼女の記述が本当ならば、見開きのアルバムジャケットの中央にでんと写っていたミック・ジャガーも彼女の姉さんから教えてもらっとそうです。
 
 
 そんな網子もストーンズを聴くうちに、
 ミックが切なく歌うバラード、『メモリー・モーテル』がとても気に入ったようで、
 自宅の骨董品のようなステレオセットの木枠のスピーカーに耳を当てて聴き入ったそうです。
 

 そんなこんなで、兄さんも許可も得ずに、
 是川網子という風変わりな女の気迫に押されて、
 嫌々ながらも、僕が貸してしまったストーンズのブラック・アンド・ブルーは、
 いつまでも待っても戻って来る気配もなく、
 今日に至ります。
 
 
 この際だから、謝らせて下さい。
 兄さんから譲り受けた、レコード・コレクションのうち、
 兄さんが最も愛した、ローリング・ストーンズの、
『ブラック・アンド・ブルー』は、
数あるストーンズのアルバムの中で唯一の欠番となっている次第です。
 

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 42 
 
 定村は残り1年となった大学生活を一人切りで送ることになった。
 1年間を過ごしたロンドンからこの春、東京に戻って来て、
 逆カルチャーショックに陥らなかったのはゆりの存在が大きかった。
 

 それでも、時としてロンドンの街を懐かしく想った。
 ジェフさんはどうしているだろう。
 相変わらず独り者で几帳面に料理、洗濯、掃除をこなし、
 小粋なシャツにネクタイ姿でリトル・アイランドに現れているだろうか。
 テリーさんはどうだろう。
 レコードショップのオーナーと従業員として、
 二人は上手くやっているだろうか。
 とはいえ、日本に帰国して1度も、彼らに便りすらしていない。

 
 今は夏時間で、日本と8時間の時差があるから、お昼過ぎで、 
 ジェフさんは一人、馴染みのイタ飯屋で白髪交じりのおばさんに定食を注文し、
 テーブルの料理を食べ尽くして、
 カプチーノを飲み干していることだろう。
 
 
 ぼんやりとこんな予感が閃いた。
 遠い先まではわからないが、近い将来の5年先、10年先に、
 若き日の貴重な時を過ごしたロンドンの地を踏むことはあるだろうか。
 実際のところ、兄が残してくれた大量のレコードを聴いて、
 ストーンズやフーのビデオを観ていれば、
 もう一度ロンドンを訪れなくても、
 それでもう用が足りた気分の定村であった。
 

 秋の就職活動最盛期、いまだ、就職を決めることができなかった。
 気を揉む両親やゆりの手前もあって、
 定村はスーツに身を包み、ビジネスバッグを持って、
 自宅から大学の学生課に寄り、会社を往復する日々が続いた。
 それでも、少しばかりかのこだわりとプライドを持つ彼は今や制服と化した紺のリクルートスーツを着用せず、
 グレーのトラッド・スーツをそれなりに着こなした。

 
 学生課の嫌みな主任の顔を見るのも見飽きた午後、 
 電車で都心に出ると、
 サラリーマンで賑わう表通りの一角から裏道へ、
 ビルの地下にある映画館の中に定村は吸い込まれるように入った。
 

 右耳にシルバーのピアスをした、バンドマンらしき若い男から手渡された半間を、
 無造作にスーツのパンツに右ポケットに突っ込んで、背もたれのないシートに腰を下ろした。
 ガラス製のテーブルに置かれた映画のパンフレットを見ることもなく、
 ファスナーを開け、筆記用具、地図が詰められた黒いバッグに突っ込んだ。

 
 立ち上がるなり、自動販売機の挿入口に小銭と投げ入れた。
 紙コップがセットされ、コーヒーが注入される短い間、
 側の壁に貼られたポスターに目をやった。
 

 これから目の前で展開されるであろう映像を想い、
 彼は機械の中で醸し出されたコーヒーに手を伸ばした。
 頭は空っぽだった。
 何ひとつ考えることができなかった。
 夢想家と現実家の両面を持った彼の内面が臓器を這うように頭脳に伝わった。

 
 未来に何が待っているだろう。
 自分の将来をイメージできなくとも、
 バブル経済に沸くこの日本で男一人食べることぐらい、
 どうにでもなる。
 

 まして、地方出身者の学生と違って、
 東京生まれの東京育ち、実家住まいの恵まれた人間で、
 共働きの両親は健在で、兄が亡くなった今では一人っ子も同然。
 どうして、就職なんかに焦る必要がある。
 のんびり構えていれば、
 そのうちに良い話が舞い込んで来るに違いない。

 
 5分もすると、小さな劇場から吐き出された観客が一人、二人、
 彼の目の前に姿を現した。
 入れ替わるようにして、階段伝いに2階に上がり重たいドアを開けると、
 ポップコーンの匂いが鼻につく。
 

 固いシートに腰を降ろし、背凭れに背中を付け、
 隣の空いたシートを倒して黒いバッグの乗せ、
 中からパンフレットを取り出すと同時に、黒い革靴から重くなった足を引き抜いた。
 
 
 パンフレットを両太腿の上に乗せ、目に近付けると、
 白々しい館内に両親が若かりし頃、
 二人が出会いデートを重ねて時代に流行ったであろう、
 どこかで聴き覚えのある映画音楽が流れてきた。
 
 
 見上げると、スクリーンの両脇の上端の古くて見栄えのしない骨董品のスピーカーから、
 モノクロ映画全盛期にハリウッドで活躍した女優が若かりし頃の美貌が失せ、
 私生活か映画の中の演技なのか区別がつかないままに、 
 額の皺に化粧を擦り込むように、
 溝となった傷にレコード針が吸い込まれるかの如くアナログな音が鳴った。
 
 
 照明が落ちた。
 スクリーンに写し出されたのはベルリンの街並だった。
 定村は妙に懐かしかった。
 ロンドンから深夜バスで向かったオランダのアムスデルダムの中央駅から鉄道で西ドイツに入り、深夜、ハノヴァーで電車を乗り換え、東ベルリンとの壁に囲まれた街を訪れて7ヶ月あまり。
 

この日の映画はベルリン天使の詩は定村にとって、
ナスターシャ・キンスキーが出演し、
ライ・クーダーのつま弾くギターが物語を悲しく奏でた、
パリ・テキサス以来のヴィム・ベンダース監督作品である。
 

 長いエンディングロール、スクリーンの幕が下りた。
 世界的な巨匠に失礼かもしれないが、斜に構えて陰に籠っているようで、
 今一つピンとこなかった。
 

 アートに浸ったベンダースの映画を観るくらいなら、 
 日本人の誰も知る、東京の下町の風情に富んだ、
 帝釈天で産湯を使った、葛飾柴又が生んだ、
 渥美清の寅さんでも観るほうが、
 まな板の鯉の就職活動中の学生でなくとも、
 明日への活力になりはしなかっただろうか。
 
 
 映画のシンボルとしてベルリンの街に舞い降り来たのが、
 守護天使だろうが、何だろうが、
 高校を卒業して大学に入るまでの春休みに、
 解らないまでも懸命に読んだ、
 ゲーテのファウストを連想させる、
 アドルフ・ヒトラーばりの悪魔だろうが、
 定村にとって、どうでもよかったのだから。
 

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 41 
 
 ゆりは手紙を読みながら、卒業式当日、
 キャンパス近くの路地で待っていた定村のことを想っていた。 
 同級生と一緒に大学を卒業できなかった彼は、
 キャンパスに来ることを妙に拒んで、
 車のドライバーズ・シートを倒し仰向けになって目を閉じていた。

                   
 何度、フロントガラスを叩いても、とんとん、
  キツツキのようにフロントガラスを叩き続けても、 
 彼は気づかない。
 最後の手段として、
 ゆりが運転席のドアのノブを握り強く引っ張った。
 彼は眼を開け、体を起こし、ロックを解除して、ドアを開けた。

 
 寝ぼけ眼の彼を上から覗き込むように、
『お目覚めはいかかですか?」
 条件反射のように、顔を見るなり、彼はこう言った。
『ゆり、卒業おめでとう』
 間髪入れず、
『どうもありがとう』
 これで、一通りの儀礼を終えた。
 

 自らが望み手に入れた学芸員という職業に就けた喜びで緊張感に胸を膨らませて、
 ゆりは新しい生活をスタートさせた。
 多少なりとも仕事に慣れ、これなら、少しはやっていけそう。
 どこか余裕が芽生える一方で、
 心にぽっかりと隙間風が吹くような、何とも知れない胸騒ぎを感じた。どうなるのかしら。
 
 
 想えば、1年前は彼に会うことすらままならなかった。
 実家を離れ、恵美子のアパートに同居して、
 学芸員になるために過ごした1年だった。
 会おうと想えば、今は毎日だって彼に会える。
 

 だって、二人とも実家住まいで、
 歩いて行ける距離に住んでいるのだから。
 けれど、会えるのは彼女の休みの前日の夜と、
 翌日の休日に限られた。
 美術館という芸術を取り扱うため特殊な職場なため、
 出勤日と休みが複雑で、学生で時間に余裕のある彼がスケジュールに合わせてくれるのだ。
 

 彼だって、馬鹿じゃないから、この秋には就職を決め、
 一年遅れとはいえ、来春には社会に旅立ってくれるだろう。

 
 この時すでに、ゆりは定村との結婚を望んでいた。
 二人から結婚のけの字も出ない段階で、
 彼のほうは来年の大学卒業を前にまだ親がかり、
 秋にはこれからの長い人生を左右する就職を控える身分で、
 将来の見通しもまったくといっていいほど立たない状態。
 彼女はこの春から職に就いたばかりながら、
 女性が男性に求める結婚条件で彼よりはるかに上回る人間など掃いて捨てるほどにも拘わらず、何故か、ゆりは定村に固執した。

 
 長男である兄を失い、実質的には一人っ子となった定村、
 対するゆりは正真正銘の一人娘で、
 年齢からいって、二十歳を過ぎた若者が口にするには少々重くて、
 それぞれがそれぞれに 互いに言葉にすることを避けてはいた。
 

 とはいえ、ただのキャリアウーマンになることに飽きたらず、
 かといっても、専業主婦にも収まりきれない自分を、 
 ゆりははっきり認識していた。
 
 
 1年後は無理でも、3年後をメドに、
 結婚というスタートラインに立ち、
 彼と二人、これから先の人生を供に生きていく覚悟を、
 ゆりは心に誓った。
 

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 40 
 
 長沼恵美子は無事に大学を4年間で卒業することに成功した。
 華やいだ東京の生活に未練を残しつつも、
 実家がある信州のお寺に彼女は戻った。
 
 
 地元の名士でもある僧侶の父親のコネもあって、
 この春から、母校の中学校の国語講師になった。
 何が幸いするかわからないが、恵美子は教職課程を取っていたのだ。
 

 抜けているようであっても、実は要領良しで、
 教育実習で今勤める母校の教壇にも立っていた。
 計画や予定を順序立ててこなすことが苦手であっても、 
 ポイントを摘むセンスは持ちあわせていた。

 
 彼女の手に余る、教職を取っていたこともあって、
 一般科目にまで手が回らず、単位不足に陥って、
 大学卒業のメドが立たず、県の教員採用試験でさえ受験していなかった。
 本格的に教師になるつもりなどなかったというよりも寧ろ、
 それどころではなかった。

 
 いくら4年間の大学生活を過ごした花の東京を離れたといっても、
 都会暮らしの楽しさと気楽さを骨の髄まで知ってしまった恵美子の感性は、
 田舎の新鮮な空気を友に一生、この地で教師をしていこうという腹づもりもなかった。
 
 
 ただ、地元大学や短大の選択肢も考えられた中、
 親に無理を言って東京の大学に進学させてもらった手前、
 就職の当てもない東京で、これ以上学生生活の延長でふらふらと遊んで暮らす訳にもいかず、実家に戻って来た。
 

 だからといって、家を継ぐ気のない、勘当同然の兄・真一を見限って、
 婿取りを前提とした花嫁修業をするつもりもなく、
 自分の食い扶持くらい稼がなければいけないという、
 心構えもプライドも備わっていた。
 
 
 5月の連休も過ぎると、恵美子もそれなりに生活のリズムを掴んだ。
 学校側や先輩教師の薦めもあって、今年は一つ、
 採用試験を受けてみようという心づもりが芽生え始めた頃、
 陸上部の副部長として、中学生と一緒に汗を流し帰宅した彼女の元に一通の手紙が届いた。
 
 
「前略。
 恵美子さんと最後にお会いしたのは、3月の卒業式でした。
 ありふれたスーツ姿のわたしと違って、
 和服姿のあなたに、声を掛けるのもためらうほどでした。
 東京の一般家庭に育ったわたしと違って、
 あなたは信州の由緒あるお寺のお嬢さんですもの。
 

 覚えているかしら、卒業の10日ほど前。
 1年間お世話になったあなたのアパートを引き払う前日、
 缶ビール片手に近所のスーパーで買ったお刺身に舌鼓を打ちながら、
 わたしに打ち明けてくれましたね。
 

『卒業のメドが立ったので、実家に戻って先生の修行をするわ』と。
 
 
 あの時、わたしは口にこそ出さなかったけど、
 あなたらしいと思った。
 それから卒業式の当日まで、あなたと言葉を交わす機会はなかった。
 

 晴れの卒業の当日、
 大学のキャンパスであなたと別れて2ヶ月あまり、
 信州に戻ってから、どのように過ごしていますか?
 気にはなっていたのですが、
 自分の新しい生活に追われるばかりで、
 電話も、手紙の一通も出すことができませんでした。
 
 
 わたしの生活ですか。
 高校時代の3年間、大学に入ってこれまた3年間、
 昨年の春、あなたのアパートで暮らすようになるまでの延長上に、 
 毎日、実家から最寄りの駅まで歩いています。
 

 違っているのは、学生やサラリーマンが都心へ向うのとは反対に、
 がらがらに空いた貸し切り状態の電車に乗って、
 美術館まで車中、 
 この時ばかりと、バッグから資料を取り出し、
 わたしは美術の予習復習の場所にしています。
 
 御存知かもしれませんが、
 あなたのアパートにお世話になる前、
 訪れたパリで偶然会い、長かった1年間の遠距離恋愛を経た同級生の彼が、
 この春帰国して、それ以来、交際しています。
 

 卒業まで1年残っているので、それまでは少し我慢が続くでしょうが、
 会う気になれば、いつでも会える境遇に、 
 それだけで幸せを噛みしめている今日この頃です。
 
 
 惚気て相済みませんが、
 あなたも、今では中学校の国語の先生なのですね。
 教室で教科書を広げ、声を出して読み上げる、
 恵美子さんの姿が浮かんで来そうです。
 また、お便りします。
 
 水野ゆり。
 
 
 正直、水野さんの手紙が嬉しかった。
 飛びついて、封を切るのに、手が震えた。
 

 東京を離れて、2ヶ月足らずで、
 染まりたくもなかった、田舎暮らしに、
 もう腰の辺りまで染まってしまいそうで、
 わたしは東京の話題に心底飢えています。
 
 
 東京と信州との違いはあっても、
 あなたと同じように、実家に戻って、新しい生活を始めました。
 自からが望んで縁を切ったという訳ではないにしろ、
 急がしさにかまけて、大学時代の、東京時代の友人知人とは誰一人として、
 連絡することができませんでした。
 
 
 彼との再会を果たしてお幸せなあなたに、
 東京生まれの東京育ち、東京暮らしか知らないあなたに、
 田舎で生まれ、田舎で育った、このわたしの悲哀が想像できるでしょうか。
 

 海外旅行のように、田舎はたまに行くにはいい所。
 ガイドブックのコピーのままに、決まり文句であるからのように、
 旅行客は非日常な空間に浸って、
 空気が美味しいとか、澄んでいるとか、
 どうでもいいような、訳のわからない感想を述べるでしょう。

 
 ご存じなように、ここ信州は夏は涼しく、冬は雪が降る。
 それが目当てで、遊びに来る人達には、まさに絶好のロケーション。
 温泉に浸かり、スキーをして、山に登る。
 別荘を持ったお金持ちにはいい場所です。
 
 
 でも、この土地しか知ないないで一生を終える人
 もしくは、東京からの出戻りのわたしにとって、
 この人生が一生続くことをあなたは想像できますか。

 
 わたしは電車通勤のあなたと違って、
 良い思い出というより、もう見飽きてしまった過去の情景となってしまった、
 中学校への道のりを、
 10年前と同じように家から歩いて通い、母校の教壇に立っています。
 
 
 幸せ気分に浸っているあなたに、愚痴ばかりこぼして御免なさい。
 夢見るうら若い乙女が住むような、
 可愛らしい小綺麗なマンションとは言い難い、
 雑踏のような下町のアパートで、
 1年間という、短くて長いような、
 貴重な大学時代の一時をわたしと供に暮らしたあなたならきっと、 
 わかってくれますよね。
 許して下さい。
 
 
 秀才のあなたとは違って、先生方のお情けにすがって、
 ぎりぎりで卒業にありつけたふしだらなわたしが、
 講師の身分とはいえ、中学生に国語を教えるなんて、
 人が知ったら目を回すに違いありません。
 あなたなら、爆笑するでしょう。
 

 信じてもらえないでしょうが、
 わたしがいくら出来の悪い学生でもあっても、
 田舎では、これでも東京帰りの端くれですから、
 少しは箔が付くというものです。

  
 正直に言うと、
 あのアパートであなたと暮らした過ごした1年間が、
 つい昨日の事のようにも、もう何年も前に過ぎ去ってしまった遠い思い出のようにも感じてしまうこの頃です。
 

 こうしている間にも、父のお経が聴こえてきます。
 また、お便りくださいね。
 何にもない所だけど。
 一度、遊びに来てくれると嬉しいな。
             
 追伸、水野さんの彼には正直きづいていました。
 鈍感なわたしでも、頻繁な航空便は目の毒です。
 彼もキャンパスで時間を共有した同級生ですね。
 お幸せに。
 
 長沼恵美子。
 

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 39 
 
 松井孝介は同級生と列んで大学を卒業することができなかった。
 と言うより、敢えて、そうはしなかった。
 田舎から上京し、演劇にのめり込んでいくうちに、
 子供の頃より、中学、高校と思春期を通じて、
 燻っていたボヘミアンな詩人の心がもたげたからだ。
 
 
 なんとか演劇の世界で生きていこうと願う松井にとって、
 社会に出て勤め人になることは、
 大勢の学生のように自分自身を捨てることに他ならなかった。
 演劇人になるということは大学を卒業しようが中退しようが、
 つまるところ同じことだった。
 

 田舎に暮らすたった一人の肉親である母の願いを聞き入れて、 
 とりあえず、松井は大学に籍を残した。

 
 母の元で暮らす夢見る少年時代からずっと、
 役者よりは演出家志望だった。
 行く行くは自分の劇団を持って、脚本を書いて、
 映画のように芝居を撮ることを夢見ていた。
 自らの進むべき道を自覚しながらも、
 その術を見つけるべく、松井は懸命にその道を求めていたのである。

 
 大学入学後、何はともかく彼は演劇部に入った。
 それまでは一人籠もりがちで、
 苦手な人付き合いも、先輩後輩の関係も、
 演劇のためならどうにか我慢することもできた。
 

 先輩に言われるまま、発声練習、舞台セットを準備、
 ノルマのチケットをさばくことにも苦心した。
 台本を何度も読み返し、端役で初めて舞台にも立った。

 
 次に彼がとった行動は、手当たり次第に芝居を観ることだった。
 見聞を広めるため、学生演劇に限らず、
 俗にアングラと呼ばれる小劇団の舞台にも顔を出した。
 舞台が退けた後、初対面の相手にも積極的に声を掛け、
 誘われるままに飲めない酒も飲んだ。
 
 
 芝居を観ない時は本を読んだ。
 時間が許す限り、古本屋に通い、一度に5冊10冊と買い求めた。
 むさ苦しいアパートに戻っては、小説を読み、戯曲を読み、
 古典を読み、翻訳のシェークスピアを読み、英語にも挑んだ。
 ボールペンで赤線を引き、青線を引き、辞書を引き、本で調べ、 
 疑問に思ったところに語句や説明を付け加えた。
 思い返したように本を開き、2度も3度も読み返した。
 
 
 田村という得難い仲間を得て、
 演劇には無関心の定村という男を発見した。
 松井は一目見るなり、定村に自分と同じ臭いを感じたが、
 見向きもされなかった。
 

 それでも、松井は執拗に食い下がった。
 ついに、演劇の部外者として、定村を繋ぎ止めることに成功したが、
 3回生の学園祭を最後に彼は去ってしまった。

 
 その頃、松井の前に水野ゆりという女神が現れた。
 というより、松井は以前からゆりに目を付けていた。
 定村とゆりが小学生からの同級生なのを端から承知で、
 定村を出汁にゆりを誘いだし、 
 クリスマスイブに生娘を手に入れることに成功した。
 
 
 しかしながら、夢から覚めたゆりが松井の本性を見破り、
 ヨーロッパに渡って以来、
 松井は一度としてゆり姿を見ることがなかった。
 いや、正確にいえば、4回生になって何度か
 大学のキャンパスで彼女の姿を見かけることはあっても、
 彼は目の中に入れることがなかったのである。
 
 
 ゆりとは違って、定村の姿は松井の目に入らなかった。
 風の便りで、大学を休学してロンドンに渡っていることを知っても、
 あれほど定村に執着した松井にはもう何の感慨も残っていなかった。
 
 
 4回生になると、
 一番の演劇仲間であった田村が就職のため演劇を辞めると言い出て、
 松井の前から姿を消した。

 
 見渡せば、回りに誰もいなくなったことに若干の悲哀を感じつつも、松井は演劇部の部室に足を運んだ。
 秋風の中に行われた学園祭を最後に可愛い後輩とも別れ、
 大晦日に実家に戻って母と二人で正月を過ごしたことを除けば、 
 松井はたった一人切りでこの1年を過ごした。

 
 昨年の春まで演劇で供に汗を流した親友の田村までが卒業式に臨んでいたその日、
 大学の外に、自分の居場所を見いだそうと、
 この春先から通い始めた市中の劇団に、松井は足を踏みだそうとしていた。
 

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 38 
 
 ゆりの卒業式に合わせるように定村が日本に帰って来た。
 花曇りの春の日の午後、
 異国で1年間、張り詰めた空気の中で過ごした彼にとって、
 入国審査で日本人の列に並ぶという行為はある意味で格別だった。
 

 好む好まずに拘わらず、意識するしないに拘わらず、
 自分の中に流れる血や容姿を、良しにつけ悪しきにつけ、
 日本人として形容されるレッテルを、
 あらためて、定村は再認識することができた。
 
 
 差し出した赤いパスポートに、
 制服姿の若い女性が勢いよくスタンプを押した。
「ありがとうございます」と、彼は声を出して礼を述べた。
 
 
 ゆりの姿が目に入った。
 ロンドン以来1年ぶりに、成田空港で再会を果たして、
 二人は軽く抱擁した。
 

 このような時でも、冷静さを失うことがないゆりに促されて、
 側のベンチに定村が腰を下ろすと、待っていましたとばかりに、
 早起きして精魂込めて作ったお弁当を、彼女は赤いバッグから取り出した。
 
 
 半日を費やし、トイレに行くこと以外、
 動くこともままならなかったジャンボ機の中、
 3度の食事を残すことなく平らげてしまった定村は、
 目の前のゆりの手料理を食べない訳にもいかなかった。 
 

 然も空腹であるかのように、
 卵焼き、ウインナー、おにぎりを一つずつ丁寧に口に運んで、
 初めてゆりの味覚を確認するようにゆっくと食べた。
 デザートのうさぎの耳型に刻まれた一口サイズのリンゴ、
 最後に、半切りの蜜柑に手を伸ばし、
 薄いピンクの紅が光った彼女の唇に当てた。
 目を閉じたゆりの口に蜜柑を押し込むと同時に、
 定村は自分の唇を重ね合わせた。
 

 二人はリムジンバスに乗り込んだ。
 東関東自動車道をひた走り、
 低く垂れ込めた雲の隙間から時折覗かせる太陽の弱い光の中、
 混雑した2車線の首都高に入り、東京に戻ったことを実感して、 
 ゆりの手を強く握りしめた。
 
 バスを降りると、時が止まっている気がしてならなかった。 
 新宿の外れの鄙びたビルの一室でレコードに囲まれ、定村は過ごしていたのだ。
 

 電車に乗った。
 二人の実家のある街まで戻らず、そのまま大学を訪れることにした。
 門を潜ると、人影少ないキャンパスが目の前に現れた。
 

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 37
 
 ゆりが手紙を受け取ったのは実家に戻った当日の午後だった。
 大学の卒業式前に恵美子のアパートを引き払い、
 届いたばかりの荷物で溢れた部屋で、
 いつもながらの長い定村の手紙を読みながら、
 便箋を持ったまま、ゆりは床に腰を降ろした。
 

 実家に戻った今となっては、
 夢や空想の世界から現実に戻らなければいけないが、
 もう一度、夢見心地な手紙の世界へと浸ったのである。

 
 手紙の大学2回生の頃という下りに目を入れた。
 そういえば、この1年、わたしは一体何をしていたのかしら。
 昨年の初春、二人は花の都でパリで偶然出会った。
 愛を交わした後、ゆりはヨーロッパの旅へ、
 定村はロンドンへ、離れ離れになりがらも、
 アテネからロンドンまで飛んだ彼女は彼と再会を果たした。
 
 
 再びの別れ、帰国した途端、
 ゆりは成田空港から誰かの声が無性に聴きたくて、
 ゼミ仲間とはいえ、それほど親しくなかった同級生の恵美子に電話を掛けた。
 その足で恵美子の部屋に寄ったことがきっかけとなって、
 これから1年間ロンドンと東京で離れ離れで、
 定村に会えない寂しさを補うように、恵美子の共同生活を始めたのである。
 
 
 3年前、2回生だったゆりが受講したジョイスの講義を、
 定村はどうして鮮やかに思い出すことができたのだろう。
 あの場所に彼がいたことも、彼女は知らなかった。 
 偶然に定村と同じ講義を受けていたのだ。

 
 言われて見れば、身なりや顔立ちでは年齢や身分を判断しずらい得意なキャラクターの先生がアイルランド出身の作家を題材にしたのを朧気ながらに覚えている。

 それが天才と言われながらも、現実の世界では良いことの一つにも巡り逢うことがなく、
 芸術家にありがちなように、
 ジョイスは不幸に生きることしかできなかったのだ。
 

 それが故に絵の中に自分を見出した偉大な画家たちと同じく、
 絵筆をペンに持ちかえて、ジョイスは文章の中に魂を挿入した。
 ジョイスが得たものといえば死後の名声と妻と社会との接点を築けなかった息子と娘の二人の子供だけと言ってもよかった。
 

 ジョイスが後に妻となった恋人と母国のアイルランドを離れて、
 スイスのチューリヒに入り、フランスで暮らしながらも、
 チューリヒに戻って死んだことを、
 彼の手紙を読む事によって、あの頃を思い出したのである。
 
 
 当時、二十歳のゆりは、国の法律では大人の仲間入りを果たしとはいえ、
 ネンネの女子大生だった。
 大学では通常の講義の他に、学芸員になるための講義も受けるため、スケジュールは一杯だった。
 

 サークルに参加することもなく、ボーイフレンドの一人もできず、
 キャンパスでも街でもナンパされることもなかった。
 人生で最も楽しいはずの、夢一杯の、乙女の心すら持たず、
 誰から強制されることもなく、 
 自分の意思というよりは、飼い犬がリードで繋がれるように、
 家と会社を往復するサラリーマン顔負けに毎日大学に通っては家に戻るという、
 判で押したような日々だった。
 
 
 
 そうは言っても、ゆりに少なからず自立心は芽生えていた。
 成人に達し、来春には成人式を迎えるということで、
 両親を拝み倒し、許可を得て、
 初めての一人旅のヨーロッパに出掛ける夏休み直前だった。
 そうだ、絶対に自動車運転免許を手に入れてみせると意気込んでいた。

 
 大学の帰り、ゆりは山手線の乗ってある駅で降りた。
 仮免は取っていたが、
 助手席で短い足を伸ばした先生と呼ばれる中年おやじの、
 死肉のような足の臭いに頭をくらくらさせながら、
 ひっきりなしに車が通る大通りを、
 車が擦れ違うことも難しい用水路沿いの道を、
 ママさんの自転車や小学生や老人達が行き交う生活道路を、
 ポマードで目がチカチカするのに耐えながら『右だ左だ』
『ブレーキだ』『クラッチだ』オヤジの罵声を聞き流して、
 タクシーにしか見えない、冴えない車を走らせていた。

 
 そういえば、仮免までの先生は、自動車教習所には珍しい、
 わたしより5つほど上の色の白い、20代半ばの感じの良い女性で、
 聞くところによると、高校時代の同級生の旦那さんが塾の講師をしながら司法試験の合格目指していると。
 

 その先生が妊娠して、これ以上仕事を続けられないということで、 
 彼女に代わってポマードおやじが現れたのだ。
 

 ゆりどうにか、ヨーロッパに向かう前に合格した。
 ただ、実際に免許証を手にしたのは、
 フランスから帰国して1週間後。
 初めての海外一人旅で家に戻って途端、
 発熱して、ゆりは5日間寝込んでしまったのだ。
 
 
 あの自動車教習所の女の先生は今頃何をしているのかしら。
 まだ、山手線のあの場所で、
 若葉マークも付かない生徒たちを指導しているのかしら。
 それとも、弁護士さんか、検事さんか、判事さんの奥さんとなって、
 可愛いお子さんを抱いたママになっているのかしら。
 もう一度彼女に会ってみたくなった。
 

 この大都会の空の下、若しくは日本のどこから街の裁判所で、
 彼女ならしっかりと生きているはずだ。
 定村の手紙はゆりが二十歳の頃に出会った、
 お姉さんのような自動車学校の先生を想いださせた。
 しかしながら、現実のゆりは、月に1度程度、
 父親のシトロエンBXのハンドルを握る時だけ、
 それも、1年近くご無沙汰である。

 
 ゆりは手紙に顔を埋めて目を閉じた。
 国際電話を受けたのは自分のベッドで目覚めた翌朝だった。
 

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 36
 
 前略。 
  君の方が数段ヨーロッパに詳しいのは百も承知なので、
 つい、僕はペンを取る機会を失っていました。

 
 英国滞在の終わりを告げるように、
 僕はロンドンのフラットを出て、ヴィクトリア駅の側からアムステルダム行きの深夜バスに乗り込んだ。
 

 翌朝、アムスに着くなり、君の専門の絵画が観たくなって、
 ゴッホ美術館に足を進めた結果、
 日本人がどうしてゴッホを大好きなのか、その謎が解けた気がします。
 今から百年前の19世紀後半、
 日本に憧れ、浮世絵に恋していると公言したゴッホの作品に、
 多くの日本人が惹かれのも当然といえば当然ではないでしょうか。
 
 
 戦争で死んでいった兵士や空襲で亡くなった人が聞けば、
 さぞかし目を回してしまいそうな、
 ここ数年のバブルで、アメリカを抜いて世界一の富を得たと、
 浮かれ切った輩まで出てくる現代の日本で、
 泡銭を手にした少数の人がゴッホの作品を買い漁りたい気持ちもわからなくもありません。
 

 鎖国当時の江戸時代、長崎の出島に行き来していた頃、
 ゴッホの母国オランダは世界一の金持ちと言われた時代でした。
 当時、オランダは海洋国家として世界を股に掛けていた。
 

 ロンドンに代わり、20世紀の世界の首都となったニューヨークの基礎を築いたのもオランダ人。 
 元々ニューアムステルダムと呼ばれたニューヨークは、
 主にオランダ人が入植して出来上がった街です。
 その後、イタリア人やアイルランド人やユダヤ人やヒスパニックや黒人や中国人や雑多な人種宗教肌の色で構成される、
 モザイクな都市としてへと変貌しました。

 
 オランダといえばチューリップと水車ですが、
 オランダに世界の富が集まった結果、チューリップの球根が高値を付け、
 金が金を呼ぶという異様な事態に陥った。
 人の欲とは恐ろしい。
 

 もっともっと高い値を付けろ。
 人々はチューリップの球根に熱中します。
 誰もが我先にと球根を手に入れようとして、
 たかだかと言っては失礼でしょうか、球根の高値が高値を呼びました。
 

 そして、ある日、突然、弾けてしまった。
 そのような愚かな行為を悲しい歴史を振り返り、
 僕には馬鹿にする気など微塵もないのですが、
 現代の日本も当時のオランダと本質的に同じ過ちに陥っているのではないでしょうか。
 バブルに浮かれる現代の日本人は絵画に限らず、音楽に限らず、 文学に限らず、
 演劇に限らず、
 自分の鑑賞眼、物差しがないのですから、
 これが世界一であるという世絶対のお済付きが必要な訳で、
 悲劇的な生涯を送った日本贔屓のゴッホは格好の材料ではないでしょうか。
 

 生前のゴッホがどのような思いで絵を描き、
 創作活動を行っていたか、
 彼らは想像すらできないでしょう。
 悲しいですが、
 バブルに浮かれる紳士淑女をこけにするのが、
 僕にとっての存在意義の証明です。
 

 現実問題、ゴッホの絵を買う気もなければ、買うこともできません。
 その代わりと言っては何ですが、
 ゴッホの描いた広重の浮世絵の模写を、僕の瞼にしっかりと焼き付けました。
 
 
 アムスの街を出るにあたり、
 僕はバスから鉄道に乗り換えることにした。
 街の交差点とも吹きだまりといえるダム広場付近で、
 薬の売人なのか疑わしいのですが、
 どう見てもオランダ人には見えない、
 人種や国籍を断定できない、妙な二人組が僕に声を掛けた。
 

 咄嗟に1年ほど前、都内で電車に乗っている最中、
 ある男と目が合って、すぐさま肩をぶつけられたことを思い出した。
 ここは日本と違って不慣れなオランダ。
 まして初めて訪れた、ジャンキー天国のアムステルダム。
 

『相手にしないに限る』

 無視して足を進めていていると、そのうちの一人が近づいて、
 腕を小突くではないではないですが。
 僕はすぐ目の中央駅まで小走りに駆け出した。
 もう一人の男が追い掛けてくる。
 

 僕は全力で走った。
 タイムを計ってなかったのが残念ですが、
 ロス・オリンピックの金メダリスト、世界一速い男、
 カール・ルイスより、僕の足は早かったのではないしょうか。

 
 一足先に中央駅の構内に入り、
 荷物を預けていたコインロッカーの前まで辿り着きました。
 この時ほど、安堵したことは今まで経験がありません。
 すぐさま、バッグを引っ張り出して、フラットフォームまで急ぎました。

 
 腕時計の文字盤に何度も目を移した。
 2分、5分経っても、電車は現れません。
 15分後、ようやく、電車がその姿を現わした。
 世界一長い待ち時間でした。
 

 予定時間を大幅に遅れて、重い車体を引き摺るように電車は走り出した。
 深い息をついて、自由席のシートに腰を降ろしました。
 窓の外の景色がアムスの街並みから田園風景に、
 辺りがとっぷりと暮れるようになってようやく、
 男が追って来ないことを、僕は確信した。

 
 隣で若い男が長い足を折るようにしてペーパーバックで小説を読んでいます。
 車内を見渡すと、出島を窓口に唯一の西洋として、
 蘭学、医学、多種多様な先進的な学問の供給地としてのオランダも、
 東京オリンピック後の経済成長で著しい発展を遂げた現代の鉄道大国の日本と比較すれば、どこか古びて垢抜けなかった。
 
車両はオランダのアムステルダムの中央駅から国中を横切るようにして一路西ドイツ国境を目指します。
 

 真夜中、西ドイツのハノーバーで電車を乗り換えました。
 数時間の後、電車は東ドイツ国内に入り、
 まだ太陽が顔を出さない明け方、
 僕は西ドイツのベルリンの人となったのです。
 

 ベルリンといっても、残念なことに、僕がこの両足で触れるの許されたのは壁に囲まれた、
 ベルリンの半分に過ぎない西ベルリンでした。
 
 
 誰から教わった訳でもなく、本を読んだ訳でもないのに、
 まるで前世の記憶を辿るように、
 子供の頃から病的に憧れて仕方なかったポツダムには、 
 結局、行くことができませんでした。
 

 その反動から、アムスで触れたゴッホの影響もあったのでしょうが、
 絵描きに憧れながらも、夢が叶うことがなかった総統が没した帝都ベルリンで、
 我も忘れて、僕は絵を見まくった。
 
 
 何度読もうとしても匙を投げた我が闘争に後ろ髪を引かれるように、
 深夜のベルリンZOO駅のフラットフォームに寒風が吹き付ける中、30分近く待たされてようやく、僕は夜行寝台に乗り込んだ。
 

 夜が明けると、ドイツ人以上に愛想のない人々が暮らす、
 永世中立国スイスのチューリヒです。
 なまじっか、大学でドイツ語を齧った手前、
 本場ドイツの帝都から流れて来たからでしょうか、
 少々なまったドイツ語に、僕は奇異を感じました。

 
 世界的な大都市の東京やロンドンと比較するまでなく、
 アムステルダムでさえマンモスに想えるほど、
 チューリヒはジグゾーパズルに埋め込まれた箱庭のような都市です。
 無愛想でつんとした気取り屋ばかりが大手を振る、
 銀行と路面電車だけの街でした。
 
 
 僕の記憶が正しければ、大学2回生の頃、
 眠くて仕方のない、初夏の若葉が手繰れそうな、お昼過ぎの講義でした。
 君も僕と同じ講義を受講していたのではなかったでしょうか。

 
 自分の専門分野の文学に留まらず、頭のてっぺんから爪先まで、
 身に纏うすべてが、ファンションから音楽から、
 何から何まで英国かぶれの講師が
 この日のテキストの題材に選んだジョイスが、
 亡命者のように母国を捨て、このチューリヒの街に流れ、
 奇遇にもこの街で死ぬことになった、
 アイルランドが生んだ天才作家がチューリヒに永眠していることも付け加えておきます。
 
 
 これは僕の持論でもあるのですが、基本的に言葉と言葉を紡ぎ、
 文章によって物語を創作する小説家という人種は、
 キャンパスという絵の中に自分の魂の分身を描く、
 ゴッホやゴーギャンのような絵描きと相通ずるところがあるように想えてなりません。
 君と同じく、僕は芸術を嗜好する、文学部の学生です。
 

 経済音痴の僕は、将来、
 銀行家にも証券マンにもなる予定も見込みもありませんが、
 この少々胡散臭い世界的な金融都市にたった半日で飽きてしまった。
 
 
 何の未練もなく、チューリヒを後にした。
 駅に戻り、スイスご自慢の鉄道の乗って、
 首都のベルン、ローザンヌに立ち寄っては通過を繰り返しました。
 スイスという面白くも可笑しくもない国で、
 多少気落ちした僕の前に次に現れたのは、
 目にも眩しいレマン湖の輝きでした。
 

 驚いたといえば、レマン湖の公衆トイレの男性便器の位置がとても高かったことです。
 これには巨人揃いのオランダ人も驚くのではないでしょうか。
 レマンの湖畔を散策した後で僕を待っていたのは、
 宗教革命のカルビンの本拠地、スイスの西の端に位置する、
 今朝、スイスに入国した際に訪れたチューリヒと国を二分する、ジュネーブ。
 

 国連機関でも有名なこの街を訪れた時はもう早春の陽はとっぷりと暮れ落ちていた。
 ここジュネーブはレマン湖の延長線上に美しい街です。
 

 駅から、当てずっぽに街を10分も歩いたでしょうか、
 小綺麗なレストランを探り当てました。
 ドアを潜った僕は、仄かに照らされた電球色の中に見つけ出した、
 カウンターキッチンの一番の奥のテーブルに席に座り、
 どこか自信なさげで店内を見渡していると、 
 影のように姿を現したのは、
 蝶ネクタイを締めた年配のウェイターでした。

 
「ボンソワール」
 彼は少年のようにはにかんで、僕のオーダーを待っていました。
 ジュネーブはチューリヒと違ってフランス語圏ということもあって、愛想があるのでしょう。 
  

 偏見なのかもしれませんが、
 この街に一歩を踏み出した以上に、まったく別の国を訪れた錯覚に陥りました。
 ジュネーブにこれくらい誉めても罰は当たらないでしょう。
 

 くどくなるかもしれませんが、
 中学生でも知っている程度の僕の知識を披露しましょう。
 スイスは面積において九州程度の小国ですが、
 言語一つとっても、公用語がドイツ語、フランス語、イタリア語、
 それにもう一つあるやなしやと言われています。
 政治的はより複雑なようで、別名小さな合衆国とも呼ばれているようです。

 
 基本的には村社会の中で暮らす日本人の物差しでは計りえない、
 進歩的なようで保守的、金融と軍事の2本柱の国が、
 僕にとってのスイスのイメージです。
 

 子供心にテレビのアニメーションで眺めた、
 アルプスの少女ハイジの連想からはかけ離れた、一筋縄ではいかないというのが、
 スイスという国の印象です。
 美しいジュネーブの街で、フランス風な味しいディナーを食べ終えた僕はスイス国境を越えました。
 

 今、僕はずっと文化的なフランスのリヨンにいます。
 リヨンといえばフランスかぶれで自らが通人と名乗る、
 街歩きである達人である永井荷風を真似ようと、
 僕はリヨンの街を彷徨いました。
 
 
 薄塩の効いパンと酸味の効いたチーズを齧り、
 露天で買ったワッフルを摘み、牛乳を飲み、エヴィアンを飲み、
 雨に打たれ、寒風に曝され、駅の周辺に屯する、赤子を抱いたジプシーに金をせびられもしました。
 

 日が一日、僕は足を棒にして、リヨンの街を歩きました。
 疲れると、公園のベンチに横になって寝ついてしまった僕の足を、誰かが揺すった。
 ホームレスでした。
 
 飛び起きて、走り出し、目に入ったバスに飛び乗った。
 地下鉄に乗り、バスを乗り継いで、また新たな場所を求めて、  
 僕は歩き出した。
 

 このようにして、リヨンで3日間を過ごしました。
 深夜の英国を離れて以来、
 荷風の愛したリヨンで雑念を廃し頭が空っぽになったことで、
 日本と同じく島国の英国からヨーロッパに旅して初めて、
 僕は君に手紙を出すことを思いついたのです。
 
 
 パスポートを見ないとはっきりとしたことは言えませんが、
 ロンドンを発って、もう半月近く経っているような気がします。
 夜も深まって、だいぶお腹も空いてきました。
 明日の朝、君と出会い、そして別れたパリへ発ちます。
 

 しばらくのんびりするつもりです。
 それから、僕は君が待つ東京へ戻ります。
 君の手紙にあったように、もう友人のアパートを離れて実家に戻っている頃でしょう。
 故にこの手紙に実家へと送ります。

 
 愛するゆりへ、英一郎より。
 

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 35
 
 もし仮に、定村が深夜長距離バスという交通手段と使わず、
 アタッシュケースを小脇に抱え、仕立ての良い濃紺のスーツに身を包み、
 シティのビジネスマンのようでジェット機で地上に舞い上がり、
 英国とヨーロッパ大陸を一跨ぎにしていれば、
 1時間足らず、オランダのスキポール空港に着いていただろう。
 

 しかし、彼は暇人であろうか、
 ここまで辿り着くのにざっと半日を費やした。
 

 バスから解放された定村は、
 東京駅がモデルにしたと言われるアムステダルダムの中央駅を背後にして、
 カナダ国旗をデザインしたバックパッカーのカップルの後からダム広場に向けて歩いていた。
 
 
 人の往来が活発とは言い難い、朝のアムスデルダムの街の一端に、
 新宿歌舞伎町の裏町を彷彿させる、エロスの通りに場面は移った。
 つい先訪れた、英国はブリテン島の南部のモッズの聖地であり、 
 上品な港街のブライトンとは対照的に、
 まずは大人のおもちゃ屋が彼の目に飛び込んだ。
 

 次に、パリの下町同様、バブの2階がホテルになっていた。
 エログロという言葉が妙にしっくりとくる猥雑さと下品さの狭間で、
 五感は妙にとぎすまされていたが、足どりは重かった。

 
 ここで腰を落ち着けたかったが、
 どうにも、妥協点できず、通りを一本移った。
 すると、もっとマシなホテルが彼の視界に入った。
 

 フロントでパスポートを提示して、若い男に部屋のキーを渡され
 2階の部屋に入るなり、バッグを床の上に放り投げて、
 定村はベッドで大の字になった。
 
 
 どこからか軽快なロックサウンドが流れてくる。 
 6畳ほどの部屋の四隅を見渡してみても、
 小型スピーカーの欠片も見当たらなかった。
 

 よくよく聴いてみると、音源はバッグの中のようで、
 ベッドから這い出して、黒いバッグのプラスティックのファスナーを引っ張り開けると、
 ソニーの小型ラジオがローリング・ストーンズのビッチを奏でていた。
 

 定村が真っ先の向かったのはゴッホ美術館だった。
 サマセット・モームが特別に好きという訳ではなかったが、
 ゴーギャンをモデルにした、「月と六ペンス」だけは大好きだった。
 
 
 英国人作者のモームはフランス人であるゴーギャンを小説の主人公ストリックランドを英国人に仕立て、
 語り手として、モームを連想させる若手の物書きを僕とした。
 

 妻子を捨てた捨てパリに渡ったストリックランドは芸術の都で旧友のオランダ人と再会した。
 自らの才能という点では凡夫であっても、
 オランダ人はストリックランドの天才をいち早く見抜いていた。
 
 
 オランダ人は重病で命を落とし兼ねなかったストリックランドを懸命に看病し、
 その後も何かと世話を焼いたあげくの果てに、
 妻を寝取られ、発狂した妻の死後、彼は郷里のオランダに帰った。
 
 
 一組の夫婦が想像もできないような悲劇的な結末に終わっても、
 ストリックランドは何事もなかったかのようには彼にとっての約束の地ともいえるタヒチへと旅発った。
 

 西洋人が島を訪れ、世俗化したタヒチを嘆いたストリックランドは、
 原始を求めて島の奥地へと足を運んで絵を描き続けた。
 

 その後、ストリックランドは多くの作品と妻と子を残し、
 病に侵され南海の楽園で死んでいった。
 彼が世に出たのはゴッホと同じく死後のことだった。
 
 
 今日において、ゴッホとゴーギャンの関係は、
 それほど美術に興味がない人達でさえも、興味をそそられるほどに有名な事柄であるが、
 二人が南フランスのアルルで共同生活をしていた当時、二人はその日暮らしの貧乏画家に過ぎなかった。

 
 19世紀の後半、ジャポニズムの嵐が押し寄せたヨーロッパで、
 オランダからパリに出ていたゴッホは模写も試みるほど浮世絵に熱中した。
 

 百年前、ゴッホが彼自身のイメージの中で憧れの日本に似ていると感じた、
 パリに比べて格段に気候の良い、陽の光の強い、
 南フランスのアルルに向かった。 
 ゴッホはそこで供に絵筆を握ろうと、慕っていたゴーギャンを呼び寄せた。
 

 
 その後、天才と呼ばれる二人の画家の奇妙な共同生活、
 アルルで過ごした短い年月は、
 絵に自らの魂を挿入するという画家としての自我のぶつかり合いの中から破局が生まれた。
 
 
 ゴッホが発作的に自分の耳を切ってしまうという不幸な経験は、
 言い換えれば、ゴーギャン、ゴッホの二人がそれまで心の奥底に仕舞い溜め込んでいた彼らのモチーフを次の段階へと昇華させ、新たなる作品を生み出すエネルギーへと代えることで成就した。
 

 ゴーギャンは、「月の六ペンス」よろしく、タヒチに向かった。
 対するゴッホは、アルルから近郊のサン・レミの療養所に入って、
 迫り来る精神の病魔と闘いながらも渾身の力で絵筆を握った。
 

 そこで、数々の傑作を書き上げたのである。
 ゴッホはただ一人の理解者にして画商として彼を支え続けた弟のテオの勧めで、
 1年間過ごしたサン・レミを離れ、
 ゴッホが生涯に唯一、描いた絵でお金と得たといわれ、
 彼の最期を看取った精神科医でもあったガシェ博士のいる、
 パリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズに移った。

 
 ゴッホの死後、兄の追うように、没後半年で弟のテオが翌年亡くなった。
 テオの妻ヨーが夫の志を継いで、
 ようやく、ゴッホの絵が世間に認められる時が来た。
 

 その後、テオとヨー夫妻の子孫がゴッホ美術館の誕生に一役買うことになるのである。
 ゴッホの生きた19世紀はともかく、
 彼が留まることがなかったといわれるアムステルダムの街で、
 定村の目に映った百年後の情景は、
 ゴッホの色彩感覚がどうこうというよりも、
 ただただ、オランダ人はでかいということだ。
 

 男もでかければ、その子供を産む女もまたでかかった。
 聞きしに勝る、巨人揃いである。
 
 
 ゴッホ美術館までの道中、
 創造的な音楽を作り続ける、
 インディーズ・レコードのラフ・トレードを訪れたついでに、
 ロンドンのポートベローのマーケットで、
 古着、アンティークな家具で賑わう惹かれたように、
 ノミの市で有名なアムスの露天の亭主が突如として、
 定村が英国では一度として見なかった、
 ほくそ笑むヤクの売人へと変貌したのは、
 言葉もないほどの驚きだった。
 

 静けさなの中に潜む不気味さを滲ませるのがアムステルダム。
 それにしても、聞きしに勝るジャンキー・ワールド。
 クリークのような細い運河を、絵の中に描かれてしかるべき、
 おもちゃのような小さな橋を渡った。
 

 それでも、彼の目指すゴッホの館は、その姿を現してはくれなかった。
 仕方なく、とっさに目についたベビーカーを押す若い女性にゴッホ美術館の場所を訪ねた。
 しかしながら、彼の英語が上手く伝わらず、
『ファン・ゴッホ』『ファン・ゴッホ』と、何度か繰り返して、
 ようやく彼女は彼の意を察してくれた。
 
 
 水先案内人のママさんに教えられた通りに歩み進み現れたのは、
 オランダがかつて植民地化したインドネシアを特集する美術館のようだった。
 気を取り直して、隣の建物に目を遣った。
 こうして、彼はゴッホ美術館に辿り着くことができた。
 
 
 定村は一枚の絵の前で足を止めた。
 本題の枠の外には、朱色で書き殴られたような漢字の羅列、
 肝心の絵のほうは、浮世絵の模写のようで、
 アルルに移る前の頃の作品のようで、
 すでにゴッホがジャポニズムに心酔しているのがはっきりと観てとれた。
 絵のほうは、川に掛かった木橋の上で、大雨の中、笠や蓑で雨をよけようとする数名の通行人。
 

 対照的に川の中で、一人の小舟を操る男が、
 引っ掻いたような雨足の中に写し出されている。
 

 一転、定村は壁が崩壊する前のベルリンにいた。
 ベルリンといえば、森鴎外の舞姫である。
 だが、残念ながら、鴎外のロマンスを生んだこの地は、
 文豪が愛を育んだ明治の時代と変わり果てていた。
 

 先の大戦で日本と同様、瓦礫の中の敗戦国となったドイツは、
 無残にも戦勝国のソ連、アメリカ、イギリス、フランスによって、
 首都のベルリンを国家同様に分断された。

  
 真冬の真っ暗闇の早朝、西ドイツのハノーバーを経由して寝台列車に乗り込んだ定村は、    危惧していた東ベルリンに放り出されることもなく、
 西ベルリンの鉄道の玄関、ZOO駅で無事に下車した。

 
 帝都ベルリンを隔て覆い尽くす壁、
 チェックポイントチャーリー、
 西ベルリンと東ベルリンとの分岐点しての役目も担う、
 凱旋門としのブランデルグ門。
 

 それらの縁を巡り、取り憑かれたように、定村は西ベルリンの街を歩き続けた。
 ヨーロッパでよく見られる石畳に足を取られ、
 犬の糞を踏み、そのうえ、足を挫いてしまった。
 

 石畳にスニーカーをこすりつけても、こすりつけても、
 グレート・デーンかシェパードが垂れ流した尿と糞の臭いが、
 不幸にも、彼の足元から早々消えることがなかった。
 
 
 足を引き摺り、
 白い天井が見上げるほどに高いホテルに戻ってまでも、
 部屋に篭もる犬の糞臭に鼻をよじらせた定村は、 
 デスクの椅子を反転せて、無造作に挫いた足を伸ばした。
 
 
 テレビのモニターから写し出される、
 金髪青目のニュースキャスターが発する抑揚ないドイツを聴いているうちに、
 子供時代から憑き物のように、
 大日本帝国が大東亜戦争の敗戦を受け入たポツダムのことばかり、 定村は考え込んだ。
 
 
 ロンドン以上の凍える寒さのベルリンで丸3日を過ごした定村は、 
 あれほどまでに願ったポツダムを始めとする東ドイツへの周遊は、 結局、叶わなかった。

 
 その代わりと言ってはなんだが、挫いた足がむくむほど、
 スニーカーにこびり付いた犬の糞臭が消え去るほど、
 定村はベルリンの街を歩き続けた。
 
 
 三日三晩と言葉が決して大仰でないほど、
 ひまわりのような太陽も、抜けるようなアルルの青空も、
 ゴッホもゴーギャンもいなかった。
 
 
 絵描きになり損ね、結果として、
 第三帝国の総統まで上り詰めたヒトラーが没したベルリンで、
 瀕死の赤い熊が操るソビエト帝国という見えない壁に怯えた、
 東ドイツが建設した、
 社会主義と資本主義を隔てた現実の壁が仕切る、
 いびつに暗いだけの西ベルリンという要塞都市で
 彼は手当たり次第に美術館に入っては出てを繰り返した。
 

 時間が過ぎたと、係りの者に背中を押されて追い出されながらも、
 愛するゆりに手紙を書くことも忘れて、
 頭が空っぽになってしまうほどう、定村は大量の絵を見続けていたのである。
 

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