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2017-11-13 02:01:21

道が復旧!市原隼人氏も絶賛した神秘のにこ淵と西滝

テーマ:素晴らしい景勝地と史跡

[神聖なる碧い淵と新・高知県一の滝]

映画「サムライせんせい」(11月18日高知先行公開)のロケで先々月頃、高知県を訪れていた市原隼人氏はクランクアップ後も一日、プライベートで高知に宿泊し、いの町のにこ淵や県境に広がる四国カルストを探勝後、愛媛県に抜けて帰路に着いた。隼人氏は写真が趣味のため、太陽光の当たり具合によっては、水面が神秘的なエメラルドグリーンに輝くにこ渕を訪れたのだろう。

 

近年、滝を擁すにこ渕は全国放送のテレビ番組等で取り上げられたことにより、県内外から観光客が押し寄せるようになり、今日(11/12)も渕への下り口に近い駐車スペースとその斜め向かいの広場は満車となっていた。これはフィンガー5の晃や仮面ライダー・ドライブのショーが行れた「グリーンパークほどの」でのもみじ祭りも影響しているものと思われる。

 

当方はにこ渕がどんな番組で放送されたのか、いつ、探勝路が整備されたのかは知らないが、崖下にあることや大蛇の神が棲む伝説があることから、元々地元民が訪れることは殆どなかった。

 

大蛇の神とは元々、高知城下の商家の娘で、父親があくどい儲け方をしていたため、神罰が娘に当たって肌がウロコのようになったという。

年頃だった娘は城下を離れ、にこ渕近くまで来た際、民家に一夜の宿を乞うたのだが、「就寝時、絶対覗かないで下さい」という娘の言葉を無視して主人が覗くと、大蛇がとぐろを巻いていた。

翌朝、娘は民家を後にする際、主人に「あれほど約束したのに」と言い残し、にこ渕に入水してそこの主になったという。

 

公的サイトではにこ渕での飲食、入水、トイレを禁じる注意書きをしてあるが、以前、述べたように過去、この禁止事項を破った若者のグループが事故に遭っている。ここはレジャー地ではなく、神聖なる場所であることを肝に銘じた上で探訪して戴きたい。神が住まうからこその美しさ、とも言える。

 

そんな幻想的なにこ渕だが、11/12は探勝路下り口に警備員が終日立って、観光客が立ち入らないようにしていた。これは先月下旬の台風21号によって道沿いで土砂崩れが起こったため。普段、警備員が立つことはなく、ただ単に立入禁止バーが設置されているだけなのだが、もみじ祭りで観光客が倍増することによる措置だったようである。

 

しかし事前にいの町観光協会に問い合わせると、立ち入る観光客もたまにいるようなので、警備員の立つ正規コースではなく、その下り口の谷を挟んだ北側から斜面を下る踏み跡を辿ってみた。

 

踏み跡はやや下ると三差路に達し、そこを左折すると前述の谷に突き当たって終わっていた。が、対岸には国土調査のテープが巻き付けられていたため、歩き易そうな箇所に立ってみると、そこはにこ渕に落下する滝の横の崖だった(2枚目写真)。

 

木々に掴まりながらヤブ漕ぎして崖を下流に進むと探勝路の左急カーブ下方に出た。そこから土砂や倒木を乗り越え、足を泥だらけにしながら探勝路に出ると、土砂崩れ箇所は皆無だった。どうやら土砂は撤去されているようである。

 

しかし数日前、いの町観光協会に問い合わせると復旧は未定、グリーンパークほどのでは復旧は12月以降になるだろうとのことだった。と、いうことは、土砂は地元有志が撤去したのだろうか。ただ、鎖場やロープ、梯子は土砂の影響か泥だらけなのでハイキンググローブや軍手は必須。

 

神秘的なエメラルドグリーンを見るには、午後より午前の方が良さそうである。早朝も不向きだろう。

ところで、前述の踏み跡の下り口を過ぎると道路からかつて「吾北のナイアガラ」と呼ばれた、程野滝(四つの滝の総称)が懸かる断崖を仰ぐことができるが、高倍率のカメラズームで程野滝の一つ、西滝(地形図では「程野滝」と表記)の一部を捉えることができる。

 

程野滝は’90年代半ば、戸中山へ登った際、探訪したのだが、全景の写真は撮ってなかった。故に滝の落差の記憶もなかったのだが、先日、改めて西滝展望所から西滝の全景を見てみると、落差は明らかに愛媛県一の滝・高瀑(132m)を超えている。以前紹介した県内の赤滝は大雨が連日続くと落差は200m近くになり、西又東谷は200数十m以上になるが、常時ある水量の落差で言えば、この西滝が高知県一だろう。尤も、探訪地点の景観で言えば、程野滝では西滝より東滝(別称:トトロ滝)の方が見応えがある。

 

にこ渕のように、実際には探勝路が通れるにも拘らず、土砂や落石により通行を禁止する旨の看板やロープが設置されてある滝が黒潮町にもある。「朝鍋轟の滝」(上の地図。その上の写真は滝の天辺。更に上の写真は全景)である。流石にハイヒールでは歩くことができないが、革靴なら歩ける。

 

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2017-11-10 01:48:50

新旧の海援隊長が駆け抜けた越知町の街(1)

テーマ:龍馬と志士らの街道

[番所跡と松山街道]

以前、坂本龍馬が勤王活動に於いて、高知県越知町の松山街道の焼坂にあった西ノ向茶屋で休憩した伝承があることを述べた。また、龍馬亡き後の新海援隊長として香川県の中讃地方の本土や島嶼部の統治にあたり、その後、坂本乙女を龍馬の墓参に案内した長岡謙吉も安政6年、この土佐四大街道の一つ、松山街道を通って脱藩している。嘉永57月にはジョン万次郎も帰国時に通った。

 

焼坂の登り口は横畠にあるが、そこに行くまでには越知の中心街(旧越知村)と今成を通過する。越知の中心街は藩政期、佐川土居の家老・深尾氏の政策により、商業が禁じられていたため、明治から昭和期のような活気はなかったが、松山街道と田中光顕らが脱藩時に通った赤土峠から北上する往還、仁淀川町の旧仁淀村中心地へと向かう森往還とが交差する交通の要衝でもあるため、複数の番所が設置されていた。森往還は以前解説した、那須信吾が脱藩後、兄に宛てた書状に記してあった脱藩ルート(偽の)の一部でもある。

 

郷土書や古文献を見ると越知中心街の松山街道には、「越知番所」と「仁淀川赤尾津之口番所」があったことが分かる。前者は元越知史談会長によると、松山街道・下渡通り(しもわたしどおり)沿いの武家・西家(上の写真と下方の地図)ということだったが、そこはあまりにも仁淀川赤尾津之口番所に近接しているため、位置的に可笑しい。西家は番所の番頭だったのではないだろうか。

 

位置的に考えられるのは、赤土峠から北上してきた往還が松山街道に合流した地点の西側、森往還が分岐する下渡通り入口の三差路である。越知郵便局(片岡商店跡)か、その向かいの岡邸(人力車の立場跡)、若しくは南側の佐野屋本店かその隣の居酒屋・たけ村の地が自然である。

 

仁淀川赤尾津之口番所については各文献に、松山街道の仁淀川の渡しである「三ツ尾の渡し」にあった旨、述べられている。渡し付近に番所が建てられていたとすれば、渡し跡碑が建立されている広場の地しかない(下方の写真とその下方の地図)。建立したのは越知史談会創設メンバーでもある前述の武家子孫・西氏である。

 

それら番所の総責任者は番頭で、通行人をチェックする番人を任命していた。番人の指示の下、周辺の村々で組織された番役組合から送足や伝馬を出し、越知番所から仁淀川町の池川口番所まで荷物や書簡を運搬していた。

 

西氏は元、黒岩郷中野に居住し、長宗我部元親の家臣だったが、山内氏入国後は場所柄、自動的に家老・深尾氏の家臣となった。越知村に西家が移った理由は当主が早世し、その妻が享和元年(1801)、長男・西右衛門を連れて当地の森家に嫁いだため。森西右衛門は森家当主になった後、姓を「西」に戻し、越知村西家の宗家となった。

 

幕末の深尾氏は拙著でも述べたように、高岡郡奉行所での家中裁判権の裁定を巡り、藩政・吉田東洋と対立したことにより、勤王思想に深く傾倒していた。龍馬が勤王活動の一環として松山街道を探索していたとしても、西氏も特に咎めるようなことはなかっただろう。

 

松山街道は慶応41月、松山征討のため、土佐軍1610人が通過した。征討軍の総督は深尾家分家の深尾左馬之助だったが、この左馬之助が行軍時の123日、西家(下の写真)に宿泊したのである。当時の屋敷は長州大工によって建てられ、特に欄間は豪華だったという。

 

大正6年に西家当主となった俊治氏(三ツ尾の渡し跡碑建立者)は、脱藩の道の拙著でも触れた佐川町と津野町との境界・朽木峠(下方の写真は峠道)での陸軍陣地構築作業に於ける食糧調達の命を町長から受け、昭和20815日、斗賀野村役場に向かったところ、玉音放送を聴くことになる。

 

そんな俊治氏は昭和22年、戦後初の公選町長となり、まず仁淀川の改修を行った。しかし翌年、町民税不払い問題が起こり、24年、町長不信任案が議会に提出されたことにより、俊治氏は辞表を提出、受理された。

俊治氏は郷土愛も強く、昭和30年、越知史談会を結成し、昭和54年には越知町史編纂委員長にもなり、5年後、1200ページを超える町史を完成させた。

 

越知の街中から横畠南までの松山街道沿いの史跡等の記事は次回以降、投稿したい。街道沿いには戦跡の拙著では遺構を掲載できなかった大日本飛行協会・今成滑空訓練所施設跡の遺構も確認できた。

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2017-11-06 21:11:23

消えた宿毛市の架橋島の海軍戦争遺跡群

テーマ:大日本帝国の秘密基地

[大島の高角砲台跡と丸島の横穴壕]

過去何度も述べたように米軍は昭和205月、その年の111日に鹿児島県の志布志湾とその周辺海岸から上陸するオリンピック作戦、1030日にその陽動作戦として高知県の土佐湾から上陸するパステル作戦の計画を立て、翌月、大統領の決裁を受けた。

 

大本営ではこれを予測し、九州南部や四国西南地方、高知海岸周辺に大量の陸海軍を投入した。四国西南地方には宿毛湾があるが、湾の片島港が昭和16年、連合艦隊の寄港基地になり、山本五十六元帥も上陸する等、特に重要視された。宿毛では陸軍は歩兵第354連隊や独立山砲兵16連隊等、海軍は呉海軍第二陸戦隊第15大隊が防備に就いた。この第15大隊は松山海軍航空隊解隊後の予科練生を中心とした部隊である。

 

大東亜戦史編纂室資料の宿毛湾防備概要図を見ると、宿毛市では小筑紫や大藤島、大島に8センチ高角砲マークが記載されている。この中でその砲台跡を比較的同定し易く、アプローチが便利なのが、片島から大島橋で結ばれた大島の二門の高角砲台跡である。

 

前述とは別の図を見ると、大島の東寄りに二門の高角砲マークがあり、二門の内、西側の大砲(上の写真)は南西方向に向けられ、東側の大砲は南東方向に向けられている。これはまず西側の高角砲で遠くの敵を攻撃し、撃ち漏らしたものを東側の高角砲で撃つ、ということだろう。

 

いずれも宿毛湾に進入して来る敵艦隊を狙うもので、湾外や豊後水道を北上しようとする敵に対しては海軍佐伯防備隊鵜来島防備衛所や高茂崎防備衛所、由良崎防備衛所、愛南町外泊等の大砲が狙うことになっていた。

 

戦争末期の大砲は敵機に発見されにくい、谷の斜面に設置されることが多い。大島の二門の高角砲台の内、東側のものも同様である。仮に「大島東高角砲台」と呼ぶことにするが、これは素掘りの竪穴壕の中に高角砲を設置し、背後に素掘りの弾薬壕を掘ったもの。残念ながら昭和後期の土砂崩れで、その斜め下にあった恵比須神社諸共土砂に埋まってしまった。恵比須神社はその後、「大島西高角砲台」(仮称・上の写真と下の地図)寄りの道路沿いに再建された。

 

大島東高角砲台跡地(2枚目写真と下の地図)への登り口には、「恵比須神社跡避難所」の標識が建てられている。龍王神社のやや南西である。路面のコンクリート舗装は谷の上で終わるが、その先一帯がヤブ化した土砂に覆われている。

 

西砲台跡は再建された恵比須神社の南西の小岬風になった所。道路が大岩を貫通し、切通しになっているが、この道路上から西側にかけて岩を掘下げた大島西高角砲台があったのである。弾薬は背後の谷沿いの斜面にでも横穴壕を掘って保管していたのかも知れないが、ヤブで確認は難しい。因みにこの道路は戦後、自衛隊が整備したもので、元々は浜だった。それまで皆、山越えの道を利用していたのである。

 

片島から架橋で繋がる島はもう一つある。片島地区の北西から丸島大橋で繋がる丸島(上の写真)である。当方はこの島を199012日、訪れたことがある。それは当日の「宿毛マラソン」に参加してそれが終了した後、友人と岸壁を歩いていた際、対岸の丸島に洞窟か横穴壕らしきものが開口しているのが見えたからである。

 

当時はまだ「戦争遺跡」という言葉自体、一般に使用されることがなく、当方も戦跡探訪経験はなかったのだが、その洞穴は素掘りで、立って歩ける高さがあり、奥行が数十メートルあった。丸島は無人島のため、今考えればあれは確実に第15大隊が掘った壕であることは間違いない。

 

当時島には砂利置き場と渡船施設しかなかったため、壕の見学も自由だった。丸島は南北に長いため、島の東側斜面にほかにも横穴壕があるのではないかと、先日27年ぶりに探訪したのだが、壕があった斜面一帯がヤブ化しており、且つ、立入禁止ロープや柵が設置されていた。現在は「片島マリーナ」が進出しているため、見学ができなくなっていたのである。

 

片島には他にも戦跡があった。当時、当方は片島の清家旅館(下の地図)に宿泊したのだが、旅館の天井等、何ヶ所かにグラマンの機銃掃射跡が残っていたのである。旅館は2010年発行の住宅地図には載っていたが、現在、ネット検索してもヒットしない。

 

PS:先日高知市内で中世随一の勤王武将・楠木正成の曽孫(武将で城主)の子孫宅を発見した。しかしその曽孫や子孫・末裔については全国的に伝承が錯綜している観がある。

 

その子孫宅がある地区の史跡ウォーキング記事の投稿を望む、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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