◆ R I N G O * S A N

  歌うパステル画家5*SEASONの蒼いブログショー
  7月の「りんご*さん」のオープン日は
  7/4火、7/5水、7/6木、7/9日、7/15土、7/16日、7/19水、
  7/20木、7/26水、7/27木、7/28金、7/29土、7/30日です。


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ジョーカー
『ダークナイト』の悪の化身・ジョーカーって、
案外コマカイ奴なんちゃうん?
カップヌードルの前できっちり3分座ってたり。


ジョーカーはカッコイイ。
なんせ「金なんかいらない!」と言って、
奪った数億ドルの金を一瞬にして燃やしてしまうんだから。
コイツの言ってることは正しい。間違ってない。
たぶん、私も数億という金には火を付けられるだろう。
金に見えへんもん。
そやけど私、明日のための1000円は燃やせない。
ジョーカーよ、君は燃やせるのか?
明日のための銭を! 食うための金を!
燃やせへんかったらなぁ、私ゃヘソで茶を沸かしたるっ。

ジョーカーを狂人として映画に君臨させるのなら、
食事のシーンなんかがあれば良かったかもね。
彼の異常性が私にも伝わったかもしれない。
かなり「骨のある奴」に映ったもん。

だいたいジョーカーって奴は
何を食って生きてるんだ? 謎だらけの悪人、
名前も所在もわからない「悪そのもの」、
人道に確実に存在する性悪として描かれているんだろうけど、
自分の素性を語らない観念だけのヒトを前に
私はまたしてもヘソで茶を沸かすことになる。
「御主、名を名乗れっ!」
イライラしたわ。名乗らんわりに
「ボクの母親はボクにこんなヒドイをした」などと
お涙頂戴話をしたりする。単なるマザコンか?
何者やねん、母親って? 今どこで何してるねん?
一方のバッドマン。
正義の味方の正体も不明だけど、
観客は真実を知って映画を観る。ここがフェアじゃない。
バッドマンが独り相撲をとってる感じ。

しかし。ジョーカーはまだいい。
人間のカスだけど自分の筋をとおしてる。
もっとイライラするのはバットマン。
善を通せば悪が生まれる。
当たり前やないかぃ! おまえ~
何年バットマンの看板掲げてるねん!
まだそんなとこで立ち往生してるのか?
なんやかんやいうて、貴様はセレブ思考なんちゃうん?
タンスにドル札を なんぼ忍ばせてるねん?

・・・とまぁ、ヘソで茶を沸かす以前に、
私の頭が煮えくり返ったヤカンになり
シューシュー湯気が出まくった映画『ダークナイト』。
世間では絶賛される批評が多いけど、
私にいたってはイマイチ迫ってくるもんがなかった。
『バッドマン ビギンズ』を観ていたら
もっと違う感じ方をしたのかもしれないし、
金かけた破壊シーンは愉快ではない
こんな私の感性が邪魔をして
ダークナイト=「闇の戦士」に乗れなかったのかもしれない。

とはいうものの、アクションも撮影も秀逸、
後半のバッドマンの選択は緊迫があった。惹き付けられた。
なんといってもジョーカーを演じたヒース・レジャーは凄い。
賞賛の一言。これほどの魂、役者馬鹿には背筋が凍った。
急逝が悔やまれる。合掌。

ちなみにトランプのジョーカーは
タロットのゼロ番に位置する『愚者』に値する。
冒険・旅・好奇心などを暗示するこのカード
私はタロット大アルカナで最も強いカードだと捉えてる。
というのも22枚の中で
最も人間らしさを暗示していると思うので。

『ダークナイト』のジョーカーも所詮は人間。
ひるむな、バッドマン。
最強の愚者やんか、君も!


★★★★★☆☆
『ダークナイト』公式サイト
2008/8/20 丸の内ピカデリーにて鑑賞

やぎ座 5*

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ダージリン色の光

『蒼の中のオレンジ』



次々に電車がやってくる東京は山手線の電車。
ラッシュ時は3分間隔、
通常でも5分ぐらいで次の電車がやってくるので、
たとえ1本乗り過ごしそうになっても、
ダッシュで電車に飛び乗ることはない。
「すぐに次がくるから」。
そもそも山手線のホームで「走る人」は
日本人だけで外国人にとっては奇妙な風景に映るらしい。
私は元来がノンビリ屋なので走ることは滅多にないけど、
それでも時々「この電車に乗らなければっ!」と
階段を駆け上がり、ホームを突進することがある。
けど、それは「約束に間に合わないから」というより、
「この電車だ!」と妙な使命感を抱いて、
ヒラリと電車に駆け込むのだ。
理由はハッキリしているようで、実は拠り所はない。
しかしあの、取り憑かれたような「必死さ」を
落ち着いて思い返すとき、こんなことを想うのだった。

生きるということは、
常にY字路の前に立たされているようなもの。
右か左か、どちらの路をえらぶかで未来が変わる。
大きくいえば就職や結婚やわが子の将来、
小粒にいえば「米を食べるべきか、パンにすべきか」
「もう少し寝ていようか、それとも今起きるべきか」など。
Y字路は大木の根っこのごとく、
太いものから細いものまで、
脈々と分かれ分かれになっていて、
人も同様に無意識にチョイスを重ねて時間を泳ぐ。
そうして“ある時”、そう、
停止状態を脱しよう! なんて
強固な意志を持ち合わせている時ほど、
「今しかない!」とガバッと人は路を選ぶもの。
「この電車だ!」と、すぐに来る山手線に飛び乗るように。

アンダーソン監督の『ダージリン急行』を観た。
なんと今年初めて観た映画だったけど、
すごく愛おしい1本。今年はこの映画1本になったり?
それもいいかも、だって共感する!
映画の中に登場する三兄弟のひとりが、
インドを一路走る急行列車に飛び乗るシーンに!!!!!
彼は得体の知れない使命に突き動かされ、
「生命の根源の国と言われるインド」へおもむき、
急行列車に飛び乗る!!!!
そのシーンの必死さ、可笑しさときたら!!!!
今の私の姿とだぶるようで涙がジワ~~汗
彼が飛び乗った急行列車は蒼い車両の海の色。
果てしない海の底の色、夜の空の色。
底知れない未来が待つ列車に
間一髪、彼は飛び乗ることに成功する、だけど、
時を同じく“急行”を追いかけ間に合わなかった人物がいる。
これもコミカルで可笑しい、
年齢ではなく縁だ、人生だなぁと想うわけで。

列車に飛び乗った男性を待つのは、
縁遠かった2人の兄弟が待つ狭いコンパートメント。
広いインドの大地を悠々と走る「ダージリン急行」の小部屋で、
私と等身大の旅が始まる。
小部屋という限りある空間なのに、列車は大陸を行く。
それが重要な人生の岐路になるとは、露知らず。
このギャップこそ、人生ではないかしら。
狭い空間を制すしてこそ、世界が見えるんや!


アンダーソンの映画は『ロイヤルテンネンバウムス』も観ている。
『ダージリン急行』と共通しているのは、
家族の絆。つまり最小単位の人と人の繋がり。
現代社会を「希薄な人の繋がり」と唱えるなら、
家族は急行列車の密室コンパートメントだと私は思う。

しかし、列車を追いかける行為を
山手線「新宿駅」でやったなら、
まちがいなく「今日のトップニュース」になるだろう。
まず、出来ない。
それだけTOKYOの人間は急行を見送りがちなのだ。
あまりに列車のスピードが早過ぎるわ、人が多いわで。

はたしてTOKYOに「ダージリン急行」を追うものはいるのか?
ダージリンとは、インドの古都。
ダージリンティーが有名で、
茶は明るいオレンジ色で、それは太陽の色、
映画『ダージリン急行』は蒼い車体だった。けれど、
乗客の肌の色は太陽の色のオレンジ色に染まっていた。
あらゆる国籍を超えて・・・。




★★★★★☆☆ 7点満点で5点
映像をデザインする、
映画をデザインするアンダーソン監督。
デザインとは、実用面が最重視されるから、
必要でないものは引き算されていく。
『ダージリン急行』の場合は“物語”を引いた、ような?
手垢のついた言い回しだけど、
ある意味で行間を読む映画、日本映画で言えば「小津的」。

娯楽として映画を楽しみたい層と
オリジナルな表現を観たい層とでは、
この映画の好き嫌いは分かれると想像するし、
アンダーソン監督は紛れもない「映像おたく」だと私は思う。
それも玄人受けする映像センスで、
スクリーン全体をデザインしてしまうんだから、
「映画好き」は拒否反応を示すだろう。
おそらく「表現おたく」がハマる世界。

私は好き。
登場する三兄弟のダサイ感じも、
インドの現地の人の服装ですらファッショナブルに、
アンダーソン色に染められる。
全編が雑誌『STUDIO VOISE』か『Casa』をめくっているかのよう。
死と生が隣り合わせに位置する「インド」の姿はそこになく、
死ですらデザインされ、クリエイトの結果として映される。
衣装や小道具、大道具も、音楽センスも極めてリッチだ。
たぶんこれは物に恵まれながらも
どこか心寂しい現代人を彷佛させるし、
東京で暮らす人間とも一致する。
恵まれているのに不安。この贅沢さ!

死は哀しいものではなく旅立ちである。
インドを旅したことははない私だけれど、
かつてバリ島ウブドに滞在した際、
地元の人は口々に話してくれたっけな、
それは旅人の私には目からウロコだった。
彼らは死を舞で弔い、火で愛でる。
「死は終わりでなない、始まりを祝うもの」
ウブドでは葬式は新たな冒険を祝う祭りだったし、
かつて村社会だったニッポンも同じだった、
けれど、それが自然がくれる病や老いであれば祝いも良し、
一方で現在は貧富の差や身分格差で死を強いられる。
だから『ダージリン急行』は、
ただただ デザイン世界の桃源郷として映り、
苛立ちをも伴う。実は私もそうなのだ。

私はアンダーソン監督の映画に惹かれる。
けど、血なまぐささや死の葛藤こそ、
走り去る急行列車に飛び乗る決心だと思うので、
ブルジョア的センスには、やや生緩さを感じるのも事実。

例えば登場する三兄弟がインドの旅の間、
ずっと持ち続けるスーツケースに私のジレンマが象徴される。
スーツケースは一目でヴィトンだと分かるブランド物、
インドを旅する者としては高価過ぎて浮きまくり。
ここにアンダーソン監督は
オリエンタリズムの投影をしているに過ぎない、
という見方もあるにはある。が、
欧米人や「先進国といわれる国々」の悲哀の現れ、とも思える。
人が欲しいのはモノではなくLOVEなのだ、
それを求めて三兄弟は列車で旅に出る。

映画のラスト(クライマックスではない。この映画にクライマックスはない)で
いったい彼らはヴィトンのスーツケースをどうしたか?
それは『洋式美』との決別。
インドで彼らは死を受け入れる。
だから私はアンダーソンが好きなのだ。



●『ダージリン急行』サイト

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『ぐるぐるぐるぐる』
堕ちているのか、包まれているのか。
なんだか人生って、らせん階段に似てる。
それとも、運命の うず巻き。



世の全てのものには
常に裏と表がある。社会には、
光を浴びる表社会と、影に潜む裏社会がある。
人間の心にも明暗の両方を秘められていて、
ポジとネガが常に共存してる。私もそう。

人は誰しも、裏よりも 陽の当たる表の方を好むはず。
が、いったん裏社会に触れ、
もう そこにしか自分の居場所を見出せず、
逃れたくても逃れられない境遇に堕ちてしまったなら、
人は生涯、裏社会で暮らし、
闇の中で光を見出さなくてはならないのだろうか?
いいえ、と私は思う。

どんなに裏社会に浸かろうと、闇に染まろうと、
真の償いの気持ちがあれば、やり直しはできるはず。
ただ、相当な覚悟と強い意志を持ち、
精神、肉体、両方に伴う痛みに耐えられなければ、
再び「らせん階段」を転がるように、
闇の底へ堕ちてしまうだろうし、
償いとは「恨み」から解き放れてこそ成立するもの、
これは難しい、たくさんの時間が必要になる。

どんな境遇であろうと、たとえお金がなくとも、
考え方ひとつで得られるもの、それは希望。
希望はまた、消えやすくも儚い。

仏教に『慈悲忍辱』という言葉がある。
意味は「慈悲の心をもち、あらゆる苦難に耐える」で、
読み方は「じひ にんにく」…ちょい笑える…ニンニクかぃ…。
トルナトーレ監督の『題名のない子守唄』を観たところ、
ニンニクたっぷりのパスタのような映画でありました。

…なんて、うそで~す☆ この映画は
「慈悲にんにく」を見事に描いているのであります。



★★★★★☆☆ 7点満点で5点
映画監督トルナトーレと音楽家モリコーネの名コンビによる最新作。
やっぱりね、2人は最強コンビ、流石に息が合ってる。
トルナトーレの大ファンである私も満足!
彼の映画は、モリコーネの音楽無しには成り立たない。

少し前のこと、ラジオでモリコーネ音楽の特集をやっていて、
番組のコメンテーターたちが話していた内容が興味深かった。

モリコーネはトルナトーレの映画音楽を作るにあたって、
まず、脚本に合わせて大まかに作曲する。
その曲に合わせてトルナトーレが映画を作り、完成した後、
さらにモリコーネが音楽を完璧に仕上げるとのこと。
ということは、トルナトーレの映画は
モリコーネの曲と同調すべく作られるわけで、
まさに渾然一体となってしかるべき、なのだ。
『題名のない子守唄』のモリコーネの音楽は
以前の楽曲に比べて、音で抽象的に感情を表したり、
斬新なリズムを刻んだりして、優美なだけでなく、
時に心象を かき乱すようなメロディーもあった。
これは裏社会で生きてきたヒロインの心と、
ミステリーのドキドキ感をあおるのに充分だった。

R15指定ということで、冒頭にいきなり女性の衝撃場面が登場する。
仮面を付けさせられた裏社会の女が、
男の道楽によって選ばれ、品物としてチョイスされる。
非人間的な行ないを、トルナトーレはクールに映してる。
人を人として扱わない非道ぶりを観せたあと、
物語は謎と闇をフラッシュさせながら展開していく。うまいな~。
音楽も当然、ぴったんこだし。
画面構成が「表社会」から疎外されて生きていた女の、
恨みや悲哀を充分に臭わせる。
トルナトーレがこんなにもシャープな映像を作るなんて、意外!

この映画はミステリーの仮面をつけた人間ドラマ。
なので、種明かしとしては疑問が多々残るし、
つじつまが合わないところもある、けれど、
トルナトーレが全てを見せようとしていない意図を私は感じた。
といいつつ、ヒロインの女の妄想なのか、事実なのか、ねつ造なのか、
私にも判断できない場面が いくつかあって
観終わってもスッキリしない部分があるにはある、けれど
病んでいるのは裏社会だけではなく、「表社会」も同様だと、
トルナトーレは暗示してるようにも取れる。
裏と表は一瞬にしてすり変わるもの、
私自身、裏ではなく表社会にいるつもりだけれど、
もしかしたら「限りなく裏を隠された ウワベ」にいるのであって、
それは裏社会にいるようなものかもしれない。

この『題名のない子守唄』は母性がテーマの
ミステリー・ドラマだといわれている。けれど、
私には現代の社会構造を皮肉った批判の一矢にも思え、
背筋がゾクッとなった。闇の支配者の存在を
あからさまに描かず、ぼかしているところがリアルだ。

主演の女優さんの、まるで三役をやっているような
過去と現在の演じ分けがすごい。娘役の女の子もかわいい、
でも小生意気な子やなぁ。イタリアの子はオマセさん?

ラストシーンの笑顔に超号泣。疑問も感じたけどさ…。


●『題名のない子守唄』サイト

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『ルナティック・アレン』



タロットカードの『月』が暗示するものは
「迷い」「不安定」「邪心」などで、
月の美しさとは裏腹に良いものではない。
ただし救いはあって、
想像力や直感力が長けているなどがあげられるが、
はたして御大ウッディ・アレンには
月の良い影響があるのかどうか…。
私には邪心としか読み取れない、
少なくとも『タロットカード殺人事件』においては。

この映画の前に観た『ヴィーナス』とは
正反対の弱さと後ろ向き加減を
この映画のアレンから感じてしまった。
観る前から想像してたけど…。
現時点の己を輝かせるのではなく、
過去作品からの引用とアレンジが目に付いて、
彼が過去の栄光にすがっているようにしか見えず、
“若さ”を見出せなかった。
無理に見出すなら、
彼自身が主演女優にホの字ということ、か。

本作も『ヴィーナス』も、
老人と若き女性が物語の軸になっていて、
舞台も同じロンドン、2作の設定が似ているだけに、
渾身の差が如実に表れてしまい、
あまりにアレンが哀れで痛々しかったとさ。



★★★★☆☆☆ 7点満点で4点
スカーレット・ヨハンソンの美貌と
「天然ユダヤ系アメリカ人」の演技がいいので駄作ではないし、
スカーレット・ファンの私としては満足してるけど、
物足りない。でもでも、さすがはアレン、
コミカルでシャレたミステリーに仕上がっているし、
そりゃまぁ軽快に笑わせていただいたけど、
なぁアレンよ、老いたなぁ。
映画が「三流のアレンジ落語」になってしまった。
スカーレットにイカレたアレンが
彼女のオーラにオンブしてるみたい。

現在 私はタロットカードの絵を描いている身の上なので、
何かしらの刺激を得られるかも、という期待もあった。が、
タロットカード自体は効果的な小道具ではなく、
ほんのワンシーンで使われただけ。
立ち読みしたパンフレットには、
鏡リュウジさんのコメントが寄せられていたけど、
それすらも空虚なものに思われた。
そもそも原題が『SCOOP』だし、
そっちの方が映画には合ってるんだけど、
邦題にタロットカードを使ったのは
ミステリー色をあげるための、客寄せパンダみたいなもん…?
以前チラッと近頃タロットカードがブームで、
デッキ自体も売り上げを伸ばしているときいたけど
その影響なんだろうか、だとしたら
私はブームに乗ってるヒトってことか…?


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●『タロットカード殺人事件』公式サイト

●制作中のタロットカードの『第1次作品展』の様子

本作の前に観た『ヴィーナス』の私の感想

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『稲に くちづけ』



時が過ぎ行く早さは
この地球上で生きているものに対して、
分け隔てなく平等に流れて行く。だから当然、
我が故郷の京都にも、現在 住んでいる東京にも、
先月訪れた山梨にも新潟も、
同じ太陽がのぼり、同じ間隔で月は満ち欠けを繰り返す。
時間は同じ速度で過ぎている、なのに、
東京の、特に都市部の時間は過ぎゆくのが早く、
対して田舎はゆったりとして風景に横たわる。
それは子どもが持つ時計と大人の時計が
異なる速度で進んでいるのに似てる。
子どもの頃、あんなにも長かった1ヶ月が、1年が
今や半月や半年ほどにしか思えなかったり。
都会が持っているのは大人の時計だ。

じゃあ、時計の速度は何をもって早まるのか、
たぶん時の流れを遮断する“締め切り”のせいだと私は思う。
仕事上の締め切り、友だちとの約束も締め切り、
遊びたいという計画も、恋人との待ち合わせも、
流行という短命な情報も、買い物という契約も、
そうして、達成したい目標・・・、
これらは言葉は違えど、どれも課せられた締め切り。
大人は数々の締め切りを
確実にクリアしていくのが日常で、
考えようによっては毎日毎日、何かの締め切りをこなす。
ゆえに締め切りに追い回されるはめになると、
時計の速度は一段と早くなるわけで。

そして都市の景観も“締め切り”が多い。
締め切りというか、
風景を遮断する“壁”と言った方がいいかな、
建物や広告のための看板、音、人波など、
目に映る物体が圧倒的に多い。
そう、横に広がる田舎の風景は1つのフレーム、
けれど、物が多く縦に長い都会は
風景が細かく遮断されるため、
忙しく視点を動かさねばならない。
必然的に早く早く早く、となり、
街は合理的に造られ、重視されるのはスピード。
とーぜん、時計の回転速度は田舎より早い。

では都会と田舎では、どちらが充実していて、
どちらが豊かな生活を送れるのか…となると、
手垢のついた言い方になるが各人の価値観によると思うし、
一概には言えない、が、言い回しを変えると いったい、
どちらが人間という生き物らしくて豊かなのか、
となると言わずもがな、田舎の風景、つまり
子どもの時計を持つことだと、一絵描きの私は信ずる。

子どもの頃、永遠に続くと思われた日々。
締め切りは少なく、
あったのは試験と宿題と友だちの約束と。
美しいと思ったのは、田園の緑や水辺の流れ、
そよ風のささやき、足元の虫のウゴメキ。
建物が少ないため風景が締め切られることは少なかった。
こんな私は小学校を卒業するとき、
クラスメートが たった11人だった。
間違いなく田舎の学校で、
時間は有り余るほどゆったり。卒業後、
中学・高校・専門学校・社会人 >>> 物作りという経緯で
現在は大都心に暮らす。一日は早い。
先月、育った田舎に帰ったけれど、
卒業した小学校は とうの昔に建て直され、
田畑は切り開かれ、あの頃と同じ風景はもう消えた、
今や葉上の露に似た田舎の風景は、
都会で せせこましく生きる者にはファンタジーですらある。
だから、思う。取りかえせないからこそ、愛おしく
ときとして涙が込み上げるほど、
失われた風景に胸が痛く、切なくなる。

映像を観ているだけで涙が落ちた。そんな映画を観た。
いったいどんな映画なのか、観たいぞっ! と、
切望していた映画『天然コケッコー』の舞台は
小・中学校を合わせて、たった7人という過疎の村で、
時計は 当然ゆっくり ゆっくりと進む。
おそらく、私が過ごした幼少時代よりも
主人公のそよちゃん が持つ時計はゆるやかだ。
そんな彼女にも、いざこざや不満も多少あるが、
村はいたって平穏、大事件はおこらない。
しかし、のどかな村に、
ある日、東京から転校生がやってくる。
なんという大事件! しかも
転校生はそよちゃんと同じ年で、
かなりのイケメンさん! 沸き立つ村!
ド田舎に「東京そのもの」がやってくるのだ、
これはファンタジーの中に
突如として“現実”が放り込まれたようなもの。
さてさて。田舎は現実を受け入れられるか?

そよちゃんは戸惑いながらも、ゆるやかに成長し、
やがてファンタジーから巣立つ日を迎える。
とはいえ、現実に流されることはなく
あくまでも彼女はファンタジー=田舎者。
一方、「東京者=現実」の大沢君も、
ゆっくりな時計を持つことで しなやかに変化していく…。

映画はそよちゃんと と大沢君の
ゆれうごく心を描いているが、これは恋への序章。
まだ恋とは言い切れない、ほのかな芽生えであって、
狂おしいほどの想いを募らせるには、
映画が描いている村はあまりに楽園なのだ。

この映画の中に私が好きなシーンはたくさんあって、
中でも そよちゃんが卒業する日、
黒板にくちづけをするところは ある意味、官能的。
私の過去を振り返ると、
あれほどの教室へ寄せる心情はなかったから
うらやましくも愛おしくて、泣けてきた。
で、思う。私がもしも、くちづけするのなら…?
絵描きとしてはパステル…?
いいや、田園に伸びる一筋の稲、だろうか。

この映画は私がもっとも敬愛する人、
くらもちふさこ先生の原作をお見事! に影像化。
ひと夏の思い出に相応しい2時間だった。
なんだか夏休みが今始まった気分。


★★★★★★☆ 7点満点で6点
原作がいい、脚本がいい、音楽がいい、影像がいい、
監督がいい、そよちゃん役の夏帆ちゃんがいい、
そもそも映画がものすごくいい。
ダメ出しをするなら父親役の佐藤浩市さん、かなぁ。
悪くないんだけど、あまりに東京そのもの…
田舎になりきれていない。
夏帆ちゃんや子役たちは田舎に溶け来ん込んでいるのに、
やはり大人の感性は固まっているんだろうか、
どうみても演技だ、
頑張って田舎者になろうとしているが見え見えで。痛い。

まず讃えたいのは脚本の渡辺あやさん。
私のバイブルともいえる『天然コケッコー』が映画化されるにあたり、
その脚本を担当されるのが『ジョゼと虎と魚たち』の
渡辺あやさんだと知り、この人なら大丈夫!
と胸を撫で下ろしたものだったが、その予感は的中。
渡辺あやさんは くらもちふさこ先生の世界を
充分に受け止め、敬愛している者ならではのセンスで
一本の脚本として完成させている、と思う。
台詞は原作に忠実すぎるぐらい忠実なのに、
単純に原作の筋を追うのではなく、映画を別物として
原作の流れを組み替えているところがスゴイ。
くらもちふさこ先生の きらめきを大切に思う人でなければ
このような奇跡に似た結晶はありえない。

山下敦弘監督の作品を、
私はこれまで観たことがなかったが、
映画の第一場面を観て、なんとはなしに分かった。
このお方は「映画監督」が何をすべき立場であるか、
至極 客観的に受け止めている人物なのだ。
料理でいうと「良い材料」をそろえるのが重要課題で、
あとは火加減とタイミングを逃さなければ、
極上の一品が出来上がるように、
この方は「良い人材」をそろえた後は素材が生きるよう
火加減に心血注ぐことに懸命な名シェフではないか。
なんていってしまうと、さも何もしていないようだけど、
実はたいへんな才能と潔さ…いや勇気が必要だと思う。
よって、映画『天然コケッコー』は
恋未満の「ことばに出来ない切なさ」を映像に残せた。

『天然コケッコー』はストーリーテラーではなく、
登場人物のキャラクター性が映画を構成している。
個性豊かな村のキャラクターが活き活きと動けば、
自然と物語は進行するのだ、田園時間で。
この映画はアートだ、と思う。だから、
観る度に新しい感動がやってくるだろう。

考えてみれば、くらもちふさこ先生の作品の中で
『天然コケッコー』は異質だ。そもそも、
東京をテーマに描きつづけていた くらもち先生が
地方の、しかも田舎を舞台にするだけでも異質だというのに、
それまでの先生の作品は劇的な見せ場が
必ず用意されていた。いわば日常を描きながらも
しっかり山場をおさえたハリウッド映画。なのに、
『天然コケッコー』は違う、あくまでも淡々と
変化のない日常をドラマティックへ走らず描かれる。
映画も劇画タッチではなく、少女漫画でもなく。
本来なら映画で表現するには難しい作品だけど、
全ての くらもちふさこ作品の中から三次元へ移行するなら
本作が最も“化ける余地”を秘めているという気がする、
なぜなら、原作『天然コケッコー』は詩歌なのだ。

原作は単行本全14巻で完結するが、
映画の方は そよちゃんが中学を卒業する、
6巻あたりでエンドロール。
今後、続編はあるんだろうか。
私としては観たいという気持ちが強いのだけど、
山下敦弘監督の手腕が素晴らしいので、
本作限りで打ち止めにしても良いような気もする。
ただ、脚本家の渡辺あやさんの監督による
『天然コケッコー・高校編』が実現したら面白いかも。

『天然コケッコー』は才能と才能が
良縁で結びついた傑作だと思う。
会うべくして会った運命的な映画なのだ。
つまり、自然の流れにそった自然の産物で
生命の泉だ、この映画は。
主題歌を手掛けた「くるり」の岸田クンが、
「この映画を観た後、日本の将来を考えた」そうだが、
それは私も同じだった、
自然に反する文明社会に暮らしているせいで。


*Home*

●「『天然コケッコー』映画化」の一報を得たときの私の記事
この時は不安と期待が入り交じってましたが、
どこかで信じていましたね、くらもち先生の幸運を!

●『天然コケッコー』公式サイト

●Amazon くらもちふさこ著『天然コケッコー』

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