ノストラダムス 第7章20番 四月と五月にアルプスと海を越える。 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

3月、4月、5月、6月というのはいくつかの詩に出てくるので、問題の月なのだが、次の詩にも4月と5月が出てくる。


ノストラダムス 第7章20番 


Ambassadeurs de la Toscane langue,
Auril & May Alpes & mer passee
Celuy de veau exposera l'harangue,
Vie Gauloise ne venant effacer.


トスカナ語の使節たち
四月と五月にアルプスを越え海を渡る
仔牛の男 演説をぶち
フランス流生活様式を払拭するにはいたらぬ
(山根和郎訳)


トスカーナの言葉を話す大使たちは
四月と五月にアルプスと海を越える。
仔牛の者が演説を行うだろう、
ガリア的な生活が先んじて消されたりはせずに。

(ノストラダムスの大予言の訳)


この詩を何故取り上げるのか?
というと、ある人、A氏が「4月と5月に掲挙(第1次掲挙)があるのではないか?」
という説を述べていて、この詩をその根拠のひとつに挙げていたので、
「本当にそう解釈できるのか?」
を検証する必要がある、と思ったからだ。


まず、1行目
トスカーナの言葉を話す大使たちは


「トスカーナ」というのはイタリアのフィレンツェ周辺の地域だが、イタリアと中近東の相似形から中近東に当てはめると、イスラエル北部のガリラヤ湖周辺に相当する。
これは、ナザレで生まれたイエスを暗示している、と思われる。
イエスの正体は天使軍団から派遣された使者、俳優である。
「使節たち、大使たち」と複数になっているのは、イエスの弟子達を含めているのか、あるいは、天使軍団から同行してイエスの奇跡を手伝い、サポートした監督や仲間達の一行を含めて指しているのだろう。
この「イタリアと中近東の相似形から、イタリアで聖書の舞台となった中近東を暗示する」という技法は、私が以前に本に書いていたので、A氏も勿論知っていた。

だから、
「この詩はイエスについて述べたものだ」
というのは解り、4月、5月とあるので、
「4月と5月に掲挙があることを告知した詩だろう」
と解釈した、というのは容易に想像がつく。
私もこの日本語訳をざっと読んだ限りでは、「そうだろう」と思っていた。
だが、だからといって「ある年の4月と5月に第1次掲挙があり、翌年以後の3月から6月までに第2次掲挙がある」
とまでは考えなかった。


A氏は「どうしても地球人を救いたい」という気持ちが強いので、
「天使も公然掲挙を行って、天使の存在を見せつけて、地球人の天使受け入れを促すのではないか」
と考えていて、それは今でも諦めていないようだ。


だが、私は天使はそこまではしない、と思っている、
「駄目なものは駄目、無理なものは無理」なのだから、1999年の全体救済の期限以後では全体救済はできない、無理だと思っている。
もはや天使ができるのは個人救済=掲挙だけであり、公然掲挙はしない、と考えている。
この辺で考え方の違い、スタンスの違いができてしまったようだ。


さて、問題は2~4行目も「天使軍団が掲挙を行うことについて述べている」
と解釈できるのか?

ということだ。


ノストラダムスの大事典では、
4行目は近接過去を使った現在分詞の構文で、3行目の出来事の直前に行われていることが描写されている。行の順序を活かしつつ、その辺りを表現するのが難しかったため、4行目に「先んじて」を補った。
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/1546.html


と注釈しているので、時系列からいくと4行目が先で3行目が後に来る。
つまり、


ガリア的な生活が先んじて消されたりはせずに。
仔牛の者が演説を行うだろう、


という順序で考えるべきだ、というのだ。
ガリアというのは、以前説明したが、フランスの古い呼び名なので「地球の原住民、未来人から見ての過去人」を指している、
と考えられる。


では、「仔牛の者」とは誰を指しているのだろうか?
というと、モーセの兄のアロンを暗示している、と考えられる。
出エジプトを果たしたイスラエル人は、モーセがシナイ山に登って主から十戒を授かっている間に、アロンに唆されて「黄金の仔牛像」を作って「自分達を導く神」として拝んでいたのである。
アロンが「黄金の仔牛像」を造るように指示した。
主ではなくて、マモンの神=拝金主義=悪魔崇拝をするように唆したのである。
だから、ソロモン同様に背信者、悪魔崇拝者の暗喩、象徴であり、偽キリスト、悪魔軍団そのものを指す、と考えるべきだろう。
そうすると、


ガリア的な生活が先んじて消されたりはせずに。
仔牛の者が演説を行うだろう、


とは、
「原住民(地球人)は自分達の生活風習を変えないでいるうちに、偽キリスト(悪魔軍団)の演説を聞くだろう」
すなわち、
「天使軍団は何とかして21世紀以後を変えようとして福音預言を付加してきたが、地球人はその意味が解らないで、進路変更をしなかった。
自分達の生活習慣を改めようとはしなかった。
そうしているうちに(2017年の4月、5月になって)悪魔軍団が降臨してきて、地球人は悪魔軍団をキリストだと勘違いしてその演説を聞いてその指示に従うだろう」
という意味だろうと解釈できる。


つまり、天使軍団からしたら、「期限(1999年)までに地球人の説得に失敗して地球復帰が叶わなかった場合」、を想定して作成した詩なのである。
掲挙の詩ではなかったのだ。
となると「4月、5月に第1次掲挙がある」の根拠としたA氏の解釈は間違っていた、と言わざるを得ない。
そうすると、彼の説、「4月、5月に第1時掲挙がある」とする解釈も崩れてしまった、となる。
少なくとも、この詩はその根拠にはならない。


A氏は以前説明した3-5の詩


やがて 二個の巨星が光を失った後
それは四月に起きるだろう。そして3月(マルス)
おお なんたる損失か! でも大いなる二つの行為が
海と陸のあらゆる側から救いの手をさしのべる


も「3月、4月、5月に第1次掲挙がある」という説の根拠としていた、と思うが、この詩は
>月食と日食の連続発生の天のしるしの後に、天使軍団と悪魔軍団による救援という二段階の救援が行われる。
悪魔軍団の地球人救援に見せ掛けた降臨は4月に起きるが、それは天のしるしが終わった直ぐ後ではなく、2年後(の2017年の4月)である。


と私は解釈したので、これも掲挙の詩ではなかった。
むしろ、これらは、「(2017年の)3月、4月、5月に悪魔軍団が降臨して来る」ことを預言した詩だったのである。

では、2行目、
四月と五月にアルプスと海を越える。


を考えていこう。
これは、以前7月26日に説明した2-29と関連している。
http://ameblo.jp/kkokrjp/theme3-10072413153.html


東方の者がその座から出立するだろう、
アッペンニーノ山脈を越えて、ガリアを見るために。
彼は天の水と雪とを突き抜けて、
おのおのをその鞭で打ち据えるだろう。


この詩は、
>①、未来人(悪魔軍団)が21世紀以後の遥か未来からガリア(ケルト人=地球の先住民が住んでいた地球)にやって来て(地球人=過去人を征服して悪魔帝国を確立した)

②、未来人(天使軍団)が21世紀以後の遥か未来からローマ帝国=バビロンの大淫婦=悪魔帝国、にやって来て、(歴史に福音預言を付加した)
という二通りの解釈ができる。
というよりも両方を表現したのだろう。
①は前史の描写であり、②は今史の描写である。
異なる歴史がダブって描写されている、と考えられる。


と解釈したが、この詩全体から考えると「悪魔軍団の侵略」の方を表している、と取るべきだろう。
その悪魔軍団の降臨が(2017年の)4月、5月になる、という告知だ。

では、この詩を時系列に沿って並び換えてみよう。
元の配列は、


トスカーナの言葉を話す大使たちは
四月と五月にアルプスと海を越える。
仔牛の者が演説を行うだろう、
ガリア的な生活が先んじて消されたりはせずに。


だが、時系列に沿って並び替えて簡単に解説すると、
トスカーナの言葉を話す大使たちは ~天使軍団から派遣されたイエスとその仲間達は、
ガリア的な生活が先んじて消されたりはせずに ~地球人の進路を変更させるのに失敗した
四月と五月にアルプスと海を越える ~(2017年の)4月、5月に悪魔軍団が降臨してきて
仔牛の者が演説を行うだろう
 ~(本当は偽キリストなんだが)彼らは地球人を導く神として演説するだろう。

となる。


原典を検証しないと、日本語訳だけからでは、
「これは掲挙の預言だ。本当の掲挙は3月から6月までだと書かれてあるが、4月、5月にも掲挙がある、とこの詩に書かれてあるから、これは、本当の掲挙に先立って、その前の年以前に行われる第1次掲挙の預言だろう」
と勘違いしてしまう。

A氏は「その第1次掲挙は今年の4月と5月に行われるだろう」
と4月に自分のサイトに書いて仲間に呼びかけた。
その後の更新が無いので、その後どうなったのかは解らない。


ただ、人間はだれでも間違う。
私も預言の解釈については今まで何回も変更してきた。
だから、「預言の解釈を間違うことは決して恥ずかしいことではない。」
A氏は、「今年の4月、5月に第1次掲挙がある」と発表して、それはとうに過ぎても掲挙は無かったのである。
だから、少なくても「今年の4月、5月に掲挙がある」という説は間違っていた、となる。

しかし、このままでいくと、来年の4月、5月の前になったら「じゃあ、今年こそ4月、5月に第1次掲挙があるだろう」
と主張するのではないだろうか?
本当の掲挙があるのは2016年の3月から6月までだとは彼も認めている。
だから、第1次、第2次と掲挙が2回に分けてあるとしたら、第1次掲挙があるのは来年2015年の4月、5月が最後の年である。

私が言いたいのは、

「どんな説を主張するのは勝手だが、やはり、原典をもう少ししっかり検証してから発表した方がいいのではないか?
日本語訳だけだと誤訳も多いし、不確実である。
根拠としている詩はそんなにいくつもある訳ではないので、少なくともその詩だけでも調べた方がいい」
ということだ。


とはいっても、ノストラダムスの詩の解釈は誰にでもできる訳ではない。
霊感やインスピレーション、テレパシーが必要なのかもしれない。
あなたは、その仕組みが解っているのだから、素直に聞いて欲しい。
決してあなたに恥をかかせるために書いているのではない。
私も、この詩を取り上げるべきだ、という気がするから取り上げて解説しているのだ。


ただ、私は「第1次、第2次掲挙がある」という説を主張する分にはそれ程問題はない、と思っている。
今年、来年の4月、5月に第1次掲挙が無ければ、2016年3月から6月までの本番の掲挙に備えればいいだけの話だ。

しかし、あなたは、これ以外の別のことをあなたのコミュニティーに伝えている。
私としては「それはちょっとまずいのではないか?」
と感じる。
それは、あなたの意見に従った人が、そのために掲挙のチャンスを逃してしまう危険性があるのではないか?
という危惧があるからだ。

あなたは、私が誰だか解っているのだから、私に挑戦するようなことは止めた方がいい、と思う。
でないと、あなたについていく人まで巻き込んでしまう。
私はあなたを破門したとも思っていないし、決裂した、とも思っていない。
あなたの実績と熱意は知っているし、仲間だと思っている。
ただ、あなたの方が「私は浅利氏とは見解の違いがあるから別の道を進む」
というのならば、それは仕方ないが。
まだ、時間はあるので、ゆっくりと考えて欲しい。