安易だった。みんな安易に借りる奨学金。金額の重さを知らなさすぎる。簡単に600万円をぽんと借りる。テレビでも払えない人たち、返済にその後苦労している若者たちを追っていた。わたしの親戚にもいる。わたしなら怖くてとても平然と600万という大金を借りる勇気はない。金額の重さが解らない若者たちは、簡単に考える。社会に出て、月々10万ずつ返せばいいのだろうと。
 わたしの親戚の子はそれで正規雇用されなかった。テレビのドキュメンタリーと同じで、大学を出たけれどだ。就職浪人で、とりあえずコンビニなどでバイトをしながら、奨学金を返しているが、生活費が大変だ。それで、いまだに親から仕送りというケースはいくらでもある。面接を繰り返しても理想の職に就けない。どこも給料は安い。高いところは倍率も高く、試験で落ちる。仕方なく派遣をやって月に30万は稼ぐが、アパート代と奨学金の返済と、生活費とではぎりぎりだ。せめて50万くれるところがあればと、もらしていた。甘いの一言。学卒で50万くれるところもあるだろうが、狭き門。三流大学を出て就職試験には落ちまくり、それで結婚もできない。借金付の男には誰もくっつかない。
 わたしの知り合いで、いい人と結婚したと思ったら、奨学金の返済があったという。収入は悪くはなかったが、月々の返済で生活は貧乏のどん底に近い。それを隠して結婚した。旦那の借金も新婦になる人は知らなければならない。共に何十年も借金地獄の生活に苦しめられることになる。

 どうして、いとも簡単に600万も借りれるのか。怖さを知らない。なんとかなると思っているのは無知以外のなにものでもない。大学は出たけれどという昭和初期の話といまは似ている。いいところは満杯で、潰れそうな零細企業ならいくらでもあるが、給料は安い。実際、それで将来の設計も狂って、返済に窮するようになる。正社員で入れると思ったとか、一流企業で、年収がいくらと、絵に描いた餅で社会に出る。自分の実力も知らない。簡単に考えすぎて、月々いくらの返済金になるか計算しても、収入がそんなにあるわけがないのに、出る入るの総量の感覚がどこかおかしい。
 普通のサラリーマンでも、家のローンは別としても、そこから何も生み出さない奨学金という後始末のために600万の借金を抱えるということにはさすがに青ざめる。青ざめないといけない。資金を借りて、それが利益を生むとか金利を作るとか、資金が減るものではない投資ならいいが、使ってしまった後始末なのだ。それが、自分への投資だとしても、就職試験で認められないと、返済計画が狂う。人生設計も狂う。
 わたしの友人も、大学ぐらいは出ないといけないと、子供をすべて大学を出した。すごいと思う。事業は借金まみれで、それでもみんな卒業まで授業料と生活費を出したのだから、よくやると思う。うちの息子三人は大学は出ていない。高卒でそのまま就職してくれたから、わたしも助かった。行く気があれば、わたしのように、昼間働きながら、夜学に通うこともできる。姉の息子も、夜はコンビニで働いて稼ぎ、ちゃんと短大を出た。親の世話にならなくとも自分の力でできるのだ。
 わたしが大学に行ったときには、親父は4年間遊ばせてやると言った。なにくそと思ったが、4年間遊んでしまった。親父は卒業してからも、その遊んだ4年間は無駄ではなかったとも言った。授業もろくに出ないで、単位が取れないで、追試を受けて、ようやく出してもらえた大学だが、やはり親父の言った通り、ろくに勉強もしなかった。初めは、大学なんか行かないで、手に職をつけるのだと、高校を卒業したら、フランスの菓子屋に修行に出すと言っていた。そのほうがまだ違った人生になったかもしれない。職人でいれば、まだその後の使い方はあった。古本屋にはなっていなかっただろう。
 そのことで、おふくろは、当時のことをほろっと漏らした。おまえが、修行で渡仏すれば、きっと目の色の違う彼女と結婚すると、連れて帰ったかもしれないと。それはそれで、別の人生だったろう。

 教育費は高い。親は高くてもそれは必要経費と考える。子供もそれは当然と、親が出してもらえると思う。そういう所得の高い親もいるが、そうでなければ、長期の低金利で奨学金を借りたらいいと、アルバイトもしないで、4年間きちんと勉強したはいいが、それから先が地獄だ。
 テレビの特番でも、そういうはずではなかったという大学を出て、アルバイトをしている元女子大生が出ていた。就職試験に何十回と挑戦したが、いずれも落ちる。なかなか、スタート台に立てない。それで収入の半分以上を奨学金の返済に充てて、残りで貧乏生活をしている。これから十数年もそういう生活をしなければならないのかと思うと、彼氏もできないし、結婚なんかとんでもない。

 わたしが大学の入試をしようとしたときに、親父の友人で東洋大学の名誉教授が、たまたま青森に遊びに来ていて、わたしと面談した。開口一番、「なんのために大学に行くんですか」と、訊かれた。ドキリとする。そういうことは考えたこともない。親の仕事を継ぐために、ただそのレールに乗って走るだけだったから、将来は決まっていた。それで、咄嗟に口から出まかせで、「勉強したことを社会に還元するためです」と、そう即答したら、「それならいい。きちんと自分の考えを持っている」と、誉めてくれたが、返答次第では、進学することの意味も解らないで、どうするつもりかと一喝されたのだろう。

 高校までは、のほほんと生きてきて、進学するときには、将来何をするのかということを決めなければならない。多くはその進路を定めないままに、文学部や経済学部に入る。そこで資格を取得するということもなく、とにかく大学だけは出ていないとと、それがすべての免罪符になると思って社会に出る。中国では、この前のニュースで驚いたが、架空の大学がいろいろとあって、そこでは大学卒業の証明書まで金で買えるのだとか。実態のない大学で、大卒の資格で就職を有利にしたいと人気があるのだ。わたしもそれに似たような4年間を送ってしまった。人のことは言えない。奨学金だけがなかっただけで、あれば、どうしたのだろう。
 うちの古本屋でも高卒の女子のほうが優秀で、中途半端な大卒は使えなかった。大学とは何だろうかと考えてみたいところだ。