日常の中にあるありふれた光景を見て、過去の自分を重ね合わせることがある。楽しい思い出があれば、悲しい記憶もある。どちらも自分が確かに歩んだ時間で、それを書き換えることは出来ない。記憶は自分という人間を構成する一部分であり、偽りのない自分そのものである。

 

 

駅の階段を下りて来る家族連れを見ると、蘇ってくる記憶がある。あの日…、俺は父と母、そして弟と駅へ向かって歩いていた。どこへ行こうとしていたのかは覚えていない。だが、その予定を俺が壊してしまったことはよく覚えている。

 

駅に着いて切符を購入し、ホームへ向かって階段を下りている時のことだ。母が弟とふざけ合っている俺を優しく叱った。どこの家族にもあるありふれた光景である。だが、その先の記憶は違う。母の注意を聞かず、尚もふざけていた俺の足に弟が躓き、階段を転げ落ちた。

 

ゴンッ…、俺はその鈍い音を忘れない。

「あっ……………」

言葉を失った俺を払いのけるようにして、父が叫んだ。

「救急車! 救急車!」

 

 

それからしばらくの記憶は途切れている。記憶が再生されるのは、病院の待合室で冷たい床を見ている場面からだ。母が震えている俺を優しく抱き寄せ、静かな口調で語りかけてきた。

「悪いのは清掃氏じゃないよ。お母さんが全部悪いんだよ…」

「お母さん…、弟氏はどうなったの? これからどうなるの?」

「弟氏はね、強い子だから生きているよ。だけど…、だけどね…」

弟はこの事故が原因で右半身に麻痺が残った。大好きだったクレヨンを握ることも、毎日のように遊んでいた指人形をはめることも出来なくなった。それまで自由に動かしていた身体に意思が伝えられなくなるというのは、どれほど辛く、どれほど悲しいことだろうか。右手を使うことを諦め、必死で左手を動かす弟の姿を、俺はただ黙って見ていることしか出来なかった。平凡だけど笑いの絶えなかった家族の生活を、走ることが大好きだった弟の人生を、俺が変えてしまったのだ、俺が壊してしまったのだ。

 

 

障がいやそこに向けられる偏見と戦っている弟がいるということ、そうさせてしまったのは自分であるということ、それは幼い俺にはあまりにも重たい現実だった。まるで見えない鎖で繋がれた重石(おもし)のようであり、いつだって影のように付いて回った。後ろから追いかけて来るだけではない。踏み絵のように目の前に横たわりもした。どこへ逃げても、どんなに藻掻いても、その重たい影は決して消えなかった。

 

それ以来、俺は人と距離を置くようになった。同年代の子供たちがじゃれ合う姿を横目で見ながら、毎日のようにコンクリートの壁とキャッチボールをした。母はそんな俺を目にして、どれだけ胸を痛めたことだろう。今、母の気持ちを思うと胸が張り裂けそうになる。

「お母さんはお友達と元気に遊ぶ清掃氏が見たいな。弟氏も頑張って少しずつ歩けるようになってきたよ。だから、清掃氏も負けないで…」

 

 

弟は懸命なリハビリを続け、小学校を卒業する頃には早歩きも出来るようになった。ただ、右手の握力だけは戻らなかった。俺はというと、壁とのキャッチボールを続けていた。ある晴れた朝、ボールを投げる俺の下に弟が歩いてきた。

「兄ちゃん、キャッチボールしよう」

「いいけど…、大丈夫か?」

「僕だってボールくらい投げられるよ」

「じゃあ、ストライク待ってるぞ」

「うん! いくよ!」

弟が左手で投げたボールは楕円を描きながら俺の胸に飛び込んできた。

「おぉ、ストライクだな。次は俺が投げるぞ」

「うん、兄ちゃんもストライク頼むよ」

「よしっ、いくぞっ!」

俺は利き手ではない左手で弟の右胸を狙ってゆっくりとボールを投げた。あの日から、俺はずっと左手でボールを投げ続けてきたのだ。鉛筆や箸は右手で握るが、ボールは左手を使った方が上手く投げられる。だが、この時はどうしても真っ直ぐに投げられなかった。何度投げても横に逸れた。そのうちに涙で視界が滲んできた。

「兄ちゃん…、僕のことは気にしないで右手で投げてよ」

「いや…、次はストライクを投げるから…」

 

俺はこの時のボールを今でも持っている。空気が抜け、色も褪せ、もうゴムの塊でしかない。だが、力をもらえる気がするのだ。弟が積み重ねてきた努力が、乗り越えてきた苦しみが、このボールに乗り移っていて、俺を鼓舞してくれるのだ。

「兄ちゃん、頑張って! 僕は負けないよ。だから、兄ちゃんも自分に負けないで…」

 

 

 

これまで俺はこの過去を人生の恩人である彼女(【第16話 捨てられたおにぎり】参照)にしか話したことがなかった。もう二度と、もう誰にも、話すつもりはなかった。だが、俺の何気ない行動が記憶と言葉を引き出した。それはある日の仕事後、新人清掃員の妹子さんと自動販売機に飲み物を買いに行った時のことだ。財布から小銭を取り出す俺を見て、彼女が言った。

「清掃氏さん、左利きなんですか?」

「いや、違うよ。どうして?」

「財布のチャック、左手で開けましたよね。お金も左手で持っているので…」

「よっ、よく見てるね…」

「拭き掃除の時も左手でやっている時がありますよね。どっ、どっちでもいいんですけど…」

「その観察眼、素晴らしいね! 俺はさ、左も使えるんだよ。ボールも…。あっ…、いや、なんでもない」

「ボール…、右利きなのに左手で投げるんですか?」

「うん…、そうかもしれない…。どちらでも投げられるけれど、左手で投げることが多いかな…」

「どっ、どうしてですか?」

「それはね…」

俺はベンチに座り、前を見ながら淡々と過去を話した。

 

 

「せっ、清掃氏さん…、話してくれてありがとうございました」

「長々とごめんね。俺はさ…、弟が出来ないことはなるべくしたくないんだ」

「そっ、それは間違っていると思います。清掃氏さんだって、ずっとそれを背負って…、これからもずっと背負い続けて生きていくんじゃないですか。出来ないことをしてあげるのが弟さんの幸せなんじゃないですか?」

出来ないことをしてあげるのが…、出来ないことをしてあげるのが…、出来ないことをしてあげるのが…、その一言が何度も胸の中で木霊(こだま)した。

「えっ…?! いっ、妹子さん??」

「はっ、はい…、どっ、どうしました?」

俺は動揺していた。思いを否定されたからではない。かつて同じ言葉を投げかけられたことがあるからだ。そう…、あの彼女に…。

 

 

「ごめんね…。高校生の頃にね、同じことを言われたことがあったんだ。妹子さんとすごく似ている人にね…」

「ブログに書いていた彼女さんですか…?」

「うん…、そうだよ。こんなことってあるんだね…。あれから随分と長い時間が流れたけど、あの時の彼女と同じ歳の妹子さんからまた同じことを言われるなんてさ…」

「ずっと覚えていてもらえて、ずっと感謝され続けて、彼女さんは幸せですね」

「どうだろね…、それは俺には分からないな。だけどね、俺は同じくらい感謝しているよ。妹子さんと出会えたことにね。何もしてあげられないけど…、とにかく…、ありがとう」

「……………」

「そうだな…、今日はもう少し俺のつまらない話を聞いてもらおうかな…」

「はっ、はい! ぜひ聞かせて下さい!」

 

 

過去は今に繋がっている。今の自分はある日突然出来上がったものではない。今という時間は、自分という存在は、過去の積み重ねで作られている。今に続く物語は、もう書き換えられない。だが、未来は変えられる。明日の予定を立てるように、未来を作るのは今の自分である。そして、それを実証するのは難しくない。今考えたことを明日する。ただそれだけである。

 

予定が立てられないのなら、なりたい自分を考えればいい。俺はその繰り返しが望む未来へ続く道になるのだと信じたい。だから俺は、明日も夢を見る。夢見る力は、未来を作る力は、誰もが持っている。

 

 

 

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