木曽路名水探検隊のブログ-野尻鉄橋から中央アルプスを望む

 野尻鉄橋から望む中央アルプス


 読者の皆さん、長らくお待たせいたしました。

 木曽路のファンを自任する6人の仲間により発足したこのブログ。年度が替わりメンバーも何人か入れ替わりましたが、今年も木曽の名水を求めて活動を開始しました。

 その探検記を随時掲載していきますので、お楽しみに。(隊長敬白)


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 新メンバーを迎えて新たに発足した「木曽路名水探検隊」でしたが、第1回の探検を予定していた日は梅雨末期の大雨でやむなく延期。隊員の日程を再調整し来るべき探検に備えたのですが、真夏の日差しにあぶられて前日まで2週間近く連日酷暑が続いていたにもかかわらず、決行の日に限って明け方から篠突く雨でこの日も断念。昨年の探検では荒天による延期など一度もなかったのに、今年は相当の「雨男」がいるようです。


 それはさておき、探検を行えないまま日を空しくしていてはならじと、週間予報を睨みながら、行ける隊員だけで急きょ探検に出ることにしました。今回は、木曽が誇る渓谷を巡る探検です。


 その探検記はおいおい各隊員から報告することにして、今回は、探検の合間に立ち寄った木曽森林鉄道の遺構の1つをご紹介します。えっ? 名水と関係ないって? 今回ご紹介するのは木曽川に架かる橋梁の遺構。木曽川は木曽の人々の生活に深く関わりのある「水」。その木曽川に架かる橋も広い意味では「水ネタ」ということで...


 拙稿 で簡単にご紹介したとおり、かつて木曽の山々から伐り出された木材は、戦国から江戸初期にかけて活躍した豪商角倉了以が編み出した「木曽式伐木運材法」と呼ばれる方法で、河川を利用して下流域の需要地に運ばれていました。


 明治期に入り、工業化の進展により電力需要が増大したため、関西電力の前身の名古屋電燈という会社が木曽川流域への発電所建設を企図します。一方、明治44年(1911年)には中央本線が全通。当時、木曽の山林を管理していた帝室林野管理局は、材木輸送をそれまでの水運による方法に代えて、電力会社の負担で敷設されることになった森林鉄道に切り替えていきます。これを機に、木曽の谷には、最盛期には総延長430㎞にも上る鉄道網がはりめぐらされました。


 今回探検したのは、そうした鉄道の1つ、「野尻森林鉄道」(正式名称ではないようですが)の木曽川橋梁(通称「野尻鉄橋」)。野尻森林鉄道は、国鉄中央西線野尻駅近くの野尻貯木場から対岸の殿・柿其までの延長約11.3㎞の鉄道で、大正7年(1918年)から同13年にかけて建設されました。当初、この鉄道は水利権と引き換えに電力会社が敷設して当局に引き渡すことになっていたのが、会社側が当時のお金で182万円を12年の分割で支払い、当局が敷設することに変わったのだそうです。林鉄の建設に必要となる膨大な資金が経営を圧迫したのでしょうか。

木曽路名水探検隊のブログ-野尻鉄橋遠景


 この野尻鉄橋は、木曽森林鉄道の現存する遺構の中では最大級だとか。社団法人土木学会の「歴史的鋼橋」のリストによれば、全長134.6m、ワーレントラス・プラットトラス・プレートガーターを組み合わせた構造になっていて、開通に先立つ大正10年(1921年)、日本橋梁によって製作されました。

木曽路名水探検隊のブログ-野尻鉄橋2


 写真からもお分かりのように、整然と積み重ねられた切石の重厚な橋台・橋脚に、頑丈な鋼製の橋桁が据え付けられた、美しい構造の橋梁で、多少手を入れれば十分現役で使えそうな風情です。専門家ではないので、切石の種類までは分かりませんが、木曽川には花崗岩の大きな岩塊がゴロゴロしていますから、現地で調達されたものなのかもしれません。

木曽路名水探検隊のブログ-野尻鉄橋1


 橋に向かって緩やかに弧を描きながら続くアプローチは、まぎれもなくかつての鉄道敷。この道を小型の蒸気機関車が木材を満載した貨車を引いてあえぎながら上ってきたのでしょうか。

木曽路名水探検隊のブログ-野尻鉄橋に続くアプローチ


 昭和40年(1965年)に廃止されて半世紀近く経った今でも、風雨にさらされながら我々に往時を語りかける野尻鉄橋。管理する森林管理署でも、莫大にかかる費用のため壊すに壊せず、処置に困っているとか。「壊す」なんて言わないで、うまく「遺す」ことは考えられないものでしょうか。(aki