2009年07月19日

礼拝日誌:三位一体後第6主日

テーマ:礼拝内の音楽
 ホイマーデン教会でオルガン奏楽。説教は前任のW牧師で、牧師夫人も久々に顔を見せた。長いこと一緒に礼拝をしていた私にとっても懐かしい顔ぶれである。
 礼拝自体はごく普通に行われる…はずだったのだが、行ってみたら金管アンサンブルの連中が集結しているではないか。金管アンサンブルの連中って、昨日何かのお祝いで集会所を借りて、夜中まで騒いでなかったっけ?(笑)

 金管アンサンブルの指揮者曰く、

 「いやー、昨日の夜中の2時半に、やっぱりW牧師が来るなら礼拝で吹かないでどうする!って話になってさぁ…。」


 さすが、呑み助の金管はやることが違う。


 特に今の指揮者になってからなのだが、うちの金管アンサンブルの連中はえらく行き当たりばったりで物事を決める傾向にある。礼拝で吹くのは決まっているが、当日まで曲が決まっていないとかざらにあるし、この連中には計画性というものをまるで期待できないわけだが、今回はとうとう行き当たりばったりで本番吹くことにしたわけだ(爆)


 私 「あ~ら、よかったわね~、あなた達のことよく知ってる私が今日奏楽で。本当は代役が弾くはずだったのよむかっ


 これは本当で、私はこの日別の教会で合唱団の指揮をし、ホイマーデン教会では後輩のRさんがわざわざハイデルベルクから来て代役を弾いてくれるはずだったのだ。1週間半前になって合唱団の予定がキャンセルになり、私もRさんをハイデルベルクからわざわざ呼びつけるのは忍びないので、自分で弾くことにしたのである。合唱団の予定がキャンセルになっていなかったら、後輩はいきなりうちの金管連中の酔っ払い決断で大迷惑を被ることになっていたわけだあせる嫌味の一つも言っておかねばなるまい。

 まぁ、とりあえず金管登場で私の仕事は減った。そのことには素直に感謝しておこう(爆) 


 さて、三位一体の日から数えて6番目の日曜日、教会暦による礼拝のテーマは「洗礼による人生」。

前奏  金管アンサンブル:EG504によるコラール前奏曲
讃美歌 EG665(Württemberg) 1-4 Gelobt sei deine Treu
挨拶と今週の聖書の言葉 イザヤ書43章1節
詩篇交読 73篇 +Ehr sei dem Vater (ドイツ語版Gloria patri)
祈り・黙祷
金管アンサンブルによる音楽演奏:EG300のコラール
聖書朗読 ヨハネによる福音書10章14-16節と27-30節
讃美歌 EG200 1-6 Ich bin getauft auf deinen Namen
説教 マタイによる福音書28章16-20節の聖書講釈
讃美歌 EG210 1-5 Du hast mich, Herr, zu dir gerufen
とりなしの祈り
主の祈り
讃美歌 EG406, 1+2 Bei dir, Jesu, will ich bleiben
報告
讃美歌 EG576(Württemberg) Meine Hoffnung und meine Freude
祝祷
後奏 オルガン:EG576による即興演奏


♪ メモ ♪
 結局金管アンサンブルと仲良く(?)仕事を分け合って、前奏→金管&後奏→オルガン、それから讃美歌は2曲(EG200とEG406)金管が担当…と思ったら、礼拝開始直前にアンサンブルの指揮者曰く、「EG200は1-6節で長いから、3節分ぐらいオルガンで弾いてよ」 …へーい汗
 というわけで、EG200は前奏と1・5・6節を金管が吹き、間の2~4節を私が伴奏。
 後奏はどうしようか迷ったのだが、最後の讃美歌が576番になることは普段まずないので、576を使って即興。ってここのところ即興ばっかりだな…_ _;
 EG210はうちの教会では歌ったことのない讃美歌だったので、1回メロディーをわかるように弾いてから伴奏。一応ちゃんと歌えてはいた模様。

 今日の聖書箇所は弟子達がガリラヤの山(山は聖書では神との特別な出会いの場である)に登り、イエスと出会うシーンである。W牧師の説教は、聖書箇所に即してきちんと講釈したという感じだったので、本文に含まれているテーマ全部に少しずつ触れたものとなった。D牧師とはタイプが違うが、いい説教であったと思う。以下は要旨。
 - 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(18節)」:古代教会は「イエス・キリストは主(キュリオス)である」と告白し、使徒信条には「イエスは神の右に座し…」という箇所がある。イエスが神に全権を委任された存在である、というのは我々の信仰の中心である。
 しかし、イエスが天と地との全権を委任された存在であるならなぜ、この世の中には悲惨な出来事が絶えないのか。一体神はどこにいるのかと疑うことがあるし、自分にはとうていそれを理解できないが、唯一何らかの説明が出来るとするならば、人間には「悪を行う自由」が神によって与えられており、そのことが多くの「理解困難な問題」を引き起こす、ということ。その不条理な世界の中にあって、我々キリスト者は命が神によって与えられたものであると確信し、理解するのが困難な出来事にも何かしらの意味があると信じている。イエスが本来の意味での全権を持っているのならば、何者もその信仰から我々をひき離すことは出来ない。
 - 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(19節)」:宣教とは、信仰を他の人に伝えることであるが、その信仰の基本とは「イエスキリストによって、すべての創造主である神との共同体が築かれたということ」であり、その神との共同体が全ての人にとって有益であると思うから、宣教するのである。決して信仰の押し付けであったり、不安がらせるような脅しであったりしてはならず、あくまで「招待」であるべきだ。
 - 「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(19~20節)」:洗礼とは信仰によって得られるご褒美ではなく、招命であり、新しい人生の始まりである。洗礼を受けたあとで、イエスの言葉に「自分の出来る範囲で」従う、イエスの弟子としての人生が始まる。我々はあくまでも弟子なので、完全にイエスの言葉どおりには出来ないし、他人から攻撃されたり、他のクリスチャンをみてがっかりしたりするだろう。それでも、イエスの言葉に従う人生を歩もうとすることによって、人生に落ち着きがもたらされるのだ。
 - 最後に、来週から夏休みがスタートで、多くの人が飛行機に乗って休暇に行くだろうが、相次ぐ飛行機事故に不安を感じている人も多いであろう。信仰は我々にとって、事故や苦しみ、死に遭遇しないという保証には一切ならない。しかし我々には、神の守りを願うことが許されている。そのことを忘れずに、出発して欲しい。






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2009年06月13日

困った男もいたもので…

テーマ:礼拝内の音楽
 6月28日(日)に、アマチュアオーケストラと一緒にヘンデルのオルガン協奏曲を演奏するため、只今練習中なのだが…


 実はヘンデルというのは、大変困った男なのである。


 なんでなんで?とお思いになるかもしれないが、何とこの男、オルガンが全部ソロで弾く第2楽章を


 Organo (Adagio e Fuga) ad libitum.


 と一言書いて済ませてしまったのだ。日本語に訳すと


 オルガン (アダージョとフーガ) アドリブで。





 アドリブ~~~~??一体何を考えているのだ!?!?


 というわけで、前回のオルガンレッスンの時に持って行って、My師匠に聞いてみたところ





 「つまりだな…


 ヘンデルは 怠け者 だったもんで


 楽譜書くのがめんどくさかったんだよ。



 だから、即興して済ませたのさ。」







( ゚д゚)



 …な…


 怠け者ぉ~~~?



さいちゃんの教会音楽な日々-haendel-stamp


 認定されちゃったよ、ヘンデル。






 ←つまり、この怠け者のせいで、後代の演奏家はここでアダージョとフーガを即興しないといけない羽目になった、と。
 
和風素材の篆刻素材AOI 様から、スタンプ枠お借りいたしましたm(_ _)m






 ヘンデルよ…


 せめて最初だけでも書いといてくれたら…(>_<)


 テーマも何もないところから、フーガを即興するって難しいよぉ。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。




 といいつつ実は、誰か他の人が作った第2楽章の楽譜を指揮者からもらったのだけど…ヘンデルのスタイルを真似ているようで、あちらこちら不出来なもので、あまり納得がいかないのである(苦笑)
 CDも2種類聞いてみたが、ヘンデルの他の曲から調性の合うのを引っ張り出して弾いている模様。



 さぁて、どうしたもんだか…





 真剣に悩み中。















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2009年05月17日

礼拝日誌:復活後第5主日

テーマ:礼拝内の音楽
 ホイマーデン教会でオルガン奏楽。説教はゲストのM説教師。
 ヴュルテンベルク州教会特有の制度なのか、他のドイツの州教会にもあるのかわからないが、牧師の他に「説教師」と呼ばれる人達が礼拝を行うことがある。一般信徒で職業も他に持っているのだが、説教師養成コースで神学を学び、説教礼拝を行える資格を持った人たちである。
 M説教師とはもう何度か一緒に礼拝をしているが、明るく知的な女性説教師である。彼女の方も私のことをよく覚えている…というのも、一番初めにホイマーデン教会で礼拝をしたとき、讃美歌の連絡が事前に私のところに届かなかったというアクシデントがあったのだ。(これはM説教師のせいではなく、うちの教会の事務のせい>_<)仕方ないので、私は初見で奏楽をしたのだが、それを聴いて彼女は(初見でできるということに)びっくりしたらしい^^;
 もっともそのアクシデント以来、しっかり土曜日に「讃美歌届いてますか?」と電話を下さるようになったのだが、昨日も電話を下さった。今回は讃美歌を1曲入れ忘れたとのことで、

 「とりなしの祈りの合間に、EG(Württemberg)573番のマニフィカートを入れたいのだけれど…」

 讃美歌も600曲以上あれば知らないのや歌ったことのないのが出てくるわけで、この讃美歌はうちの教会ではまだ歌ったことがなかった。しかし、テゼ共同体の讃美歌と知り、「歌ったことないですけれど、やってみましょう。ただし、1回練習代わりに歌ってからとりなしの祈りを始めましょう」と応じた。テゼ共同体の讃美歌は、繰り返し聴けば覚えられるような素朴なメロディーの典礼歌がほとんどである。だから、何回か歌っているうちにみんな歌えるようになると踏んだのだ。
 それに、余程讃美歌に詳しく、積極的に新しい讃美歌を入れる牧師でない限り、礼拝で歌われる讃美歌というのはいつも牧師のレパートリーに入っている数十曲の讃美歌に絞られてしまうものなのだ。だから、ゲストの説教師や牧師が(我々にとって)新しい讃美歌を持ち込んでくれることは、むしろ大歓迎だと私は思っている。どうやってそれを導入するかは、牧師や説教師ではなくて、むしろ我々の仕事である。


 さて、復活祭(イースター)から数えて5番目の日曜日は、Rogate(「祈れ」もしくは「願え」)という名で知られている。教会暦による礼拝のテーマは「祈る教会」。


前奏  Philip Wolfrum: EG449によるコラール前奏曲
讃美歌 EG449 1-4 Die güldene Sonne voll Freud und Wonne
挨拶と今週の聖書の言葉 詩篇66篇20節
詩篇交読 18篇 +Ehr sei dem Vater (ドイツ語版Gloria patri)
祈り・黙祷
聖書朗読 テモテへの第1の手紙2章1-6a節
讃美歌 EG182 1-4 Suchet zuerst Gottes Reich in dieser Welt
説教 「父に願う」
讃美歌 EG328 1, 3-6 Dir, dir, o Höchster will ich singen
とりなしの祈り EG573(Württemberg) Kanon I
主の祈り
讃美歌 EG369, 7 Sing, bet und geh auf Gottes Wegen
報告
讃美歌 EG112, 6 Ich hang und bleib auch hangen
祝祷
後奏 EG112による即興演奏


♪ メモ ♪
前奏: 即興するの面倒だな~と思いつつ、コラール前奏曲集をめくっていたら、Philip Wolfrumのコラール
    前奏曲を見つけ、さほど難しくない曲だったので弾くことにした。Wolfrumは1854年生まれ、1919年没
    の作曲家でオルガニスト。ハイデルベルクで神学生相手に教会音楽を教え始め、それを牧師も
    含めた神学者相手の教会音楽教育に発展させた人物だ。(実はその教会音楽教育が更に発展
    して出来たのが、私の母校ハイデルベルク教会音楽大学である。)
      母校にゆかりのある作曲家ということで喜んで弾いたのだが、大して長くもないコラール前奏曲
    なのに、あちこちのパートにコラールのメロディーがちりばめられており、典型的ドイツ風だが
    よく書けているなぁと思った。また今度機会があったら、彼のコラール前奏曲に挑戦してみたい
    ものだ。

讃美歌182番: この讃美歌、日本語のワーシップ系讃美歌でも有名な「神の国と神の義を」なのだが、
         間違って一回多く弾いてしまった(爆) 途中で「ハッ、今何番だっけ?」と思ってみんなが
         歌っている歌詞を聴こうとしたのだが、時すでに遅しでリフレインの箇所に入っていたの
         だ_ _; で、その回が終わってもM説教師の姿が説教壇になかったので、「あ、そーか。
         じゃあ今から4番なんだ」と思って、しゃーしゃーと5回目を弾いてしまったというわけ^^;
           で、後で聞いてみたら、出席者の皆様も「あ、そーか。5番も歌うんだ」と思って、みんな
         しっかり歌ってしまったんだそうな(笑)M説教師は、自分が説教壇に上がるのが遅れた
         から、私がフォローのためもう1節付け足したんだと思ったとのことで、丸く収まり、めで
         たしめでたし。(なのかっ!?

説教: 聖書箇所はヨハネによる福音書16章23節後半~28節。もうすぐ弟子達のもとを去らねばなら
    ないイエスの言葉が綴られている。「(天の)父は願うものを与えてくださる」こと、それは「(天の)
    父があなた方を愛しているからだ」ということ、そして与えられたものによって「あなた方が喜びで
    満たされる」のが重要なのだということを、聖書に即して語ってくれた。内容に異議はないし、
    大切なところをきちんと押さえていたとは思うのだが、複数のポイントを同じぐらい強調して
    しまったため、一つ一つのポイントの印象が薄くなってしまい、結果的に「えーとそれで、何が
    一番大切なんだっけ?」という感じになってしまった。実のある内容を語っているだけに、こういう
    説教はちょっと残念である。

後奏: なんかこう、礼拝の雰囲気に合う曲が見つからず、こういう時は即興に限る!と腹を括り、
    EG112を使っての即興をしてしまった。まずはメロディーをひっくり返して重ねていき、最後に
    元のメロディー出現…みたいな形で即興していったのだが、派手に元気よく礼拝終了!!と
    いうノリになってしまった(笑)やれやれ。










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2009年02月06日

2つの葬儀

テーマ:オルガン・即興
 偶然が重なり、今日はお葬式奏楽のハシゴをすることとなってしまった。どちらも個人的な繋がりで頼まれた仕事である。

 1つ目の葬儀はお昼の12時から、ジーレンブッフ地区にある墓地のチャペルにて。この葬儀で演奏を頼まれたヴァイオリニストの方が、私のピアノの生徒の近所に住んでいて、生徒のお母さんから私が教会オルガニストであることを伝え聞いていたようなのだ。それで、この緊急事態に私のことを思い出して連絡を下さったのである。
 連絡を頂いたのが2日前。ヘンデルのニ短調のアリアの楽譜をもらい、それを葬儀の前奏にとのことだったのだが、当日チャペルではオーケストラも練習しており、また前の葬儀との間隔が短かったせいもあって、結局合わせは全く出来なかった。
 牧師と顔をあわせてびっくり、ついこの前の日曜日にうちの教会で説教をしたジーレンブッフ教会のB牧師だった。「亡くなった方はあなたの教会の方だったんですか?」と聞く私に、「いや、本人はカトリックなんだけれど、息子さんが僕の教会で堅信礼をしたもので、僕が葬儀をすることになったんだよ。」と説明してくれた。「あなたこそ、どうして弾くことになったの?」と聞き返され、「ヴァイオリニストが私のピアノの生徒の近所の方で、頼まれたんです」と私も説明。

 ヴァイオリンとの合わせでぶっつけ本番の前奏。チャペルのオルガンは、合計5ストップしかない、一段鍵盤の小さなパイプオルガンだ。挨拶と祈りがあり、オーケストラがJ.S.バッハのコラール"Befiehl du deine Wege"を演奏。その後聖書朗読があり、讃美歌"Von Guten Mächten still und treu umgeben"を私の伴奏で歌う。
 亡くなった方は44歳の女性で、2児の母であった。上の男の子は高校生で、その学校のオーケストラが葬儀での演奏を申し出てくれたのだそうである。シングルマザーであったこの女性は、生活保護を受けたりしながらも、上の男の子を女手一つで育ててきた。数年前に今のパートナーと知り合い、女の子も生まれて4人で家庭を築き、未来は明るいかのように見えた。が、幸せな家族を襲ったのは女性の突然の死…。全く何の兆候もなく、突然心臓発作で亡くなったのだという。
 小さな墓地のチャペルは人でいっぱいで、椅子が足りなくて立ったまま参列している人たちもおり、すすり泣きがあちこちから聞こえていた。故人がどれだけ周りの人に慕われていたかがわかるような気がした。
 B牧師の説教の聖書箇所は「詩篇23篇」。「主は我が羊飼い、私には何も足りないものがありません」という有名な箇所なのだが…私はこの牧師の選択にいささか驚いた。大切な人を突然失い、喪失感に打ちひしがれている家族・友人たちに、「足りないものがない」という箇所を示すというのはどういうことなのだろうと思ったのである。だが、牧師はその私の疑問をしっかり説教の中で取り上げ、「こんな時に一体、よき羊飼いはどこにいるのだろう?と問うのは当然だ」とした上で、こうしめくくったのである。
 「詩篇23篇は、どんな時にも前向さを失わなかった故人の、終生のモットーだったのだ。どんな困難な時にも、羊飼いが自分に必要なものを補ってくれるという確信を本能的に持っていたからこそ、彼女はいつも明るく前向きでいることが出来た。その彼女の確信を、我々も自分のものとして人生を歩んでいくことが出来るのである。」と。
 オーケストラがJ.S.バッハのコラール"Gloria sei dir gesungen"を演奏、それから友人代表の方がの挨拶。そして黙祷、祈りと続いた。参列者への連絡事項があり、最後に"Geh' aus, mein Herz, und suche Freud"を歌い、後奏と共に墓地への出棺となった。

 後奏を弾き終わって、早速手早く片づけをしている墓地の職員を横目に見ながらオルガンの鍵を返し、私も遅ればせながらチャペルから墓地の方へ足を伸ばしてみた。お墓の場所は、幸いにしてすぐにわかった。地中に下ろされた棺の上に、参列者が花を投げ入れ、最後の別れの祈りをしているところだった。お墓の横にたたずむ、小さな子どもを抱いた男性と高校生ぐらいの男の子の姿が痛々しかった。
 直接の知り合いではない私はお悔やみは記帳のみにして、ヴァイオリニストと牧師に挨拶をして墓地を後にしたのだが、正直に言って悲しい思いでいっぱいだった。

 どうして、こんなことにならなくちゃいけなかったのだろう。
 どうして、まだ44歳のこの女性が、亡くならなければいけなかったのだろう。
 どうして、この子ども達は、お母さんを失わなくてはならなかったのだろうか…。

 きっと私のこの思いは、この葬儀の参列者全てに共通したものであっただろうと思うのだ。答えのないその問いを、心にずっしりと重く感じながら、次の葬儀に向かった。


 2つ目の葬儀は15時から、デーガロッホ地区にあるミヒャエル教会で行われた。この教会はデーガロッホ地域のトップの教会音楽家、S女史の持ち教会である。この教会では前に一度、金婚式を弾いたことがある(2005年8月26日の記事 参照)。さいちゃんの教会音楽な日々-Spieltisch-Michaelsk,
 13時半すぎに到着。前日に教会に電話連絡して、練習したい旨を伝えてあったので、鍵は開けておいてくれていた。早速オルガンのところに行って準備を始める。さっきに比べて、時間的に余裕があるので気が楽だが、それにしてもどのストップを使うか決めておかねばならない。
 墓地のチャペルのミニオルガンを弾いた後、突然3段鍵盤の巨大なオルガンの前に座ると、さすがにその差をものすごく感じる。会堂の音響も、墓地の小さなチャペルと、歴史ある石造りの大きな教会とでは全く違う。慣れるのに少し時間が必要だ。
 いろいろなストップを試しているうちに、1時間近くあっという間に過ぎてしまい、牧師とこの葬儀を取り仕切っているCさんとがやってきた。亡くなった方はJohanniterという、中世の騎士団の伝統を継ぐ福祉団体の会員で、それゆえこの葬儀はJohanniterバーデン・ヴュルテンベルク地域の代表であり、文化省のお役人であるCさんが手配したのだ。私はCさんとはここ2年ぐらいの知り合いで(知り合いになった経緯は長くなるので割愛…^^;)、Cさんから直接お電話を頂いて、私が今日の奏楽をやらせていただくことになったのである。
 この葬儀はデーガロッホ地区の牧師であるM牧師が典礼を担当、Johanniterの会員である引退牧師、S牧師が説教を担当するという形で行われた。墓地のチャペルで行われる葬儀よりも、はるかに普段の礼拝に近い典礼になっている。打ち合わせをしてみたら、1つだけ事前に聞いていたのと違うところがあった。礼拝の中で3人の方が挨拶をするのだが、その合間合間に1曲ずつ、何か静かな曲を入れて欲しいというのだ。(事前に聞いていたのは、3人の挨拶が終わった後1曲だけ何か演奏。)「……即興してもいいですか?」と牧師に聞いたら、「即興、いいねぇ~」という即答だったもので、予定外の即興演奏決定になってしまった。

 前奏にメンデルスゾーンの「アンダンテニ長調」を、短くして演奏。挨拶があり、詩篇交読は奇遇にも詩篇23篇。そして、祈りの後、聖書朗読はヨハネ福音書10章12-16節の「私はよい羊飼いである」の箇所である。
 讃美歌66番"Jesus ist kommen"の1,2,4節を歌い、そして説教。テーマはもちろん前の葬儀と同じなのだが、説教のニュアンスはだいぶ違っていた。亡くなった女性は戦前生まれで、87歳だった。2つの戦争、そして戦後の大変な時期を乗り越え、Johanniterや乗馬協会の会員として活発に活動し、長寿を全うした故人をずっと導いた「よき羊飼い」。S牧師も、我々の世界は「足りないもの」に目を留めればキリがないことを認めながらも、しかし「与えられているもの」に視点をずらせば、必要なものは十分与えられているのだと強調していた。
 説教の後に讃美歌66番5節を歌い、それから故人との交流があった3人の挨拶。急に「そうだ、今日歌わないけれどみんな知っている、お葬式の讃美歌のメロディーを使って即興しよう」と思いついたものの、1人目の挨拶があまりにも短くて、讃美歌集を開くのが間に合わず、1曲目は自分でその場で作ったメロディーを展開させる形で即興することになってしまった。2曲目・3曲目は讃美歌のメロディーを使用。一応、それなりにまとまったとは思う。
 とりなしの祈りと主の祈りがあって、最後の讃美歌は331番"Großer Gott, wir loben dich"の1節と11節。そして祝祷・アーメン唱と続き、後奏にはメンデルスゾーンの6番ソナタの終楽章を弾いた。
 この葬儀は1つめの葬儀とは違い、時間があって入念に準備されたものだったので、全体的に落ち着いた葬儀になったと思う。


 2つ目のお葬式を終えてもなお、私の心の中では1つ目のお葬式の時の思いがずっしりと重かった。ただ、1つだけはっきり感じたことは、「これこそが私達教会音楽家の仕事なのだ」ということである。
 人生の様々な局面で、音楽をもって人々と共に歩むこと。喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と悲しみを共にすること。やりきれない思いや割り切れない不条理さ…それを共に分かち合いながら、音楽をもって人々の側にいること。それを黙々と行うことが我々の仕事であり、それ以上でもそれ以下でもあってはならないのだ。
 コンサート活動をする演奏家などとは全く違う、地味な仕事…。時には全く日の当たらない仕事ですらある。でも、人間の存在をありのまま見つめ、その側にいることの出来る仕事であることは間違いない。

 そして、それと関連して、「キリスト教の信仰とは何なのか」ということも考えさせられた。
 詩篇23篇の言葉を語る時、「救われた者」の立場から「上から目線の語り方」、つまりまるで自分がもう天国にいて下界の人間を引っ張り上げようとするような語り方も出来る。だが、今日の2人の牧師の説教と、そこに共通する「信仰」を考えると、やはりそうであってはならないのだと強く感じた。
 我々はキリスト者であろうとなかろうと、あくまでも苦しみ・悲しみ・不条理のあふれかえる世界に住む「下界の人間」なのだ。周りの人たちと共に悲しみ・苦しみを分かち合いながら、静かに羊飼いの導きを待ち望み、目を上げる…。その「下から上に向かう目線」こそが、周りの人々に希望を与える「信仰」なのだと思う。
 全く異なる人生を送った2人の女性の葬儀を通して、そんなことに思いをめぐらせた1日だった。









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2009年01月27日

歌い手、勢揃い!!

テーマ:事務 その他
 今日はシュトゥットガルトの教会音楽家たちが企画する、年に一度の歌い手コンテスト(?)があったので行ってみた。
 教会では大きなコンサートはもちろん、ちょっとした音楽礼拝の場面でも、歌のソリストが必要になることが多々ある。歌い手の方も心得ていて、仕事をもらうために教会音楽家のところへ「声を聴いてください」としょっちゅう電話をかけてくる。そこで、年に1回みんな集まって、まとめてやってしまおうという企画らしい。
 立場上、シュトゥットガルトの辺境オルガニストの私には当然その手の情報は直接来ない。私もソリストの情報を欲しがっていると知って、オルガンの先生が誘ってくれたのだ。「(案内をもらってないのに)行って、一緒に聴いて大丈夫なんですか?」と念のため先生に聞いたら、「別に構わないと思うんだけど。何かいわれたら僕が何とかするからおいでよ」と言ってくれたので、ちょっとホッとして出かけたのだった。(……教会音楽家の世界も、結構人間関係がややこしいので怖いのだ_ _;)

 行ってみたら、会場にはもう何人かの教会音楽家が来ていたが、知らない顔ばかり。歌い手は別室を控え室にしているようである。入り口のところでちょっとキョロキョロしていたら、私の教会のあるデーガロッホ地域のトップの教会音楽家S女史や、シュトゥットガルト中央地域での仕事を受け持っているP女史等、知った顔が少しずつ現れてホッとする。本当はこういうとき、堂々と部屋にいる全員に自己紹介して回れるぐらい度胸があるといいのだが、なにせ今日は「招かれざる客」だという意識があるものだから、どうしてもおどおどしてしまう。S女史も企画側として一瞬「あら?どうして彼女がいるのかしら」みたいな顔をしていたし。(でも聞かないところが大人なのかも…?^^;)
 M氏という古参の教会音楽家が現れ、新顔を認めて挨拶してくれて、そこで初めて先生の名前を出したら「ああ、そう」の一言で終わってしまった。そうこうしているうちに、例によって例のごとくギリギリでうちの先生も現れた。挨拶するや否や、着席の号令がかかる。座る時に、隣や前後になった人と簡単に握手と名前で挨拶。集まっている教会音楽家は12~13人といったところである。

 今日はシュトゥットガルトのトップの教会音楽家、H氏が病欠だそうで、代わりに午前中はS女史、午後はツッフェンハウゼン地域のトップの教会音楽家K氏が進行係をするとのこと。11時から15時までと先生に聞いていて、まさか4時間ぶっ続け?そんなに歌い手がいるの?と思っていたのだが、進行表をもらったら見事10分刻みで全部埋まっている。おそろしー!!
 アルトのMさんからスタートし、3人アルトが続き、その後ソプラノ登場。それから2人キャンセルになったらしく、進行表にあるのとは別の名前の人が歌った。どうやら最初から歌うのは24人と枠が決まっていて、誰かがキャンセルするとウェイティング・リストに名前の載っている人が飛び入りできるシステムになっているらしい。逆に言えば、それだけ応募者がたくさんいるということなのだろう。
 音大を出ている歌い手であれば、みんなそれなりの声は持っている。だが、10分の枠で、自分の持てる力を出し切る…というのは大変なことだと思う。自分の長所をアピールできる曲を選ぶのはもちろんだが、コンディションもその10分のために整えておかねばならない。音大の試験や就職試験で問われるその「厳しさ」を、今回初めて審査員の側になって改めて強く感じた。次から次へと歌を聴いていると、残酷なほどその差がわかるのである。
 今回は一般の就職試験やコンテストとは違い、就職が決まるわけでも、点数がついて一番が選ばれるわけでもない。聴いている教会音楽家のうち、誰かの目に留まれば、何かの機会に電話がかかってくる…という形で結果が表れる。すぐ結果が出ない分余計に厳しいかもしれないが、これだけの人数がいれば1人が買ってくれなくても、他の誰かの目に止まるチャンスはあるわけだ。実際、「こういう声はシュッツやる時には欲しいけれど、ブラームスではちょっと…」とかいうこともあるわけで、私も含めた教会音楽家側は、聴きながら熱心にそういう内容のメモを取っているのである。
 例えば私が取ったメモの例を、ソプラノで挙げてみると…
 「明るく軽い声だが、ビブラートかかりすぎ、表情があまりない。」
 「明るく表情豊か。高音も安定しているが、高くなると鋭い声になる。」
 「力強いがくもった声。音程のとぶ箇所が不安定。高音が上がりきらない時あり。」
 「コロラトゥーラ。中音域も良く出る。ドラマチック系の力強さは持たないが、安定した透明な声。」 

 1時間半たったころ、トイレ休憩に一旦外へ出た。休憩はタイムテーブルに入っていないから、各自適当にトイレタイムを取らざるを得ない。で、トイレから出たところで知った顔を発見。去年先輩のアシスタントをした時、ソロを歌っていたバリトンの歌手で、教会音楽家兼シュトゥットガルト・オペラの合唱団員であるBさんだ。進行表を見て「もしや?」と思っていたが、案の定であった。歌う順番待ちをしているのである。
 「あれっ?僕、あなたを知ってるよね?」というので、ちょっと立ち話。先輩から「Bくんは報酬に関係なく、時間が空いていればいつでも来てくれるよ」と聞いていたので、いざという時のために「シュトゥットガルトに合唱団を持っていて、たまにソリストを必要としている」という話もちらっとしておいた。実際若いけれど非常にいい声の持ち主だし、一緒に仕事をしやすそうな好青年でもあるので(笑)
 Bさんと話していたら、外から扉を開けて知った顔がまた登場…!ハイデルベルク時代の学生仲間、Aくんである。「お久しぶり~!こんなところで何してんの?」ってAくんよ、そりゃないだろう。私が歌手じゃないことぐらい知ってるだろ?(爆) ちなみにAくんは卒業後1年間実習生をやり、その後産休代理でシュトゥットガルトに教会音楽家の職を見つけた。産休を取っていた教会音楽家が半分仕事に復帰し、相変わらず残りの半分の仕事をしている、というところまで知っていたが、同じシュトゥットガルトに住んでいるのに全く会う機会がなく、ご無沙汰していたのである。
 というわけで、Bさんに"Viel Erfolg!"(成功を祈ります!)と声をかけ、Aくんと一緒に会場に戻った。この間7分ぐらいだったらしく、聴き逃すかも?と思っていたソプラノの歌手の、最後の1曲を聴くことが出来て良かった。次がBさんの番で、安定した力強い低音でのびのびと歌っていた。大したものである。

 お昼頃、進行係がK氏に交代したのだが、K氏は会場に入ってくるなり一言、「窓開けて休憩にしない?」 …どうも余程空気が悪かったらしい。みんなも頷いて、ちょっとだけ休憩を取ることになった。
 さて、実は私、大変不義理なことをK氏にしてしまっていた。2年前まで私はツッフェンハウゼン地域に住んでおり、トップのK氏とも交流があったのだが、引越しのバタバタで行き先も告げないまま、ツッフェンハウゼン地域から突然姿を消した形になってしまっていたのである。その後、パソコントラブルでメールアドレスを消失したこともあって、完璧に連絡しないままになっていた。もっともこれは言い訳にすぎなく、K氏のメールアドレスなんてインターネット検索で出てくるのだから、その気になればすぐわかるのである。ここで会ったが百年目!?というか、ここで会ったからには平謝りして関係回復を図るべし。
 というわけで、早速K氏のところへ行って平謝りしたのだが、幸いにして「うん、でも今日ここで会えてよかった。新しい住所教えて。」とすぐに言ってくれた。私もK氏にお願いして、メールアドレスを書いてもらい、無事連絡先交換完了。怒ってなくてよかった…(少なくとも表面上は)。
 音楽家として活動するには、こういう繋がりを持っておくのはかなり大切なのだ。それをサボっていたのは、やはり私の「不徳のいたすところ」である。学生時代はそんなことどうでもいいと思っていたが、残念ながらこの世の中はやはり人脈で動いているのだ…ということをつくづく感じさせられるこの頃である。

 休憩時間中、Aくんともちょっと話をしてみたら、産休を取っていた教会音楽家はすでに4分の3復帰しており、彼は残りの4分の1の仕事をしているとのことだった。それで家族を養うのは大変なんじゃ…?と思ったら、シュトゥットガルトの全く別の教会で職をゲットし、今は両方の仕事をしているのだそうだ。彼は元々、シュトゥットガルトのトップの教会音楽家H氏の弟子だということもあって、上手くやっているようで一安心である。
 今回審査(?)に来ている主だった教会音楽家は、歌い手の連絡先や履歴を手元に持っていた。先生も持っていたので見せてもらって、気に入った歌手の連絡先のメモを取ろうとしたら、先生曰く「あ、それメモとらなくていいよ。後で全部メールで送ってあげるから」とのこと。至れり尽くせりで、ありがたいことであるm(_ _)m
 そうこうしているうちに約10分遅れで後半が始まった。最初がバリトンだったが、音程が不安定なところがあり、B氏との差が出てしまって残念な出来だった。
 結局、ソプラノ11人、アルト8人、テノール3人、バリトン2人。そのうち、私が何かの時にソリストを頼みたいな、と思ったのがソプラノ4人、アルト3人、テノール2人、バリトン1人。難点はあるが場合によっては…というのがソプラノ2人、アルト3人、テノール1人、バリトン1人、という結果であった。ま、でも問題は「お金」だよね…_ _;

 終わったあと、私はすぐに仕事に行かねばならなかったので、うちの先生とK氏に手短に挨拶。Aくんにも挨拶をしようとしたら「僕も今出る」というので、一緒に会場を後にした。
 Aくんが「君の教会は、大きなコンサートをやるだけのお金あるの?」と聞くので、「ないよ」と身も蓋もない即答をする私。「ただ、例えば去年、モーツァルトとハイドンのプログラムで、ソプラノのソリスト1人呼んでコンサートやったんだよね。その程度なら何とか出来るって感じ。」と言ったら、Aくん「ふーん」と一言。Aくんが新たに持った教会が、経済的に厳しいであろうことは想像がつくので、彼も悩んでいるのかもしれないな…と思う。
 活動をするためのお金のやりくり、人脈を作ること、等々… 教会音楽家の腕が、音楽でない部分で試されるというのも残酷な話だ。高い理想を持って教会音楽家を目指す人には申し訳ないが、いくら実力があっても、うまく動き回れないと音楽する場を持つことすら出来ないのが現実である。厳しいよなぁ~_ _;

 いずれにせよ、今日はいろいろな意味で有意義な日だった。自分の声を聴いてもらおうとする、積極的な歌い手の姿勢にも少なからず刺激された。今日聴いた歌い手に仕事をお願いする日が来るのかどうかはわからないが、この先コンサートの計画をする時に、必ず役に立つだろうと思う。









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