「砕ける月」第4章 | 『Go ahead,Make my day ! 』

『Go ahead,Make my day ! 』

【オリジナルのハードボイルド小説(?)と創作に関する無駄口。ときどき音楽についても】

 
 アタシがアルバイトをしているフィットネスクラブは今泉の入り組んだ一画にある。
 国体道路から少し入った路地裏で、周囲はマンションや雑居ビルばかりのロケーションだ。最初はこんなところに通ってくる物好きがいるのかと思っていたが、聞けば福岡では老舗の部類に入るのだそうだ。
 アタシの仕事はいわゆるアシスタントスタッフというやつで、スタジオレッスンで使う用具の準備や片付け、会員さんからの問い合わせや苦情の対応、清掃のおばちゃんの手が回らないときはその手伝い、時にはジムに並ぶマシンの使い方を説明する際のお手本など本当に多岐に及ぶ。
 本来、アタシはアルバイトをする必要がない。口座に振り込まれる小遣いすら使いきれていないからだ。服は大半がユニクロかコムサ。自炊が苦にならないので外食もしない。CDやDVDはよほど気に入ったもの以外はレンタル。本や雑誌もできるだけ立ち読みで済ませてほとんど買わない。金がかかる趣味はバイクくらいだ。何年も前に生産が終わった旧車はとかくメンテナンス費用がかさむ。燃費もお世辞にも良いとは言えない。
 だが、それだけだ。世間的に見れば何不自由ない生活だろう。
 そんな中でアタシがアルバイトをしているのはバンディットの維持費とガソリン代くらい自分で稼ぎたいからだ。つまらない意地だというのは分かっている。けれど、そこをなし崩しにしたらアタシは誰にも何も言えなくなってしまう。
 由真の自宅を訪ねてから天神でしばらく時間をつぶしたが、無趣味なアタシは街にいてもすることがない。仕方がないのでバイトの時刻には早いがクラブに顔を出すことにした。
 タイムカードを押していると支配人が後ろを通った。三〇代後半にして小太りの洋梨体型はフィットネスクラブの人間として如何なものかと思うが、当の本人は気にしている様子もない。
「おはよう、真奈ちゃん」
「おはようございます」
 クラブは営業時間が長いのでシフトに合わせて時差出勤になっている。なので、挨拶は朝一番だろうが夕方だろうがおはようで統一されている。
「こんなに早くどうしたの?」
「することないんで。プール入ってもいいですか?」
「いいけど。でも、花の女子高生が夏休みにすることないなんて勿体ないなぁ」
「花なんかないですよ」
「またまた」
 支配人は笑いながら去って行った。
 水着に着替えにスタッフルームへ向かった。スタッフ特典として空いている時間帯であればプールやジムなどの施設を無料で使わせてもらうことができるのだ。アタシがアルバイト先にここを選んだ理由の一つでもある。
 アタシたち学生には夏休みでも世間一般では平日の午後だ。有閑マダムでごった返すエアロビクススタジオを除けば館内は閑散としている。プールも一番端のレーンでひたすら歩いている年配の会員さんくらいしかいない。
 プールサイドのマットの上でゆっくりとストレッチ。
「……ん、しょっと」
「あら、どうしたの?」
 プールサイドの女性スタッフが声をかけてくる。アタシはに軽く頭を下げて応えた。
「ちょっと身体がなまってるんで」
「真奈ちゃんが?」
「最近、運動不足なんです。学校で補習ばっかりで」
「あたしもそうだった」
 彼女は朗らかに笑った。アタシも少し伏し目がちに笑みを返した。こうすれば作り笑いがバレなくて済む。
 ここではアタシは学校に内緒でバイトしているごく普通の高校生で通っている。素性を知っているのはクラブのオーナーと紹介してくれた人くらいで、スタッフはもちろん、支配人も詳しいことは知らない。なので、誰もアタシを疎ましげな眼で見たりしない。気軽に声をかけてくれたり時には飲み会やご飯に誘ってもらえたりもする。
 だが、それに奇妙な罪悪感を覚えることがある。不意に「アタシの父親、殺人犯なんですよ」とぶちまけたくなる衝動に駆られるときがある。今はかろうじて自分をごまかす術を身に付けたが、最初の頃は特にそうだった。そんなことをしても何にもならないのに。
 一通りのストレッチをしてプールに身を沈めた。ゴーグルを引き下ろしてゆっくりと背泳ぎで泳ぎ出した。
 アタシは泳ぐときにあまり考え事をしない。真っ白なプールの天井にできた薄いシミや天窓から差し込む光を眺めながら、ただゆっくりと身体を動かすだけだ。この無心になれる感じが好きで最近はスタミナ維持をランニングよりも泳ぐことで賄おうとする傾向がある。
 途中で平泳ぎに変えて何往復かしてから再び背泳ぎに戻った。時折、プールサイドの壁にある時計に目をやる。アタシは何メートル泳いだかよりは何分泳いだかを重視する。いちいち数えてなどいられないし、ペースを守って泳いでいれば結局は同じくらいの距離になるからだ。
 一時間ほど泳いだところでプールから上がった。タオルで髪を拭いていると見学用のブースの扉が開いて作務衣姿の年寄りが入ってきた。
 工藤幹康。元福岡県警の刑事でアタシの父親が駆け出しの刑事だった頃の上司。このクラブをバイト先に紹介してくれた人でもある。道場を辞めさせられた後の空手の師匠でもあるのだが、アタシはこのジジイに何一つ技を教わった覚えがない。
「なんだ、おまえ来とったのか」
 ジジイはアタシをじろりとねめつけた。しわだらけの浅黒い顔に白髪のオールバック。白麻のスーツにパナマ帽をかぶってサックスを持てばナベサダそっくりだ。
「来てちゃ悪い?」
「誰もそんなこと言っとらんだろ。来てるなら顔くらい出せ」
「別に悪いとこなんかないし」
「嘘をつけ。左肩が落ちとるぞ。背骨が少し曲がっとるせいだな」
「……そんなのパッと見ただけで分かんの?」
「分かるさ。脳みそに行くべき栄養がぜんぶ乳に回っとることもな」
「どこ見てんだ、このエロジジイ」
 このクラブには一階に併設の整骨院がある。経営は別だがクラブフロントの横から直接出入りできるようになっているし、ロッカールームに併設されているリラクゼーションスペースからマッサージの出張を頼むこともできる。ジジイはそこで雇われ院長をしている。空手家のくせに柔道整復師の資格を持っているというのも何だか変か感じがするが、現代の柔道や柔術だって整復術とは直接関係ないらしい。
 まあ、そんなことはアタシにはどうでもいいが。
「仕事が終わったら来い。診てやるから」
 ジジイは不機嫌そうに言い捨ててくるりを踵を返した。

 フィットネスクラブは休日やその前日より平日の夜の方が忙しい。誰だって遊びに行く予定を返上してまで体を鍛えようなんて思わないからだ。ここは盆正月を除けばほぼ年中無休だが、クラブによっては金曜日が休館なんてところもあるらしい。
 その日も結構忙しかった。
 しかも清掃のおばちゃんの一人が休みで応援に入らなくてはならず、アタシはフロアモップを片手に館内を走り回る羽目になった。男性更衣室に入っていいものかずいぶん悩んだが、仕事だからと割り切ることにした。幸いにも――と言っていいかはかなり疑問だが――父は年頃の娘の前を平気で裸で歩き回る人間だったので、男の裸にはそれなりに耐性がある。むしろ若い男性が所在なさげだったのが気の毒だった。
「ぶへぇ、疲れた……」
 施術用のださいジャージ姿でベッドに倒れ込む。ジジイはふんと鼻を鳴らすだけだ。
「いい若いモンが何を言っとる」
「若くったって疲れんだから。さっさとやってよ」
「金も払わんくせに態度だけはでかいな。背骨は押せば治るが性根が曲がっとるのは治らんぞ」
「うっさい、クソジジイ」
 口は悪いが腕は確かなジジイの施術、ついでに指圧と鍼まで打ってもらって身体はずいぶん軽くなった。まだ十八歳でマッサージ後のまったり感を心地よいと感じるのはいろんな意味で危険な気がするが気持ちいいものは仕方がない。
 着替えてから熱いコーヒーを啜りながらソファで休んだ。インスタントではなく豆から淹れた渋みが効いたサントス。ちゃんとアタシが淹れた。アタシは大のコーヒー党だが、それはこのジジイの影響によるところが大きい。
 テレビの夜のニュースを眺めながら由真の携帯電話を鳴らしてみたが、相変わらず繋がる気配はなかった。
「友だちか?」
 ジジイは椅子にどっかりと腰をおろしてタバコを吹かしていた。口をすぼめて煙を吐き出すと急に顔が年寄りくさくなる。くさくなるも何もとっくに七十歳を超えているが。
「そうだけど、何?」
「……いちいちつっかかるな。子供かおまえは」
「子供だってば」
「だったら、もうちょっと素直になれ」
 ジジイはそれ以上何も言わずにテレビに向き直った。
 たった一日連絡が取れないだけで、アタシは何を心配しているのだろう。由真にもアタシ以外の誰かとの用事があるし、それをいちいちアタシに断る必要などない。電話に出たくない気分のときもあるだろう。アタシだって気分が乗らないときにコールを無視するのは珍しくない。
「……帰る」
 立ち上がるとジジイがアタシの顔を見上げた。
「腹減っとるだろ。屋台でラーメンでもどうだ?」
「食欲ない」
「具合でも悪いのか?」
「アタシだってそんなときがあるよ」
 ジジイは鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。アタシは小声でお休みを言って外に出た。
 日付はすでに変わっていて辺りはすっかり静まり返っていた。表通りを行き交う車の音が微かに聞こえてくるくらいだ。人影もない。
 ビルの一階は会員用の駐車場になっていて、アタシのバンディットはその奥まったスペースに突っ込んである。本来、従業員の車は少し離れたところにある駐車場に停めることになっているが、何も遮るものがないところにぽつんとバイクを放置したくないし、そこは貯水槽がある関係でデッドスペースになっているので支配人も黙認してくれているのだ。
 星と羽根を大胆にあしらった阿部典史レプリカのヘルメットを被ってシートに跨った。何でもいいからノリのいい音楽を聴きたい気分だったが、さすがにバイクに乗るときにイヤホンなんか突っ込めない。小さく舌打ちしてセルモーターのスイッチを押した。
 エンジンはかからなかった。
「マジかい……」
 引きずり出して押しがけにチャレンジすることも考えた。だが、そうするには400ccの車体は重すぎたしアタシの気力も足りていなかった。諦めてバンディットを元の場所に戻した。
 タクシーで帰る程度の現金は持っているが、そんな贅沢をする気にはならなかった。歩いて帰るのも願い下げだ。アタシを襲う物好きがいるとは思えないが百道浜はあまりにも遠い。
 中に戻るとジジイの怪訝そうな眼差しが待っていた。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「バイクが壊れたの。家まで送ってくんない?」
「……片付けが終わるまで待っとれ」
 後片付けには何だかんだで一時間ほどかかるらしかった。
 手伝ってもいいがジジイが「何もせんでいい」と言うので手は出さない。自分の道具や居場所を他人にいじられるのを好まないタイプなのだ。いい歳して心が狭いなと思うがそのあたりは人それぞれだし、無理に手伝いたい訳でもないので放っておくのが常だ。
 しかし、せかせかと動き回る年寄りの様子を眺めて過ごすには一時間は長かった。携帯電話の画面と睨めっこをする趣味はアタシにはない。しかし、音楽を聴きながら所在なさげに座っている気分でもなかった。待合室のマンガはジジイの趣味で統一されていて読み返す気にならない。「女性患者もいるんだから少しは考えろ」と何度か言ったことがあるのだが、ラインナップは相変わらず〈ゴルゴ13〉と〈サラリーマン金太郎〉のみだ。
 アタシは椅子から立ち上がった。
「ちょっとその辺歩いてくる」
「構わんが、戻ってきたときには閉めとるかも知れんぞ?」
「そのときは家に行くよ」
 ジジイの自宅はクラブのすぐ近くなので通勤は徒歩だ。送ってもらうにはどうせ家まで行かなくてはならない。
「じゃあね」
「夏休みで愚連隊みたいなのがウロウロしとる。気をつけるんだぞ」
「誰に向かって言ってんの?」
 呆れたような視線に見送られてアタシは整骨院を出た。その途端に熱の塊にでもぶつかったような気分になった。少しは気温が下がっているとはいえ真夏の夜だ。一瞬、冷房が効いた院内に戻ろうかと思ったがそんなみっともないこともできない。
 国体道路は福岡中心部の東西の幹線道路で夜になっても交通量は多い。
 その南側に広がる今泉は大名や警固とひっくるめて南天神と呼ばれている。一昔前は繁華街近くの普通の住宅地で民家やマンション、せいぜい雑居ビルがある程度の夜になると真っ暗な地域だったそうだが、今は安い賃料と福岡の中心地のすぐそばという立地に惹かれてカフェや居酒屋、バーなどが増えている。いわゆる激戦区ってやつらしい。
 それでも大名なんかに比べると全体的にこじんまりしていて、深夜になると人通りもそんなに多くない。地区の中心は今泉公園という三角州のような形をした小さな公園だがその周りも人影はまばらだ。今日が平日というだけじゃなく昨今の不況の影響もあるのだろう。会社を経営してるらしいオッサンたちがクラブの更衣室でそんな話をしていた。思いっきりため息混じりに。
 アタシは人っ子一人いない公園のベンチに腰をおろした。
 公園を囲む木々のむやみな背の高さといい、住民への配慮からかあまり明るくない照明といい、辺りには女性の夜の独り歩きに向かない雰囲気が満点に漂っている。アタシは気にしない方だが、たとえば由真などは怖がってまともに歩けないだろう。
 まあ、今泉公園周りが静かなのはそれだけが原因じゃないが。今泉にはもう一つ、ラブホテル街という顔があるのだ。公園周辺をぐるりと見回すだけで五、六軒のネオンサインが目に入る。公園出口の正面にファミリーマートがあるがその上もラブホテルだ。
 そのせいかどうかは知らないが、通行人もあまりキョロキョロせずに足早に通り過ぎようとしているような気がする。繁華街のすぐ裏手なので車ではなく徒歩の客が多いのも今泉の特徴だ。カップルだけじゃなく、どう見てもデリヘル嬢としか思えない格好の女がワンボックスで運ばれてきて足早に建物に入っていく姿も見ることができる。当然、同じ数だけ一人でホテルに入る男がいるということでもあるが、不思議なことにその姿はあまり目につかない。
 とりあえず、アタシには一緒に入る相手も一人で入る知り合いもいない。彼氏なんてモノがいたのはアタシがまだ平凡な女子高生でいられた頃の話だ。
 ポケットからiPodを引っ張り出してイヤホンを耳に突っ込んだ。いつものようにシャッフルで再生をスタートさせる。
 流れ出したのは〈今夜月の見える丘に〉だった。由真のやつが勝手に入れた曲だ。
 いつだったか、由真が「真奈、ちょっとiPod貸して」と言うので深く考えずに手渡したことがある。

(何すんだよ?)
(いいからいいから。真奈ってば洋楽ばっかりだから、たまには違うの聴いてみない?)
(J-POPは趣味じゃねえんだ。変なの入れんな)
(ダメ?)
(当たり前だろ。入れた分は消す)
(……わかった)

 しかし、返ってきたiPodにはB’zのベスト盤が丸ごと転送されていた。しかもベスト盤は何枚もあるらしくて曲数はかなりに及んだ。

(おい、何やってんだよ)
(えへへ、あたしのお薦め。食わず嫌いはダメだよ)
(バカなこと言ってんじゃねーよ)

 最初は聴かなければいいだけだと思っていた。ところがシャッフル再生の際には当然これらも対象に入ってくる。何曲も興味がないミュージシャンが続くとなるといくら我慢強いアタシでも腹が立ってくる。
 だったら宣言どうりに消せば済む話ではある。実際にそうしようともした。しかし、由真が頬をはち切れんばかりに膨らませて抗議してきたので思い留まらざるを得なかったのが現実だ。
 自分の持ち物なのに他人の顔色を伺わなくちゃならない理由はハッキリ言って謎だ。しぶしぶでも由真の言うことを聞いてしまう理由も。
 空を眺めたが、月なんか出ちゃいなかった。