御書に見る「成仏を約束された人々」18

 

日妙聖人

 

生没年、本名不明、大聖人御在世当時の鎌倉に住む女性信徒、寡婦となったが、堀日亨上人は、乙御前の母であると推定されている。日妙尼とも称され、幼き娘の乙御前を連れて佐渡の大聖人を訪ねたほどの純真な信心から、『日妙聖人』の法号を賜り、日妙聖人御書に娘の名を冠した乙御前御消息、乙御前母御書が遺されている。

 

 

「我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず。(中略)

民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同じ事なるべし、一念三千の肝心と申すはこれなり。」(日妙聖人御書1215-6頁)文永95月 51歳御作

通解:煩悩に縛られた私達・凡夫が、たちまちに教主釈尊と等しい功徳が得られるのです。それは教主釈尊の功徳全体を受けとるからです。法華経方便品には「我が如く等しくして異なること無し」とあります。法華経を信じ行ずる者は釈尊と等しいという文なのです。譬えば、父母が和合して子を産みますが、その子の身はすべて父母の身であり、誰がこの事で異論をはさむでしょうか。牛王の子は牛王であり、いまだに師子王とはなりません。師子王の子は師子王です、いまだに人王や天王などにはなりません。今、法華経の行者は「其の中の衆生は悉く是れわが子なり」(譬喩品)といって、教主釈尊の御子なのです。よって、教主釈尊の様に法の王となる事は難しくないのです。(中略)

民が現身に王の身となる事と、凡夫がたちまちに仏と成る事とは同じ事なのです。一念三千の肝心というのはこの事なのです。

※大聖人は「一念三千の肝心」と云って、「凡夫がたちまちに仏と成る事は難しくない」と仰せです。

 

 

「此の御経こそ実語の中の実語にて候へ、実語の御経をば・正直の者心得候なり、今実語の女人にて・おはすか、当に知るべし須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも此の女人をば見るべからず、砂をむして飯となす人をば見るとも此の女人をば見るべからず、当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等・此女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん、日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云。」(日妙聖人御書1215-6頁)

通解:此の法華経こそ実語の中の実語です。実語の法華経は正直の者が信じ会得できるのです。今、あなたは実語の女人でおられるのでしょう。まさに(御自身を)認識してください。須弥山を頭に載せて大海を渡る人を見る事ができても、此の(様な)女人を見る事はできません。砂を蒸して飯とする人を見る事はできても、此の(様な)女人を見る事はできません。まさしく釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行菩薩・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈天王・四王等が、此の女人を影が身に添う様に守られる事でしょう。あなたは、日本第一の法華経の行者の女人です。それ故、名を一つ付けて不軽菩薩の義に準えましょう、「日妙聖人」等と。

※「日妙聖人」の名が、どれ程深い敬意を込められていたかは明瞭です。

 

 

「法華経を信ずる人人は志あるも・なきも知られ候はざりしかども・御勘気を・かほりて佐渡の島まで流されしかば問い訪う人もなかりしに・女人の御身として・かたがた御志ありし上・我と来り給いし事うつつならざる不思議なり、其の上いまのまうで又申すばかりなし、定めて神も・まほらせ給ひ十羅刹も御あはれみましますらん、法華経は女人の御ためには暗きに・ともしび・海に船・おそろしき所には・まほりと・なるべきよし・ちかはせ給へり、(中略)

されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし・其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし」(乙御前御消息、身軽法重抄1220頁)建治元年8月 54歳御作

通解:法華経を信ずる人々の中で誰が、信心が有るとか無いとかは知らなかったけれど、(北条氏の)咎めを受けて佐渡の島まで流されると、問い訪ねる人も無かったのに、女人の身でありながら、いろいろとお志を示された上、あなた自らはるばる来られた事は、現実とは思えないほど不思議な事です。その上この度の身延への訪れは何とも申し述べ様もありません。必ず諸天善神も守られ、十羅刹も賞嘆されている事でしょう。法華経には女人の為に、暗い夜は灯となり、海を渡る折には船となり、恐ろしい所では守護役になると、薬王品で誓われています。(中略)

それ故に妙楽大師は「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等と云われています。心の堅固な者には神の守りも必ず強いというのです。此れは、あなたの為に申すのです。これまでのお志については、言いつくせません。だが、それよりも尚、一層強盛な信仰に励んでください。その時は、いよいよ十羅刹女のお守りも強くなっていくと確信してください。

※大聖人の最も苦しい時から変わらない信心だからこそ、諸天善神の守りも強くなっていく、と仰せなのでしょう。

 

 

「いかなる男をせさせ給うとも法華経のかたきならば随ひ給うべからず、いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり」(乙御前御消息、身軽法重抄1221頁)

通解:どんな男を夫とされても、法華経に敵対するならば随ってはなりません。いよいよ強盛な信心を持ちなさい。氷は水から出たけれども水よりも冷たく、青い色は藍から出たけれども色を重ねると藍よりも色が濃いのです、同じ法華経ですが、信心を強く重ねれば他人よりも色もすぐれ利益もある筈なのです。

※この法華経とは御本尊であり、御本尊を受持するにあたって、持つ人の信心こそ大切であると御教示されている。

 

 

をとごぜんのはは
いまは法華経をしらせ給いて仏にならせ給うべき女人なり、かへすがへすふみものぐさき者なれども・たびたび申す、又御房たちをも・ふびんにあたらせ給うとうけ給わる・申すばかりなし。なによりも女房のみとして・これまで来りて候いし事・これまで・ながされ候いける事は・さる事にて御心ざしの.あらわるべきにや・ありけんと・ありがたくのみをぼへ候、(中略)

をとごぜんが・いかに尼となり候いつらん、法華経にみやづかわせ候ほうこうをば・をとごぜんの尼は・のちさいわいになり候に○○○。」(乙御前母御書1222頁)年代不明11

通解:乙御前の母
今は法華経を慕われて、仏に成るべき女人です。返すがえすも筆無精の者ですが、度々申し上げます。また御房達をも色々と面倒みてくださっていると伺っています。お礼の申しようもありません。何よりも女房の身として此処までこられたこと(佐渡の事か?)日蓮が此処まで流された事は理由あっての事であり、あなたの厚い御志が顕れる為であったのかと、ただありがたくのみ思っているのです。(中略)

乙御前は、どの様に成長されたのでしょうか。法華経に宮仕えをされているともいえるその奉公は、乙御前の御命となり、幸福になる事でしょう。○○○。

※此処でも、大聖人は、妙法を求める信心の一念により、乙御前の母は必ず仏に成られるであろうと喜ばれている。

 

 

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