大聖人が述べられた「仏と衆生の関係」1

 

 

法華講や顕正会では、「創価学会仏」の「仏」について、人間を超越した特別な人格と考えている様ですが、大聖人は「仏と衆生の関係」をどの様に説明されているのでしょうか。

大聖人の御文を紹介します。

 

 

「『我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ』、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(観心本尊抄246頁)

通解:方便品には仏が「(法華経を説いて一切衆生に即身成仏の大直道を与え、)仏と衆生とは等しくして異なることがない。仏がその昔に誓願した一切衆生を度脱せんとの誓いを今はすでに満足し、一切衆生をして皆仏道に入らしめることができた」と説かれています。妙覚(不可思議な仏の無上正覚、一切の煩悩を断じ尽くした仏果、五十二位の最高位、六即位では究竟即をいう)の釈尊は我等の血肉であり因果の功徳は骨髄ではないのでしょうか。

※釈尊が「仏と衆生とは等しくして異なる事はない」と述べておられ、大聖人も同意しておられるのです。

 

「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し」(一生成仏抄384頁)

通解:浄名経(維摩経のこと)の中に「衆生の心がけがれるならばその住む国土もけがれ、衆生の心が清ければ土も清い」と説かれる様に、浄土といい穢土といっても、国土が二つに分かれているではないのです。ただ我らの心の善悪によって浄土とも穢土ともなるのです。衆生といい仏というのもまた同じなのです。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏と名づけたのです。たとえば曇った鏡も磨けば宝石の様な明鏡と見える様なものなのです。

※大聖人は「迷う時を衆生、悟る時を仏という」と明言されています。

 

 

「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり」(十如是事410頁)

通解:我が身が、三身即一の本覚の如来(そのままの姿で本来から覚りを得ている仏)であることを法華経に「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」と説いているのです。初めに如是相とは、我が身の色形に顕れている相貌をいい、これを応身如来(慈悲を施す力用、救済する為に機縁に従って応現する仏身)とも、または解脱とも、または仮諦ともいうのです。次に如是性とは、我が心性をいい、これを報身如来(真理を体得する能証の知恵、また智慧を体得した仏身)とも、または般若とも、または空諦ともいうのです。三に如是体とは、我がこの身体であり、これを法身如来(所証の真理、法性;悟りそのもの、真理・法性を身体とする仏)とも、または中道とも法性とも寂滅ともいうのです。だから、この三如是を三身如来ともいうのです。この三如是が三身如来であられるのを、余所事と思い分け隔てていたけれど、もはや我が身の上の事なのです。この様に覚知する事を法華経を悟った人というのです。

※大聖人は「我が身(我等衆生)こそが本覚の如来である」事を法華経十如是論で、私達に教えられているのです。

 

 

「我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。」(一念三千法門412頁)

通解:我が身が即三徳の究竟の体(法身・般若・解脱の三徳を具えた尊極の当体のこと)であり三身即一身の本覚の仏なのです。これを知るのを如来とも聖人とも悟りともいい、知らないのを凡夫とも衆生とも迷いともいうのです。

※此処でも「『我が身は、三身即一身の本覚の仏であると知るのが如来であり悟りといい、知らざるが衆生であり迷いという」と大聖人が仰せなのです。

 

 

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