子どもを「小さな大人」として相手すること。 | 三茶農園/きむらさとる

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 気付きの共有。コミュニケーション、演出表現について、まちづくり。渋谷とか静岡。

 

赤ちゃんが生まれると、赤ちゃんの「自分のことを自分で決める権利」は保護者が一度預かって、子どもが成長するにつれて「自分のことを自分で決める権利」を少しずつ渡していって、あるとき子どもに全部渡す。その一連の過程こそが子育て、という話が好き。

 

海外、特に欧米と日本のアニメを見比べていると、前者は”こども”を「小さな大人」として扱っているような構成になっていて、後者は”こども”を「子供」として扱っているような気がしてならない。

 

アメリカの西海岸に行ったときの話なのだが、カリフォルニアで教育方針/方法について聞いたことがあります。

 

たとえば幼稚園の年少~年中(3~5歳)は「自立」を学ぶ。ハロウィンになると畑にカボチャをもらいに行くのだが、子どもたちはイチバン大きなカボチャを拾おうとして持てなくて泣く。それを日本人のお母さんたちは手助けしようとするのだが、先生から「日本のお母さん手伝うのはやめてください。泣こうが喚き叫ぼうが子どもたちが自分で持てるものだけ持たせてあげてください」と言われます。

 

続いて年長~小学校の低学年(6~8歳)になると「責任」という名のプレゼンテーションを学ぶ。朝の会に持ち回りで、みんなの前で約4分半話すという役を任される。幼稚園の年長といえば5,6歳児なわけだが、お構いなしです。「明日、○○さんはお父さんの好きなところを4分半話してください」さらに翌日には別の子が「明日、△△さんは家に帰ってお手伝いしたことを4分半話してください」と言われる。そのうちすらすらと話せるようになっていきます。

 

自立と責任を学ぶと、ようやく将来の夢を描く権利が与えられ、ある子は会計士になりたい、ある子はパティシエになりたいと夢を語る。自分の意思を持ってプレゼンテーションも上手なのでみな饒舌に語るわけだが、小学校の高学年(11~12歳)になると「共生」という名のボランティアに従事します。「あなたは自分の夢を持ち上手に語ることができている。けれど社会の一員であり社会のために生きていることを学ばなくてはならない」

 

自立 → 責任(プレゼン) → 共生

 

みんなと同様のことに取り組む「共生」、受験勉強という名の「責任」、大学に合格したり一人暮らしを始めるとようやくやりたいことを語ってよい「自立」。あくまで個人的仮説だが、日本の教育は逆のような気がします。

 

つまり、ちゃんとした「大人」になる準備期間として”こども”時代が想定されている

 

教え育てようという上から目線の「教育」と、学び習いたいという自発的な「学習」の違いは大きい。子育て/人育てにおいて、自立と責任は重要なのだろうなと。