出版された図書を100年、200年、1000年にわかり保存され、簡単に閲覧できる方法を誰がつくるのか。

図書を出版することとは、いったい、どのようなことなのか?

おそらく、それは、図書館が持つ機能なのであろう。

100年前に出版された図書を、みたいという学生にそれを、どのように提供するのか?
その図書館に所蔵しており、閲覧も可能の図書なら、話は簡単だ。
その図書館になくても、近隣の図書館にあれば、紹介状もかくこともできる。
(図書館のレファレンスの主要な仕事の一つである。)
近隣になくても、国内でみつかれば、図書館間貸し出しで、借りることも出来る。
(レファレンスの主要な仕事のひとつである。)
(また、雑誌論文記事なら、複写してもらうことも出来る。)
海外にあるものでも、借り受けたり、複写依頼することができる。


しかし、図書を出版して、絶版であることは、著者や出版社は、なにか責任を放棄していないか?
活字時代にあって、図書の出版が非常に大変であったことを考えると、何十年前の図書を
可能限り保管し、いつでも供給できることは、出版社の義務であるということはできない。
それほどたいへんなことだからである。
もう一度、活字を拾って出版することが、どんなに大変であるか、想像に難くない。

図書を出版するということは、社会的影響をあたえ続けることでもある。その影響力は
果てしなくつづくといっても過言ではない。
社会のあり方を一遍させてしまうほどの影響力のあるものの少なくない。

さて、出版された図書は、100年、200年、1000年にわたり保存され、閲覧できる方法を誰が作るのか。
酸性紙問題もある。
少し前の図書は、100年も保存することができない。

何十年も前に出版された図書を、閲覧したいという学生がきたとき、われらはどのように応えるのか。
100年後、200年前に出版された図書をみたいといったとき、当時の図書は、酸性紙で、すべて朽ち果てているのに
読みたいといわれたらどうするのか?

図書館で図書を保存することで、酸性紙の図書を長期間保存することができないことは、明白である。

へんな言い方かもしれないが、著者や出版社には、保存の責任はないのか。
たぶん、ない といっていいのだろう。
さて、次にどのような、話の展開が可能だろうか。

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岩波書店は、創業から今までに、何冊の図書を出版しただろうか。
講談社は、どうであろうか。

岩波や講談社は、すでに、数万冊に達しているに違いない。
その中で、今も、供給可能な図書は、どのくらいなのか?
絶版になったり、在庫のない図書は、どのように考えるのか。

さて、大学などでも、出版をしている。
図書の出版はたいへんなので、一度にたくさんつくるが、大学の倉庫の中に
何百冊も、何十年も、不良在庫して残っており、100年たっても、在庫を
一掃する術をもっていないのである。