ひみこ

高句麗の広開土大王

2006-10-21 06:01:04 Theme: 歴史

高句麗の広開土大王・・・と言えばヨン様が主演で、来春放送予定の「太王四神記」の主人公なのですよね~ラブラブ


広開土大王


(11月19日に、映像が出ました~ドキドキ



・・・どこまでもドラマにとらわれていて、申し訳ないです汗

でも、実際に基本的な歴史の知識が希薄な私としては、大河ドラマとか史劇は興味をそこから誘発されるので助かりますけどね。ただ問題は、ほとんどが設定は実在の人物ではあるのですが、それがほとんどの場合作られた話だということなんですよね~あせる まあ、それは日本の場合も似たり寄ったりか・・・(でも、ここまで作ってないと思います、日本は!!


この広開土大王はいつ、どこに現れた人物かと言うと、まさに朱蒙が建国したあの高句麗!

高句麗の歴史は長く、700年にも渡っているので、その間にいろいろな人物が現れたわけですが、この広開土大王の時代に高句麗はものすごい勢いで領土を拡大していったようです。

今の中国の鴨緑江沿いの吉林省チーアン、ここは400年の間に渡って高句麗の首都でした。ここを拠点として、広開土大王は以北は放射線状に、以南は水軍を置いて海からの攻撃を主とした戦法を使いました。最初に攻められた国は百済。百済は水軍の奇襲を受け、カンミ城を落城させます。百済の領地であった漢城(今のソウル)は  、西暦396年に落とされ、それ以降高句麗は西海岸を含めたハンガン以北の地方を治めることになりました。それと同時に百済は高句麗に対して貢ぎ物をするようになりました。新羅に対しても同様に、倭と加羅、百済の軍が攻め入ってくるにあたって、新羅は高句麗に軍の援助を求めたことから、貢ぎ物をするようになりました。三国時代に最も強大な力を誇っていた高句麗。その高句麗はこの広開土大王の時代に最盛期を迎えることになります。彼は百済と新羅に対して直接統治をするのではなく、官僚を置いて間接的に治めていきました。戦争だけでなく、彼は宗教、文化、政治にも力を入れました。平壌に9つの寺を建築したり、官僚制にも力を入れた、ということです。

今も中国の吉林省チーアンには、彼の功績を称えて414年に建てられた、6メートル40センチの”広開土大王碑”が残されているそうです。



                     







Comments

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1 ■百済は3度滅亡

 実は、高句麗などにほろぼされた百済の文化が日本の文化の原型でもあります。日本は、古代に結構、朝鮮半島文化を受け入れています。まあ、右翼の方々は、否定されている方も多いですけど・・・。それに反日を掲げている韓国の方も「日本を作ったのは、朝鮮人だー」といっておりますが、あながち嘘ではない。まあ、日本の場合、文化は朝鮮半島でも、政治・経済に関しては中国の影響を受けているので、韓国の方がいうような「日本を作った」というのは大仰なのですが・・・。そういっても天皇陛下が、朝廷のなかに朝鮮人がいたことを認めてますし、ましてや天皇を生んだもとも認めてます。たしか、桓武天皇の母が朝鮮半島系の人だったときいてます。

 さて、うちのかみさんは、李王朝の末裔ともいいます。まあ、傍系の傍系だとは思いますが。さかのぼれば、あのハングルをくつった世宗大王だそうです。

2 ■トミーとマツさん

最近、高句麗のドラマが多いのは、やはり理由があるんだと思いますよ。中国のほうから韓国の歴史は自分達の歴史に包括されている、とか言われて、”そうではない!”という意識を改めて植え付けたいという心理の現れじゃないかと・・・。
上からも下からも攻められて、確かに行き場が無い状況はわかりますけどね(;^_^A
それにしても、奥さんって李氏朝の末裔??
すっごいですね~!セジョン大王の子孫って・・・すご過ぎっ!!

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