学ぶとは、自分を捨てることであり、つまりは愛するものを捨てること。 | YOSHITO's ブログ

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こんばんは。 義人です。

 

私も公には、人を導かなればならない立場にあります。 少人数ですけど。

 

基本的に難しいのは、人は聞きたくないことは聞かないし、

したくないことは、しないということです。

学ぶことを拒否する人に、学ばせることはできません。

 

 

人が進歩するというのは、『学ぶ』ということです。

学ぶことができない人は、『無能』に向かって、日々少しずつ沈んでいきます。

 

学べない人というのは、外から見ていて歯がゆいものです。

 

『学ぶ』 とは、自分を修正する。ということではありません。

修正 とは、自分を残したまま部分的に改善するということですよね。

 

『学ぶ』 とは、自分を殺して、新しい形を丸のまま受けいれる。ということです。

当然、自分の意見など言う余地はありません。

ある人を先生と決めたのなら、 先生の言うことはそのまま、YES。 というだけです。

それが自分に合わないならば、無言で立ち去るだけです。

 

教師は、議論する対象ではありません。

ただ、受け入れるべき人です。

 

 

導く側からみて、イライラするのは、

生徒が自分の価値観を保持したまま、教師の教えに議論を仕掛けることです。

なぜそんなバカなことに教師が付き合う必要があるのでしょうか。

 

『先生はAはBだとおっしゃいましたが、私はCだと思います。』

『先生は・・・と言われましたが、このような例外があるのではありませんか?』

 

・・・・

 

教師は困ります。

 

だったら、そう思えばよいでしょう。 世の中に完全無欠の体系など存在しません。

 

教師が言いたいのは、

 

『貴方が知らない大きな体系について私は教えているのだ。』

『その体系を理解すれば、今のあなたより明らかに進歩することができる。』

『細かな例外を突っつく前に、貴方にとって新しい、大きな体系を理解したらどうだ。』

『その気がないなら、帰ってくれ。』

 

といったところでしょうか。

 

よく、『学ぶ準備ができてない』 といいますが、

単に、学ぶ気の無い人に教えることはできないということです。

 

 

 

 

最近私は聖書を読み直して、以前と感じ方が全く違うのが楽しいのですが、

(私はクリスチャンではありませんが)

 

マタイの福音書の中に、

 

 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。  わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。  そして家の者が、その人の敵となるであろう。  わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。  また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。

 

という一節があります。

 

新しい価値を受け入れるとは、このようなことなのでしょうね。

 

ここでいう、父や母や、息子や娘というのは、価値があることを疑いようがない者たちです。

しかしその価値は、私たちの心の中に形成された価値であって、

外からみれば、そんなものとは比較にならないほどの圧倒的価値が存在する(イエス)。

 

しかし私たちは、イエスよりも、父や母を選んでしまいがちなのです。

 

イエスよりも家族を選ぶ人は、

残念ながら、イエスの素晴らしい価値の恩恵に浴することはできない。

 

もしイエスの圧倒的な価値に触れることができるなら、

父や母や家族との関係が壊れることなど、とるにたらない、些細な事なのに。

 

 

 

例えば私たちが何か本を一冊読んだとしましょう。

『これは素晴らしい、ためになった』 と思ったとしても、

それを実行する人は、1%もいないというのが通説です。

 

本から得た知識よりも、自分の昨日までの生活のペースを乱さないことに

価値を感じているのです。

 

『自分の生活よりも、本を信じよ』 という、本の神様の声が聞こえてきそうです。

 

 

 

 

私たちは、辛さや寂しさを振り切って、

新しい価値を求めなければ、世間の進歩についていくことはできません。

 

 

昨日までの自分をどんどん否定して、

自分が信じる新しい価値観を身に着けていきましょう。

 

後押しするのは、貴方の絶対の味方である、『コーチ』です。