朝鮮高校の高校無償化対象からの除外は言語道断 | 朝鮮問題深掘りすると?

朝鮮問題深掘りすると?

初老の徳さんが考える朝鮮半島関係報道の歪み、評論家、報道人の勉強不足を叱咤し、ステレオタイプを斬る。

残念ながら高校無償化を朝鮮高校に適用しないことが決まりました。もっとも日本政府は検討に時間がかかるということで見切り発車の体を取り付くろってますが、本音が表れたということでしょう。これが「友愛」を掲げた政府のやることでしょうか。まさに鉄面皮と言うほかありません。


ウルトラ右翼の拉致問題担当の中井さん、大阪府知事の橋本さん、「良かった」と思っていることでしょう。産経新聞も一息ついていることでしょう。「在特会」は「しめしめ」と言うところですか。喜んでいる連中を見れば日本政府の決定の性格が良く分かります。国連人種差別撤廃委員会はこれを明らかな差別として指摘していますが、この連中には蚊に刺されたほどの痛みも感じられないのでしょう。


ですがまだ完全に終わったわけではありません。反撃を準備しましょう。この問題ではっきりしたことが二つあります。一つは、日本は決して平等社会でもなく民主主義国家でもなく、差別社会であり、コリアンに対する民族的蔑視と差別の根が極めて深いという事実です。そして民主党政府にはこうした反人権的言動と風潮に敢然と立ち向かう覚悟も姿勢もないということです。こうした反人権政策が、日本国民にも迫っているということを忘れるわけにはいきません。


そのために、以前にご紹介したマルチン・ニーメラーの、ナチスの弾圧について述べた言葉を再度紹介することにします。


彼らが最初に来たとき
ナチは最初に共産党を粛清した。だが、私は共産党員ではなかったので沈黙した
その次はユダヤ人を粛清した。だが、私はユダヤ人でもなかったのでやはり沈黙した
その次には労働組合を粛清した。だが、やはり私は労働組合員ではなかったので沈黙した
その次にはカソリック教徒を粛清した。わたしはプロテスタントであったので沈黙した
そしてついに私に来た。だが、その瞬間には、ともに行動する人は誰も残っていなかった


ナチス政権の下で民主主義が根こそぎにされていくも模様を、経験に沿って描いた言葉です。最初は誰もが自分にまで及ぶとは思わない、自分の生活とは縁のないものだと思っていても、ファシズムはいつの間にか自分を襲うことになると言う教訓を述べています。同じようなことがこの日本で起きないとは誰もいえないはずです。そして事実そうした動きが見え隠れしています。


二つめは在日コリアンが自身のおかれた現況をしっかりと認識したということです。特に若者らがそれを自覚できたということが大切です。今、在日コリアンは三世が主人の時代です。朝鮮学校に通っているのは4,5世です。つまり日本の在日コリアンに対する蔑視、差別は既に5代にわたって続いており、依然として改善の余地がないということです。今回の問題は4,5世も自らがこの差別構造の中で自身の未来を切り開いていく他ない、ということをしっかりと自覚する必要があるということを教えてくれています。


そのためにも在日コリアンの歩みと、それが残してきた教訓の歴史をしっかりと生活の中でかみ締める必要がありそうです。最大の教訓は、黙っていては持っているもの、長い闘いの中で一つ一つ獲得してきたものを、知らぬ間に奪われていくのだと言うことでしょう。日本のヘイト勢力はまさに在日コリアンがこの教訓を忘れてくれるように願っています。


民族教育の歴史はその中でも最も重要な柱だといえるでしょう。在日コリアンのコミュニティーがまさに民族学校を建て運営してきた歴史の中で形成され、発展したことを思えば当然です。


ブログ「日刊イオ」に載った記事を一つ紹介します。朝鮮高校の無償化対象からの除外についての日本政府の言動のいい加減さを手際よく整理しています。まずは参考にしてください。

記事のURLです。http://blog.goo.ne.jp/gekkanio/c/30090916b92b84f241726b5a4b56b622

以下本文です。


文科省のホームページにアップされている法律案の概要によると、高校無償化の対象となる学校は、国公私立の高等学校、中等教育学校、特別支援学校、高等専門学校、専修学校・各種学校等(高等学校に類する課程として文部科学省令で定めるもの)とする、とあります。


2月26日、鳩山首相は「(朝鮮学校除外は)結論が出ている話ではないとしながら、「当然、高校の授業内容というものが検討材料になることは間違いない。その中で結果として国交がない国の教科内容が果たして私どもが確認できるのかどうか」と発言しました。また、川端文部科学大臣は、「高校とみなせるものを対象とするのが大原則。そのためには何をもって判断基準とするのか。またどういう方法で確認するのか。最終的に物事を決めるものさしは、そういうことだと思っている」と発言しました(NHKニュースから)。


もちろん、税金を投入するので、判断基準は必要でしょう。
しかし、2003年の大学受験資格問題の際、国交のない中華民国系の横浜中華学院に関しては財団法人交流協会の認定を使って受験資格を認めた事実ひとつをとっても、「国交なし」を「理由」に挙げながら「除外」の可能性を否定しない上記の発言は、朝鮮学校を外すための口実にしか思えません。


過去、大学受験問題、学校法人への寄付金の損金扱いなど、外国人学校の処遇は一歩一歩前進してきたものの、日本政府は「朝鮮学校排除」という明らかなダブルスタンダードを取ってきました。長くなりますが、受験資格問題から文科省の朝鮮学校排除の過程を振り返ります。


2003年3月。
文部科学省はアメリカ、イギリスの学校評価教育機関(WASC、ACSI、ECIS)の認定を受けた16校のインターナショナルスクール出身者に大学受験資格を認め、アジア系の朝鮮・韓国・中華学校などは排除する方針を発表しました。それまで日本政府は国際バカロレア、仏バカロレア、独アビトゥア合格者には大学受験資格を認めていました。すなわち外国人学校を直接認めるのではなく、その合格者が「本国の大学受験資格」を持っていることに注目し、資格を与えてきたのですが、03年の決定は「特定の外国人学校」に大学受験資格を認める初の判断だったのです。しかし、「アジア系排除」の方針は世論の猛反発を受け、修正を余儀なくされます。


2003年9月。
文部科学省は、①欧米系の学校評価機関の認定を受けた外国人学校卒業生(インターナショナルスクール)、②外国の正規の課程と同等と位置づけられていることが「公的に確認できる」外国人学校卒業生(ブラジル学校、韓国・中華学校など)③大学の個別審査によって高等学校卒業者と同等以上の学力があると認められる者(朝鮮学校)に対して受験資格を与えると発表しました。


つまり、文科省は、その人に大学を受験する資格があるかの判断基準として、①欧米の学校評価機関、②本国認可―という判断基準を設ける一方、大学受験者の大半を占める朝鮮学校は外国の正規の課程と同等かどうかを「公的に確認できない」として、「学校として」受験資格を認める道を閉ざしたのです。国交のない中華民国(台湾)については財団法人交流協会を通じて認める形をとりました。


以上は大学受験資格問題ですが、寄付金問題においても「二重基準」を設けました。


2003年3月31日、財務省は、「初等教育または中等教育を外国語によって施すことを目的」とする各種学校を設置する学校法人を「特定公益増進法人」に加え、その学校法人への寄付が損金扱いになるよう、省令を改正しました。省令の文面だけ見れば朝鮮学校も十分対象となりそうです。しかし、認められる「学校の基準」は文部科学大臣が財務大臣と協議して決めるとされました、そこで文科省は、認められる外国人学校の対象を①「外交」「公用」「家族滞在」などの在留資格を持つ子どもに教育を施すことを目的とし、②かつ欧米系の学校評価機関の認定を受けた各種学校に制限したのです。結果、一部のインターナショナルスクールだけが認められ、朝鮮学校、中華学校は「特定公益増進法人」の対象から外されてしまいました。


長々と書きましたが、日本政府や文部科学省は朝鮮学校外しのために、一生懸命に口実を設けてきたわけです。


2003年の受験資格問題の際、文科省が記者会見で発表した外国人学校のリストの中にブラジル学校が1校もなかったことにアゼンとした記憶がありますが、文科省は今もって外国人学校をしっかり調査もしていません。今回の高校無償化の件では、「朝鮮学校排除」ばかりがクローズアップされていますが、外国人学校のなかには、中国のように海外にある同胞の学校を認めるシステムを持たない国もあれば、本国認可がそぐわないインターナショナルスクールもあり、その姿は多様です。


一方、外国人学校の現場にしっかり向き合った文部官僚もいました。2003年6月19日に池坊保子文部科学政務官(当時)は、東京・十条の東京朝鮮中高級学校を訪問し、授業を視察したうえで、「教科書も文部科学省の検定をパスしたものではないが、きちんとしたもので教えている」という言葉を残しています。


「すべての人にとって適正かつ最善な教育が保障されるよう学校教育環境を整備し、教育格差を是正する」とする民主党のマニフェスト。これに適った公正な判断を望みます。


以上です。もちろん問題がこれに限られるものでないことは良くお分かりだと思います。日刊「イオ」の記事は当面の論議にのぼった問題について書いたものなので、いまや紹介するには「遅かりし…」の感がないでもありません。実際、問題の本質を歴史の流れの中から汲み取るには大変な作業が要求されます。在日コリアンが民族教育の権利を曲がりなりにも獲得するまで(不完全ではありますが)の、様々な問題を網羅した血塗られた歴史について書くとなると一冊の分厚い本になってしまいます。しかし日本社会で忘れられているこの歴史を、再度蘇らせるのは日本社会にとっても有益なことです。


その歴史をひと言で言うと、差別と権利剥奪に対する闘いの歴史だということが出来るでしょう。それは日本社会の差別構造形性の歴史でもあります。日本人、在日コリアン双方が必ず知るべき歴史です。やはり歴史の始まりから知る必要があります。学ぶことをお奨めします。


ノァーム・チョムスキーを引用するまでもなく、「歴史的記憶喪失は危険な現象であり、それは単に倫理的および知的な誠実さを侵蝕するからというだけではなく、将来起こる数々の犯罪のための地ならしをすることになる」のです。まさに今そのようなことが起きています。加害者も被害者も歴史的記憶を持ち続ける必要があるのです。


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