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- 自分に向って
ぼくの思う本来的生を示すのに、瞑想の語よりふさわしいのは観想らしい。テオリア(theoria)である。アリストテレスが実践(praxis)に対峙させた。 上掲写真は、そう思ったとき偶々観ていたクロード・ローランの画である(Paysage avec Bergers「羊飼いのいる風景」)。彼の画はどれもほんとうにいい。
あまり書こうとするのに時間を費やすのはよいことではなく、その分観想に時をすごすほうがよい。観想は、「観る」ことばかりではなく「聴く」ことでもあるとぼくは思う。ほんとうに聴くことは観ることであるとぼくは感ずるから。これは彼女(裕美さん)の演奏を聴いていてはっきり感じるのである。多分、彼女が、「部屋のなかで絵画をゆったり眺めるような寛げる音楽」をめざして創作していることと通底しているだろうとおもう。
言葉であまり分析しようとしないでこのくらいでいいだろう。
今年もありがとう
Lorrain: Marine avec Apollon et la Sibylle de Cumes「アポロとクマエのシビラのいる海の風景」
この荘厳な神秘性。ルオーの師モローがローランに心酔したのもわかりますね。ぼくはモローにはついてゆけず、神々しいローランを素直に鑽仰しますが。
ローランの絵も、いま眺めていて、いままで何を見ていたんだろうという発見、開眼がある。これはあるいみでひじょうにこわいことだとおもう。ある時がくるまで見えてこないもの、意識が開かないものがある。 どうして見えなかったのか、なぜいま「見える」のか。自分の「変化」は、きみがぼくのなかに生きはじめたということだ。
翌日24日夕刻
花が散りません
自然に接する(自然を見る)と人為的時間を忘れます
そうでなければ絵は描けないでしょう
あらゆる芸術に言えるでしょう
ものとの間に愛情の絆ができてはじめて「感覚する」でしょう。
愛情は歴史であり、それは行為の記憶の集積です
この意味でのみ「時」は意味をもつ
この意味でのみ「行為」は意味をもちます
「実践」ではなく「行為」です。
行為は、「実際に行なう」ことではなく「はじめて生む」こと
歴史(という時の集積)が観想を生む