名節。 初再呈示



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ショーペンハウエル「知性について」岩波文庫145頁

 

 

<人間の力量は、何につけても規模が限られているものであるから、いかに偉大な精神でも、このように偉大になるためには、どこか―知性においても―決定的な短所を具え、すなわちその点では、かなり平凡な頭脳にさえおくれをとるという方面をもつという制約をまぬかれない。もしこの方面で彼が優れた性質を具えていたら、それは彼の卓越した能力の邪魔になっていたかも知れないのである。>

 

 

 

 

 

ショーペンハウエルはさすがに深い思索者である。 ここに同時に記す必然はないが、記しておいてもよいとおもうこと :

この思索者のような者だけではない、いわゆる思想系の人間というものは、「人間」についてなにもわかっていないと言ってよいことが、いまさらながらにわかってきた。人間というものがじぶんの観念の手に負えるものだと思っているだけでも、はなはだしい言語道断というものであり、そういうことははじめから瞭然なのだが、その瞭然さをぼく自身ごまかしてきた。それをいま、なんと次元の低い者たちの場に無理して〈同席〉していたことだろうと、あきれているのである。ぼくが深化したからそう言えるのではない。ぼくは変わらないのだ。自分の本音は最初から変わらないのだが、ぼくなりの渡世としてやりすごしてきただけである。 ぼくのために言うことはあまりない。 最初からわかっている次元の低い者たちに絶句しているのである。 この一事を、自分のために書きとめた。 思想界で、どういう位置や地位にいようが、そういうことは全然人間の深みとは関係ないことである 【ここのところ、ぼくが言っているのだから よく聞いていてほしい。これをのみこめていない者がほとんどだろう。社会的に通用している学者だということだけで、みな条件反射的に、人間の中味も相当なものだろうと想定してしまう。そういうことは、ぜったいにないのである】。 ここでいう思想界とは、アカデミズム、在野、世間的異端、ぜんぶひっくるめて言っている。 

 ぼくの気づいたことは、ぼくだけの真実ではないので、迷っている者たちのためにも 言ったのである。 世のなかのありようはひどいものだということを。

 

 ニュートンが、自分は自然という大洋から流れ来たる小さな事象を拾って喜んでいる子供のようなものだ、と言った、その気持ちを、人間にたいしてこそ懐くべきである   

 

 

 言葉にすることは 自己に立ち返る操作である。 言葉による認識という無価値なもの(ましてや世の認識)のためではない。 自覚のためとはいえ こういうことに時間を使うのは多分これが最後だ。 

 

 世のからくりを、経験してから知ることのないようにできないものだろうか。これは「歴史」も、ひたすら純粋培養する「学校」も教えない。