涙 



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季節は円のように繰り返す。そのなかで、時間というものはどうも直線的に流れているのではないようだ。昨年の同じ季節の情景がきのうのように、一昨年のものも同様におとといのように、今この瞬間に重なり合って、時間という観念がぼくのなかでなくなってしまう。ロランの許を去った後で先生がたち寄った娘のことの後日談を思いだすので今度こそ先生の実文をここに紹介しよう。先生の「美しさ」を感じてほしいから。「伴侶」との会話から入る。人間の神聖さを・・

 

 「このクラマールでね……。あの夏君がナンシーから帰ってこなかったら、ぼくは本屋の亭主になってたかもしれないんだよ……」

 「ああ、クラマール小町(ラ・ベル)のこと? わたしも知っていた」

 「どうして君が?」

 「あの頃街の噂だったのをあなたの方が知らなかったんでしょ。賭けまでした人があったんだって。わたし、あなたに会う前にもうきいていたのよ。でも……あなた本気で好きだったの?」

 「夢の美しさだもの。もう一度見たくて、そうしてまた見れば尚更夢と気づくのがこわいような……。あれから十五年……。ぼくはその後あの家の前を通る勇気がないんだよ」

 美しい少女であった。ごく間近のものを眺めるときの、遠いところを眺めるような表情の大きな眼。眼をつむれば現実ならぬふしぎに深い色彩の綾が拡がってゆく。私は眼をつむればいい。するとごく間近に彼女の白い顔が浮かび出、紺碧の眼が憂鬱に私をみつめている。本屋の独り娘であった。他の客が立てこまない時刻に私はよく店に行った。そして客が私だけの時には少女は次の室に私をまねいた。そこには街の人があまり買わないだろう書物の棚があったから……。交す言葉もあまりなく、数分して私は「さようなら」を言った。ある日、彼女は奥の室の窓際にたたずんでいた。中庭から来る秋の陽ざしに顔はすこし青ざめて見え、豊かな金髪(ブロンド)のぐるりが金の粉を散らしたように光っている。伏目で私がなにか話しかけるのを待っている。彼女の母親が一緒にいる時などには、主に母親を相手にして私も気楽に話した。晩餐の食卓にも招かれて父親と政治議論もし、彼女と文学も語った。そして招かれる度に花を贈ることも欠かさなかったのだが……。要りもしない書物を一冊とりあげて、つと彼女に近づいた。少女は眼をあげて遠くに私を眺めた。すれすれに金色のほつれ毛が私の額にふれた。私は彼女の白く細い手をとった。そして一言いおうとした時に、表の扉を開ける音がした。客である。彼女は走り出て行った。

 「わたしまだあなたの美女(ラ・ベル)を見ていないの。これから行ってみない?」森の伴侶は言った。

 「まだ勇気がないね。一生ない方がよいんだよ……」

 「じゃ、わたしひとりで店へ入る。雑誌かなにか買いに……。あなたは外で待っていらっしゃい」

 森を出て町へ降りて行った。もう夕闇が覆い灯がともっていた。本屋のある通りに来、私は店の二十歩ほど手前で立ち止った。伴侶は店へ入った。けれどもやがて私もそろそろ近寄って行った。そして飾り窓(ヴィトリーヌ)を通して店の中をのぞいてみた。電灯の光の下に、十五年前の少女が同じ姿で、少し青ざめた顔を伏目にして、憂鬱に大きな眼が金髪に翳って、立っている。金環のように髪の周囲が光って……。私は息をつめて駆けだした。瞬時に十五年の距離を駆けるように……

 「時間はないね。幻に時がないように、人間にも時はないね……」

 「それはどういう意味?」そんなことを伴侶と私は語った。

 それからまた十数年がたった。その間も私は生活し、生活は変って行った。そしてそれ以後、私はクラマールに行くことをしなかった。谷一つ隔てた隣りの郊外町に住み、クラマールの家からと同じように、丘の上からパリの町を眺めながら……。私は眼を閉じればよい。時のない世界に人間を見られる。

 

 (高田博厚「薔薇窓」より)