ぼくは新聞は広告をみたくないので、自分では直に読まないようになっている。いまの薬害状態では尚更、無用な心理的刺激に敏感になっているのである。ぼくが関心を持ちそうな記事は、家の者が偶然気づいたときに、知らせてくれることがある。先日の、中村雄二郎氏逝去の記事も、そうして気づいたのである。ぼく以外の周囲者は、魂次元での一種のロボトミーを、謎の(集合容喙とここでは言っている)遠隔操作で施されている、と、ぼくは断定しており、もとの人格ではあきらかにないが、半端とはいえもとの人格の持っていた習慣や記憶を受け継いでいる。 いまも、きょうの新聞の、中村雄二郎氏についての追悼記事を、夜になって切抜で読んだ。法哲学者の土屋恵一郎氏が書いておられるものである。興味深く拝読した。 苦難の経験を通し、いわばそれに基づいて、人間は深化する。ねがわくは。しかしこれは稜線の道であり、僥倖の導きにより偉業を成して歴史にも知られるようになる人々の左右には、深淵に呑まれた厖大な数の人々がいるであろう。真の追悼は、このような無名の人々にこそ捧げられなければならない。納得のゆく自己実現を、苦難を力として遂げ得る人々が、どれほどいるか。たとえ本人の異常な努力があったとしても、やはりそれは幸運であったといわねばならないだろう。だからこそそこには、「苦難する人間」への肯定・理解とともに、人間の弱さ・理不尽さへの同情と、この理不尽を許す人間世界への深い義憤もなくてはならない。ぼくもいまだに、この理不尽と戦闘している。これは戦場からの御礼である。 

 

 

  謹言