デュ・ボス「近似値」より: 

 

『表現するという行為だけで大芸術家でさえ幸福感に満たされることがあるが、そのような幸福は彼〔マルセル・プルースト〕には無縁である。現実世界の実体をそのままの状態に放置し、その実体に必要最低限の不可避的な芸術的変質だけしか加えないということでは彼は満足できないであろう。そして、分析が介在してくるのはまさしくここのところなのである。分析の活動を開始させる諸現実の秩序に従いつつ、その分析は、現実世界の指示に従いその示唆に服従し、現世(現実世界)でつけられたありとあらゆる道筋が合流していくはずの理想的な交差点を常に視野のなかに保ちつつ、現実世界の示唆を可能な限りはるか彼方(空想世界)まで延長する、あるいはその分析は、慣習が自分自身に対して示す輝かしくてなめらかな鏡〔に写った像〕を解体してしまい多彩な光線を取り出し、そうすることによってその多彩な光線のみを通して知覚可能なひとつの映像(イマージュ)を獲得するにいたる、そしてその映像の見通し(ヴィジョン)は真実まで突き抜けていく。』

 

重要だが理解しづらい文章を、書いてみると相当納得できる。そのために、ぼくのために書いた(筆写した)。

「形而上的真実」というべきものをプルーストの「分析」は志向しているようだ。その真実へ、感覚的事物の即事象的分析を通して迫ってゆく。まさに高田博厚の世界に重なる志向だ。

 

『分析が現実を延長しようと、分析が慣習を分解しようと、分析とはプルーストにおいては常に創造的な行為である。』

『その分析は疑わしい状態にある化合物のすべてを元素に分解してしまうが、同時にそれと同数の理解可能な物体、その後はいかなる攻撃にさらされることもない物体を我々に返却してくれるのである。』

 

『最初の高揚感は、プルーストが書いている瞬間と時期を同じくするものであろうと、プルーストの場合よくあるように、昔の思い出であろうと、いっこうに構わない。なぜなら、事実上彼の作品の流動的プラズマを形成しておりその作品に至上の一貫性を付与しているこの現在と過去との交錯は、彼にあってはきわめて生得的なものであると同時にきわめて基本的なものでもあるので、通常行われている時間の分割は分割としては廃止されており、ここではそれはただ同一のテーマの二重の転調のごときものとして感じられるにすぎないからである。だから、分析が開始される地点がその高揚感に近ければ近いほど、分析が収める成果は私にあえてプロティノスの名前を引き合いに出させたあの形而上的な領域に及んでいる。「形而上的」という用語、それは、純粋哲学においてのみならず、精神のあらゆる高度な領域においても、やはり必要不可欠なのである。用語の起源が単なる偶然に、つまり「自然の後で」という言葉で始まるアリストテレスの論考が彼の著作の中で自然学の諸論考のすぐ後に置かれているという事実に由来するかしないかは別にしても、その偶然によって、その言葉やその内容が無効になるわけではまったくない。「メタ」は「の後で」を意味するが、同時に「を越えて」をも意味する。そしてプルーストにおいてはとりわけ、この二つの意味を互いに分離させるわけにはゆかない。最も広い意味でこの用語を考える場合、「形而上的」という語はある思考の動きのごときものとして定義できるであろう。その思考の動きによって、我々がある物体にいよいよ魅了されながらその物体をはっきりと明示する所与だけで満足するわけにはいかなくなってくればくるほど、その物体それ自体「の後に」、それ「を越えて」その物体を探索し追跡するよう我々は一層誘導され拘束されることになる。その探索と追跡の手がかりになるような最初の着想が我々に示唆されたのは、その物体の感覚的あるいは知的な外観によるものである・・・』

 

ふと想到したので記すが、デカルトが「省察」で残していた感覚現象そのものの分析をプルーストは敢行したといえるのではないか。