ぼくの性格には中途半端を嫌うところがあるようだ。ほんとうに和解するか、ぶん殴るか、である。





集合的容喙問題が日本に周知されるようになってほしい。社会問題であるから。すべての社会層が受容し得る形で。
〔この事件的現象に関するわたしの省察はもっと注目されてよい。最近のものでは、蟻の集団の如く 2016年10月15日や、ストリンドベルクの経験  遠隔読心技術が「自然」にもたらす深刻な影響 09月13日、現象の脱神話化と単なる生命的悪魔力の承認 09月03日など。関連し合っている。 テーマ別記事一覧 から集合的容喙現象節の節題一覧を参照していただきたい。〕




当分休息  この欄を書く以外のことを充実させたい





疲労とは、力が一定方向にのみ伸びきっていることであり、休息とは、この力の向きを変えることである。



芸術はすべて自己が自分自身と対話することであり、この意味で「告白」なのである。このようなものである独白(モノローグ)は、自己が自分自身を明瞭に見極めようとすること、自分自身が自己にとって明瞭となるよう自分と対座することである。



この欄をこれまで書いてきたが、鬱蒼とした森ができあがっていると感じている。さまざまの迷路があり、分け入ることも許さぬ場所、すぐには形のわからぬ場所もあるが、そこに射す光の方向は一貫しており、森全体も「ひとつ」のものなのである。

森は訪問者の有無にかかわらず「存在」している。それが神聖であることの意味である。