意識的自由が形而上的自由を招く。

 

この世は徹底して悪であり嘘であり、行為の結果が裏切りとなる構造に出来ているが、それでもなお、それを解った上で、此の世の事象を自分の自由からどう解してゆくかは、まさしく自分の自由なのである。これが世界の意味の二重性なのである。そこで自我は、世界にたいし、客観的理解と主観的理解とを使い分けるが、これ(この使い分け)を遂行することが意識的明晰性なのである。自己はまず、世界から独立した純粋想念のなかに生きることができなければならない。そうして世界を自分のために自由に解釈することを試みる。デカルトが自らの思想に生きながら真剣に社寺参りをしたように。

 


ぼくはひとつの大きな球体的存在であって、その都度様々な面を見せる。ぼく自身もすべての面を一挙に見ることはできないし、保持していることもできない。しかし時至ればかならずふたたび同じ面が見えてくることを知っている。そしてどういう面も同じ中心から繫がっている。
 

 

 

 

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地球は人類幼稚園。