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三十五

 

これはぼくの「経験」としての「判断」なのだけれどね、世に名の識れて地位の確立した知識人だからといって、その言い書くことがすべて「知性」から出ているなんてゆめゆめ思っちゃいけない。ほんとうに信じられないひどい言説、ほとんど人格崩壊を思わせるものがいくらもあるんだ。きっときみも同様の経験があることだろう。きみの「魂」が感じることに信を置いていればいい。それ以外にどうしようもないからね。だからぼくは知識人のお偉方に向って書くのではない。きみのような「人間であるかぎりの人間」に書くのだ。ぼくの体がどうなっていようともね。「魂」から書くんだ。知識人だって自分の「人間」を失っていない限りはぼくは相手にする。でもまあ、かれらはそうとうむずかしいね、そのくらい「謙虚」や「自信」っていうものを履き違えているとぼくは思う。ぼくの先生にたいする世の中の反応からもぼくはそういうことをたくさん学んだ。断言しておくけどかれらは魂から尊敬され敬愛されることはぜったいにない。そしてほんとうの自信がないものだから、自分が「反対」する存在を評価する者には、黙っていることが出来ずに、むきになって潰そうと自分からかかってくる。どうしてせめて沈黙していることができないんだろうか。ああいうものにぼくは悪魔の本性を見る思いがする。ぼくが悪魔と感じているものは、そういうものの霊的集合体なのかも知れない。先生は「本物」だ。ぼくの「思想」の純粋で本当の証びとだ。ぼくはそういう「魂の友情」以外のことをこれから語りたくない。だからここであらかじめ予防線を張っておいた。霊的戦争の様態について触れることはあるかもしれないが、それは決してぼくがほんらい語りたいことじゃない。ここで本質と外野とをはっきりさせておこうと思う。

 これからぼくがどういう書き方をするか、実体は在ってもぼくにも見当がつかない。それがこの欄のぼくにとってもの一番の魅力だ。「盲目になって書く」ところにほんとうの創造が生まれるのではないだろうか。

 

三十六

 

もうひとつ、本質と外野をはっきりさせておくが、きみ、ぼくらはこの欄で語り合うかぎり、政治からはきっぱりと一線を画しておこう。とくに、「日本」と「西欧」の「文化的差異」を政治的主張に引き込もうとする向きにたいしてはね。先生が異国に在ってどれだけ日本を思慕していたことか。外国に行って日本のすばらしさを「発見」しない日本人はいないよ! ぼくも先生同様、母国愛では誰にもひけをとるつもりはないよ。ぼくが「自分」以外のことで怒るとしたら、先生のことを別にすれば、日本のためにしか怒らないと言ってもいいくらいだ。あんまりテンションが上がって自分で困る時があるよ! でもきみ、それはここで触れたり混同したりすることではないと思う。なぜなら、ぼくたちは何のために「知性」をもっているんだい。精神の秩序意識をもって本質と外野を区別しておこう。この「区別」そのものが、われわれの知性の行為なのだ。「魂」っていうのはね、知性の本当の根拠でもあるんだ。ほんとうに誠実に考えようとすればそれが解ってくるとぼくは思っている。それがぼく自身の最も大事な経験のひとつだな。それに気づかせてくれたのも先生だ。「学んだ」のではなく、ぼく自身のなかで確かめさせてくれた。 こういうことを言っておくのも多分これきりだ。

 

三十七

 

ぼくの形而上的アンティミスムはぼくの魂にある理念なのだ。「盲目になって書く」とぼくは言った。もし絵画や彫刻、音楽が、あるいは詩歌が、魂の暗闇から次第に形を成して浮かび上がってくるのではなく、或る意識的な原理や計画に基づいて「作成」されるものであれば、それは「魂」から生じたものではなく、「魂」に触れるものでもないのではないだろうか。ぼくは魂から生じて魂に触れるような思想を欲する。それがなお「思想」とよびうるものであれば、ひとつの芸術にきわめて近い。こう言うべきだろう、そもそも魂の思想でない芸術というものがあれば、それは芸術とよべるだろうか、と。ぼくの思想は自ら実現を、実践を欲する思想だ、とも言った。これも同じことなのだ。具体的に実現された「かたち」をもたない芸術というものがあるだろうか。「芸術理論」はそれ自体芸術ではなく、常に具体的創造としての実践を要求するものとしてのみ意味をもつ。しかしその要求される「創造」は、「理論」そのものから「導出」されることは決して出来ないのだ。むしろ「理論」自体が、謂わば一旦忘れられて、「盲目の創造行為」によって「実証」されることを欲している、とぼくは考える。「感動」はそこにしか生まれない。「魂の思想」であろうとするぼくの思想もまったく同じ事情に置かれている。ぼくは「書く」ことによって自分の思想を「証」したい。不断の実証行為としての生にぼくは生きる。それがぼくの「考える人間」としての必然だ。考えることは無為ではなく、実は行為そのものなのだ。「思想は行動なのだ」(アラン)という言葉、また、「芸術は思想をもたねばならない」という先生の言葉を、ぼくはこのように‐自分の全量をかけて‐会得する。