二郎さん、話してくれましたね―― | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

BGM:ハヤブサ『一つだけの場所』

 

本日29日発売の週刊プロレスにて、ハチミツ二郎さんの隔週連載『プロレスばっかり見てたら芸人になっちゃいました』が最終回を迎えました。その中で1年前、ハヤブサ選手の最期を見届けた時のことが明かされています。

 

 

私は、ある方から二郎さんが第一発見者のひとりであることを聞いていました。いつもなら誰かが亡くなったという知らせを受けると、まずは「間違いであってほしい」と思うものですが、その時はストレートにズシンと来てしまいました。

 

なぜならあの日…二郎さんがハヤブサ選手と会う約束をしていた2016年3月3日に、新日本プロレス大田区総合体育館大会で顔を合わせたからです。二郎さんは会場でお会いすると控えめな微笑みとともに一礼をする方で、その日もいつもとなんら変わらぬ呼吸で挨拶を交わしました。

 

ハヤブサ選手のマンションは体育館の最寄駅・梅屋敷駅の近くにあり、その報を聞いた瞬間に「そうか、大会後に会う予定だったのか――」と、会場で見た微笑みが反射的に浮かんできたのです。期せずして第一発見者という身になった二郎さん…生きている中で、こんなにも重いシチュエーションなどあるものでしょうか。

 

このことを二郎さんが公にすることなく来たのは痛いほどわかります。ハヤブサ選手を思うあまり「もっと早く気づいていれば…」と自分を責めてしまうのではないか。1年の間、何度もあの日のことが浮かんだと思われます。

 

でもそこでどんなに泣いても他人には言えない辛さを、二郎さんはずっと一人で抱えてきたのだと思います。そのことを知っている関係者も、本人が言わないかぎりはと胸の中へ閉まってきました。

 

でも…あれから1年が経ちました。週刊プロレス・湯沢直哉編集長からの勧めが背中を押し、二郎さんは重すぎる思いを表に出しました。ハヤブサ選手も、これ以上一人で背負うのは決して望んでいないはずです。

 

私も「二郎さん、やっと話してくれましたね」という思いです。あの日以後も、会場で顔を合わせると同じ様子で接していただきました。たぶんお互いに、ハヤブサ選手の名前がノドまで出かかっていたのでしょうが、どちらも口にしませんでした。

 

おそらく、出したらあの日のことが蘇ってきてしまう。私は二郎さんが言わないと決めたのに誘発するようなことはしたくありませんでした。

 

ご自身の中で決心がつく日を待つ。それが唯一、できることなのだと思いました。この1年で何度となく私はハヤブサ選手について書いたり語ったりする機会を与えていただきました。

 

そのたびに「もっとふさわしい方がいるのに、自分でいいのだろうか」と思います。そのふさわしい方として二郎さんや、選手とマスコミの関係を越えて親身にサポートし続けたカメラマン・大川昇さんの顔が浮かんでくるのです。

 

ハヤブサ選手が定期的にライヴを演っていた『串猿』のマスターさんも、そしてあの日二郎さんとともに会う約束をしていた赤松さんも、同じ葛藤を秘めてこの1年間を過ごしてきたと考えられます。二郎さんが公にしたことで、少しでも重みから解かれたのであれば、それもハヤブサ選手は受け入れてくれるのだと思います。

 

気が動転してもおかしくないはずなのに、警察や救急隊を呼び関係者にも連絡して朝まで現場検証に立ち会い、霊安室までいってハヤブサ選手の最期を見届けた――もしも自分が同じ場に直面していたら、二郎さんたちのようにできたかわかりません。

 

二郎さんたちがいなかったら、ハヤブサ選手はあと何日も独りで寂しがっていたはずです。ご本人は「『二郎くん、俺はもうこのまま眠るからこっちに来ないで』と言われそうな気がして…」と書かれていましたが、信頼すべき友が駆けつけたことで喜んでくれたとしか私には思えないのです。

 

それをハヤブサ選手に確認するべく明日、私は夜行バスで熊本へと向かいます。26年前、博多へ出たあと川越のFMW道場を目指した2人の青年がたどった道筋を体感した上で、一周忌追悼興行へ――二郎さんの心が和らぐような報告をできたらと願っています。