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巨匠 籔内佐斗司先生


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 前回の賢申録で書かせてもらった凄い人とは

今を輝く彫刻家「籔内佐斗司」先生である。

説明もいらないとは思うが、平城遷都1300年

公式マスコットキャラクター「せんとくん」の産みの親である。

南陵先生がお知り合いということで、以前より面会を

お願いしていた。


 今月、3日~7日まで近鉄百貨店阿倍野店9階近鉄アート館で

「籔内佐斗司展」が開催されている。

彫刻好きの方なら是非観覧することをお勧めする。


 籔内先生が来阪するということで、南陵先生がアポをとってくれた。

初日前日の二日の晩、一緒に食事をさせていただいたのだが、

やはり凄いオーラである。

知識、経験、発想力、センス、全てにおいて

雲の上の存在ではあるが、今その人と会わせていただいた

意味をよく考えなくてはいけないと思う。

この後、どう活かしていくかは自分次第である。


南陵先生の深さと、籔内先生の偉大さを感じた夜であった。




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四代目 旭堂南陵先生

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西成区山王にある飛田新地。その一角に「鯛よし百番」がある。

鯛よし百番は大正初期に遊郭として生まれ、戦後は内部が大改装されて

現在では料亭として営業している。


 三月三十一日18:30。

講談師、四代目旭堂南陵先生と古磨屋三人と待ち合わせである。

萩之茶屋駅で降り、昭和丸出しの商店街を抜け飛田新地へと向かう。


かねてから鯛よし百番に行ってみたいと話していたので、南陵先生が

独立祝いにと、連れて行ってくれることになった。


玄関に入ると、まるでタイムスリップしたかの様な雰囲気に包まれる。

内装のあちらこちらに彫刻が施されている。

きょろきょろしながら案内に従い部屋へと向かった。

美味しいすき焼きを頂き、四人に祝って頂いた。

ありがとうございました。


南陵先生とはもう三年程の付き合いになる。

旧市宮本町の正面土呂幕「薄田隼人」を彫る事になり、

比較的参考資料の少ない薄田隼人のネタを聞きに行ったのが

きっかけである。

以前から南陵先生と交流のある民の謡の森田さんに紹介して頂いた。


講談と地車彫刻とは非常に似通ったところがあると私は思う。

「講談」とは、史実を大前提として、その「空想的飛躍」を

楽しむものであるという。

「ほりもん」もそうである。

地車彫刻の題材は「歴史教科書」では出会うことのできないものが多い。

今までは「錦絵」を最大の参考資料にしてきたが、

そこに講談が加われば、かなり幅が広がる。


上方講談の頂点に立つ旭堂南陵先生とこうして付き合えることは、

彫師として本当に心強い。そして自分の様な名もない一彫師を

可愛がってくださる寛大さに感謝するばかりである。

「人脈は大事やぞ!」南陵先生がいつもいう言葉である。

言うだけではない。その人脈を実際に先生は広げてくれる。


近々凄い人に会わせていただく。

詳細は次回の賢申録で。




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社寺彫刻

木彫刻「賢申堂」の河合申仁のブログ                                           賢申堂のすぐ近くに光明寺という寺がある。

昨年末独立前、光明寺が修復工事していることを知り、

彫刻の仕事がないものかと思っていた。

もう仕事にかかっているのだから彫刻師も決まってるだろうと

思っていたが、そうではなかった。

独立後、日頃お世話になっている税理士さんがその寺の役員と知り、

修復作業にあたっている大工さん(奈良県の宮大工)

との間を取り持ってもらった。

先方もちょうど彫刻師を探していたらしい。

なんという偶然か!言ってみるもんだ。


 今までずっと木下彫刻工芸の中で働き、

当たり前の様に仕事があった。

今ももちろん木下彫刻工芸からも仕事はもらっているが、

自分で仕事を取れた喜びというのは格別である。

そして人間関係の大切さを痛感した。独立前もそうだが、

独立後もまわりの人に世話になりっぱなしである。本当にありがたい。


この写真は光明寺の外にある観音堂の蟇股(かえるまた)である。

先代の彫刻の復元だが寸法は大きくなっている。

この紋が何を意味するのか今はわからない。

今度住職に聞いてみよう。


 観音堂は修復であるが山門は新築するらしい。

八月頃完成予定と聞いた。


 住み慣れた町の一角、光明寺の彫刻ができるとは思わなかった。

感謝!




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摂河泉の神賑

 三月七日、岸和田浪切ホールに於いて「摂河泉の神賑」という催しが開かれた。今年で第三回である。昨年は岸和田の新調地車(平成20年完成)の正面土呂幕を彫ったという事で、松田武幸氏(北町)、木下健司氏(神須屋町)と共に出演させて頂いた。因みに私は宮本町土呂幕。今年はまた違った枠組みで出演依頼があり、引き受けさせていただいた。


 近年、岸和田の鳴物に少し問題が生じ、それを調整する為我が中町は平成20年に「鳴好会」という鳴物保存会(会長 河合申仁)を発足した。そういった経緯から声がかかり出演する事になった。


 小太鼓の拍子の変貌。また笛の旋律の単調化。このままでは岸和田囃子が危ない!変貌前の鳴物経験者を集め、二年かけて調整してきた。だからと言って現役の鳴物が下手な訳ではない。地元の人間が少ないという事。また我々がきちんと後輩に継承できなかったという事が一番の原因である。気付くのが少し遅かったがまだ間に合う。この二年でほぼ小太鼓の拍子は直った。今回の出演をきっかけに鳴物係の意識もかなり高まったと思われる。その成果を小ホールではあるが隙間なくぎっしり埋まった観客の前で披露する事ができた。賛否両論あるとは思うが彼等なりによく仕上がったと思う。この舞台をきっかけに今まで以上に彼等の意識が高まる事を期待したい。



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鳴好会の他、平野郷町の西脇組、河南町の白木・壱須賀、池田文庫なども参加、非常に内容の濃い催しであった。


詳しくは「民の謡」の当日報告をご覧下さい。→こちら


御挨拶

 初めまして、「賢申堂」河合申仁(のぶひと)です。

十八歳で親方木下賢治師に弟子入りし、二十三年間木下彫刻工芸にお世話になり平成二十二年一月より独立させて頂きました。

「賢申堂」の賢は親方の一字をいただきました。申は自分の一字。

この申は私の干支である。

屋号を決めるにあたって色々悩んだ末、やはり一番世話になった親方の一字をいただきたいと思い、この屋号となりました。我ながら良い命名だと自負しております。

親方にも快く承諾していただき、祝いにと看板を親方直々に彫っていただきました。

親方はじめ、独立にあたっては本当にたくさんの人に助けられ、励まされ、そして祝って頂きました。仕事関係者、同級生、祭関係者、今まで仕事で携わらせていただいた町の方々。あげていけばきりがありませんが、本当にこの度はありがとうございました。心より御礼申し上げます。

 さてこのブログですが、今後の近況報告、また彫刻に対しての考え方、そして祭(神賑行事)に対しての考え方、その他色々今自分の考えている事を書いていこうと思っております。まだパソコンという物がよく分かっておりません。更新には時間がかかるとは思いますが、時々覗いてみてください。

 

 「賢申堂」よろしくお願い申し上げます。





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