2016年12月1日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第31回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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あの歌声はまた聞けるのか 初犯の執行猶予に一考を

 

『はじまりはいつも雨』を初めて聴いたのは、約25年前にカラオケボックスで友人が歌った時だった。美しいメロディーにひかれて誰の歌なのだろうと調べてみると、時折耳にしていたCHAGE&ASKAのASKAが作詞作曲をして自分で歌っているのだと知った。甘めの歌詞は友人が歌った時から魅力的だと思っていたが、ASKA本人が伸びやかな高音で歌うこの歌は格別だった。それに、こんなことをここで書くのはかなり恥ずかしいのだが、彼の容姿にもまさに一目ぼれだった。

 

2年前に彼が覚醒剤を隠し持っていたとして警視庁に逮捕された時の衝撃は忘れがたい。これであの美しい歌声が聴けなくなるのか…と暗たんたる気持ちになったのだった。そして、美しい詩とメロディーを作り出す彼の力が表舞台に出る時ももうなくなるのかと、惜しくてならなかった。

 

その後、覚醒剤や合成麻薬のMDMAを使った罪などで懲役3年、執行猶予4年の有罪判決を受け、執行猶予中で現在を迎えていた。

 

そこに飛び込んできたのが今般の再逮捕のニュースだ。CHAGE&ASKAの熱狂的なファンは私の知人をはじめとして非常に多い。私などよりよほど強い思いで復帰を待ちわびていた人たちの落胆と怒りはいかばかりだろうか。

 

再逮捕を耳にした瞬間に私の心によぎったのは「まさか」と「やはり」という二つの言葉だった。まだ現時点では事実関係は全て明らかになっていない。それでも、薬物関連の罪を犯した人の再犯率が高いことはよく知られている。

 

そもそも薬物に手を出したのは彼本人の責任である。だが、その後に繰り返し薬物に手を出すのは、もはや彼自身の“責任”を問えない状況に陥っているのかもしれない。なぜなら、彼の“やる気”や道徳心などではもうどうにもならない状態なのだろうと思うからだ。ならば、“病人”となってしまった彼をただ責めても仕方ない。前回の逮捕では初犯の“相場”として執行猶予がついたようだが、薬物中毒となってしまった人間に対して適切とは思えない。

 

多様な薬物の入手が容易となっているこの社会で、いったん中毒になった人間には自ら民間施設に頼るしか手がないというのは、あまりに心もとない。単に逮捕して判決を下すだけで済ませず、治療にも国家が積極的に関わることが、薬物犯罪を根本から断つことにもつながるのではないだろうか。

 

「僕は上手に君を愛してるかい 愛せてるかい 誰よりも誰よりも」という箇所が、あの歌の中では最も好きな部分だ。甘やかな気持ちでこれを聴いていた四半世紀前、こんなやるせなく悲しい気持ちになろうとは想像もしていなかった。今回は実刑判決が下ることはほぼ間違いないだろう。数年間は彼の歌声を聴けない覚悟はもう決めた。でも、諦められないファンのひとりとしてあの歌声を聴く日を待ちたい。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

 

 

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2016年11月24日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第30回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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災害情報をどんな人にも届ける ひらがなや英語でおもてなし

 

まだソ連のもとにあったモスクワを私が訪れたのは1980年代の終盤だった。閉じられた国というイメージがまだまだ強かったかの地を訪れた20代前半の私は、冒険心がいつになく旺盛になっていたのだろうか。夜になって同行の友人たちとホテルを抜け出して、特に行くあてもなく地下鉄に乗ってみた。そろそろ降りようとして車内にある路線図を見るが、表記はキリル文字のみ。私はもちろんのこと、一緒にいた友人たちも誰もロシア語がわからない。自分たちがどの駅から乗ったのか、今どこにいるのか、どの駅で降りれば何があるのか、よくわからないあの心細さは30年近くたった今も鮮明に覚えている。

 

外国にいて言葉がわからない、文字が読めない時の心もとなさは、そういった平時よりも災害時には大幅に増すだろう。そんなことを考えたのは、今週22日に福島県沖で発生した地震の影響で出た津波警報を報じるテレビ番組を見ていた時だった。

 

地震が発生してまもなくまずNHKを見て驚いた。画面の中央に赤い大きな字で「すぐにげて!」とひらがなで書かれていたのだ。その後も「つなみ!にげて!」に変化したり、ふりがなのついた「津波!避難!」に切り替わったりしていた。また、それよりは小さい文字だが、「TSUNAMI」と赤い文字で示し、情報がサブチャンネルやラジオで得られることも英語で表示してあった。

 

民放テレビ局はどうなのだろうとチャンネルをかえてみると、確かに地震と津波について報じている局がほとんどだった。だが、ある局はふりがなつきの「津波観測」の下に「いますぐにげて」と示されていたが、別の局はふりがなナシで「津波!にげろ!」、さらにまた別の局は「今すぐ避難を」(「避難」にふりがな)という状況だった。もうひとつの局は特に目立った表示はされていなかった。

 

今回の状況を見ると、いざという時に情報を受け取る力が弱い、いわゆる情報弱者への対応は、NHKが群を抜いていたと言えるだろう。民放にはもう少し頑張ってほしいと思う。だが、それでも、これまでの被災経験を経て積み上げてきたものがこうして生かされているとも見ることができる。

 

日本を訪れる外国人の数は、1月から10月までの累計で2011万3千人。年末まであと2カ月残しているにもかかわらず、過去最多を記録した去年1年間の1974万人を上回った。伸びは緩やかになりつつあるとはいえ、多くの外国人が訪れる状況がすぐに変化するとは思えない。

 

当たり前のことだが災害はいつ襲ってくるか予測不能である。自国を離れた観光客たちは高揚感と緊張感をあわせ持ちながらわが国を訪れてくれている。そんな彼らに心細い思いをさせないことこそが、日本人の多くがこだわる「おもてなし」の第一歩ではないだろうか。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

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2016年11月17日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第29回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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維持できるか米国社会の多様性 トランプ次期大統領を迎えて

 

今から約30年前に生まれて初めて飛行機に乗って最初に訪れた外国が、私にとって2年間にわたる米国の女子大での生活の始まりだった。キャンパスに着くとそこにいる人たちの多様性に驚いた。もちろん米国籍の人が一番多かったが、彼らにしても肌や髪の色はさまざま。外国人も日本からの留学生が私の他に数人いたほか、ジャマイカ、ハイチ、インド、韓国、カンボジア、ベトナム、イタリアなどから来た学生がいた。カンボジア人の学生は、戦火の中で母国を命からがら抜け出したが、彼女は米国、母親はフランスと、別々にならざるを得なかったそうだ。

 

米国人の中にもさまざまな背景を持っている人たちがいた。寮で隣の部屋に住んでいたポルトガル系の学生の母親は、米国に住んで長いのにポルトガル語しか話せないという話を聞いたことがあった。また、学生仲間ではないが、大学の近所に住んでいて私をコンサートや食事に連れ出したり家に泊めたりしてくれた女性は、両親がアルメニアから米国に渡ってきたと言っていた。

 

つい数日前に母校の学長が来日し、大阪で夕食を共にした。9年前に共学になったこの大学には今では男子生徒が3割もいるのだという。性別だけでなく、人種も国籍も以前よりさらに多種多様になったが、カトリック系の学校であることは変わっていない。それでも、イスラム教徒の学生も一緒に学んでいるのだという。

 

多様性の実態とありがたみを私に身をもって体験させてくれた母校は、ドナルド・トランプ氏が次期大統領となることによって、何か影響を受けることになるのだろうか。トランプ氏と言えば、当選後に従来の激しい発言をやや軌道修正したりもしているが、排外主義的な人々から大きな支持を集めていることはご存じの通りだ。

 

ちなみに、自分たちの国を守るために「異物」を入れず取り除くという考えが広がっているのは、米国に限ったことではない。私が20年前に住んでいた英国を5年前に久しぶりに訪れると、レストランや高級ホテル、観光バスのチケット売り場といったところでポーランドやポルトガルなど英国人以外の人たちが働いているのが目についた。以前ならば英国人が独占していたような職場に外国人が進出していたのだ。そんな英国で行われた国民投票でEU離脱が賛成多数となったのは記憶に新しい。

 

他国との関わりをできるだけ避けて自国に引きこもりたいと願うような動きが、世界のいろいろなところで起きている。日本だって人ごととして傍観してばかりもいられない。引きこもれる母国がある人たちはいいだろうが、そうではない人たちはただはじき飛ばされるしかないのか。でも、外へ追いやられる立場に、自分もいつ立つかわからないのだ。そういう想像力を働かせ、多様性を受け入れることが今こそ求められている。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

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2016年11月10日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第28回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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大阪府の万博開催の能力は? 誘致準備委に課された使命

 

2025年の誘致を目指す大阪万博について、「2025日本万国博覧会誘致準備委員会」が9日に発足した。この万博については本紙のコラムで昨夏にも書いたが、実現に向けて一歩踏み出した今、あらためて触れておきたい。

 

高度成長期に開催された1970年の大阪万博は見るもの聞くものがすべて珍しかった。携帯電話の原型やコンピューターなど、新しい科学技術が国民と世界の目を引いた。また世界中のパビリオンがお目見えし、当時の日本人の大半は「世界」「外国」というものに初めて触れたといっても過言ではない。

 

一方で、2025年の大阪万博では、交通機関や通信、流通、またインターネットの発展などで世界が狭くなった分、1970年当時のような目新しさを感じることは少ないのではないか。

 

また、1970年と2025年の万博とで決定的に違うのは、前者はこれから伸びていく前向きな日本の姿を象徴していたのに対し、後者は万博をきっかけに落ち目の日本をいかに立て直すかという、いわば後ろ向きの姿勢にある点だ。事実、松井一郎大阪府知事が大阪万博の開催を言い出したのも、今ひとつパッとしない大阪経済を発展させる狙いがあり、そのため「全国への波及効果は6・4兆円」という大風呂敷を広げ、安倍晋三首相も地域経済への起爆剤になることを期待している。

 

日本や大阪の経済が成長することに異論はない。だが、大切なのは万博期間中だけ一時的に盛り上がるのではなく、景気が継続的に発展することだろう。しかしながら、これまで世界の例を見渡しても、万博をきっかけに開催国の国内経済が持続的に伸びたという例はあまり耳にしない。

 

大阪府と大阪市はかつて、大阪湾のベイエリアに一大企業拠点を作るとして土地を整備した。だが、フタをあければ人も企業も集まらず、そのため府も市も莫大(ばくだい)な借金を背負った過去がある。万博も結局、箱モノによって景気を刺激しようという、大阪府や大阪市の昔の発想と大差ない。しかも大阪府は実質収支こそ黒字だが内実は火の車であり、地方債を発行するには総務省の許可が必要な起債許可団体に陥っている。現状を見れば新しい事業を起こす余裕はとてもなく、そのため万博の開催に必要な自治体負担分の経費の大半は起債でまかなうことになるだろう。

 

一発逆転のためにばくちで大穴を狙うが、元手は友人からの借金。大阪府がやろうとしていることは、とどのつまりこういうことである。2025年の万博が成功すればまだしも、失敗すれば大阪府の財政は破綻するかもしれない。その危険性を頭に入れた上で、大阪のためになる万博を提案して誘致することが、準備委員会に課された使命である。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

2016年11月3日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第27回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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人を傷つけた結果のミュート 発信する側は心遣いも

 

「ミュート」というのは英語で「音を消す」という意味である。インターネットのSNSには「ミュート」という機能がある。これは、SNS上で「友達」や「フォロワー」といったつながりを持つ人が書き込んだ内容を見ないで済むように、自分の見える場所から「消す」機能である。似た機能に「ブロック」もある。だが、ブロックをすると、先方の書き込みが自分に見えないだけでなく、自分が書いたものを先方が見えない機能もついており、相手を「拒否」していることが先方にはっきり伝わってしまう。その点、ミュートは穏やかでひっそりとしている。自分が相手の書き込みを見ていないことは相手には伝わらない。

 

2週間前の本コラムで、フェイスブックとツイッターに触れるのをやめ、SNSのうちで使うのはラインだけに絞ったという男子学生の話を書いた。その学生とミュート機能についても話した。彼はサークル仲間のX君とツイッターでフォローし合っていたが、ミュート機能でX君の書き込みを読めない状態にしたのだという。X君の書き込みは攻撃的で読むと不快なことが多いためだそうだ。例えば、ある製品の不具合に関する報道があると、X君は「◯◯を使ってる奴はバカだ」と書く。私と話した学生はその製品を使っており、あまりいい気持ちがしなかったためX君に注意したが、「俺の書きたいことを書いて何が悪いのか」と聞き入れてもらえなかった。そんなことが重なり、ミュートしたのだという。

 

だが、驚いたのはその後だった。サークル内でX君のツイッターの話になった際、ほとんどのメンバーが彼とツイッター上でフォローし合っているにもかかわらず、ミュートしていることが分かったのだという。自分をフォローしている人たちが読んでいると信じて書いた書き込みが、実は誰にも読まれていない。なんとも寂しい、そしてちょっと怖い話ではないだろうか。

 

実は私もミュート機能を使っている。ふとしたきっかけでSNSの友達やフォロワーになり、諸般の事情で付き合いを断てないが、できることならその相手の書き込みはあまり読みたくない場合だ。例えば、お店の経営者がお客さんのふるまいのあれこれをあげつらって書き込んでいる時。書いている本人は、顧客の「非常識さ」を訴えたいのかもしれないが、読んでいてあまり気持ちの良いものではない。だから私はひっそりとミュートしている。

 

インターネット全体もそしてSNSも元来は、自分が今いる場所から遠く離れたところにいる誰かに自分の声を届かせることができる魔法の道具だったはずだが、案外、声が届いていないことも多い。自分の主張を声高に叫ぶことも大切だが、誰かを傷つけていないのか、その書き込みを終える前にもう一度立ち止まって考えるべきではないだろうか。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

2016年10月27日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第26回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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土人発言の警官は“被害者”か 「あっちも悪い」はピント外れ

 

沖縄県東村の米軍ヘリパッド移設工事で、警備中の大阪府警の警察官が抗議する人たちに「土人」「シナ人」などと発言したことが波紋を広げている。これは明白な差別用語であり、警察官が使うには不適切というだけではすまない問題がある。

 

そこへ“参戦”したのが大阪府の松井一郎知事。知事はツイッターで「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と書き込んだ。この文章のどこがダメかというと、問題発言を「不適切」と斬って捨てるより、全体の重点が「ご苦労様」とねぎらいの言葉で締めくくっている点にある。これでは差別への非難は薄められ、差別した側の警察官を擁護するようにも受け止められてしまう。案の定、この書き込みは“炎上”し、翌日、松井知事は釈明に追われる事態となった。

 

だが、知事は「警察官の表現は不適切」としながらも、「相手もむちゃくちゃ言っている」と発言を撤回しないとした。だが私が驚いたのは、「警察も被害者」というような、いわば両論併記的な考えに同調する人が少なくないことだった。これは大きな間違いである。

 

警察官は人を逮捕し、拘束できる公権力を持っていて、この権力は法にのっとって行うものだ。仮に反対派の人たちが「むちゃくちゃ」やっているのなら法に従って公権力を行使すればいいだけの話。警察官が暴力を受けたのなら公務執行妨害で逮捕すればいいのだ。

 

一方、差別用語やヘイトスピーチは無法者や卑怯者が発する“言葉の暴力”だ。ならば「土人」と発した府警の警察官は法によらない言葉の暴力を実行したことになる。このように考えると、今回の問題は「反対派も悪い」といった話ではなく、警察官が“無法者”に陥った点にこそあるのだ。

 

さらに新聞記事などによると、府警本部の聴取を受けた問題の警察官は「『土人』という言葉の意味を知らなかった」と言い訳していたというが、だったらなぜ知らない言葉を発することができたのか。この警察官の言葉が事実だとすれば、「土人」という差別用語は警察内部で日常的に使われていたからではないのか。だからこの警察官も普段耳にしている言葉が口から出てきたのではないかという疑念がわく。

 

今回は大阪府警の不祥事がクローズアップされたが、警察も全体として差別問題には取り組んでもらいたい。なお、松井知事はつい最近も、同じくツイッターで「痴呆」という言葉を使って今回のように炎上させた。知事もいいかげん、SNSの特性を理解し、かつ誤解されにくい日本語の使い方もしっかり勉強していただきたい。そうでなくても、「大阪だから仕方がない」といった偏見が飛び交っているのだから。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

 

 

2016年10月20日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第25回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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SNSで常時つながる人間関係 道具に踊らされない強さを

 

SNSの使用がますます盛んな昨今、私はフェイスブック、ツイッター、ラインを使っている。ミクシィはもうほとんど利用しなくなった。周囲の学生たちはあまりフェイスブックを使わず、主にツイッターとライン、そして写真が中心のインスタグラムを使っているようだ。

 

ツイッターは匿名で使用する人が多く、不特定多数の人たちに向かって自分が言いたいことを発言する道具というイメージをつい最近まで持っていた。それは私自身も実名ではあるものの、当コラムで書いたことを不特定多数の人たちに広める宣伝用という意味合いで使うことが多いのも影響している。

 

だが、日常生活の中で私が接している学生たちは、どうやら全く違うツイッターの使い方をしているようだ。ご存じの人もいるかもしれないが、ツイッターには“カギ”をかける機能がある。これは、自分がつぶやいた内容を見てほしい人だけに見てもらうためにカギをかけるというものである。だから仲良しグループのメンバーがおのおのツイッターのアカウントを持ち、カギをかけた閉じられた空間の中で日常生活について書いたものをお互いにたえず読んでいるらしい。数人の学生たちが集まると「◯◯ちゃんは昨日から就活で東京に行ってるらしいよ。ツイッターでつぶやいてたよね」「最近△△くんはあまりつぶやいてないけど、どうしたんだろう」「□□ちゃんは最近どうもいやなことがあったらしいね」といった会話が飛び交う。面と向かっている時だけでなく、遠く離れていてもたえず様子はわかる仕組みとなっているらしい。

 

ところで、ある男子学生が、ここ2カ月ほどフェイスブックとツイッターに触れるのをやめ、SNSのうちで使うのはラインだけに絞ったという。「なんだかスッキリしました。あれは中毒みたいなものですよね」との感想をもらした。ただし、ツイッターで行方がつかめない彼のことを心配してか、「“生存確認”のための友達からのメールやラインが増えました」と苦笑いした。

 

そう言えば、私もこの夏にほんの1週間ほどだったが、フェイスブックでもツイッターからも発信しない時期をなんとなく作ってみたことがあった。その時のなんとも言えない解放感は味わい深いものだった。しばらくたってネットの世界に復帰すると、そのまままた使い続けているのだが。

 

便利な道具を手にするとなかなかそれを手放すことができなくなる。それは前述の男子学生が言った中毒という側面もあるだろう。だが、どんな時にも絶えず誰かとつながり続けていることの“うっとうしさ”を感じられる感覚は持ち続けておきたいし、誰ともつながっていない瞬間があってもさびしがらずにいられてひとりを楽しめる強さも残しておきたいと思っている。便利ではあっても、その道具に踊らされしばられる状況にはなりたくないからだ。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

 

 

2016年10月13日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第24回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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“炎上”狙いで失われる信頼 メディアは明確な哲学を

 

数年前、あるウェブサイトの運営に関わる人物から連絡があった。そのウェブサイトに連載するコラムの執筆者を探しているとの話だった。その人は大阪日日新聞や他のメディアに私が書いていたコラムを見て、声をかけてくれたのだった。

 

「ただし、金井さんの今の論調のままでは載せるのは難しい。理由は、おとなしすぎるから。もっと激しいことを書かないとたくさんの人に読んでもらえない」というような趣旨のことをその人は言った。そのウェブサイトは購読料ではなく広告収入に頼っているから、記事をクリックする数を稼がなければならない。そのためにはいわゆる“炎上”をさせてもやむを得ない、もしくはそのほうが望ましい、といった要望が透けて見えた。私は激しい調子であおりながらあることないことを書いて炎上させてまで自分の文章に関心を集めたいとは思わない。だから、その人物からの誘いを検討するまでもなく、すぐに断った。だが、そんな安易な手法に手を染める人も少なくない。

 

フリーアナウンサーの長谷川豊氏も自身の記事をおそらく確信的に炎上させたであろうひとりである。もっとも、人工透析患者に対するブログでの発言がきっかけで、担当していた複数のテレビ番組を降板するに至ったことはご存じの通りである。

 

降板決定後に更新したブログの中で長谷川氏は「ネットはネット、番組は番組で使い分けているつもりでしたが、そういう訳にもいかなかったのでしょう」と書いていたが、ここに「ネットは炎上、テレビは常識的に」といったダブルスタンダードな態度がうかがえる。長谷川氏は言論人として顔と名前を公の場にさらしている、いわば準公人的な人物である。そのような立場にありながら、これはありえない非常識と無自覚ではないだろうか。どんな場で発する言葉にも、発するからにはその影響を最大限に想像して首を懸けるぐらいの意識がないといけないということを、言論を道具とする業界にこれだけ長くいても認識できていなかったというのは情けない。

 

ただ、それ以上に情けないと思うのは、長谷川氏をここまで起用し続けていたメディアに対してである。同氏はこれまでにも、テレビ番組のキャスターとして不適切ではないかと思われる発言をしてきたにもかかわらず、テレビ局は彼を番組に登場させ続けてきた。今回の発言が出てからも、世間で大きく騒がれてからようやく降板を発表したようなありさまである。世間から非難を浴びなければ彼をそのまま使い続けていた可能性が高い。彼の主張が正しいか間違いであるかくらい、世論を基準にするのではなく、メディア自身が明確な哲学と倫理観を持つべきではないだろうか。炎上させて話題性さえ振りまければよいという節操のなさでは、メディアの信頼は失われるばかりである。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

2016年10月6日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第23回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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本人だけが知る患者の気持ち 周囲の考えを押し付けない

 

女友達が乳がんで他界して9年余り。20代で出会ったころからずっと、仕事にも遊びにも家庭にも多くのエネルギーを注いでいた彼女。行動力を発揮した多様な経験をにぎやかに話す様子に、私は圧倒されながら憧れを抱きつつ、会うのをいつも楽しみにしていた。

 

そんな友達が乳がんにかかったと本人から告げられた時の静かな口調、白っぽく明るい喫茶店の様子を今も覚えている。その店内で私が泣きだしてしまったことも。その時の私は「友達が死ぬかもしれない」という突然の悲しみに圧倒されて泣いていたのだが、彼女が困ったような顔で私を見ていたことも記憶している。

 

女友達が旅立って5年たって私も同じ病気にかかってはじめて、当時の私が彼女をどれほど困らせたのか実感がわいてきた。私が乳がんだと知った時、自分でも驚くほど淡々と受け止めていた。まずは治そうと考えたが、命に関わるものだとしても受け入れるしかないだろうとも感じていた。初期の段階だったからそのように冷静でいられたのかもしれないが、これが仮に重かったとしても似たような反応をしていた気がする。自分で自分をじっくりと観察してみて、そのような自分が見えるのは新たな発見だった。

ところで、私の病気のことを聞いた友人たちの反応はさまざまだった。話を聞いた途端に涙ぐんでしまった人。「あなたの病気のことを聞いて悲しくなった」という言葉をかけてくれた人。きっと、私のことを深く思いやってくれたのだろう。だが、その時の私は「もうダメだと思ってるの?まだ今は生きているし、これからも生きようとしているのに」と戸惑った。周囲が諦めると、当人にとっては置き去りにされるようでかえってつらい。でも逆に、「それぐらい大丈夫」とやたら陽気な声をかけてくれた友人は、おそらく私の気持ちを軽くしようとしていたのだろうが、これから治療に取り組まねばとあれこれ考えていた身には「それほど気楽ではないのに」と困惑した。わがままと言えばそれまでなのだが、ことほどさように人の気持ちは多様であり、その立場に立ってみないとわからないことがあるのだと理解する機会となった。

 

9年前に亡くなった女友達は、自分で選択肢を調べ尽くして治療方法を決めていた。私は自分自身の気持ちにとらわれてただ泣くのではなく、彼女の気持ちにもっと添えればよかったと今になって思う。自分の見方を疑ってみること、相手には相手の独自の見方があるのではないかと想像することがいかに大切かを学んだ。病気の治療に取り組んでいる人に向かって「死ね」などと言うのは言語道断だが、おもんぱかり過ぎた過剰な反応も避けたい。患者だった私の経験から言うと、ただただ普通の人として扱ってほしい、それだけなのだ。たまたま病気という“特徴”が備わった人として。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)

2016年9月29日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第22回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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怒る対象を間違えていないか 理不尽ないら立ちぶつける不毛さ

 

いつものように大学に向かおうと近鉄奈良線に乗っていた先週半ば。朝早くには通勤や通学の乗客で混み合うが、その日は遅めの出勤だったので、私が乗っていた先頭車両はすいていた。やがて、河内小阪駅の直前になって電車はゆっくりと停車した。なんだろうと思っていると「河内小阪駅で人身事故が発生しました」という車内アナウンス。あの停車ぶりから私が乗っている電車が人をはねたはずはないと考えていたところ、反対側のホームに到着する直前に停車している車両が遠くに見えた。

 

誰かがケガをしているか悪くすれば亡くなっている可能性があるのだと考えると、席を立って現場を見ようという気にはなれなかった。だが、私が乗っている電車の車内では、またたく間に5~6人の男女が2両目以降の車両から先頭車両に歩いてきた。グループ連れが怖いもの見たさでにぎやかに来るのならば不謹慎とはいえまだわかる。だが、それぞれがひとりで電車に乗っていた様子で、運転席がのぞける窓のところにへばりつくようにして、遠くに見える事故現場をだまってじっと見つめている。いろいろな人がいるものだ。どんな気持ちなのだろう。そう思いつつ彼らの背中を眺めながら電車が発車するのを待っていた。

 

運転が再開されてしばらくたって、高齢の女性が線路に入り込んで電車にはねられて死亡する事故だったことをニュースで知った。と同時に、もうひとついやなニュースを目にしてしまった。その事故の影響で電車が運行中止したために、東花園駅で客から詰め寄られていた車掌が突然、制帽と制服の上着を脱ぎ捨ててホームから下り、線路上を走った後に高架から飛び降りて、腰と胸の骨を折ったのだという。

 

電車が止まって用事に間に合わなくなるかもしれないと思えば、誰だって焦る。だが、乗客が車掌に怒ることほど無意味かつ理不尽なことはない。近鉄は「車掌が不適切な行動を起こしたことは遺憾で、心よりおわびします」とのコメントを出した。車掌の職場であるはずのホームから客を置いて逃げ出したことは確かに「不適切」かも知れない。でも、あまりにむちゃな要求を突きつけられた末に起きてしまったと思われるこの出来事に、車掌を一方的に責める気持ちには到底なれない。

 

そういえば、つい最近もファストフード店に私がいると、ほんの1分程度待たされた男性客が、複数あるレジのうちひとつしか開けていないことを店員に向かって大声でののしった上で、何も買わずに娘らしき小さい女の子を連れて立ち去った。その時は、店員だけでなく、女の子までなんだかかわいそうになってしまった。

 

人々は他人の不幸をそれほど見たいのだろうか。そして、彼らは何にそんなにイライラしているのだろうか。怒る時は、怒るべき相手を選んできちんと怒る。それほど難しいことではないはずだ。

 

(近畿大学総合社会学部准教授)