2017年5月4日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第53回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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国家を縛る“縄”が大原則 憲法とは何かを考えよう

 

 幼い頃の私にとって憲法記念日とは「長い連休のうちの1日」に過ぎなかった。憲法というものが私自身の全てに大きな影響をもたらすにもかかわらず、それを実感しづらかったりもした。今もそんな人は結構多いのかもしれない。でも、本当にその内容や仕組みを知らず影響力も分からずにいていいのだろうか。

 

 憲法は最高法規と言われ、法律の中でも最も強い効力を持つ。民法は私たち個人の権利関係を表したもので、結婚できる年齢や、お金を貸し借りしたときの契約、土地の所有権などについて記されている。刑法は、犯すと罰せられる犯罪の種類や、例えば盗みを犯せばどのような罪に処せられるかが書かれている。

 

 対して憲法とは、個人や企業、犯罪ではなく、国家の在り方が示されている。簡単に言えば「こんな国にしよう」という指針が憲法であり、その国家の土台になっている。だから、厳密に言うと大日本国帝国憲法と戦後の日本国憲法の時代とでは、同じ日本であっても両者は別の国家なのだ。

 

 国家が強大な権力を持っていることは言うまでもない。江戸時代にはお上の言うことは絶対で、ときに徳政令を出して借金をチャラにしたり、人の土地を強制的に取り上げたりすることもできた。これは現代でも同じで、警察によって人を拘束することができるし、場合によっては個人の権利や所有物を強制的に奪うこともできる。

 

 ところが、国家の権力は放っておけばルールを無視したり、ルールを自分流に解釈して好き勝手なことをしてしまう恐れがある。これは古今東西、どの国でも同じことが起こってきた。

 そこで憲法の出番となる。憲法とは国家が勝手なことをしないよう一定の歯止めをかける、いわば“縄”のようなものである。憲法には、国家は「国民に対してこんなことをしてはいけない」「このような義務を果たさないといけない」と定めてあり、いわば国家と個人との契約ともいえる。これは近代民主主義国家の憲法の基本である。

 

 昨今の世論調査で、憲法改正に前向きな人が増えてきた。戦後から70年以上が経過し、日本国憲法の中にも時代の“寸法”に合わない内容が出てきたのかもしれない。仮に改憲するとして、どの条文をどのように変えるかは国会の議論を待たねばならない。

 

 ただし、仮に改憲の雰囲気が国民と国会で盛り上がって具代的な改憲案が出てきたとき、そこに個人の権利や自由を制限するような条文が潜んでいたら要注意だ。なぜなら、どの条文をどう変えようとも、近代民主主義国家なら変えてはいけないものが憲法にはあるからだ。それは、憲法とは国家を縛るものであって個人を縛るものではないという基本的な原則である。

 

 施行から70年の憲法記念日を迎えた昨日。このゴールデンウイークに「憲法とは何か」を考えるひとときがあってもいいかもしれない。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

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2017年4月27日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第52回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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就職戦線異常あり!? 今こそ働き方を変えられるか

 

 「ブラック企業でさえなければどんな会社でもいい」「定時で退社したい」「休みをきちんと取れるのかがポイント」等々、学生たちから漏れる本音を私は耳にすることが多い。ここまで欲求に率直ではない学生でも「休みとか給料に関する質問をし過ぎるのは、企業の人に悪い印象を与えてしまうのでしょうか」と私に尋ねたりする。

 

 私の周りの4年生は既に就職活動で忙しく、卒業に不可欠な単位を取る授業にもほとんど出席できていない学生もいる。現在の4年生の就職活動に関しては、日本経済団体連合会が「2018年入社対象の採用選考に関する指針」に示したように、企業側の広報活動は今年の3月1日以降、選考活動は6月1日以降と申し合わせている。

 

 その理由として経団連は「学生が本分である学業に専念する十分な時間を確保する」ことを挙げている。だが、選考をしていないはずのこの時期ですら、明らかに採用を目的とした面接などが行われているし、かなり大きな企業が「内々定」を出したことも聞いた。それは、抜け駆けするその企業が悪いというよりも、いつまでもこんなバカげた申し合わせをしていることに問題があるのだろう。

 

 暴論かもしれないが、卒業直後の大学生を採用したい企業は、学生が大学に入学した時からずっと何らかの形で接触を図って、どんな時期でもいいから「内々定」や「内定」を出せばよいのに、と個人的には思い続けている。

 

 さて、つい熱が入ってしまったが、今回のコラムで主に伝えたいのはこれではなかったことを思い出した。就活生が実際に入社してからの話を書くつもりだったのだ。

 

 今まで雇ってきた滅私奉公的な労働者とかなり違い、「休むことやラクをすることばかり考えるイマドキの若者」を迎える企業の側には戸惑いもあるだろう。時にはその戸惑いや怒りが言葉となって若者たちに投げつけられている。ことに「ゆとり教育を受けた人はやっぱりダメだ」という言葉は、多くの若い人たちの心を深く傷つけ、上の世代との溝を深めていることを、何度も見聞きしてきた。

 

 今まで当たり前だったことをこれからも続ける。それが「良い伝統」であればそうあるべきだ。だが、長時間働いて、時には心身をすり減らして体調を崩し、悪くすると病気で亡くなったり自ら死を選ぶ人たちが少なからず出ているような「あしき伝統」には区切りをつけなければならない。「自分が苦しんだものは後輩たちにも味わってもらわないと気が済まない」という悪循環を断ち切る時なのだ。

 

 あす28日はプレミアムフライデー。先月は年度末の最終日にあたってそれどころではなかった人も多かったかも知れない。今回は大型連休開始日の前夜ということもあって、享受できる人が多少は増えるだろうか。私は、記者をしている古い友人たちと梅田で飲む予定を立てている。

 (近畿大学総合社会学部教授)

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2017年4月20日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第51回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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いまや敬遠される記者の仕事 いまこそ自ら襟を正す必要も

 

 「今年もまた記者を志望してる子は少ないですよ」と同僚が私に言った。新入生が大半を占める200人を超える学生を相手に、マスメディア全般について教える講義を終えたばかりの彼が教えてくれたのだ。

 

 私が所属する専攻には、卒業後はマスメディアに関わる仕事をしたいと考えて入学してくる学生が多い。同僚は毎年、講義の冒頭にどういったマスメディア企業に入りたいのかを学生に尋ねているという。今年も、どれか一つに手を挙げるよう求めたところ、放送局が約4割、出版と広告をあわせて3割5分ほどとかなりの部分を占めた。そして、新聞社を尋ねたところ、十数人つまり1割弱が挙手するに過ぎなかったのだという。放送局や出版社を目指す学生の中に報道部門を狙う人もいるだろうが、今までの学生を見ていると少数派だ。

 

 私が大学に転じた9年前も、記者職の人気は高くなかった。その理由を聞くと、いつでも呼び出しがかかったりしてきつそうというのが主だったと記憶している。だが、近年は他の理由も加わってきた。「人のプライバシーを暴き立て、犠牲者の遺族を囲んで傷をえぐる。横柄であおり立てるように話す」と、とにかく記者のイメージが悪いのだ。私が担当するジャーナリズムに関する講義を取り始めた2年生の中にも、そんな見方を持つ学生がいる。その背景には、テレビやネットでさまざまな映像を見られるようになった昨今、記者が取材対象を取り囲む姿を頻繁に目にしていることがあるように思われる。ドラマに出てくる記者が怪しげにネタを振り回していばっている様子も悪影響を及ぼしているのかもしれない。この点に関しては、イメージ改善のために人気俳優を記者役で起用するドラマを作ってほしいと、半ば本気で思うほどだ。

 

 ちなみに、学生たちが記者の実態や報道内容をしっかりと把握した上で嫌っているのかというと、そうではない一面もある。取材とは大勢で取り囲むものより一対一で静かに行うものが多いと教えると意外そうな顔をする。報道系の週刊誌を「買って読んで感想を書く」という課題を出せば、「生まれて初めて週刊誌を買った」という学生が「思っていたよりマトモな内容が載っていた」と口にしたりする。ジャーナリズムを知る機会が限られていた彼らに対して伝えるべきことは多いと痛感する。

 

 記者側にも改めるべき点はある。千葉県の小学生殺害事件を取材していた記者が、民家の壁をけとばした映像が出回った時には、記者のイメージ改善に日々取り組んでいる私は「やらかしてくれた」と頭を抱えた。記者に対する目は、記者自身が想像しているよりずっと厳しいことを意識しなければ、せっかくいい成果を出しても台無しにしてしまう。ジャーナリズムは、報道する側、情報を得る側の双方が育てていくものなのだとあらためて感じている。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

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2017年4月13日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第50回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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存続厳しい落語の「田辺寄席」 笑いで心と伝統話芸に潤いを

 

 仕事によって、人はそれぞれ忙しい時期が違うのだろうが、私のような教員にとっては新年度が始まる4月は特に忙しい。授業が新たに始まることもあるが、入学したての1年生たちにさまざまな情報をきちんと伝えて、スムーズに新生活をスタートできるようにサポートせねばならず、教員も緊張を強いられる季節なのだ。

 

 そんな緊張をほぐそうと、4月はじめのある夜、大阪市内にある天満天神繁昌亭へ出かけた。7年近く前に、私が本紙に書いたコラムをご覧になって手紙をくださったことからご縁が始まった、笑福亭円笑さんの喜寿の落語会が開かれたからだ。東京出身の私は近頃だいぶ大阪弁にも耳が慣れてきたが、上方落語協会所属では唯一という師匠の江戸弁はやはり耳に心地よかった。

 

 他にも笑福亭銀瓶さん、桂雀太さん、林家菊丸さんが共演。この3人が座談会を開いて円笑さんの目の前で円笑さんについて褒めたりけなしたりという趣向があったりと思い切り笑い、日頃の緊張もほぐれて家路についた。

 

 他のエンターテインメントと比べて落語の“費用対効果”はかなり高い。値段に比べて十分に元が取れるのだ。繁昌亭の夜席で2時間ぐらい大いに笑って2千~4千円程度。昼席は3時間で一律3500円、朝席ならば2千円前後。しかも繁昌亭は大阪天満宮のすぐ横に位置し、入り口にも会場の天井にも数え切れないほどのちょうちんが美しく並び、なんとも言えない風情がある。国内のあちこちにさびれ切った商店街が目立つ中で、日本一長い上に人を避けて歩くのが難しいほどにぎわう天神橋筋商店街にも近い。大阪観光は大阪城や道頓堀、ユニバーサルスタジオジャパンが定番だが、上方落語を楽しむのもしゃれているのではないか。

 

 ところで、同じく大阪市内にある田辺寄席が経営難に陥っているという話を耳にした。田辺寄席のホームページを見てみると、訪れる人が大幅に減って「大ピンチ」であり、「このままでは田辺寄席は継続できなくなります。多くの方のご参加が最大の支援です」と大きな字で書かれていた。仮にいったん途絶えてしまえば、それを再興するのは容易なことではないだろう。人が演じるこういった芸は、聴いて楽しむ客がいてはじめて成り立つ。

 

 たまには寄席に行って笑い転げ、心のあかをぬぐい去ると同時に、落語を育てる寄席もなくさないようにしたいものだ。私自身も寄席通いをもう少し頻繁にして、緊張をほぐしながら仕事にも励み、はやり言葉のようにもなっている「ワーク・ライフ・バランス」つまり「仕事と生活の調和」を図っていきたいと願っている。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年4月6日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第49回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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「協力」という名の報道規制か 政府がテレビ局に圧力の疑い

 

 大阪市の学校法人「森友学園」の問題は、日に日にさまざまな材料が出てきて、どの部分が一番問題なのかわからないほど、収拾がつかない様相を呈してきた。中には「国会では他のことも論議すべきであって、この話ばかりではいけない」という意見もあるようだ。だが、この話ばかりを扱っているわけではないし、これで幕引きにしていい案件ではない。そうでなければ“第二、第三の森友”が生まれないとも限らない。森友学園の問題はこれだけが特異な存在ではなく、構造的には十分他にも起こりうるからである。

 

 そんな中で私がいま最も気になっているのは、つい先日のある報道である。籠池泰典前理事長は、2015年9月5日に安倍昭恵首相夫人が講演する直前に、夫人から100万円の寄付を受け取ったと主張している。講演の様子をテレビ大阪が収録しており、系列局のテレビ東京が今年2月のニュース番組で放映した。籠池氏と昭恵夫人が「2人きりの状態」となった際に寄付金の受け渡しがあったという籠池氏の偽証を立証したい政府が、自民党の衆議院議員を通じてテレビ大阪に協力を要請するために接触を図ったとみられるというのだ。講演直前の籠池氏や昭恵夫人の様子を映した動画や、当日の2人を追っていた記者の証言を手に入れて、「2人きり」にはならなかったことを証明するのが目的らしい。

 

 この報道がもし本当だとすれば非常に深刻な問題である。時の政府がこのような“協力”を求めて報道機関に証言を要請するというのは、“圧力”と受け取られてもおかしくない。報道機関が取材で得た情報を報道目的以外で第三者に公表したりすることは、報道の倫理の観点から言って、あってはならないこととされている。私が勤務していたロイターでも、インタビュー直後に「どんな記事になるのか見せてほしい」と依頼されることがあったが、相手に絶対に記事を見せてはならないと禁じられていた。相手に見せた場合、その素材を広告・宣伝など報道以外の目的に使われたり、「記事を取り消せ」などと圧力を受けることがあるからだ。

 

 まして、既にこのコラムでも書いているように、寄付金の授受があったとされる両者のうち片方だけを証人喚問に呼び、もう一方を呼ぶことすらしないうちから、第三者に頼ろうとするのは姑息(こそく)であり、その相手がよりによって報道機関であるとは、政府には顔を洗って出直してもらいたい。よほど手詰まりなのだろうか。

 

 なお今回の報道によると、テレビ大阪側は、政府からの協力要請の有無や要請への対応について尋ねられると、「報道していることがすべてです」とのみ答えたのだという。報道の自由を自ら放棄するような愚挙はなんとしても犯さないでほしいと願う私の声が、テレビ大阪をはじめとする報道機関にぜひ届いてほしい。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

 

 

2017年3月30日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第48回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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今も続く戦渦での医療活動 国境なき医師団の写真展で知る

 

 人生初の入院と手術から5年。事前の検査で乳がんのだいたいの症状は把握できたと主治医に言われていたが、手術を行うまでは身体の中の様子が全て分かるわけではないため、問題の部分を全部取り去ったことを確認できたと、術後に聞くまでは不安だった。

 

 だが、そういった懸念はあったものの、入院生活は快適そのもの。医師も看護師も丁寧に説明してくれるし、栄養バランスの取れた食事が日に3回決まった時間に出てくる。症状さえ許せば入浴ができるし、必要なものはたいがい売店で買えた。院内の決められた場所では携帯電話で会話をしたりメールを送ることもできた。そして何よりも、身の安全が脅かされていると感じるような事は一度もなかった。

 

 病院における身の安全など、この国にいれば当たり前のことだ。だが、その「当たり前」が保障されていない国が世界の至るところにある。

 

 そのひとつがアフガニスタンである。2015年10月にアフガニスタンのクンドゥーズにある病院が米軍に空爆された。その病院は国際医療支援団体「国境なき医師団(MSF)」が運営していたが、患者とスタッフあわせて42人が命を落とした。

 

 先月末に、MSFが「国境なき医師団“紛争地のいま”展」と題して梅田で開いた写真展を見てきた。これは「病院を撃つな!」と銘打ったキャンペーンの一環で、私が以前勤務していたロイターで同僚だった男性が今はMSFの広報部門にいて、その人が教えてくれたのがきっかけでこのイベントを知ったのだった。

 

 会場に入ると、カメラのマークに丸印がつけられ「撮影可」と書かれた看板が目に入った。珍しいと思ってその広報の男性に尋ねると、「SNS時代だし、シェアされてなんぼだからね」との答え。むしろそういった形で広まってほしいという考えらしい。会場に展示されていたのは、空爆を受けた病院の中でぼうぜんとしている人たち、廃虚のような病室で治療を行う医師と患者など、非常に力強い写真ばかりだった。

 

 会場の出口近くの壁にはたくさんの小さな写真が貼られ、白い紙がおのおのの写真の上に重ねられていた。メッセージを書くために白い紙を外すと、MSFが支援している国々の人たちの笑顔の写真が現れ、メッセージを書けば書くほど笑顔の数が増えるという仕組みだ。メッセージを書いたその白い紙を、隣にある大きな写真のボードに貼り付けていくと、爆撃を受けたアフガニスタンの病院の写真が白いメッセージカードで覆われて姿を消していく。

 

 強いメッセージ性を持ったこの写真展をより多くの人が見て、病院が安心できる場ではない国が数多くある現状を知ってほしいと強く願った日だったが、写真展はたったの4日間で終わった。会場費用が高くてままならないとの話だったが、残念この上ないという気持ちをこめて今回のコラムを書いた。

 

 (近畿大学総合社会学部准教授)

2017年3月23日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第47回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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2人の人物が語る森友学園問題 きょう証人喚問と参考人招致

 

 きょう23日のニュースを扱うテレビ番組や新聞の紙面作りの担当者は、ニュースが多すぎるといううれしい悲鳴で頭を抱えることになりそうだ。野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではアメリカとプエルトリコが決勝戦で対戦する。選抜高校野球も試合が予定されている。そして、なんといっても大きな注目を集めているのが、大阪市の学校法人「森友学園」の理事長を退任する意向を示している籠池泰典氏による国会での証人喚問である。

 

 “安倍首相からの寄付金100万円”の有無が焦点となりそうだが、受け取ったと主張している籠池氏のみを呼ぶのではなく、“渡し主”とされる安倍昭恵首相夫人も呼んで初めて真相究明に多少なりとも近づくと考えるのは、ごく当たり前ではないだろうか。ただし、今回の証人喚問では寄付金うんぬんばかりが焦点となり過ぎているきらいもある。ありえないほどの安値で国有地が売却され、大阪府が学園側の要望を受けて私立小学校設置認可基準を緩和し、大阪府私立学校審議会(私学審)が「認可適当」とした背景や理由といった、より重要なポイントがかすんでいるのが現状である。

 

 そういった点を解明していく上で欠かせないのが、きょう23日に行われるもう一つの注目の出来事である。大阪府議会の本会議に私学審の梶田叡一会長が参考人招致されるのだ。

 

 森友学園による小学校設立の申請を審査した私学審の議事録を見ると、財務状況に対する懸念がかなり強く示されていたことがわかる。また、一部報道によると私学審のある委員は取材に対して、借入金が多いだけでなく寄付金頼みの計画であり、「誰が見てもおかしい話を、府は通しにかかった。よほど強い後ろ盾があると思わざるを得なかった」と証言したという。こうした経緯を経て、最終的に条件付きながら「認可適当」とした私学審を率いていた梶田氏が何を語るのか耳を傾けたい。

 

 結果的に、森友学園は小学校の認可申請を取り下げた。だが、事をこのまま終えていいわけではない。来月に開校するはずだった「瑞穂の國記念小學院」に入学を予定していた子どもの数は、最終局面ではかなり少なくなってはいたもののゼロではなかったという。木材を多用したあの鮮やかな赤い校舎に通うことを楽しみにしていたであろう子どもたちの悔しさに報いるためにも、そして今後似たような目に遭う子どもをなくすためにも、問題の根っこをしっかりとほじくり返し、同じ問題が起きる可能性をつぶしておかねばならない。

 

 23日の新聞夕刊や夜のニュース、翌日の朝刊や情報番組では、梶田会長の参考人招致も「大阪のローカルニュース」と切り捨てず、他のニュースに埋もれさせることなく詳報してもらいたいと思う。

 

 (近畿大学総合社会学部准教授)

2017年3月16日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第46回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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そんな“関西弁”使わへん 物議醸した経産省の万博報告書

 

 私が大阪に住んで通算13年。いまだに「金井さんは関東の人だから◯◯なんですね」という言葉には慣れない。確かに私が生まれ育った日野という町は東京の西の隅にあるし、東京は関東の一部だ。それでも、自分が「関東の人」というくくりに入るとは自覚しないまま過ごしてきた。ただし、出身地を聞いて「この人は◯◯な人物なのだろう」と推測して区分けすることは、誰でもやってしまいがちなことではある。

 

 だが、数日前に目にしたニュースは度を超えていた。「関西人」をひとくくりにした上でバカにしたとしか思えない内容が政府の資料にあったのだ。

 

 2025年に大阪での開催を目指す万博の誘致のために経済産業省が作成した報告書案の「関西弁バージョン(試作品)」と銘打ったものが作られた。大阪開催を目指すのだから、そこの方言で報告書を作るアイデアは面白い。

 

 ちなみに、「関西弁」というものは存在しない。「大阪弁」の中にすら地域によって違いがあるほどなのだ。経産省も「『関西弁』ちゅうのは実際ないけどな。あと、こんな言い方せーへんとか、細かいこと言わんといてな」と“逃げ”を打ってはいる。いずれにせよ、“ネーティブ”に聞いてみると、明らかにおかしい言葉遣いの羅列だったようだ。

 

 いや、百歩譲って言葉遣いがおかしいのは目をつぶろう。だが、その内容が偏見に満ちあふれたひどいものだったのだ。共通語で書かれたオリジナルでは、万博の役割について「人類共通の課題解決を提言する場」と書いているのに対し、関西弁版は「人類共通のゴチャゴチャを解決する方法を提言する場」とした。さらに、「主なゴチャゴチャの例」の中に後者は「社会重圧、ストレス(例えばやな、精神疾患)」とまで書いたのだ。ちなみに、前者では「社会重圧、ストレス」とのみ記され、「精神疾患」には全く触れていない。

 

 また、日本で万博を開催する意義について「他国は日本の課題や対策の成果を参考にしながら、対策を考えていける」を「よその国は日本の課題や対策の成果をパクりながら対策を考えていけるっちゅうわけや」と“翻訳”した。「参考にする」と「パクる」との間には天と地ほどの差があるのは言うまでもない。しかも盛り込まれているシャレもいまひとつ面白くない。

 

 言葉遣いを変えると自動的に内容まで下品なものに変わるというのは、あまりに無礼な話だ。万博を大阪で開催することへの官僚の目とはそんなものだったのかとも思えてくる。今回の件はたまたまその矛先が関西に向かったが、地方に対してそのような態度しか示せない人々がこの国を動かしていることが情けなくなってくる。バカバカしくてマジメに取り合うことすらはばかられる。「アホちゃうか」と吐き捨てて前に進むしかなさそうだ。ただし、他山の石として肝には命じておきたい。

 

 (近畿大学総合社会学部准教授)

2017年3月9日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第45回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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コンサートで防災訓練を体験 災害はところ構わずやって来る

 

 大阪・中之島のフェスティバルホール。アンコールのエルガーの行進曲「威風堂々」が突然途切れ、会場が暗くなった。ハンドマイクを持った係員が舞台に出てきて「大阪市内で震度6強の地震が発生しました」と話し、ホールの耐震設計はしっかりとしていること、席に座り続けることを2千人を超す聴衆に呼びかけた。

 

 実はこれ、今週行われた「大阪フィルの夕べ&防災訓練コンサート」の一こま。私もその場にいた。無料で行われたこのコンサートのチケットを持っていた友人が「防災訓練つきのコンサートに行きませんか」と誘ってくれて、音楽が聴ける上にその場で防災訓練に参加できるという未体験の興味深さにひかれ、参加を決めたのだった。

 

 大フィルの演奏はすばらしかった。映画「スター・ウォーズ」のメインテーマでは映画の場面を思い出してワクワクし、私が幼い頃から大好きなドヴォルザークの交響曲「新世界より」にはどっぷりと浸った。合間に行われた「指揮者体験コーナー」では、聴衆から選ばれた3人が指揮者の角田鋼亮さんに教わりながら指揮すると、それぞれの指揮棒の振り方で三人三様全く違う色合いを持ったブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」が紡ぎ出された。

 

 アンコール曲の途中で防災訓練が始まること、避難階段で建物の外に避難することは、あらかじめ知らされていた。「威風堂々」の演奏が始まると、どこで途切れるのか少しドキドキしながらその瞬間を待っていた。でも、いざその時が訪れても冷静に受け止めて係員のアナウンスを聞いていられたのは、前もって事情を知っていたからだろうか。

 

 訓練は非常にリアルだった。具合が悪くなった人を手当てするためのコーナーが設けられ、聴衆の中に医療従事者がいないか呼びかけると、私のそばに座っていた女性が戸惑いながらも立ち上がった。「地震の後に建物の上層部で火事が起きた」という知らせが届くと、建物外への避難が始まった。

 

 係員の指示で、車椅子の人が最優先とされ、その後にホールの3階にいる聴衆、次に2階にいる人たちが全て出た後、最後に1階という順で避難した。私は1階の前から十数列目という、コンサートを聴くには最高の座席にいたのだが、本当の災害時に最後まで待たされたらどんな気持ちになるのだろうとやや不安にもなった。

 

 出口への階段を下りる時には、年配の女性が手すりを握りしめてゆっくりと歩いていたが、まだ足腰がしっかりとしている自分にも随分長く感じられた。

 

 まもなく東日本大震災から丸6年。災害は思いもかけない時にやってくる。今回のように、災害が発生する時刻をあらかじめ知っておくことは不可能だ。それでも自分の身体を使って訓練をしておくと、本当の災害が起きた時の自分を想像でき、それが“本番”の自分を助けてくれるのかもしれない。

 (近畿大学総合社会学部准教授)

2017年3月2日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第44回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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対立の米記者と会食の日本の記者 メディアと権力との関係に差が

 

 主要メディアを「国民の敵」と呼び、「フェイクニュース(偽ニュース)」を報じていると批判するトランプ米大統領と、報道機関との関係が悪化の一途をたどっている。ホワイトハウスのスパイサー報道官は先週、定例の記者会見の代わりに選別したメディアのみの取材に応じ、政権に批判的なCNN、ニューヨーク・タイムズ紙など少なくとも10の報道機関を締め出したのである。

 

 これに対してメディア側は猛反発。ニューヨーク・タイムズ紙が「透明性の高い政府を実現するためには、報道の自由の維持が大切で、国民の利益にかなう」との声明を出す一方、出席を許されたAP通信とタイム誌が取材をボイコットしたほか、政権に好意的な報道の多いFOXテレビのキャスターも「(取材機会が)有資格の組織全てに開かれるべきだ」とツイッターで発言した。

 

 トランプ大統領は選挙で予想外の大勝利を収めて就任したばかり。人気の高い政権を批判すれば読者や視聴者の支持を失うのではないかと懸念してしまいがちだ。だが、米国では逆の現象が起きている。権力者である大統領と距離を置き、権力のチェック機関として機能している米メディアに対して多くの米国民は不快に思っていないのだ。それが証拠に、ニューヨーク・タイムズの有料電子版の購読者がトランプ政権発足以降、大幅に増えている。

 

 翻って日本のメディアと政権の関係はどうか。実は、象徴的な出来事が今週起きたばかりだ。東京・赤坂の中国料理店で安倍首相と内閣記者会加盟報道各社のキャップが懇談会を開いたのだ。

 

 おそらくこの会食は事前に計画されていたものなのだろう。だが、今まさに森友学園をめぐる問題や「共謀罪」に関する審議で政府・与党と野党が対立している。この時期に、いくら事前に計画されていたとはいえ、そして一部でうわさされているような、安倍首相が会食の場でメディアに圧力をかけるようなことがなかったとしても、世間から政府との癒着を疑われるような行為は、メディアも自粛すべきではなかっただろうか。これが米国なら世論から猛反発をくらうだろうし、こんな時期にほいほい勇んで政府首脳と会食をしようとするメディアもないのではないか。

 

 しかし、日本のメディアの一部には昔から首相と夕食を共にするのがステータスだと勘違いしている記者もいるらしく、それがペンの矛先を鈍らせる一因とされている。日本と米国では、メディアと政府トップの距離のとり方はこれほどまでに違う。対立よりも融和を好む日本の風土に合っているのかもしれないが、言うまでもなくメディアの役割は権力のチェックである。

 

 報道陣が安倍首相との会食を楽しむのならば、国会で森友学園などの議論が出尽くしてから、そしてその議論について読者や視聴者のために十分な報道を尽くしてからでも遅くはない。

 (近畿大学総合社会学部准教授)