26歳になる息子がちょっと長めの一人旅をして、真っ黒に日焼けして帰って来た。

彼にとっては、初めての本格的な一人旅。毎日仕事にも使っているトートバッグ1つとiPhonehひとつで、気ままに信州から瀬戸内海まで巡ってきたようだ。

 

旅好きの私は、彼が幼い頃からさんざん旅に誘い出してきた。テントを担いでの北海道鳥見旅や、タンザニアまで出かけた野生動物ウォッチング。槍ヶ岳登山やボラカイ島でのシュノーケリング。ああ、なんと楽しかったことか。いろいろなシーンを思い出す度に、深く満ち足りた想いでいっぱいになる。

 

ところが、だ。

「あの頃が一番幸せだったのね」と定番的に思い込もうとしたら、自分の心が「そうかな・・・」という。

あれ、今の方が幸せ感が強いかも。

 

仕事もフル、子育てもフル、というあの頃は人生で最も充実していた時期かもしれない。

日々成長していく息子、独身だった頃とはまったく違った視点で見る世界。私の人生の華の時期だったのは間違いない。

 

でも、いつも疲れていたし、次はどこへ行こう、何をしよう、とあせりにも似た感じを抱えていた。

旅も、仕事も、もっと、もっと。

 

今の私はステージ4のがん患者で、まあ毎日どこか具合が悪かったりするし、

来年の夏を元気で迎えられる保証はどこにもない。

でも、なぜか心はとても穏やかで、元気でバリバリ動いていたころより幸せなような気がする。

 

毎朝日の出と共にすぐ近所の大きな公園を愛犬と散歩する。

だるくて起き上がるのがつらい日もあるが、よほどの事がない限りとにかく出かける。

まだほの暗い森の中を、静かに歩く。犬も歩調を合わせてくれる。

池の畔のベンチで、呼吸に意識をを集中する。犬は膝の上でゆったりくつろいでいる。

 

背後の深い森から吹いてくる風に、サワサワと揺れる木々の葉。

水を飲もうとするカラスのクチバシから拡がる美しい水紋。

水に映り込んだ対岸のケヤキの姿も、水紋の広がりの中でゆらゆらと揺れる。

 

毎日同じ場所にいるというのに、一瞬たりとも同じではない。

そして、どの一瞬もかけがえのない美しさに満ちている。

 

数日前、水辺にカラスが一羽死んでいた。

多分、いつもこの周辺に一羽で静かにたたずみ、少し首をかしげて池の水を飲んでいたカラスだ。少し弱っているようだったし。

 

芝生広場の方では、今日も今年生まれの若いカラスたちが、ゴミをひっくり返したり、オオタカの幼鳥を追っかけ回したり大騒ぎ。

水辺に横たわるカラスにも、そんな日があったに違いない。手を合わせ少し祈ったが、

不思議とあまり悲しくなかった。

彼なのか、彼女なのか、あのカラスも、自らの生を全うし、そして静かに死んでいっただけのこと。

 

 

今の私にも、まだコピーは書けるだろう。いろいろな方から、著書の続編は書かないの?と訊ねられる。

でも、もういい。仕事したくない。がんばりたくない。

誰かがすすめてくれる「末期がんを治す奇跡の治療法」を試すのもいやだし、

毎朝にんじんジュースを飲んだり、玄米菜食もいや。

せっかく「パンの激戦区」と言われる街に住んでいるのだから、「がんの敵」とも称される小麦粉のおいしいパンを食べていたい。

その分早く死ぬとしてもまったくかまわない。

 

向上しなくていい。がんばらなくていい。というのは、なんと心地よい世界なのだろう。

もちろん、今までの自分の努力やがんばりを否定する気は全くない。この身体と頭脳のわりには、ほんとにがんばったし、思いっきり楽しめたよね、とほめたいぐらい。

でも、もう十分。私にとって、その時期は過ぎたのだ。

 

公園の池で育ったカルガモの雛たちもすっかり大きくなって、親とほとんど区別がつかない。

数え切れないほど見てきた子ガモの成長を見るのも、これが最後かもしれない。

ヒグラシの声を聞くのも、いつが最後になるのかわからない。

(実は誰だって同じことで、末期がん患者はその確率が高いだけだけど。)

 

次の夏はないかもしれない。

そう思いつつ、慈しむ一瞬一瞬の美しさと愛おしさ。

 

その一瞬とは、遠い旅先や、懐かしい過去にあるわけではなく、

今、私が立っている場所にある。

 

あと1年かも。

その思いは決して悲しく暗いものではなく、日々を幸せで満たしてくれる。