S blog  -えすぶろ-

-人は年をとるから走るのをやめるのではない、走るのをやめるから年をとるのだ- 『BORN TO RUN』より
走りながら考える ランニング・読書のブログ

NEW !
テーマ:

 

経済成長という呪い 経済成長という呪い
2,160円
Amazon

「サピエンス全史」を読み、意外と現代に関する論考部分が面白かったので、この本を読んでみました。

著者のコーエンはフランス人経済学者なだけに、同じフランスのレヴィ=ストロース、バタイユといった懐かしい人達の学説の引用などもしつつ、第一章ではヒト700万年の歴史について語られています。

特にバタイユの「過剰-蕩尽理論」にかなり影響を受けているようです。

「地球上の暮らしの歴史は、おもに途方もない豊かさの結果だ。お金がますますかかる生活様式の生産、つまり贅沢の発展こそが主要な出来事なのだ。」バタイユは、人間社会は過剰なエネルギーを自分たちの意のままに手に入れ、これを惜しみなく消費(=過剰-蕩尽理論の<蕩尽>です)すると論じた。

「たいていの場合、経済成長は存在せず、そこにはエネルギーの豪奢な浪費がさまざまな形態で存在するだけだ」

社会は、その社会を導く法則を理解することなく、「全ての部分でその社会の可能性の果てまで」突き進む以外の道筋をもたない。だからこそ、その社会の一部であるところの余剰、すなわち呪われた部分が浪費されるのだ。

(バタイユと言えば日本では栗本慎一郎が過剰-蕩尽理論に基づいた「パンツをはいたサル」という非常に面白い本を30年位前に出していたのを思い出し、再読してみたくもなりました。)

 

こうした人類の「呪われた部分」に基づく「経済成長という呪い」に現代の我々も社会も縛られているわけですが、コンピューター革命・デジタル革命により脱工業化した現代の社会では、技術的進歩=経済成長とならない構造になってしまっており、ここから先、社会の可能性の果てまで突き進み破滅へ至るのか?それとも避けられるのか?というテーマについての考察となります。

ここで一つの希望的な事実が提示されます。それが「人口転換という奇跡」です。

 

途上国の人口爆発は、長い間、発展の妨げだった。

この激震は、世界中で起きた「静かな奇跡」によって収まった。合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)が突如として低下したのである。

エジプト1950年7人→現在3.4人、インドネシア1950年5.5人→現在2.6人、インド1950年6人→現在3.3人。

国連の人口予測によると、世界全体の人口転換は遅くとも2050年であり、その後、地球の人口はおそらく容赦なく減少し始めるだろうという。

この人口転換という「奇跡」をどう理解すればよいのか。

経済学者たちは、経済成長の見通し改善、女性の賃金向上等が原因と語るが、

人口転換は、物質的な条件がほとんど改善されていない地域でも起きた。女性の就労に関係なく、人口転換は、都市部だけでなく農村部でも確認できる。

これよりも国連の人口学者たちの説明の方が真実を語っている。

世界中の女性は、テレビを通じて自分たちを魅了する理想像を得た。つまり、それは(テレビで観た)西洋諸国(あるいは日本)の生活様式であり、彼女たちにとって、そうした理想像は自由への渇望になった。ブラジルの連続メロドラマの影響力は、家族計画の実施を阻止した教会よりも強いことが判明したのである。人口転換が起きる原因は、精神構造の変化であり、金銭的な誘因の変化ではない。

(プラスして保健衛生の進歩による乳幼児の死亡率の低下も合計特殊出生率に好影響を与えた)

テレビが女性達に理想像=新たな価値観を与え、精神構造の変化を起こし、その結果、途上国の出生率が世界中で下がっていった。非常に面白くもあり、人間的営み全てが心が生み出す「幻想=虚構」であるという「サピエンス全史」「共同幻想論」的考え方に基づけば、とても納得のいく説でもあります。

 

そして、物質的豊かさを超える次代の価値観への精神構造の変化を起こすべき時が正に今の時代なのだと締め括られています。

かつての農村社会がカロリーに飢えていたように、現代社会は富に飢え続けている。決してたどり着けない地平線に向かって歩き続ける人のように、現代人は絶えずもっと裕福になりたいのだ。だが、いったんその裕福さを手に入れると、それが当たり前の状態になり、現代人はまたしてもそこから遠ざかろうとする。そうなるのを人間はわかっていない。

人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。こうして人間は、あくなき無限の欲望を抱くことになる・・・・・・。

そうした人間の欲望を地球の保全(環境破壊問題)と整合性をもたせるには、新たな転換が早急に必要だ。それは人口転換が成し遂げた量から質への転換と似たものだ。

現代社会が失業の解消や明るい未来を夢見るために利用する唯一の方法が、物質的な経済成長であり続ける限り、現代社会がそれを断念するとは考え難い。

われわれは競争と妬みの文化を超越しなければならない。人々の精神構造はこれまでに何度も変化したが、それは政令によってではない。個人の熱い思いと社会的な欲求が同じ目的に向かって一致すれば、人々の精神構造は変化する。われわれは、まさにそのような瞬間にあるのだ・・・・・・。

 

現代人の例え部分は、聖書に出てくる悪霊にとり憑かれ湖になだれこんで死んだ豚の群れの話を想起させるような表現だなと感じました。

金銭的・物質的豊かさを比べ合い競い合う競争と妬みの文化物質的な経済成長という「共同幻想」を変える為には、個人レベルでいかに新たな価値観、精神構造へ転換していけばいいのか・・・私はこの締め括りを読んで、もしかすると日本の若い世代がこの先鋒となるのではないかと、ちょっと期待を感じました。

 

 

 

 

 

 

先日「サピエンス全史」を読了後、吉本隆明の「共同幻想論」を30年振りに読み返してみました。

すべての書物は伝説である。定かなものは何物も記されていない。俺たちが刻々に変わって行くにつれて刻々に育って行く生き物だ。 
小林秀雄『Xへの手紙より』

この小林の言葉の通り、こんな本だったっけ?という位に心にあった印象とはまるで違っていました。何しろ30年振りですから当然と言えば当然でしょうけど・・・
「サピエンス全史」は人間が7万年前に獲得した「虚構=幻想」を創り出し、それを仲間たちと共有できるという能力によって、あらゆる人間的な文明・文化が築かれていったことを語っていますが、この「共同幻想論」は遥か50年前に出版されたその先駆となる本です(更に吉本自身、この考え方はマルクスから影響を受けています)。

「共同幻想論」の独創的で素晴らしい点は人間の幻想領域を

①自己幻想=各個人の自分自身に対する領域

②対幻想=夫婦と夫婦から派生する家族の領域

③共同幻想=国家や法等の家族を超えた集団の領域

という3つの位相から分析して論じている点です。それぞれの幻想領域が、それぞれ現実世界(慣習・制度等)と繋がっており、原始的な氏族集団(対幻想)がいかに国家(共同幻想)と呼べるものに収斂していったかの過程を、「遠野物語」「古事記」をテキストに論じられています(この3つの幻想領域という概念を使うことで、例えば精神分析のフロイトは、全てを②対幻想で説明しようとしたので③共同幻想の領域は上手く説明できなかったというような批判も行えるわけです)。

さて、今回読み返してみて、特に心に残ったのが死についての論考「他界論」でした。

この他界論で吉本は『人間にとっての死』についてこのように定義しています。

人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<浸蝕>された状態を<死>と呼ぶ

この定義の説明は以下の通りです。

<死>は生理的には、いつも個体の<死>としてしかあらわれない。

しかし、人間は知人や近親の<死>に際会して悲しんだり、じぶんの<死>を想像して怖れたり不安になったりできるように<死>は人間にとって心の問題としてあらわれる。人間の生理的な<死>が、人間にとって心の悲嘆や怖れや不安としてあらわれるとすれば、このばあい<死>は個体の心の自己体験の水準にはなく、想像され作為された心の体験の水準になければならない。そしてこのばあい創造や作為の構造は、共同幻想からやってくるのである。人間にとって<死>に特異さがあるとすれば、生理的にはいつも個体の<死>としてしかあらわれないのに、心的にはいつも関係についての幻想の<死>としてしかあらわれない点にもとめられる。

<死>の様式が文化的空間のひとつの様式となってあらわれるのはそのためである。たとえば、未開社会では人間の生理的な<死>は、自己幻想(または対幻想)が共同幻想にまったくとってかわられるような<浸蝕>を意味するために、個体の<死>は共同幻想の<彼岸>へ投げ出される疎外を意味するにすぎない。近代社会では<死>は、大なり小なり自己幻想(または対幻想)自体の消滅を意味するために、共同幻想の<浸蝕>は皆無にちかいから、大なり小なり死ねば死にきりという概念が流通するようになる。

葬儀という習俗や「あの世」観の歴史的変遷や地域性についても、この説によって非常に納得ができます。

『人間にとっての死』を見事に表現したものとして思い出すのが谷川俊太郎のこの詩の一節です。

鳥は生を名づけない
鳥はただ動いているだけだ
鳥は死を名づけない
鳥は動かなくなるだけだ

谷川俊太郎 詩「鳥」より

 

「他界論」では、この後、死の類型として「遠野物語」からいくつかの異なる話が提示され更に詳しく話が進んでいきますが、その中で「姥捨て」にまつわる話を幻想論的に解説しているところが非常に面白かったです。

「昔は六十歳を超えた老人は全て村境の向こう側にある「蓮台野」といういわば現世的な他界(共同幻想の<彼岸>)に追いやる風習があり、捨てられた老人たちはいたずらに死ぬこともできず、日中は里に降りてきて農作をして自分の食べ物を得ていた。」という伝承話から、

なぜ、村落の老人は六十歳をこえると生きながら<他界>へ、いわば共同体の外へ追いやられるのだろうか?

もちろん、六十歳をすぎた老人の存在が、村落共同体の共同利害と矛盾するからである。

しかしこういう理由づけは、六十をこえた老人たちがなぜ、村落の<家>から<他界>へ追いやられたかをそのままでは説明したことにならない。個々の老人は、村落の共同体から共同幻想の<彼岸>へ生きながら追いやられたとき、かならず<家>の対幻想の共同性から追いやられたはずである。そして<家>から追いやられるには、老人の存在が<家>の共同利害と矛盾しなればならない。身体的にいえば<家>の働き手として失格していなければならない。だがこれでも、なお<姥捨>の理由をつくされないだろう。つまり老人たちは、対幻想の共同性が、現実の基礎をみつけだせなくなったとき、<他界>へ追いやられたのである。

対幻想として、村落の共同幻想にも、自己幻想にたいしても特異な位相を保ちえなくなったかどうかを意味しているのだ。いうまでもなく、対幻想として特異な位相を保ちえなくなった個体は、自己幻想の世界に馴致するか、村落の共同幻想に従属するほかに道はない。それが六十歳をこえた老人が「蓮台野」に追いやられた根源的な理由である。そして一般的には<姥捨>の風習の本質的な意味である。

村落共同体の共同幻想は、時間性を、空間の方に疎外した。それだから<他界>は、個体にとって生理的な<死>をこえて延びゆく時間性にもかかわらず、村境の向こう側の地域に<作為>的に設けられたのである。

ほんらい村落のひとびとにたいしては時間性であるべき<他界>が、村外れの土地に場所的に設定されたのは、きっと農耕民の特質によっている。土地に執着しそこに対幻想の基盤である<家>を定着させ、穀物を栽培したという生活が、かれらの時間認識を空間へとさしむけたのである。

「遠野物語」のあの短い叙述の伝承から見事な考察です。

この農耕民の土地への執着=空間性への疎外ということは、ここから更に定住生活をしていなかった「サンカ」の風葬との対比、昔の日本では「埋め墓」と「詣で墓」という「両墓制」だったが、それが時間性と空間性という二重化された<他界>の幻想によるものだったこと、古墳の副葬品が初期は時間性に関わる物、後期は空間性に関わる物が多いのも狩猟・漁撈から農耕へと変遷していった事を示すものであろうことまでもが、この後論じられていきます。

本当に刺激的で面白かったです。遥か昔に読んだ本は沢山あります。今後、他にも読み返していきたいと思いました。

 

私が持っているのはこの1982年改訂バージョンの方です。個人的には今の文庫本よりこっちのカバーの方が好きです。

 

「遠野物語」の青空文庫↓

https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html

 

 

 

 

 

テロメアは細胞が分裂する度に短くなっていき、ある長さになるとそれ以上細胞は分裂できなくなり、その細胞は死を迎える、細胞・生物の寿命を司っているとも言える染色体の端っこにある非コードDNA。テロメアに対してこんな認識しかありませんでしたが、実は「生活の仕方次第でテロメアの長さはコントロール可能」であることと老化という現象の本質についてこの本で学ぶことができました。著者はテロメア研究の第一人者でノーベル賞も受賞しているブラックバーン博士、内容も非常に面白かったです。

 

人間は早い遅いの差はあるが誰でも「健康寿命」と呼べる期間が終わり、「疾患期間」と呼ばれる老化によって体のあちこちが不調になる期間へと移行する。これもテロメアの影響。

テロメアが極端に短くなると分裂のサイクルと自己複製を停止するよう合図が送られ細胞分裂は止まり、その細胞はそれ以上新しくなれず老化していく。

老化した細胞は、細胞本来のはたらきができなくなり、ミトコンドリアも上手くはたらかなくなって細胞内でエネルギー危機が起こり、リポフスチンというゴミも溜って老化性疾患のもととなる。

更に老化した細胞は、周囲の細胞へ危険を伝える物質(サイトカイン)を放出するが、これには炎症を誘発する物質も含まれる為、体中の各所で炎症が発生し、更に各細胞の老化が進む、といった悪循環が起こる。これが疾患期間の体内の状態であり「老化」という現象。

テロメアは分裂の度に短くなっていくが、テロメラーゼという酵素がテロメアを再生させるはたらきをし、短くなったテロメアを長くすることもできる。

テロメアの長短は日々の生活の仕方で変わる。

×短くするもの・こと

精神的・肉体的な過度なストレス、悩みや不安・ストレスを脅威と受け止めるネガティブ思考、喫煙・過度な飲酒、砂糖・ぶどう糖果糖液糖・白米・パン等の精製糖質の摂取、加工食品・ファストフード全般、質の悪い睡眠・短い睡眠時間、人間関係の希薄・孤独

○長くするもの・こと

有酸素運動やHIIT等のスポーツ、くよくよしない・明るい・ストレスをチャンスと受け止めるポジティブ思考、オメガ3・野菜や果物等抗酸化力の高い食品・加工されていない食品、良質な睡眠・適度な睡眠時間、親密な人間関係

 

テロメアに良い事は、ストレスを避けること・体を酸化させないことが含まれているので、以前読んで書評を書いたこの本の内容とも同様なことが多かったです。

「すべての疲労は脳が原因」感想 -疲労は脳の酸化ストレス-

 

更に、もし親(特に母親)の卵子の染色体のテロメアが短いと、短い状態のテロメアが子供に受け継がれる可能性が高い、また、胎児になってからも母親の食生活・ストレスから胎児のテロメアは影響を受けているということも書かれていました。

テロメアが喜ぶ「細胞から若返る健康長寿のための最強プログラム」を学べて本当に良かったです。さほど難しい取り組みは特に無く、むしろ考え方・食事・運動と、今やれていることの方が多いので、できれば死ぬ寸前まで疾患期間に入ることなく健康寿命のままずっとランニングを続けられるように、日々この本で学んだことを心がけていきたいと思いました。


テーマ:

 

「自分の小さな「箱」から脱出する方法」

あらゆる人間関係の本質的な改善は、自分が「箱」の中から「箱」の外に出ること。このシンプルでありながら核心をついた真理を知り、生活に採り入れることで、家庭や職場等の人間関係のトラブルが解消できるということが分かる本であり、自分自身を変えることを強く促してくれる名著です。一人でも多くの方に読んでもらいたい本です。

人間関係の問題を解く鍵は、相手ではなく実は自分に原因があるのだということを理解し、自分自身の見方・受け止め方を変えることです。

自己欺瞞という「箱」に入ったままの自分がどれ程周囲に悪影響を与えているのか、「箱」から出た時にどれ程周囲を幸せにできるのか、ということの喩えとしてこの本に出てくるのが、19世紀の医師ゼンメルヴァイスの実話です。

ゼンメルヴァイスを自分に、患者達を家族や職場・学校で関わる人達等に置き換えてみると、非常に身につまされる寓話となります。

 

1800年代半ば、ウィーン総合病院で産科医を勤めていたゼンメルヴァイスは、産科病棟の患者の死亡率が異常に高かったので、その真相を突き止めようととしていた。特にゼンメルヴァイス自身が勤務していた第一病棟は死亡率10%、つまり出産を控えた妊婦の10人に1人が死んでいた!

死亡患者の一連の症状は「産褥熱」と名付けられ、様々な対症療法が行われていたが、まるで効果はあがらず、産褥熱に罹った妊婦は数日の内に死んでいった。

第二病棟の死亡率は2%だった。これも酷い数字だがゼンメルヴァイスの第一病棟10%に比べればましだった。彼は次第にこの問題にとりつかれていった。色々と条件を変え、原因になりそうなもの全て検討していったが答えは見つからなかった。

そんな中、ゼンメルヴァイスは4ヵ月間、他の病院で仕事をすることになりこの病院を留守にした。

4か月後、再び戻ってきたゼンメルヴァイスはあることに気付いた。自分が留守の間、第一病棟の死亡率がかなり下がっていたことに・・・

ゼンメルヴァイスはすぐに自分と代役を務めてくれた医師の仕事のやり方の違いについて調べ、その結果、死体を使った医学研究に辿り着いた。ウィーン総合病院は教育研究病院だったため、医師の多くは死体を使った研究と患者の治療の両方を行っており、ゼンメルヴァイスは明らかに代役の医師よりも多く死体研究を行っていた。

まだ「細菌」について知られていなかった時代、ゼンメルヴァイスは細菌理論の先駆けとなる産褥熱に関する理論を展開した。医師自らの手により、死体や他の患者から健康な妊婦に何らかの「粒子」が運ばれていると結論し、早速医師たちに妊婦を診る前に塩素と石灰で徹底的に手を洗わせることにした。

すると、すぐに死亡率は1%に激減・・・

ゼンメルヴァイスはこの時、

「医師である自分自身が実は患者を死に至らしめていたのだ」

という現実を突き付けられ、その後、彼はこの強い後悔の念と共に生きなければならなくなった。

「わたしのせいでどれくらいの患者が寿命を全うできずに墓に入らなければならなかったのか、まるで見当もつかない・・・」

医師として自分では最善を尽くしていたはずが、実は思ってもみない病気を運び患者を死に追いやっていた。しかし、ゼンメルヴァイスが原因を突き止め、たった一つの行動を起こしただけで、状況は劇的に改善したのだった。

ミズノウエーブエアロが気に入ってもう5年位、ずっと買い換えて履いています(もう10足以上)。エアロはかなり頻繁にバージョンアップを重ねていて、現在は16まできています。

 

エアロ四兄弟

黒エアロ15(867km走行後、引退して普段履きに)・黄赤青はエアロ16

 

3/11の古河はなももマラソン用に2018年新色の青を2月に購入しましたが、靴ひもが太く長く変わっていました。こっちの方が締めやすくていいです。黄・赤と同じ16なのにバージョンアップしていて驚きました。

バージョンアップといえば14から15になった時に、インソールが滑る感じがあり、ロング走時、普段はマメなどできない拇指球に摩擦で大きな水ぶくれができてしまいました。ミズノさんに問い合わせすると、「インソール表面素材は確かに変わっていてご迷惑をおかけしたので、代替にできそうなインソールを無料でお送りします。」とわざわざ送ってきてくれました。それがこれ↓

以後、エアロを買い替えるのと一緒にこのインソールも買っています。

残念ながら16もインソールは15のまま、できれば17では滑らないインソールに変えてもらえるといいんですが・・・

 

で、何故エアロにこだわっているのかということですが、私の足は典型的なエジプト型なのでミズノのシューズのラストが合うのですが、その中でもピッタリフィットするのがこのエアロだからです。

同じミズノでも、ライダー、スペイサー、イダテン、フュージョン辺りも買ったことがありましたが、ピッタリという感じではありませんでした。

ミズノ以外では、ギリシャ型ラストのアディゼロも2度程浮気して買いましたが、2度ともマラソンのレースで履いて親指の爪が死にました・・・浮気した罰(笑)

やはり長い距離・時間を走るのに一番大切なのは履き心地、クッション性・反発性等の機能面よりも、まず自分の足の形に合うかどうかが大切だと思います。

ミズノのランシューラインナップ中では、サブ4レース・トレーニング用シューズという位置づけですが、4分/km台~7分/km台まで特に問題も違和感も無く走れていて、その点でもとてもいいシューズだと思います。

今はもうエアロ以外買う気がしなくなってます。今後、ミニマム系シューズとかワラッチ等に転向することがなければ当分はエアロ一筋でしょう。

下の写真、走行距離は上から黄806km・赤527km・青154km、ヒール着地していた頃は500km位で踵部分の黒いアウトソールが削れて下のミッドソールが見える位でしたが、ミッドフット着地に矯正した現在では、靴裏がほぼ均等に減るようになり靴も長持ちするようになりました。

着地に関してはこの記事に詳しく書いてます↓

「陸王」のミッドフット着地、人間本来の走り方について

踵のアウトソールの黒い部分はX10という高耐摩耗性ラバーですがフォア側に着いていないので、むしろ踵よりもミッドフット部分の摩耗の方が大きいです(800km走っても踵の溝は確り残ってますがミッドフット部分は擦り減ってツルツル状態)。そしてフォア側の素材は結構滑りやすいので、このアウトソールがエアロの難点と言えば難点でしょうか。

大切なエアロ君たち、今後も私の足を守って下さい。

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

    ブログをはじめる

    たくさんの芸能人・有名人が
    書いているAmebaブログを
    無料で簡単にはじめることができます。

    公式トップブロガーへ応募

    多くの方にご紹介したいブログを
    執筆する方を「公式トップブロガー」
    として認定しております。

    芸能人・有名人ブログを開設

    Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
    ご希望される著名人の方/事務所様を
    随時募集しております。