京都の豊臣秀吉ゆかりの地
先日、[京都の織田信長ゆかりの地] を特集しましたが、
今回は映画「プリンセストヨトミ」も公開されたことですし(笑)、
その第二弾、「京都の豊臣秀吉ゆかりの地」を見ていきたいと思います。
天下布武した織田信長が本能寺の変で死去した後、
その後をちゃっかり引き継いで天下一統したのが豊臣(羽柴)秀吉です。
この豊臣秀吉、京都とのゆかりも強く、
一つの記事でそのディテイルまで紹介することはできません。
ここでは、そのメインストリームな部分を中心にとりあげてみたいと思います。
まずは、下の豊臣秀吉の年表を見てください。
本能寺の変以降、
豊臣秀吉は京都・大阪・伏見の3つの地を本拠としましたが、
この年表では、秀吉がこれら3つの地に滞在した期間を
赤い線で示しました。
年表を見ると、本能寺の変以降の豊臣秀吉の人生は
次の3つのエポックに大別することができます。
(1) 大阪を本拠として、天下をとるまで快進撃を続けた飛躍期
(2) 京都を本拠として、天下をとってこの世の春を楽しんだ絶頂期
(3) 伏見を本拠として、陰りが見えて死を迎えるまでの苦悩期
以下、この順に豊臣秀吉と京都の関わりあいを見ていきたいと思います。
飛躍期(1582-1587)
明智光秀の謀反による本能寺の変で織田信長が死去すると、
羽柴秀吉は、備中高松城攻めを中断して近畿に戻り、
天王山での山崎の戦いで明智光秀を破りました。
清州会議で天下一統までのマスタープランとアクションプランを
恐ろしいスピードで策定した羽柴秀吉は、
まずは大徳寺総見院で織田信長の葬式をハンドリングします。
(大徳寺総見院)
その後、織田家家臣でライバルの柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ると、
大阪城を築城して本拠地とします。
そして、小牧・長久手の戦いで織田信雄を立てた徳川家康と対立するも
織田信雄と講和して徳川家康が戦う大義を奪うと、
そのすきに近畿周辺の紀伊・四国・北陸を順に平定していきます。
ついには関白に就任して、朝廷から豊臣姓を下賜されます。
(京都御所清涼殿)
京都御所に馬で入場できる関白という貴族の職に就いた豊臣秀吉は、
ブレインの千利休を伴って天皇に茶湯を献上します。
(京都御所)
この際に大阪城から京都御所に黄金の茶室を運び入れたことは、
豊臣秀吉のえげつない金満主義の現れと言えるかと思います(笑)
以上のような驚くべきスピードと実行力によって、
豊臣秀吉は朝廷をも引きこむと同時にと近畿の周辺地域を平定し、
その地位を揺るぎないものとします。
またその結果として、スピードに劣った徳川家康を屈服させて
大阪城に挨拶に来させることに成功しました。
ここで豊臣秀吉は公家の最高位の太政大臣となり、九州を平定します。
絶頂期(1987-1592)
九州を平定した豊臣秀吉は、京都に聚楽第を築いて本拠とします。
(聚楽第:パブリックドメイン)
この聚楽第は、私が住んでいる西陣にありました。
西陣が日本の政治の中心地となるのは平安京以来のことです。
残念ながら今では、聚楽第の遺構は残念ながらほとんど残っていませんが、
明らかに濠に関係すると考えられる南北方向のアップダウンが、
聚楽第があった場所の辺縁部で顕著です。
おもしろいことに、で自転車に乗っているとすごくよくわかるんですよ~(笑)
聚楽第の説明板は、京都市立正親小学校の門前にあります。
なぜかコテコテの京言葉での案内もあります(笑)
遺構としては、梅雨の井という井戸が裏道にひっそりとあります。
↓この案内板自体、結構貴重ですね(笑)
聚楽第の中には、出世稲荷神社という神社も創建されました。
この神社、今でも近くに場所を移して存在します。
(出世稲荷神社)
ちなみに、「出世」というのは最高の出世を遂げた秀吉にちなんだものです。
さて、聚楽第が完成するとまもなく天皇が行幸しました。
(聚楽第行幸 パブリックドメイン)
源氏物語にもあるように、天皇の行幸をうけるというのは、
公家にとって最高の名誉です。
豊臣秀吉は、まさに絶頂期の光源氏と同じ経験をしたと言えます。
このころ豊臣秀吉は、北野大茶会という大イベントを主催しましたが、
その遺構が北野天満宮の駐車場に残っています。
(北野天満宮)
こちらが太閤井戸と呼ばれる名水井戸で、茶会の水が汲まれたようです。
さて、長男の鶴松丸が生まれ、
関東を平定して天下一統を実現した豊臣秀吉は、
京都改造事業を始めます。
まず、とっかかりとして天正の地割という事業を始めます。
これは平安京造営のときに造られた道と道の間に新しい道を造るものです。
東の寺町通から西の大宮通まで、
間の道(御幸町通から黒門通)が造られていきました。
(御幸町通)
また、京都の市域を囲む土塁の御土居もこのときに造られました。
京都西端の北野天満宮内にある御土居は特に有名です。
(北野天満宮)
こちらは東端にある廬山寺内にある御土居です。
(廬山寺)
また、公家町・武家町・寺町・寺の内などのエリア区分も
このとき生まれました。
このように、絶頂期にあった秀吉ですが、徐々に暗い影も迫っていました。
まずは、大徳寺三門(金毛閣)の2階に自身の木像を置いて、
豊臣秀吉にその下を通らせたという罪で、千利休を自害させました。
(大徳寺三門)
千利休の首は一条戻橋でさらされたようです。
(一条戻橋)
また、長男鶴松丸の病死があり、豊臣秀吉は関白を辞任します。
そして、豊臣秀吉は朝鮮に出兵する意思を固めます。
苦悩期(1592-1598)
関白を辞任した豊臣秀吉は朝鮮出兵(文禄の役)を決断し、
自らも前線基地の肥前の名護屋城に出陣します。
当時、武将の恩賞は相手の首をいくつとったかによって決まりましたが、
朝鮮出兵では、首の代わりに耳や鼻を持ち帰りました。
それらを埋めて供養をしたのがこちらの耳塚です。
秀吉を祀る豊国神社の前にあります。
(耳塚)
そんな中、側室の浅井氏(淀殿)が二男の拾丸(秀頼)を出産します。
また、日本最大の大仏が鎮座する方広寺大仏殿が完成します。
大仏殿は現在は残っていませんが、跡地に大木が立っています。
(方広寺大仏殿跡)
このころ、豊臣秀吉は伏見の隠居屋敷に本拠を移します。
その後、天守閣を持った伏見城が造られますが、
現在建物は残っていません。
ただ、城の鬼門の守護神として
(御香宮神社)
さて、このころ秀吉は、甥で関白の羽柴秀次に対して
謀反容疑で自害するよう命令し、居城の聚楽第も破却しました。
その一方で、諸大名には豊臣秀頼に忠誠を誓約させるなど、
明らかに自分亡き後のロードマップを描いていたようです。
再び大規模な朝鮮出兵(慶長の役)が行われる中、
伏見城は伏見大地震によって倒壊し、
新たな伏見城が別の場所に建てられました。
また聚楽第が取り壊された京都には、
京都御所の南東に京都新城が造られました。
この京都新城は後に改築されて仙洞御所となったようです。
(仙洞御所)
そして、死期を感じとった秀吉が開催したといわれるのが醍醐の花見です。
醍醐寺三方院では、今でも素晴らしい桜を観ることができます。(醍醐寺三宝院)
秀頼の将来を五大老に任せた秀吉は、静かに床で亡くなります。
その死は伏せられ、遺体は東山の阿弥陀ヶ峰の頂上に埋葬されます。
豊国廟と呼ばれる秀吉の墓は、とにかく急で長い階段の先にあります。
階段を登りきるとさらにめちゃくちゃ長い階段があります(汗笑)
苦労して登った先には、このような墓があるのみです。
(豊国廟)
この墓の鎮守社として創建されたのが、豊国神社です。
(豊国神社)
秀吉のシンボルの千成瓢箪にちなんだような絵馬が吊り下げられています。
秀吉の正室、北政所(高台院、寧々)が秀吉の冥福を祈って創建したのが
高台寺です。秀吉と北政所の像が仲良く置かれています。
以上、京都の秀吉ゆかりの地を紹介してきましたが、
「秀吉が復興した」とか「秀吉が~を寄進した」とか「秀吉が唸った~」とかいう
ゆかりの地は他にも京都にたくさんあります(笑)
これらについては、また別記事で特集したいと思います。
信長・秀吉と来たので次は徳川家康の順番です。
また近く特集したいと思います。