猿ヶ辻の変の真相は?
土曜ワイドの犯人が最近全然あたらない私ではありますが(笑)、
幕末に京都御所の鬼門で起こった、犯人がよくわかっていない事件、
朔平門外の変(猿ヶ辻の変)の真相について考えてみたいと思います。
まずはこの朔平門外の変が、どういった事件かを説明します。
時は幕末の文久3年(1863年)5月20日の夜10時ころ、
尊王攘夷派と言われた公家の姉小路公知(25)が
京都御所での会議を終えて自宅へ戻る途中(↑写真参照)のことでした。
姉小路公知は、京都御所の朔平門近くの猿ヶ辻で
覆面をかぶった3名の刺客に襲われて亡くなりました。
刺客は取り逃がし、現場には刀と木靴だけが残されていました。
翌日からすぐに幕府による事件の捜査が始まりました。
現場に落ちていた刀は尊王攘夷派の長州藩と対立していた
公武合体派の薩摩藩の藩士の刀でした。
5月22日、土佐藩浪士の那須信吾という人物がいきなり姉小路邸を訪れて
刀は薩摩藩士の田中新兵衛のものと証言しました。
5月26日、三条実美などの指示により、田中新兵衛は逮捕されますが、
奉行所内で隙を見て自殺してしまいました。
この結果、真相は闇に葬られ、
公武合体派の薩摩藩士が尊王攘夷派の公家を暗殺した
という図式だけが残って、公武合体派の勢力が弱まりました。
尊王攘夷派は、この後で孝明天皇の大和行幸を画策し、
攘夷を実行しようとするのでした。
↓こちらが朔平門です。今でも夜はめちゃくちゃ真っ暗です。
当時の猿ヶ辻はこの朔平門のすぐ横にありました。
↓こちらは現在の猿ヶ辻です。
京都御所の敷地が明治以降四角形になったため
区画の東北角が猿ヶ辻と言われています。
屋根の下には鬼門を守る猿がいます。
下図を見ていただくとわかるのですが、
この当時起こっていた暗殺事件は、桜田門外の変とか坂下門外の変とか
尊王攘夷派が公武合体派を暗殺するというのが一般的でした。
ところが、この朔平門外の変の場合、
暗殺されたのは、ギンギンの尊王攘夷派の姉小路公知でした。
ここで、事件に関連する登場人物について整理します。
姉小路公知
尊王攘夷派の公家として活動していましたが、
この事件の直前に勝海舟のレクチャーを受けて
外国と交易することで国力を増してから攘夷を実行するという
大攘夷論に傾いたと言われます。
那須信吾
もともと土佐藩士だったのですが、
吉田東洋を暗殺して長州藩に逃れ、
事件の起きた時には薩摩藩邸に潜伏していたという
かなりややこしい人物です。
田中新兵衛
幕末四大人斬りの一人に数えられる尊王攘夷派の暗殺者でした。
三条実美
尊王攘夷派公家の代表的人物ですが、
姉小路公知が大攘夷論に傾いたことを知っていた可能性があります。
ここで、素直に2時間サスペンス的な視点に立つと、
次のようなストーリーが浮かんできます。
大攘夷論に傾いた姉小路公知を消すとともに
公武合体派の勢力を弱めようとした尊王攘夷派は、
尊王攘夷派の暗殺者の田中新兵衛&二人の刺客に
姉小路公知を殺害させた後で
薩摩藩士の田中新兵衛が殺害を実行したことを那須信吾に暴露させ、
薩摩藩に罪を着せて公武合体派を弱体化させた。
この場合、田中新兵衛は後に自分が幕府に売られることは
当然知らなかったはずです。
もしも田中新兵衛が自分が売られることを知ってて
このプロジェクトに臨んでいたのならば、
姉小路公知殺害時に逮捕されればいいからです。
すぐに自殺したのは、拷問が怖かったからではないでしょうか。
なお、現場の刀は、二人の刺客のどちらかが
わざと残していったものと考えられます。
バレバレの作戦とも言えますが・・・
那須信吾が薩摩藩に潜入していたのは、
田中新兵衛を売る計画が最初からあったためと思われます。
証言をするのにもっともナチュラルなシチュエーションです。
この後、那須信吾は天誅組の変に尊王攘夷派として参戦し、
戦死します。
もちろん以上は、あくまで私が考えるストーリーですが、
尊王攘夷派がこのような陰謀を実行したことに
整合的な事実が一つあります。
それはこの事件が「朔平門外の変(猿ヶ辻の変)」
と呼ばれていることです。
以下、詳しく説明したいと思います。
日本の歴史上、戦闘を伴う事件を表す言葉には
乱、変、戦い、合戦、役、出兵、征伐、外寇、戦争、事変
などがあります。
このうち、乱と変を除く言葉のおよその意味は次のとおりです。
(ときに例外も存在します)
戦い・合戦:ローカルな地域での主として武士間の戦闘行為
役・出兵:政府・権力者が遠くの反抗者を攻めに行く
征伐:政府が悪い反抗者をこらしめに行く
外寇:外敵が攻めてくる
戦争:宣戦布告ありの国際的戦闘行為
事変:宣戦布告なしの国際的戦闘行為
この場合の「政府」は天皇をトップとする日本政府のことです。
また「権力者」は将軍・執権などガバナンスをもってる人物です。
さて、「乱」と「変」の定義は残念ながら明確ではありません。
それが証拠に市販されている歴史辞典にも載ってません。
そこで、私が緒説から勘案すると、
「乱」と「変」は次のように分類できます。
(あくまで一般的にです。例外はあります。)
乱:政府(平定側)が世を乱す反抗者(被平定側)を鎮圧するもの
変:権力者(平定側)が反抗者(被平定側)を鎮圧するもの
もう少し直接的に書きますと、次のようになります。
乱:天皇が権力者を使って天皇に対する反抗者を鎮圧するもの
変:権力者が天皇の意向に関わりなく反抗者を鎮圧するもの
つまり「変」の場合には、天皇または勤皇が反抗者となりえます。
天皇が支配する世の中なのに
天皇または勤皇が世の中を乱すというのはおかしいので(ヘンなので)
「変」と呼ぶわけです。
これはもちろん、
国家元首である天皇がガバナンスを握っていなかったために
起こる事態です。
下の表は日本の歴史上の乱と変をまとめたものです。
被平定側が勤皇派と思われる場合に青字で示してあります。
表を見ると、だいたい上の分類で説明できると思われます。
乱と変(平安時代以前)
乱と変(鎌倉時代~応仁の乱)
乱と変(応仁の乱~幕末)
ここで、変についてもう少し詳しく見てみます。
下の表ではそれぞれの変について以下の項目を調べてみました。
勤皇:被平定側が勤皇であるか?
怨霊:被平定側が怨霊(生霊)として恐れられたか?
陰謀:被平定側に無実の罪を着せられたか?
暗殺:暗殺を伴うか?
各項目でYesだったら○をつけてあります(私の判断で・・・笑)。
この表を見てすぐにわかることは、
一つの定義では「変」というものを説明することはできないということです。
よく「変」と言うと「暗殺」を意味すると見る向きもありますが、
こうやって見てみると、
鎌倉時代以前の「変」はほとんど暗殺を含んでいません。
また、「怨霊」や「陰謀」というのも
鎌倉時代以前の「変」にはつきもののようでしたが、
「変」に特化されたものではなく、「乱」でも怨霊は生まれています。
この他、「政変」のことを「変」と呼ぶ向きもありますが、
表を見ると大きな政変を伴うものはそれほど多くないことがわかります。
政変と言うものは、インパクトの大きさを評価するのがとっても難しいので
なんともいえないかと思います。
さらに「クーデター」のことを「変」と呼ぶ向きもありますが、
「乱」との違いがよくわからなくなります。
そんな中、一つだけ言えることがあります。
基本的に
平定側が日本国のガバナンスを握っている場合には、
そのほとんどが被平定側=勤皇である
ということです。
この仮説を採用したとしても、
乙巳の変、長徳の変、比企能員の変、伊賀氏の変、承応の変
が不合理となりますが、反論がないわけではありません。
乙巳の変の真相はハッキリ言ってよくわかっていません。
蘇我入鹿が勤皇で中大兄皇子が権力者という説もあります。
他の4つの変は被平定側との圧倒的な力の差に
平定側が間違った用法で「変」という言葉を使い
それが慣用化してしまったという可能性があります。
・・・というわけで、話はかなり横にそれ、確固たる証拠はないまでも、
朔平門外の変の真犯人は、朔平門外の変が「変」であるという事実から
尊王攘夷派であったと考えるのがやや合理的なのではと思う次第です。
答え合わせできないのが残念です(笑)。