ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのブログへようこそお出で下さいました。
今をときめく乗り物、はたまた、こよなく懐かしい乗り物の紀行文や情報が『高速バス風土記』『鉄路遙かなり』などにございます。
さあ、御一緒に紙上旅行に出かけましょう!


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平成26年6月の週末の朝、池袋から夜通し走り続けた夜行高速バス「ホワイトビーチシャトル」号を降りた僕は、人っ子1人いない白浜バスセンターの前に佇んでいる。

バスセンターと名付けられていても、ベンチが置かれた待合スペースが設けられているだけで、発券窓口は見当たらない。
静まり返ったビルの窓にはテナントらしき看板が掲げられているが、使われているのか空きビルなのかも定かではない。
地方にはこのような建物が増えたな、と思う。


これから熊野古道を通って、熊野本宮大社から新宮まで足を伸ばすつもりである。

熊野古道とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社から成る熊野三山へ通じる参道の総称で、以下の5つの道を指す。

紀伊路(渡辺津-田辺)
小辺路(高野山-熊野三山)
中辺路(田辺-熊野三山)
大辺路(田辺-串本-熊野三山)
伊勢路(伊勢神宮-熊野三山)

熊野三山は、皇室から貴族、庶民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集めていた。

特に熊野と縁が深かったのは平家で、「平家物語」巻1に平清盛の熊野詣の様子が語られている。
平家の本拠地であった伊勢国安濃の津から船を使って熊野へ参詣した折りに、大きな鱸が船の中に飛び込んできたため、先達を務める修験者が、

「これは、権現の御利生なり。いそぎ参るべし」

と勧め、清盛も、

「昔周の武王の船にこそ、白魚は、躍り入りたりけるなれ。これ吉事なり」

と、自ら調理して一族郎党に食べさせたことが、平家の繁栄に繋がったという。


歴史上の事件の舞台として熊野が登場した代表例は、何と言っても平治の乱であろう。
平治元年に平清盛が長男の重盛等を伴って熊野詣に出かけた隙を見計らって源義朝が挙兵、後白河上皇を幽閉し、内裏を制圧して二条天皇を監視下に置いたクーデターで、切目王子まで来ていた平清盛は、急報を聞くなり京に引き返したのである。

切目王子とは、熊野古道の起点であった淀川河口の渡辺津から熊野三山までに設けられた「九十九王子」の1つで、王子とは、貴人の熊野詣の先達を務めた熊野修験が組織した一群の神社を指す。
王子の名は、修行者を守護する神仏が童子の姿をしているという修験道の思想に基づいている。
切目王子神社は御坊の南に現存し、JR紀勢本線にも切目駅がある。

清盛と重盛は王子社の梛の枝を護符として鎧の袖に挿し、京に着くや否や二条天皇を救出、 義朝追討の宣旨を奉じて源氏方を打ち倒す。
このあたりの物語は、天正10年6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀に討ち取られた際に、備中高松城を攻めていた豊臣秀吉がすぐさま毛利輝元と和睦して京に軍を返し、山崎の戦いで光秀を破った「中国大返し」に匹敵する、躍動感溢れたエピソードだと思う。


筒井康隆氏に「ヤマザキ」という短編小説がある。
本能寺の変を知った豊臣秀吉が主人公で、信長死すの報が敵方に届かないよう刺客を四方に放って密使を一網打尽にしたり、毛利方と早期に講和するための計略などが前半部分を占める。
筒井氏には珍しい普通の歴史小説なのかと読み進めていくと、

『秀吉は苦笑した。

「だからどうしろというのだ」
「御出発に先立ち、せめて、御上洛の道筋にあたる高槻の高山重友、茨木の中川清秀らが光秀方に走らぬよう、書状でもって押さえておかれましてはいかがかと」
「手紙を書くまでもあるまい。電話をかけよう」

秀吉は机の上の受話器を取り上げた。

「茨木城の中川につないでくれ」

ほどなく中川清秀が出た。

「もしもし」
「中川殿か。羽柴だが」』

と、いきなり奇想天外な展開になり、読み手は仰け反ってしまうのだ。
筒井節はこれだけでは終わらない。

『「ところで彦右衛門」

受話器を置きながら、秀吉は言った。

「新幹線は、もう岡山まで来ているか」

彦右衛門が困った顔でもじもじしていると、黒田官兵衛が横から言った。

「はっ、先頃より通じております」
「では岡山駅まで行って、京都までの切符を全て買い占めてまいれ」
「されば」

官兵衛はなぜか浮き浮きと膝を進めた。

「岡山発は全てひかり号にございますれば、ひかり号の座席券を買い占めて参りましょう。されどひかり号の座席券は全て前売りでござれば、当日券はもはや残り少ない筈、3万枚の切符を買うともなりましたら、本日、明日、もしかしたら明後日の分まで買わねばならぬやもしれませぬが」
「分乗になるわけだな。もちろんそれは、仕方あるまい。早く購入して参れ。そして宇喜多忠家、羽柴秀勝の2隊を先発隊として今日の新幹線に乗せてやれ」
「ははっ、心得ました」

官兵衛は急いで持宝院を出て行った。

「で、殿はどうなされます」

と彦右衛門が訊ねた。

「われわれは明日のに乗ろう。ははははは。また、そのような顔を。(中略)そんなにいらいらするのなら、近所の運送屋を全部呼んで、兵糧や武器をトラックで運ばせる手配でもすればどうか」』

墨俣の一夜城などスピーディな戦運びで天下をモノにした秀吉と、近代輸送手段の組み合わせは、これ以上はない秀逸なアイデアである。
史実の中国大返しは暴風雨を突いて決行され、「ヤマザキ」でも集中豪雨で新幹線が止まってしまうなどの紆余曲折があるのだが、物語の結末である山崎の合戦の場面は、ドタバタSFの名手である筆者の真骨頂であった。

『「あっ。と、殿。し、しばらくお待ちを」

それまでもじもじしていた彦右衛門が、慌てて秀吉に呼びかけた。

「ん。なんじゃ」

秀吉がまた彦右衛門を振り返った。

「あ、あのう」

彦右衛門は困り切った顔つきで言葉を濁した。

「ふん」

秀吉は彦右衛門を見つめながらゆっくりと言った。

「そちはきっと、この『説明』を求めておるのであろう。どうじゃ。そうに違いなかろう」

秀吉は歯をむき出してにやりと笑った。

「だが、よく聞け、あいにく『説明』はないのじゃ。うむ」

彼はうなずいた。

「説明は何もないのじゃ」

ぴしり、と、ひと鞭あて、大声で喚きながら秀吉は、闘いの煙の中へ駆けこんでいってその姿を消した』

切目王子から京に向かう平清盛を、紀勢本線の特急「くろしお」に乗せてみたかったと思う。
白浜と京都を直行する高速バスもあるから、合わせて活用できるかもしれない。

室町時代以降は、庶民による熊野詣が盛んになり、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの参拝者数となって、熊野古道も広域道路として整備された。


熊野古道の中辺路を走る路線バスは、田辺駅から本宮大社を経て道の駅奥熊野や発心門王子を結ぶ龍神バスが5本、田辺駅と栗栖川を結ぶ明光バスが6本運行されている。
平成21年に、明光バスが南紀白浜空港-白浜駅-本宮大社-新宮駅-紀伊勝浦駅を結ぶ「熊野古道スーパーエクスプレス」号の運行を開始し、僕はこれに乗るつもりだった。
ところが、この旅の2ヶ月前に「熊野古道スーパーエクスプレス」号は快速「熊野古道」号に生まれ変わり、新宮と紀伊勝浦の間は廃止されてしまった。

快速「熊野古道」号は1日2往復が運転されている。
「ホワイトビーチシャトル」号が少しばかり早着したので、白浜バスセンターを7時34分に発車する快速「熊野古道」1号に間に合うかもしれない、と淡い期待を抱きながらしばらく待ってみたのだが、あっけらかんとした街路にバスが現れることはなかった。

近くに喫茶店を見つけて軽食とコーヒーで時間を潰し、気を取り直して9時41分発の快速「熊野古道」3号を待つ。


定刻に現れた紫色のハイデッカータイプのバスが扉を開けると、大きなトランクを引きずった若い女性の2人連れが近づき、運転手さんに向かって何やら激しい口調で喚き始めた。
どうやら中国語らしく、機関銃のような早口で、持参のフリー切符では乗れないのかと交渉しているようだが、運転手さんは、

「この切符では乗れません。別に運賃を払って下さい」

と、日本語一点張りで応じている。
異国語の押し問答が咬み合っているのか心配だったが、間もなく2人は諦めたようにバスを離れ、運転手さんは苦笑いしながら、どうぞお乗り下さい、と僕を手招きした。

「ホワイトビーチシャトル」号で来た道を引き返し、白浜と田辺の間を遮る丘の切り通しで、和歌山発白浜行き高速バスとすれ違った。
和歌山県の県都と第2の都市田辺を結ぶ、平成19年に開業した都市間路線であるが、車内に客の姿は見えなかった。
田辺で全員降ろしてしまったのかと、この時は思ったのだが、2年後の平成28年3月に廃止される運命だったとは、知る由もない。


田辺駅前に9時57分に到着したバスは10時02分に発車する。
「ホワイトビーチシャトル」号で通過した3時間前にはひっそりとしていた駅前が、軽装の観光客で賑わい、快速「熊野古道」号にも十数人の客が乗り込んできた。
さすが、「口熊野」と表された熊野詣の入口だけのことはある。

ここからは、礫坂、鶴ヶ丘、工業高校前、橋谷、新庄駅前、名喜里、田鶴口、技術専門校前、南紀の台下、峠、鳶野、朝来、生馬口、熊野高校前などと小まめに停留所の案内が流れ、快速を名乗りながらも、一般路線バスと同じく生活路線として機能しているようだった。
こんなところをバスが通っていいのか、と思うような田圃の畦道や、国道から外れた脇道に入り込むのは、通学の便を図るために学校の近くに立ち寄るからであろうか。

江戸時代までは伊勢詣と並んで隆盛を極めていた熊野詣であるが、明治39年に公布された「神社合祀令」により周辺の神社は激減し、熊野詣の風習も廃れてしまう。
平成12年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されたことで注目を浴びるようになったが、熊野古道そのものは、明治以降も生活道路として使用され続けていたという。

だから、快速「熊野古道」号が生活路線として使われていても文句を言う筋合いは全くないのであるが、週末のためか、車内に地元客らしい姿は見当たらず、地図を広げて散策ルートを検討しながら談笑する観光客ばかりだった。

「○○に行くにはどこで降りたらええの?」

などと運転手さんに聞く客もいる。

「ああ、そこやったら滝尻やね。11時頃に着きますわ」

と即座に答えが返されるやりとりを聞けば、快速「熊野古道」号の運転手さんは、現代の熊野詣の先達なのだと思う。


「熊野古道スーパーエクスプレス」号は、白浜空港と本宮大社を1時間20分で結んでいた。
快速「熊野古道」号は2時間以上をかけている。
早いばかりが能ではなく、熊野古道の車窓をじっくりと楽しむならば、これくらいの所要時間の方が適当ではないだろうか。

田辺駅を出たバスは、後戻りをするように国道42号線を南下して、朝来駅前を過ぎてから国道311号線に左折する。
ここからが中辺路で、しばらくは富田川の広い河川敷に沿った平地を走りながら、杉林に覆われた山々が両側から押し寄せてきて、いつしか空が狭く感じるようになる。
木々の緑が清らかな川面に映え、岸辺の白砂との対比は、心が洗われるようだった。

紀伊山地の懐に分け入るのは、24年前に、大和八木駅と新宮駅を結んで日本一長距離を走る路線バス「八木-新宮特急バス」に乗って以来のことである(最長距離バスの系譜 奈良交通「八木新宮特急バス」)。
すれ違いに苦労するような狭隘区間が多かった十津川街道・国道168号線に比べれば、熊野街道・国道311号線は遥かに走りやすく、往復2車線がきちんと確保されている。


10時50分に「清姫」停留所を通過する。
「道成寺」のヒロインである清姫は、今の田辺市中辺路町真砂の出身と言われている。
富田川のほとりの段丘の上に茅葺き屋根の「清姫茶屋」があり、近くに清姫の墓と伝わる石塔が建っている。

この里に伝わる物語は、能や歌舞伎の「道成寺」と少しばかり趣が異なっている。

真砂に住む庄司清次は、黒い大蛇に呑まれようとしている白蛇を見かけて助けたことがあった。
しばらくして熊野詣の女が清次の館に宿泊するが、この女は白蛇の化身で、男やもめだった清次は女と結ばれて清姫が生まれる。
毎年熊野詣に訪れては清次の館に宿を取っていた美形の僧の安珍は、清姫が駄々をこね、家の女たちが困っているのを見かねて、

「良い子になったら、私のお嫁さんにしてあげるよ」

とあやしたことがあった。
その言葉を清姫は本気に受け止め、自分は将来、安珍の妻になるのだと思い定める。

美しく成長した清姫が13歳を迎えた年に、安珍は例年のように清次の館に泊まったが、その夜、障子に映った蛇身の清姫の姿を見てしまう。
清姫も蛇の化身であったのだ。
正体を見られたことを知らぬ清姫は、安珍に早く夫婦になりたいとせがむが、怖れをなした安珍は「熊野参詣を果たした後に夫婦になろう」と偽って熊野に発ち、帰路の途中で別の道に逸れ、潮見峠を越えて田辺に下ってしまう。
安珍の帰りを待ちわびていた清姫が、熊野帰りの旅人に尋ねてみると、その僧ならば自分より先に下向したとの答えが返ってきた。
清姫は、騙されたのかと悔しがり、潮見峠へ駆け上がって杉の大木によじ登ると、街道を急ぐ安珍の姿を見つける。
清姫が口惜しさのあまり身を捩ると、登っていた杉の木の枝や幹までが捩れてしまう。
絶望した清姫は里に引き返し、富田川の淵に身を投げた。
その怨念が大蛇と化して、道成寺の鐘に隠れた安珍を焼き殺すことになる。


清姫と安珍には幼き頃からの因縁があった訳で、これならば、安珍の立場でも理不尽さが少し薄れるような気がする。
清姫が蛇の化身であったことも、出生のことを考えれば彼女の罪ではなく、それを恐ろしく感じた安珍の行動も無理はないというもので、これは紛れもなく悲恋の物語だと思う。
清姫が登った杉は「捻木」と呼ばれ、「中辺路」の枝道である捻木峠に今もなお青々と葉を茂らせているという。
欺かれたことを知った清姫が、安珍を追いかけもせず、大蛇にもならず、安珍を焼き殺しもせずに、世を儚んで富田川に身を投げたという、清姫の里ならではの結末も伝えられている。

熊野信仰で訪れる多くの善男善女や、南紀に生きる人々の様々な人生を、紀伊の山谷や熊野古道は見つめ続けて来たのだと思うと、心が粛然とする。


快速「熊野古道」号が行く国道311号線は、もちろん、熊野古道そのものではない。
沿道には、未舗装の細い横道に「熊野古道」と矢印が描かれた標識があちこちに立てられている。
大抵の場合、熊野古道は国道よりも川から離れた山側に並行していることが多いようだったが、時には富田川の対岸になっている箇所もある。
紀伊半島の大部分を折り重なる山々と険しい谷が占めているため、交通路として使える地形は限られ、熊野古道の中には、現代の国道や街路と重複して吸収されてしまった区間が少なくないという。
快速「熊野古道」号も、一部で熊野古道を通ったのかもしれない。

清姫茶屋の手前、10時36分に通過した稲葉根王子停留所で、初めて「王子」の地名が現れる。
稲葉根は参詣者が初めて富田川に出会う所で、稲葉根王子から滝尻王子までは幾度となく川を渡らなければならなかった。
現代の国道311号線は、崖が川辺に迫れば容赦なく山肌を削り、トンネルを穿って、富田川を渡ることなく建設されているから、古人から見れば関係ない、と言われそうな道行きである。

それでも、自然の厳しさを目の当たりにするような場面もあった。
富田川の河川敷が広がったかと思うと、いきなり片側交互通行の規制で渋滞になり、その向こうで数台の重機が作業をしている。
ここは、平成23年の紀伊半島大水害で大きな被害を出した現場で、山が崩壊して流出した土砂が国道を埋め尽くしたため、対岸まで仮橋を架けて迂回しなければならない。
大きく車体を揺さぶりながら、バスがのろのろと武骨な仮橋を渡り始めると、白い地肌が露わになった生々しい土砂崩れの爪痕が車窓に広がり、思わず息を呑む。


川を2度渡って元の岸に戻れば、滝尻の停留所である。
滝尻は富田川と石船川が合流する地点にあり、2つの急流がぶつかり合って滝のように音高く流れたことが地名の由来である。
滝尻王子は熊野の神域への入口として重んじられ、参詣者たちは、観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる富田川と、薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の流れに身を浸して垢離の儀礼を行ったという。

復旧工事の遮蔽幕が張り巡らされてダンプカーが砂埃を巻き上げて行き交い、史跡としての情緒を感じるどころではないけれど、左右から迫る山塊が正面に立ち塞がり、僅かな隙間を川の奔流が占めている。
いよいよ熊野の神域か、と心を新たにした古の旅人は、ここから先をどのように進んだのだろうかと心配になるような地形だが、国道はさっさと長さ591mの滝尻トンネルに入ってしまう。


ひと山越えれば、久しぶりにまとまった町並みが現れて、ほっとひと息つくことができる。
ここは中辺路の中心を成す栗栖川の集落で、かつては国鉄バス熊野線の終点でもあった。

戦後間もない昭和22年に、紀伊田辺と請川を結ぶ自動車路線として開設されたのが熊野線の始まりで、昭和25年に請川から川湯温泉などに向かう区間が延長された。
最盛期には田辺から熊野本宮を経由して新宮に至る路線網が形成されていたが、分割民営化後の平成14年に栗栖川以遠が廃止、田辺から栗栖川の区間も明光バスに譲渡して、JRバスは平成21年限りで撤退したのである。


しばらくは道沿いに鄙びた小集落が散在しているが、やがてバスは富田川の流域に別れを告げて山中に踏み込んでいく。
バスに乗っていればそれほど険しさは感じないが、山襞の合間を縫う緩やかなカーブが繰り返されながら、少しずつ高度が上がっていく。
このあたりは、中辺路で最もうら寂しい区間と言えるだろう。
沿道に人家は全く見当たらず、古の旅人たちは、越えても越えてもなお尽きない山々にうんざりする思いで、熊野権現の御加護をひたすら祈りながら、歩き続けたのだろうと思う。

もう、これ以上は先に進めません、と言いたくなるような山間のどん詰まりで、バスは長さ1402mの逢坂トンネルに入る。
前後がかなりの急坂だったことから大坂と呼ばれ、トンネルの上には大阪本王子が置かれている。
山肌にぽっかりと口を開け、中には照明がいっさいなく、出口も見えない長大トンネルに入っていくのは、なかなか凄みがある。

トンネルを抜けてもきつい山道が続き、箸折峠を越えると、不意に、舞台の幕が開くように山並みが左右に後退するところが、近露王子である。
深山を越えてきた旅人は、日置川が開いた奇跡のような平地を目の当たりにして、さぞかし安堵したことだろう。
箸折、近露という優しげな響きの地名は、花山天皇が峠で食事をとるために箸の代わりとして萱の茎を折ったところ、滴り落ちる赤い汁に驚いて、

「これは血か露か」

と言ったことから名付けられた。


熊野古道における最古の王子に相応しく、バスは国道を外れて、道の駅「古道歩きの里ちかつゆ」や「熊野古道なかへち美術館」といった観光施設に寄るために、集落の中を行ったり来たりする。
いずれも大規模な駐車場を備え、熊野古道には似つかわしくない近代建築だが、梅雨も明けていないシーズンオフのためか、車の数は少なく、美術館も道の駅の店舗もひっそりと静まり返っている。

熊野古道に沿って走りながらも、王子そのものに接することが少ない快速「熊野古道」号の経路の中で、近露はバスが真ん前を通る数少ない王子であるが、観光施設ばかりが幅を利かせて、肝心の近露王子がどこにあるのかよくわからない。
それもそのはず、明治末年に数百m離れた近野神社に合祀廃絶され、周囲の森も切り払われて、現在では数本の巨木の株に面影を留めているだけなのだという。


僕が乗った便では、滝尻と並んで近露での降車客が多く、気づいたら車内ががらんとしていた。
箸折峠には、牛馬二頭の背にまたがった牛馬童子と、役行者の像が並んで置かれている。
その愛らしい姿が熊野古道のシンボル的な存在になっており、箸折峠と近露王子の間を歩く人が多いのだろう。

近露は、田辺と本宮のほぼ中間で、国道311号線では田辺駅から近露王子まで34km、近露から熊野本宮大社までは23kmである。


熊野古道後半の記憶は、断片的である。
居眠りでもしたのだろうか。
近露から5分ほどで通過する継桜王子の境内には、樹齢800年の杉の巨木が並んでいる。
10本近い杉が南方の熊野那智大社に向かって枝を伸ばしていることから「野中の一方杉」と呼ばれている。

山頂に小広王子跡を抱く小広峠をトンネルでくぐれば、日置川の流域と別れを告げて、いよいよ熊野川の流域に足を踏み入れる。
熊野川の支流である四村川の流れに沿って、北に湯ノ峰温泉、南に川湯温泉と隣接する渡瀬温泉街を過ぎ、それまでの古びたトンネルとは一線を画して、コンクリートの白さに真新しさを感じる大日山トンネルをくぐると、いきなり熊野川の川岸に出た。


国道311号線が168号線と三差路を成して合流する本宮交差点には、左に折れれば「五条 十津川」、右に折れれば「新宮 熊野川」、そして「熊野本宮大社1.8km」と書かれた標識が堤防に立てられている。
国道168号線を通るのは「八木-新宮特急バス」以来だが、広々とした白砂の河川敷を抱く清流をバスの窓から眺めれば、24年前の記憶が昨日のことのように脳裏に蘇る。

ところが、正午前に快速「熊野古道」号が滑り込んだ熊野本宮大社を見て、僕は、ありゃりゃ、と声を上げそうになった。
四半世紀前の本宮大社には人の気配が全くなく、近寄りがたい幽玄な雰囲気が漂っていて、「八木-新宮特急バス」を途中下車した僕はあまりの心細さに後続便を待つことが出来ずに、そそくさと参拝を済ませて30分後の新宮行き一般路線バスに乗ってしまったのである。

ところが、今の本宮大社の門前にはバス乗り場や案内所、売店などが整備され、幟が何本も翻る広場を多くの観光客が闊歩している。


ここでの停車時間は15分近くもあるから、運転手さんもエンジンを切って席を立ち、

「トイレはあちらにありますから」

と指さしながらバスを降りてしまう。

24年前に僕がバスを降りたのは別の参道だったのかもしれない、と思いながら外に出てみると、広場の奥に見覚えのある鳥居が立ち、杉木立がこんもりと境内を覆い隠している。
運転手さんの仰せの通りに用足しを済ませ、境内に向かって一礼しただけで、僕は車内に戻ることにした。

本宮大社を出ると、バスは熊野川に沿って南下する。
圧迫感を覚えるような奥深い山中を抜けてきた身としては、悠然と蛇行する大河の眺めに、心までのびやかになるようだった。
熊野本宮大社と熊野速玉大社の間の流域は、国の史跡や世界遺産の一部として指定されている。
現時点では世界遺産における唯一の「水上の参詣道」なのだという。


本宮大社から新宮までの40分ほどの車内は、僕1人の貸切状態だった。
白浜から新宮まで、JR紀勢本線の特急列車「くろしお」ならば2時間とかからないところを、快速「熊野古道」号は3時間以上を要する。
世界遺産に指定されたあまたの名所旧跡を通りながら、どこにも下車せず終点まで乗り通す僕の行為は、物好きなマニア以外の何物でもない。
そのような客のことをどう思うのだろうか、と気になっていたが、運転手さんは最後まで親切だった。

照りつける日差しと立ち並ぶ椰子の木立ちに南国情緒が溢れる新宮駅前に到着して、快速「熊野古道」号を降りようとすると、運転手さんは笑顔で、

「お疲れ様でした」

と声をかけてくれたのである。


更に物好きな旅を続けてみようと思う。

新宮から国道42号線を延々と走り、那智、勝浦、太地、串本を経て本州最南端の潮岬へ向かう熊野交通の小柄な路線バスが、駅前に停まっている。
所要1時間48分のバス旅であるが、特急列車ならば新宮から串本まで50分余り、串本駅から潮岬までバスで15分もかからないから、こちらも物好きな旅と呼ぶ所以である。

熊野交通は、その程度の時間差ならばバスを利用する客も存在するはず、と考えたのか、平成の初頭に横3列独立シートの路線バスを投入したことがあった。
当時の写真を見れば、長距離路線や観光用のバスではなく、2扉の一般車両に簡素な1人掛けの席が3列並んでいるだけで、思わず吹き出したものだった。


その頃から、いつかは、本州最南端を行くこの路線に乗ってみたいと思っていた。
乗って良かったのである。
なぜならば、路線バス「新宮-潮岬線」は、この旅の1年後の平成27年に廃止されてしまったのだから。

乗降口が開いていたので車内を覗きこんでみると、運転手や客の姿は見えない。
このバスがおそらく次の13時発なのだろうと推測して、少し逡巡した挙げ句に最後部の席に腰を下ろした。
便利で速い鉄道と並走する路線バスを選ぶ客のことを、単なるマニアととらえるのか、わざわざ自社のバスを選んでくれた奇特な上客と考えるのかは、運転手さん次第であるから、最前列の席で運転手さんと顔を突き合わせながら長時間を過ごすことには、どうしてもためらいを感じてしまう。


定刻きっかりに初老の運転手さんが乗り込んで来て、エンジンを始動させたかと思うと、慌ただしくバスを発車させた
閑散とした車内に、次の停留所を告げる無機質な録音のアナウンスが響く。

道端に生える松の木立の合間から熊野灘を眺めながら、那智山の山裾が海ぎわまで張り出す峠を越えれば、那智大社をかたどった壮麗な駅舎のJR那智駅を通過する。
「八木-新宮特急バス」から乗り継いだ新宮発の路線バスで、那智駅前から熊野那智大社や青岸渡寺がある山中に分け入り、那智の滝を眺めた思い出が懐かしい。

なだらかな弧を描く海岸に沿って南下すれば、家や店舗がぎっしりと建ち並ぶ勝浦の狭い街路に入り込み、バスはJR紀伊勝浦駅と、漁港に面した勝浦温泉に寄っていく。

24年前に那智山を下りて勝浦温泉から池袋行き夜行高速バスに乗り継ぎ、21年前には、津からの「南紀特急バス」でこの地を踏んだ。
9年前に名古屋行き高速バスに乗車したのもここだったから、バス好きが昂じて勝浦温泉を訪れるのは、「新宮-潮岬線」で4回目ということになる。
半島のように勝浦港を取り囲む狼煙山や尾畑山、その間に浮かぶ中ノ島を眺めながら、僕の人生で、この町を再び訪れる機会があるのだろうか、と思う。


勝浦から先はリアス式海岸が続き、熊野灘に突き出た二股の崎に位置するのが、太地町である。

古くから捕鯨基地として知られ、国際捕鯨委員会の規制や反捕鯨運動に揺れている町である。
平成21年に、太地町での漁業を批判的に描いたドキュメンタリー映画が公開された際には、太地町は、映画が科学的根拠に基づかず、町の歴史や誇りを傷つける不当な内容であると主張した。
反捕鯨団体の活動家による違法な妨害行為にも、太地町民は挑発に乗らず、冷静に対応することで、逆に称賛を浴びている。

駐日米大使が平成26年に捕鯨に対する反対声明を出し、米国務省の報道官も米政府の長年の見解であると追従したが、日本の官民からは多くの反論が寄せられ、

「我が国の伝統的な漁業の一つであり、法令に基づき適切に実施されている」
「鯨類は重要な水産資源で、科学的根拠に基づき持続的に利用すべきだ」
「引き続き国際的理解を得られるように努力していく」

と、日本政府が閣議決定するに至ったのである。


捕鯨擁護にせよ反捕鯨にせよ、個々の価値観を絶対視する感情的な議論が目立ち、どこまでも平行線をたどっている経緯は嘆かわしいことだと思う。
オーストラリア出身の映像ジャーナリストで和歌山大学特任のサイモン・ワーン助教による、

「本当に生命を守るとは、センセーショナルな映像を作って流すことではない。生き物に感謝して生かされていることに感謝すること。太地にはそういう文化が伝わっている」
「捕鯨は太地で連綿と受け継がれてきた技術。油を取って捨てるようなことはせず、必要数だけを捕り、全ての部位を使い無駄にしない。太地の捕鯨こそ、環境に配慮した持続可能な漁である」

というコメントこそが、他の動植物を殺生して生きていかなければならない人間の業を冷静に見つめ、様々な資源獲得競争が激化する国際社会において必要とされる見識ではないだろうか。


僕は鯨料理が大好物だった。
小中学校の給食で鯨肉がメニューに挙がる日は、ソフト麵の日と並んで誰もが楽しみにしていた。
あの鯨肉はどのように調理されていたのだろうか。
僕らより後の世代では竜田揚げやオーロラ煮が主流になっていたらしいが、灰色のサイコロ大の肉がとろりと煮込まれ、どろっとした煮汁に浸かっていた記憶があるから、甘露煮に近かったように思う。

また味わってみたいという気持ちは強いが、鯨が本当に絶滅寸前ならば我慢するのはやむを得ないと考える一方で、実態がそうではなく、科学的な根拠に基づく方法で漁獲が可能ならば、懐かしい味を賞味できない現状は理不尽と言わざるを得ない。


「新宮-潮岬線」から眺める車窓は、どこまでも海だった。
様々な造形で目を楽しませてくれる奇岩の向こうで、静かに波を湛える紺碧の熊野灘は、緑の山々に囲まれた熊野古道とは趣が異なる美しさだった。

大小40余りの岩柱が列を成してそそり立つ橋杭岩を過ぎると、バスはJR串本駅に寄ってから、潮岬に通じる砂洲を渡り始める。
砂洲と言っても幅は数百mもあって、串本の市街地に占められている。
陸繋島である岬は標高60~80mの平坦な台地で、ここにも住宅が建ち並び、バスは狭い路地を対向車とのすれ違いに苦労しながら進んでいく。


家並みが尽き、スダジイや和歌山県木のウバメガシが道路に覆い被さる樹木のトンネルを、木漏れ日を浴びながらくぐり抜けると、不意に広大な平地が目の前に開けた。

太陽の出て没るまで青岬

と山口誓子が詠んだ潮岬は、灯台や展望タワーとともに「望楼の芝」と名付けられた芝生が広がっているだけで、素っ気ない雰囲気だった。


タワーの脇にバスを止めた運転手さんが、降りようとする僕を呼び止めて、

「この芝生の向こうに本州最南端の石碑があります。タワーで最南端に来たという証明書をくれますから、寄ってみて下さい」

と熱心に案内してくれる。

柔らかな靴底の感触を楽しみながら芝生の隅まで歩を運んでみても、足元の高さ数十mに及ぶ海食崖は、草木に覆われて見ることができない。
身を乗り出して覗きこむ勇気もない。

岬の先端から伸びる、武骨な岩石がひしめき合って押しくら饅頭をしているようなクレ崎の彼方には、緩やかな球面を描く大海原が、果てしなく広がっていた。

 
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