平成15年7月の週末、まだ陽が高い上野駅を16時50分に発車した寝台特急列車「北斗星」1号は、幾つものポイントを通過しながら薄暗い構内を抜け出して、通勤電車や近郊電車が行き交う複数の線路のうちの1線を軽快に走り出した。
 


右手には住宅やビルがひしめいているが、左手は上野公園や谷中の墓地などが並ぶ台地の縁が続いていて緑が多く、ちょっとした潤いを感じる。
このあたりは昔は海岸だったのだな、と思わせる地形である。
崖に近い急傾斜の斜面に古びた家がへばり付くように建っている所もあり、勇気がある住民だと思う。
新幹線ならば、高さ十数メートルの高架であたりを睥睨しながら走る区間である。
地平の在来線で走るのは久しぶりだったから、なかなか新鮮な眺めだった。

何本もの列車が憩う尾久操車場の西側をすり抜ける新幹線や山手線、京浜東北線と別れて東側に回り込み、尾久駅を過ぎてから飛鳥山の麓で再び合流する。
赤羽駅付近の建て込んだビル街を抜ければ、荒川の鉄橋を渡って、東京とはしばしの別れである。

「御乗車の皆様、この列車は寝台特急『北斗星』1号札幌行きでございます。御乗車には乗車券の他に特急券と寝台券が必要になります……」

国鉄時代から寝台特急の車内放送ではお馴染みの「ハイケンスのセレナーデ」のメロディが鳴り、車掌の案内放送が始まる。

「この先、停車駅の到着時刻を御案内致します。次の大宮には17時15分、宇都宮に18時12分、郡山に19時35分、福島に20時10分、仙台には21時12分、一ノ関22時20分、水沢22時40分、花巻23時04分、盛岡23時30分、八戸0時52分……」



僕が初めて東北方面の寝台特急列車に乗車したのは、昭和59年のことで、583系寝台特急用電車で運行されていた青森行き「はくつる」のグリーン車で盛岡まで行ったのである。
盛岡に到着したのは早暁4時55分だった。
僅かな減光だけで一晩中明かりが灯されていた車内で、寝不足になっていた僕は、幾分ふらふらしながら、薄暗いホームに降り立った。
その盛岡を、「北斗星」1号は日付が変わる前に通過してしまうのかと思えば、感慨深いものがある。

寝台が売り切れで確保できなかったという事情もあったけれど、大学生活を始めたばかりだった当時は、小遣いをはたいてせっかく寝台特急に乗車しても、終点まで行くことは贅沢で許されないような気がしていた。
その数ヶ月前に、生まれて初めて経験した寝台特急「あさかぜ」でも、僕は終点の博多ではなく広島で下車している。

「──函館には明朝4時24分の到着です。森には5時17分、八雲5時43分、長万部6時17分、洞爺6時39分、伊達紋別6時52分……」

車掌の放送が延々と続いている。
上野から札幌まで1175.5km、途中22の駅に停車して所要16時間3分もの長旅なのだから、その行程の案内に10分や20分かかったって構わない。
次の大宮までに終わるだろうか、と少しばかり心配になったけれど。

それにしても、東京を発つ列車の中で「長万部」や「洞爺」などという地名を聞くことが出来るとは、何だか不思議な感覚である。




「──東室蘭には7時10分、登別7時25分、苫小牧7時55分、南千歳8時15分、終点札幌には8時53分の到着予定であります。列車は10両連結しております。前寄りから10号車、9号車の順で、1番後ろが1号車です……」

僕が乗っているのは編成の真ん中の5号車で、「ソロ」と呼ばれるB寝台の個室である。

僕が個室寝台を予約する時にはジンクスがあり、2階建て構造ならば階下の部屋、進行方向に直角にベッドが並んでいる場合は後ろ向きに坐る部屋があてがわれることが多い。
「北斗星」のB個室寝台は、海側に2階建て構造で横長の部屋が並んでいる。
僕が指定された部屋のベッドはやっぱり後ろ向きだったけれども、珍しいことに階上の部屋が当たったのである。



決して大きい窓ではないけれど、天井にはみ出すように上方へと湾曲しているから、東京のくすんだ空が広く見える。
視点が高く、駅を通過するときなどはホームを見下ろす形になる。
ホームの屋根が窓のすぐ上にあったりするから、思わず首をすくめたくなる。
屋根裏のような雰囲気がしないでもないし、室内では腰を屈めなければならないほど天井が低い。

客車上部の丸みを帯びた形状は、懐かしい記憶を呼び覚ます。

僕が初めて寝台車に乗車したのは、家族で長野から京都へ旅行した時に乗車した急行「ちくま」である。
昭和36年に寝台特急「あさかぜ」に投入されてブルートレインのはしりとなった20系客車が、後継の14系や24系に追われるように、夜行急行で第二の勤めを果たしつつあった昭和50年前後の話である。



20系のB寝台も進行方向に対して直角に並ぶ3段式で、僕ら家族は、1段目に母と小さかった弟が添い寝し、2段目が父、そして僕は最上段をあてがわれた。

20系客車の最上段は客車の屋根の丸みがそのまま内部にも反映した形をしていて、まさに屋根裏そのものであったが、天井は高く、通路の天井裏の空間を利用した荷物棚がついて、3段のうちでは最も広々とした空間に思えた。
実際に、20系客車のB寝台は、上・中・下段とも長さ190cm・幅52cmで統一されていたものの、高さは上段が84cm・中段が74cm・下段が76cmと差が生じている。
窓は、開閉ができる金属製の蓋がついた小さな覗き穴が1つだけである。

初体験の列車寝台に有頂天になっていた僕は、覗き窓から外を眺めたり、仰向けになって丸く曲線を描く天井を眺めながら、とても幸せな気分だった。
篠ノ井線から中央西線を経由する「ちくま」の揺れは激しく、翌朝の京都駅で父親はかなり疲れ切った表情をしていた。



この体験に味をしめた僕は、10年ほど経ってから、20系客車を使用していた東京と大阪を結ぶ寝台急行「銀河」に乗った際にも、わざわざ「みどりの窓口」でB寝台の最上段を指定した。
改札に来た車掌さんに、

「今日はすいていますから、下の段もあいていますけど?」

と怪訝な顔をされたものだった。



対照的だったのが、大学時代の友人との北海道旅行の帰路に利用した、583系寝台特急電車の「ゆうづる」である。
まだ寝台特急の需要が少なくなかった昭和60年代、年末年始の多客期でもあったから、僕らは3段式B寝台の中段と上段しか確保できなかった。

583系車両は、日中には昼行特急列車に使われる働き者だったが、昼夜兼用の客室構造にはかなりの無理があった。
昼間は背もたれが直角で、4人向かい合わせの急行列車のようなボックス席で、夜の寝台でも、下段は昼間の座席の空間が維持されてかなり天井が高い反面、そのしわ寄せで中段と下段がかなり窮屈だったのである。
車体の高さは20系客車と変わりがないはずだが、極端なことを言えば、車高の2分の1を下段が占め、残りの半分を中段と上段で分け合っているようにすら感じられたのである。

僕は東北本線の特急「はつかり」で、583系の座席仕様を利用したことがある。
本当はやってはいけないことだったらしいが、座席を寝台に組み立てるために座面が引き出されるようになっていることに気づき、同行の友人と座面を伸ばして大いにくつろいだものだった。
最終列車だったからすいていたし、通りがかった車掌もちらりと僕らを一瞥しただけで、何も言わなかった。

この時、天井に近い網棚を見上げながら、寝台仕様で狭い上段は網棚を使っていたのだろうと了解した。

実際のサイズは、

上段が高さ70cm・長さ190cm・幅68cm
中段が高さ70cm・長さ190cm・幅68cm
下段が高さ106cm・長さ190cm・幅76cm

であり、上段と中段で変わりはない。




僕は上段に潜り込んだのだが、天井の丸みが身体にピッタリとフィットした円筒のような代物で、中段より圧迫感があった。
どうにか寝返りを打つのがやっと、身体を起こすことなど至難の業だったのである。

友人は北海道旅行の最後の夜を語り合いながら過ごしたかったらしく、何回か声をかけて来たのだが、僕は、

「こんな狭い寝台では寝るしかないではないか」

と不貞寝を決め込んでいた。

後にB寝台は後に2段式が主流となり、24系寝台車の上段では高さ95cm・長さ195cm・幅70cm、下段では高さ111cm・長さ195cm・幅70cmと、上半身を起こせる高さまで改善されている。



このような経験があるから、「北斗星」の「ソロ」の占拠スペースは、まさに隔世の感がある。
ベッドの長さ195cm・幅75cmで開放型2段式B寝台と変わりがないが、奥行き195cm・幅117cm・高さ143cmの部屋を、他の客に気兼ねすることなく独り占めできるのだ。

ちなみに、上野と秋田・青森を結ぶ寝台特急「あけぼの」のB寝台個室は、

部屋の長さ:195cm
部屋の幅:1階は98cm・2階は100cm
部屋の高さ:1階は135cm・2階は145cm
ベッドの長さ:190cm・幅70cm

東京と高松・出雲市を結ぶ寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」のB寝台個室は、

部屋の長さ:195cm
幅:1階は87cm・2階は95cm
高さ:1階は183cm・2階は185cm
ベッドの長さ:195cm・幅70cm

となっている。

こうして数字で表してみると、どの列車もそれほどの違いはないように思えるが、「あけぼの」と「サンライズ」は客車の両側に進行方向と平行して部屋が並んでいるためか、「北斗星」の方が部屋の幅が広く、ゆったりとしているように感じられた。





「北斗星」のB個室のベッドには、壁に収納できる肘掛けが付いている。
深々と腰を下ろして窓に目を向ければ、たとえ進行方向に対して後ろ向きであっても、心が落ち着く。

「あけぼの」と「サンライズ」では、床に足を降ろして座ると、通勤電車のロングシートのように窓に背を向けた姿勢になってしまうから、代わりに、足をベッドの上に投げ出して、前後の壁に寄りかかるためのクッションが置かれているという案配になっていた。

「ロイヤル」と呼ばれる豪華なA個室寝台を連結している「北斗星」では、「ソロ」などはそれほど高級な部類に入らないのかも知れないが、それでもB寝台の歴史では空前の広い空間を占有して札幌までの16時間をゆったりとくつろげるのだから、心が踊る。
今度の旅はツイているぞ、と思う。
これで進行方向に座れるベッドでも当たった日には、僕は運を使い果たしたように感じて、逆に前途が心配になったことであろう。

暮れなずむ街の夕景が、いつしか黒々と塗り潰されて、点在する灯だけに変わっていた。
「北斗星」は軽快なリズムを奏でながら、北へとひた走る。
時折、ピョー、と甲高く物哀しいEF81型機関車の汽笛が、かすかに空気を震わせる。

全区間の表定速度が時速73kmとは、寝台特急として遅いのか速いのか僕にはわからないけれど、そのようなことは瑣末なことである。
夜の闇を切り裂いて走る列車の勇姿を想像するだけで、旅心が湧き上がってくる。

寝台に腰を掛け、茫然と外を眺めているだけで、何もすることがないという状態は、実にいい。
肘掛けを畳んでごろんと横になって寝転ぶも良し、本を読むも良し。
駅で買い込んだビールをチビチビと飲みながら夜景に目をやれば、時々、窓を明るく照らし出して、通過駅のホームが光の余韻を残しながら過ぎ去っていく。



「北斗星」に乗るのは3度目であった。

1回目は、青函トンネルをくぐりたいばかりに、開業したばかりの「北斗星」の開放型B寝台と東北新幹線の指定席が利用できる、東京都区内-函館間の「新幹線指定席往復割引切符」を握りしめて、2段式B寝台に乗り込んだのだ。

初体験はやっぱり途中駅までだったのか、と、今にして思えば苦笑いが湧いてくる。

向かいのベッドに座ったおっさんが、

「ええか、兄ちゃん、いい事を教えたる」

と、手にしていた競艇新聞を僕に見せながら、延々競艇制覇術の講義を数時間も受ける羽目になったのが、懐かしい思い出である。




函館からは、津軽海峡線の快速「海峡」で折り返した。
函館駅で「ゾーン539」切符を購入して、竜飛海底駅を見学したのである。

昭和63年に開通した青函トンネルには、 列車火災などの非常時に列車を停止させ、消火作業や乗客を避難させる目的で、青森県側の竜飛海底駅と北海道側の吉岡海底駅の2つの海底駅が設けられている。
津軽海峡線の営業運転開始当初から、「海峡」を停車させて、この巨大なトンネル駅を見学するツアーが組まれていた。
「ゾーン539」という名称は、トンネルの長さ53.9kmから付けられたという。
「ゾーン539」切符を購入した見学客は指定された客車に乗せられ、海底駅では、先行の「海峡」で見学を終えた客が、入れ替わりに乗り込んできた。

列車の通る本坑のだけでも圧倒されるのに、作業抗や先進導坑も掘削されており、災害時には地上への避難通路として使われることになっている。
白く塗られたコンクリートを薄く伝う海水に手を当てて、そのひんやりとした感触を感じながら、どえらいモノを造り上げたものだ、という驚嘆が心から離れることがない1時間であった。



2回目は、大学時代のバイト先で知り合った高校生の友人と一緒の北海道旅行の往路で、1回目と同じく開放型B寝台であったが、この時に初めて札幌まで乗り通した。

この時は、「北斗星」の発車時刻に仕事の都合で間に合わない可能性が高かったため、東北新幹線で出発して盛岡あたりで追いつく予定を立てていた。
しかし、仕事を早めに切り上げることが出来て、新幹線の特急券を上野駅で払い戻し、「北斗星」に乗り込んだのである。

楽しいお喋りだけで時間が過ぎ去っていったが、翌朝札幌駅に降り立った時には、乗り換えなしで札幌まで来ることが出来た、という感激が心に湧き上がってきた。



21時過ぎに着く仙台の手前で、ふと思い立って、僕は個室を出た。
予約制の豪勢なディナーを出すことで有名になった食堂車「グランシャリオ」が、ディナータイムを終えて、予約不要のパブタイムになる頃合いである。

食堂車は隣りの6号車だから大変便利であるが、入口の連結部分には数人の客が開店を待っていた。

薄暗く調光された食堂車の車内は、ホテルの高級レストランに引けをとらない重厚な雰囲気を醸し出しているが、両側の窓の景色が動いているから、ここは紛れもなく列車の中である。

小学生の頃に上野と金沢を結ぶ特急「白山」で利用して以来の、僕はかろうじて列車食堂を知る世代であるが、食堂車とはもっと無遠慮な照明に明々と照らし出されて喧噪に満ち、元気の良いウェイトレスが通路をきびきびと動き回る、町の洋食屋さんに似たイメージを抱いていた。

「グランシャリオ」で、分厚いテーブルクロスがかけられたテーブルに何となく場違いな気分で坐り、正装したウェイターに、

「いらっしゃいませ」

などと一礼されると、戸惑ってしまう。

パブタイムと言っても、アルコール類だけではなく食事のメニューも揃っていて、僕はハンバーグのセットを注文した。



食堂車が登場する映画はたくさんあるが、記憶に残っているのは、「オリエント急行殺人事件」の一場面で、エルキュール・ポワロが同席した鉄道会社の重役に、

「メニューを土産に持って帰りたいですな」

と絶賛している場面や、ジーン・ワイルダー主演の「大陸横断超特急」で、主人公が行きずりの女性と相席になり、

「どうして列車にしたの?」

と聞かれて、

「退屈したいから」

と答える場面、そしてアルフレッド・ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」に出てくる食堂車の場面で、ヒロインが、

「I never discuss love on an empty stomach」

と話す場面であろうか。

この台詞はもともと、

「I never make love on an empty stomach」

であったらしいのだが、倫理上の問題から差し替えられたという愉快なエピソードが伝えられている。



「オリエント急行殺人事件」では、別のテーブルに乗り合わせた侯爵夫人が、

「カレイでもいただこうかしら。新しいポテトを1つに、ドレッシングをかけないサラダを添えて下さらない?」

などと、飼い犬を脇に侍らせて独自に料理をアレンジしながら注文している場面を観て、外国の高級列車の食堂車とはこのようなものなのか、と目を見開いた記憶がある。



一方で、昭和29年出版の阿川弘之氏の「乗り物紳士録」では、

「古靴の底を焼いたようなビフテキを食わされた」

という、単一企業が独占していた日本の食堂車の有様を嘆いた記述がある。
僕にとっての食堂車も悪かろう高かろう、車窓を楽しめることだけが唯一の利点という、似たり寄ったりの印象だった。

内田百閒の「阿房列車」にも食堂車の場面が少なくないが、百閒先生がお酒を楽しむために訪れることが多かったから、同行者との会話や従業員の立ち居振る舞いに筆が割かれて、味に言及した記述はなかったように思う。

松本清張原作の映画「砂の器」では、丹波哲郎演じる主人公の刑事と森田健作扮する同僚の刑事が、捜査で東北に出張した帰りに急行「鳥海」の食堂車で話し込む場面がある。
注文したビールで乾杯はしているものの、2人が箸をつけるのは、食堂車に来る前に、客席で網棚の鞄から取り出した駅弁なのだ。

「そろそろ始めますか」
「待て待て。隣りは食堂車だったな。ビールでも飲もうや。俺が奢るよ」

との会話を交わしていたのだが、当時の食堂車は持ち込み可だったのだろうか。
いずれにしても、食堂車で駅弁を食べるとは、もしかしたら当時の食堂車のあり方への強力なアンチテーゼだったのかもしれない。

加藤剛が演じた、後に重要人物となる音楽家を食堂車内で見かける伏線もあったものの、2人はそのようなことを知るはずもなく、進展がなかった捜査に慨嘆した挙げ句に、

「贅沢な旅行をさせてもらったよ」

という、丹波哲郎の溜め息混じりの呟きが印象に残った。



どの映画でも、登場人物の会話を彩る格好の舞台が食堂車だった訳で、僕のような1人旅ではどうにも扱いようがないから、誰か声をかけて一緒に連れてくれば良かったかな、と人恋しくなる。
しかし、北海道に着いてからは、他人を連れ回すことが躊躇われるようなマニアックな旅程を計画していたから、そうもいかない。

それでも、黒澤明監督の「天国と地獄」でも特急「こだま」の食堂車のシーンがあったなあ、とか、自衛隊のクーデターを描いた山本薩夫監督の「皇帝のいない八月」で、寝台特急「さくら」の食堂車では山本圭と吉永小百合がどのような会話を交わしたんだっけ、などと、焼きたてのジューシーなハンバーグを平らげながら空想をめぐらせるのは、実に楽しい時間である。



この「北斗星」のひとときが、僕にとっての食堂車の乗りおさめだった。

寝台特急だけでなく、東海道・山陽新幹線や在来線特急・急行列車に連結されていた食堂車も、長距離・長時間乗車の客は航空機に移行し、廉価な駅弁やコンビニ弁当の普及で、乗客が食堂車を必要としなくなった風潮に押し流されるように消えていくことになる。

昭和60年3月に特急「雷鳥」「白山」を最後に昼行電車特急の食堂車が廃止され、昭和61年11月には、北海道のディーゼル特急「おおとり」「オホーツク」をもって、昼行特急の食堂車が全廃となる。
東京から西へ向かう寝台特急でも、平成3年6月の「みずほ」「出雲」を皮切りに、平成5年3月に全ての列車の食堂車の営業が終了した。
東海道・山陽新幹線でも、昭和50年の博多開業を機に全ての「ひかり」に食堂車が連結されていたと言うが、平成7年に0系「ひかり」の食堂車が営業を休止、平成12年に100系「ひかり」の食堂車も幕を閉じた。

唯一残されていた「北斗星」と「カシオペア」でも、青函トンネル区間での北海道新幹線試験走行が本格化するに伴って、平成27年8月に「北斗星」が、平成28年3月の北海道新幹線開業と引き替えに「カシオペア」が廃止され、食堂車も共に消えることになる。

明治32年5月に、私鉄の山陽鉄道(現・山陽本線)が、京都と三田尻(現・防府)を結ぶ列車に連結した食堂付き1等車に始まった日本の食堂車は、117年の歴史を閉じたのである。



コース・ディナーではなかったけれども、「グランシャリオ」での夕食で満ち足りた気分になった僕は、自室に戻ってベッドで身体を横たえた。

時計の針は午後10時を回り、「北斗星」は岩手県内の闇の中を速度を落とさずに進んでいる。
通過する駅の侘びしい電灯に照らし出されるホームに、人影が浮かび上がることは殆どなくなった。
窓外の灯も殆ど見えない。

日付が変わり、八戸に停車した後は、時刻表の上では函館まで停車駅はないはずだが、客扱いをしない運転停車は幾つか設けられている。

室内灯を消し忘れ、窓も開けっ放しにしたまま、いつしか眠りに落ちていた僕は、ゴトリと列車が停車するかすかな衝撃で目を覚ました。
外に目をやれば、青森駅である。

青函トンネルが出来るまではこの駅が絶対的な終着駅で、僕らは嫌でも列車を降ろされて、青函連絡船の桟橋への通路を小走りに急いだものだった。
津軽海峡の船旅は確かに情緒があったけれども、ベッドに横になったまま青森から北へ進むことが出来るとは、何という贅沢であろうか。



停車中、かすかに列車が揺れたのは、機関車の付け替えだったのか。

しばらくしてから、「北斗星」は静かに反対方向へ走り始める。
煌々と照明に照らし出されて、幾つもの線路が扇形に分岐していく構内を抜けても、列車の速度は上がらない。
ここからの津軽線は旧態依然としたローカル線のままで、さすがの「北斗星」でも、高速道路から一般道に降りた車のように、遅々とした歩みを余儀なくされる。
青函トンネルまでは起きていたいな、と思いながらも、ローカル線ののんびりした走りっぷりは、どうしても眠気を誘う。

うつらうつらと過ごしながら外ヶ浜町の中小国駅を過ぎると、乗り心地が再び一変する。
ぴたりと揺れが治まり、列車の速度がぐいぐいと上がって、コーッとスラブ軌道特有の物哀しい走行音が響き始める。
新幹線規格で新設された津軽海峡線に入ったのだ。

本州側の最後の駅、青森から40kmほど離れた津軽今別を過ぎると、長さ1337mの大川平トンネル、160mの第1今別トンネル、690mの第2今別トンネル、440mの第1浜名トンネル、280mの第2浜名トンネル、170mの第3浜名トンネル、140mの第4浜名トンネルと、7つのトンネルを続け様にくぐる。
津軽半島とは山なのだな、と思いながらも、いつ青函トンネルに入るのか、気が気でなくなる区間だ。

日中の列車ならば、

「次が青函トンネルです」

という車掌の案内放送が流れるところだが、深夜の列車内は寂として静まり返っている。



それでも、全長5万3850mの海底トンネルに進入する時は、それまでの短いトンネルとは異なる重厚な風格が感じられる。

列車は緩やかな坂を下り始め、口径の広いトンネルの入口が後方へ過ぎ去ると同時に、窓が曇る。
一定間隔で横に流れる照明が水滴に滲む。
湿気が多い海底へと続く空気の中に入ったことが感じられる瞬間である。

青函トンネルの内部は温度が一定でレールの伸縮が少ないため、継ぎ目のない1本の超ロングレールで結ばれているという。
甲高い走行音を闇の中に反射させながら、高速でひたすら走り込む寝台特急列車は揺らぎもしない。
列車を包み込んで果てしなく続く巨大な筒型の構造物を眺めていると、底なしの沼に吸い込まれていくような錯覚に襲われてしまう。
何度くぐっても、途轍もないものを作り上げたものだと思う。
北前船の伝統を引き継いで1日50本が行き来するという貨物列車が汽笛を交わしながらすれ違うと、黒々としたコンテナのシルエットが長いこと車窓を塞ぐ。

青函連絡船が歌い上げていた旅情には及びもしないけれど、僕らの国の底力を誇らしく思う北への道筋だった。

世紀の長大トンネルをくぐっているという感動も、頭の中に幕を張るような睡魔には勝てず、僕は窓の覆いを閉めて目を瞑った。
確か、午前4時になろうかという時間である。

眠りに落ちる時には、身を横たえているベッドがかすかに揺れる感触だけでも、夜行列車に乗っている幸せな気分に浸っていたのだが、目を覚ますと、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。
闇に包まれた室内で、車輪が線路を噛むかすかな響きとベッドの揺れに、自分は「北斗星」の車内にいるのだ、という実感がこみ上げてくるまでには、少しばかり時間がかかった。

窓の覆いを開けると、眩い光が怒濤のように室内に押し寄せてきて、思わず目をしばたたいた。
窓外は、一面の海だった。
列車はとっくに函館を過ぎ、進行方向を元に戻して渡島半島を北上し、長万部のあたりの波打ち際を進んでいたのである。



函館駅でDD51型ディーゼル機関車に付け替えられているはずで、速度は本州内ほど速い訳ではなく、架線も見当たらない。
鮮やかな緑色に染まった草むらと砂浜の向こうに広がる内浦湾は、ほとんど波が立たない凪であったが、空はどんよりと分厚い雲に覆われて、水平線の彼方は海と空の区別がつかない。

それにしても、何という暗い海であろうか。

東京から西へ向かう九州方面への寝台特急に乗っても、徳山のあたりで夜明けの瀬戸内海の眺望に接することが出来る。
優しい島影が朝靄の中に浮かび上がる暖かな内海の車窓は、僕がこよなく愛する寝台特急列車の1シーンだった。

寝台特急「出雲」でも、鳥取の手前の餘部鉄橋付近をはじめ、日本海が車窓いっぱいに広がる区間が続く。

「北斗星」に乗る僕を出迎えてくれたのは、西の海とは全く異なる様相の、真夏とはとても思えない寒々とした光景だった。
北国に来たな、としみじみ思う。



九州へ向かう寝台特急の車内では、食堂車が廃止された後に、徳山駅で弁当屋さんが乗り込んでくる。
「あなご飯」と「幕ノ内弁当」の2種類だけで数も限られていたから、通路を弁当屋さんが通るのを見逃さないよう、身構えて待っていたものだった。

そのことを思い出した僕は、隣りの食堂車に出かけることにした。
高級感に呑まれそうだった昨夜とは雰囲気がガラリと異なり、朝の光が差し込む食堂車は開放的な雰囲気だった。
メニューも至ってシンプルで、洋風定食と和風定食だけである。



食事を摂りながら、窓外を過ぎ去る北の大地を眺めれば、時には寝台列車に乗るようなゆとりも大切だな、と思う。

小学4年生の頃に鉄道ファンになってから、寝台特急列車は僕の憧れだった。
僕の故郷には寝台特急が通らなかったから、見果てぬ夢を追い求めているような思いで寝台特急列車のことを恋い焦がれていた。
親に連れられて友達が東京に行き、寝台特急の写真を撮って来ようものなら、仲間がみんなで群がって、羨望の眼差しで見せてもらったものだった。

僕が時刻表で最初に開くのは、決まって寝台特急が載っているページだった。
時刻表は深夜の運転停車は記載しないから、始発駅付近と終着駅付近以外は通過を示す「レ」が縦にずらりと何ページも続いたりする。
ページを次々とめくり、列車が進んでいく線区を追っているうちに、未知の土地へ旅する寝台特急の乗客になった気分に浸ったものだった。




続いて開くのは、巻末の寝台特急の編成表である。
「A」マークのA寝台、「☆」1つの3段式B寝台、「☆☆」2つの電車3段B寝台、「☆☆☆」3つの2段式B寝台。
個室寝台は「個」だった。
乗ってみたいなあ、と心底思った。

いざ旅に出かけられる年頃になると、寝台列車は高額であり、僕はいつしか廉価な夜行バスにシフトしてしまっていた。
それでも30年近くの間に、ひと通りの寝台特急列車を経験することができたのは、幸運な時代に生まれ合わせたと言うべきだろう。

それだけに、平成になってからの寝台特急の凋落ぶりには、どうしても寂しさがこみ上げてくる。
子供の頃に憧れた対象が消えていく。
それが、容赦ない時の流れ、時代の変化というものなのだろう。

東京発着の寝台特急だけでも──

東京と紀伊勝浦を結んでいた「紀伊」が昭和59年に廃止。
上野と青森を常磐線経由で結んでいた「ゆうづる」は平成5年に廃止。
上野と秋田を結んでいた「出羽」も同年に「あけぼの」に統合されて廃止。
東京と熊本・長崎を結んでいた「みずほ」は平成6年に廃止。
上野と青森を東北本線全線を走破して結んだ「はくつる」は平成14年廃止。
東京と下関・博多を結んだ「あさかぜ」は平成17年廃止。
東京と長崎・佐世保を結んだ「さくら」も同年に廃止。
東京と西鹿児島を日豊本線経由で結んだ「富士」(その後宮崎、更に大分止まりに区間短縮)と、鹿児島本線経由で西鹿児島を結んだ「はやぶさ」(その後熊本止まりに区間短縮)は平成21年廃止。
上野と金沢を結んでいた「北陸」は平成22年に廃止。
上野と秋田・青森を結んでいた「あけぼの」は、平成26年3月に廃止。

と、これだけの寝台特急列車が姿を消している。












寝台特急の乗車時間の大半は真っ暗で車窓を楽しむことなど叶わないし、客車の構造も全く変わらないから、乗ったからと言って格別変わった出来事があるわけではない。
それでも、車内での何気ないエピソードであっても、その旅を象徴する思い出として、列車が消えた後にも思い起こすことができるのは、かけがえのない人生の一幕だったからだと思っている。

†ごんたのつれづれ旅日記†



これまでに巡り会うことができた列車の愛称を思い浮かべるだけで、その夜の客車の揺れ具合や台車の軋みまでが脳裏に蘇ってくる。
僕は関西発着の寝台特急には乗る機会に殆ど恵まれなかったのだが、かろうじて乗ることが出来た宮崎発大阪・京都行き「彗星」、大阪発新潟行き「つるぎ」、函館発大阪行き「日本海」でも、夜行列車の旅情に変わりはなかった。

珍しく3度も乗ることになった「北斗星」にしても、これが乗り納めのような予感があった。



ラストスパートになっても、「北斗星」は急がない。

悠然と流れゆく車窓の向こうでは、厩舎やサイロが点在する牧場で、馬がゆったりと草を食んでいることもあれば、人の手が全く及んでいない野原が延々と続く区間もある。
それでも容赦なく時は過ぎ行き、東室蘭や苫小牧を境に千歳線に入ると、赤土の原野が切り開かれて、建物の密度が少しずつ目立つようになる。
北海道への旅は、道都として100万都市を抱えている以上、少しずつ車窓がうるさくなるのはやむを得ない。

南千歳を過ぎれば、札幌近郊の街並みが連なって一段と賑々しくなる。
「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールが鳴って、車掌が札幌での乗り換え案内を始めれば、16時間に及んだ長旅の終わりは近い。

僕の旅はまだまだ続くが、まるで旅の終わりを迎えたような寂寥感がこみ上げてくる。
もう少し乗っていたいと思う。



札幌には定刻の到着だった。

名残惜しいけれども、一夜を楽しませてくれた個室に別れを告げ、人々でごった返す札幌駅のホームに降りたった僕は、猛然とエンジン音を轟かせているディーゼル機関車の方に足を運んだ。
最後に、「北斗星」のヘッドマークを写真に収めたかったのだ。

しかし、機関車の停車位置はホームの端っこぎりぎりで、ヘッドマークを正面に捉えたり、機関車を先頭に列車の全てをアングルに入れることは難しく、以前に撮った写真があるからいいか、と諦めるしかなかった。
乗客として乗ってしまうと、列車の写真がなかなか撮れないことは、よく体験することである。

「北斗星」のヘッドマークには、大熊座の一部を成す北斗七星がかたどられている。
僕は迂闊なことに、最近まで、北斗星が北斗七星を指しているとは知らなかった。
北斗星という名の小惑星が火星と木星の間の小惑星帯に存在するが、こちらは北海道北見市の天文家が平成元年に発見したもので、逆に、寝台特急「北斗星」から命名されたという。

北斗七星の別名は七つ星である。
ならば、平成25年に登場したJR九州の豪華クルーズトレイン「ななつ星 in 九州」を思い出すではないか。

乗るだけで数十万円を要する周遊型臨時列車は、定期運転の公共交通機関である「北斗星」とは一線を画すものであり、僕には無縁の存在だと思っている。

けれども、世の中から寝台特急が消えつつある現在、「我が国初めての豪華寝台列車」と呼ばれた「北斗星」の命脈が、JR各社が競って走らせ始めたクルーズトレインに受け継がれていると考えるならば、もって瞑すべきであろう。



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