ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのブログへようこそお出で下さいました。
今をときめく乗り物、はたまた、こよなく懐かしい乗り物の紀行文や情報が『思い出のバス紀行』『鉄路遙かなり』などにございます。
さあ、御一緒に紙上旅行に出かけましょう!


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生まれた街が金沢で、育ちが信州ということもあって、新潟・富山・石川県はよく行き来したものだったが、更に西側に位置する福井県ともなると、どうしても疎遠になりがちだ。

幼少の頃、金沢を家族で訪れた時に、東尋坊を見に行こうと車で足を伸ばしたことがあったくらいで、その後に福井を訪れたのは平成元年7月のことである。
実に15年ぶりの訪問だった。
北陸自動車道が全線開通して、池袋と金沢を結ぶ高速バスが走り出したのが、昭和63年12月のことで、その初乗りを兼ねた北陸への旅立ちだった。



池袋駅東口を午前9時に出発し、延々7時間半もの車中で流れゆく風景を満喫して、午後4時過ぎに金沢に到着した。
生まれ故郷に初めて直通高速バスでやって来たと言うのに、その余韻に浸る暇もなく、北陸本線の大阪行き特急列車「雷鳥」に飛び乗り、芦原温泉駅で下車して、バスで東尋坊に向かった。

着いたのは午後6時を過ぎており、道端に並ぶ土産物屋さんは閑散として、店じまいを始めている。
人影も少なく、何本かの幟がはためいているだけの、祭りの後の抜け殻のような観光地の夕刻だった。





たれこめる分厚い曇り空の下で、折りからの強風にあおられながら見下ろす黄昏の東尋坊の奇観は、凄絶だった。
爪先のすぐ先で地面は消え失せ、遥か下方に向かって垂直に切れ込んでいく断崖絶壁になっている。
勇気を振り絞って身を乗り出し、恐る恐る下を覗きこめば、奇怪な形状をした崖の麓を暗く荒々しい波濤が洗っている。
薄暗くなって、景観の色彩が色あせていくほど、迫力は増すばかりであった。

耳元で風が唸る。
遠い海面に向かって吸い込まれていく自分を想像して、思わず身震いする。
後ずさりするのではなく、足が崖っぷちに向かって踏み出して行くような奇妙な感覚に襲われている自分に気づいて、その方が何倍も怖ろしかった。

逃げるように、京福電気鉄道の三国港駅から古びた電車に乗り、福井市内へと向かった。
進行方向を向いたロマンスシートのある、昭和30年代に流行った湘南型の面影を残す電車である。
見知らぬ土地で、こうして鄙びた電車に揺られながらぼんやりと時を過ごしているだけで、旅の幸せを感じる。
遠くまで出かけて来て良かったと思う。

途中から雨が降り出して、夜の訪れに一層拍車をかけた。
寂しげな北国の車窓がみるみる暗転していく。



北陸地方には、味わい深い中小のローカル私鉄が多い。
京福電気鉄道は、京都の嵐山と福井市近郊に鉄道路線を持つユニークな私鉄だったが、平成13年に旧型車両の整備不良から2つの大きな事故を起こして、いったん運行中止となった。
親会社は福井での鉄道事業から撤退、第三セクターのえちぜん鉄道として生まれ変わって、現在に至っている。

福井市内に着いた時には、とっぷりと日が暮れていた。
雨に濡れた路面が街灯に輝き、真っ暗な市街地は人通りも少なく、侘びしい印象だった。
時折り、福井鉄道市内線が轟々と鈍い響きを立てて走っていく。



駅から少し離れた繁華街のビルに収まった京福バスターミナルは、暗くて全貌がよくわからない。
どっしりとした造りのように見えながらも、1階に繰り抜かれたバス乗り場は照明が暗くて、陰鬱な穴蔵のように思えた。

東京と福井の間は、なかなか直通交通機関に恵まれなかった。

かつては国鉄の夜行急行列車「越前」が長野経由で上野と福井の間を往復し、父も金沢に行く時にしばしば利用していたものだったが、昭和57年に廃止されてしまった。
その後、長野回りで上野と金沢を結んでいた夜行急行「能登」が、福井に延長運転されていたこともあったものの、あくまで一時的であった。
航空機は、石川県の小松空港が最寄りで、福井市内まで1時間ほどかかる。
東京から福井までは、東海道新幹線で米原まで行き、北陸本線の特急列車に乗り換える手段が一般的で、非常に行き来しづらい位置関係にあった。



平成元年5月に運行を開始した東京と福井を結ぶ夜行高速バスは、唯一の直通交通機関であることも手伝って、大変な盛況ぶりであると聞く。
あっという間に、毎日片道3台以上が運行する人気路線に育っていた。
今では「ドリーム福井」という愛称があるけれども、当時は名無しの権兵衛だった。

新潟、富山、金沢を発着する東京方面の高速バスは、昼行便とセットになって運行されているが、東京-福井線は夜行便だけの設定だった。
それだけ東京から離れているのだと、感じ入ったものである。

ところが、平成18年から、所要8時間の「昼特急福井」号が運行を開始し、北陸4県へは全て高速バスで昼の旅を楽しむことができるようになっている。
いつかは、昼特急でのんびりと福井へ向かってみたいと思っている。



深夜22時に、福井のバスターミナルを発車した。

この夜、僕が指定された席は、左側の最前列である。
景色を眺めるためには最上等の特等席を引き当てたと、僕などは単純に喜んでしまう。
夜行便は景色が見える訳ではないから関係ないではないか、と思われるかもしれない。
しかし、夜行便であれば尚更のこと、夜半に運転席との仕切りカーテンの片隅をめくり、ヘッドライトに照らし出されたインターやサービスエリアなどの標識を眺めて自分が走っている場所を確かめることができるのは、最前列席の特権で、側面の窓際でもなかなか難しい芸当である。
場所を確かめたからどうなる訳でもないけれど、乗り物に乗っていて現在位置を知りたくなるのは人間の性であると思う。

新幹線でも、

「現在○○駅を通過中です」

と客席の電光掲示板にテロップが流れるし、航空機でも、

「ただいま、当機は○○上空を高度○○メートルで飛行中です」

などと機長が挨拶するではないか。



ただし、漆黒の闇に包まれてみんなが寝入っている夜行バスの車内で外を眺めるためには、何かと気を使う。
何よりも、外の明かりが車内に漏れないようにしなければならない。
最もいい方法は、カーテンをすっぽりと頭にかぶってしまうことである。
若干の恥ずかしさを感じないでもない行為だが、幸い、殆どの乗客は白河夜船である。
カーテンをめくった瞬間にバスがトンネルに入り、オレンジ灯の光が怒濤のように襲いかかって来たから、慌ててカーテンを閉じながら恐縮して周囲を見回した経験もないわけではない。
その時は、隣りの乗客がううん、と唸り声を上げて顔を背けただけで、起こしてしまった訳ではなさそうだったから、安堵したものである。

福井から東京へ疾走する夜行バスの中で、ゆったりした横3列シートに身を沈めてくつろぎながら、水滴が流れる窓ごしに、しのつく雨の底に沈んでいるような暗い市街地をぼんやり眺めているうちに、いつしか眠りに落ちた。

バスは、福井ICから北陸自動車道に乗り、いったん東京に背を向けるように西進して、滋賀県の米原JCTから名神高速道路、そして東名高速道路を、ひたすら走りこんでいく。
高速道路の比率が高く、スピーディーで乗り心地の良いバスだった。

ぐっすりと眠り込んでいた僕が、目を覚ましたのは、カーテンがいっせいに開け放たれて、さんさんと輝く日光が車内に差し込んできた時だった。
前方の天井にあるデジタル時計は、午前6時前を示している。
およそ8時間の夜間航海を終えて、バスは、陽光が踊る夏の東京のビル街の中を走っていた。
せっかく最前列の席を当てがわれたのに、1回も目を覚まさなかったのである。

あまりにあっけらかんと明るい車窓に、昨夜の東尋坊の夕景や、わびしげな福井市内の夜景の中に身を置いていたことが幻だったのではないか、という気分にさせられた。





次に福井を訪れたのは、平成5年の春の週末のことである。

金沢に住む弟を訪ねての帰り道だった。
航空機や新幹線でまっすぐ東京に戻ることが何だかつまらなく思えたので、金沢駅から特急列車で福井駅に向かった。
金沢を発つ前に電話予約を入れたのは、福井から名古屋へ向かう「北陸道特急バス」の午後の便だった。
昭和63年8月に誕生した老舗の高速路線である。

時間に余裕のある便を予約したので、福井市内をブラブラと散策して過ごした。
商店街の一角にある古書店で、背丈の倍もありそうな書棚にぎっしりと並ぶ背表紙を目で追いながら、パラパラと立ち読みをしていたところ、

「すみません、ちょっとよろしいですか?」

と、不意に若い女性のハキハキした声で呼びかけられた。

「今、ラジオ番組の収録中なんです。古本屋さんのことを特集していまして……ちょっとお時間をいただいてもよろしいですか?」

振り返ると、ラフな格好をした美人がニコニコしている。
後ろには、大きな録音機器を抱えたジーンズ姿の髭面の男性が、本棚の間の狭い通路に窮屈そうに立っていた。

「ええ──かまわないですけど」

女性アナウンサーが男性スタッフに目配せして、機械が動き出し、口元にマイクを突きつけられながら、幾つかインタビューを受けた。
記憶に残っているのは、締めのやりとりだけである。

「最後に、古本屋さんに何か希望なさることってありますか?」
「そうですねえ……探す楽しみも捨てがたいとは思うんですけど、あまりに雑然と本が並んでいる古本屋さんも多いですから、僕は、例えば作家のアイウエオ順に本が並んでいてもいいのかなあって感じてます」

今、振り返っても、我ながらなかなか上手く答えられたものだと、悦にいっているやりとりなのである。
通りすがりの旅人の身分だったから、放送されたのかどうかは、永久に分からない。



生まれて初めて受けた公共放送のインタビューという経験が、あまりに鮮烈だったので、晴天に恵まれていたはずの福井市内の印象も、また、名古屋行きの「北陸道特急バス」の2時間半あまりの車窓も、あまり記憶に残っていない。

ハイウェイを囲む初春の山々の若葉の鮮やかさや、自分が乗るバスの影が伸び縮みしながら、明るい日差しに照らされた路面にくっきりと写っていた記憶だけが、今でも脳裏に浮かぶ。
バスは横4列シートだったけれども、前後が9列に抑えられていたから、ゆったりと足を伸ばすことができる。
座席自体も、ややくたびれていたとは言え、腰をすっぽりと包み込んでふかふかと座り心地が良い。

北国の春の訪れを感じながらの、天気に恵まれたバス旅だった。

経路は、東京行きの夜行バスと同じで、北陸道を米原へ向かい、名神高速の尾張一宮ICから、広い道路に溢れんばかりの車の波に揉まれながら、一般道で名古屋市内へ向かった。
まだ、名古屋高速が東名・名神高速と繋がっていなかった時代のことである。



地方都市の高速バス路線は、最初に、東京、名古屋、大阪といった三大都市に向けて拡充していく傾向がある。
最も流動が多くて、バスを利用する需要も見込めるからであろう。

福井も例外ではなく、名古屋と東京への高速バス路線が相次いで開業した後の、平成2年10月に、大阪難波行きの高速バスが走り出した。

しかし、並走するJR湖西線から北陸本線に入る特急列車が最速で2時間を切る俊足を誇っており、加えて、1時間に1本以上の便数があったにもかかわらず、高速バスは1日3往復にとどまっていた。
しかも、名神高速道路の茨木ICと大山崎ICの間に位置する天王山トンネル付近の、慢性的な渋滞による遅延などがたたって、所要時間は4時間近くを要する状態だった。
そのために乗客数が伸び悩んでいる、との噂は、何回か耳にした。

まあ、大都市と県庁所在地を結ぶ幹線だから、のんびりとバスを利用する物好きも少なくないだろう──

と、楽観視していたら、わずか2年半後の平成5年4月に廃止されてしまった。
僕は乗りそこねたのである。
とても悔しい思いがしたものだった。



大阪と富山を結ぶ高速バスも同様に苦戦していたから、それほど北陸本線の特急列車の利便性は高いのか、と感心したり、噂の名神高速天王山トンネルの渋滞とは、そんなに凄まじいのか、と心配になったりしたものだった。

ところが、平成19年12月に、大阪側の発着地を梅田に変更して、福井行きの高速バスが復活したのである。
1日3往復、所要は3時間半だった。

難波発着の時代とほとんど変わっていない条件で、どのような勝算があるのだろう──

と不思議に思ったけれども、まずは無性に乗りたくなった。
申し訳ないけれども、今度こそ廃止される前に、と思ったのだ。





その機会は、平成20年の6月に訪れた。
神戸への出張の合間に、僕は梅田三番街の高速バスターミナルを訪れた。
16時10分発の福井行き高速バスは、背の高いスーパーハイデッカーで、ターミナルの低い天井を擦らんばかりだった。
しかし、開業したばかりにもかかわらず、何となく古びた車両に思えたのは、くすんだ塗装のせいだろうか。

乗り込んでしまえば、横4列シートながらも、平日の午後で乗客も少なく、のびのびと車窓を楽しむことができた。

夕方の帰宅ラッシュの車と、歩道から溢れんばかりに行き交う人々の波をかき分けるように、バスは狭隘なバスターミナルを出て、地平から高架道路の新御堂筋に駆け上がった。
淀川を渡って、新大阪駅、千里ニュータウンを経て、吹田ICから名神高速に入る。
空はどんよりとした雲に覆われている。
バスに乗り込むまでは、折からの梅雨空と、身体を包み込む蒸し暑さに辟易していたが、車内は程よく冷房が効いて、大変心地よい。



名神高速を走る車の密度は高かったが、流れは至ってスムーズだった。
並行するバイパス道路が整備され、また、天王山トンネルも新しいトンネルが完成して、大幅に車線が増えている。

大山崎JCTと瀬田東JCTを結ぶ京滋バイパスが完成したのは平成9年、門真JCTと京都南JCTを結ぶ第二京阪道路が開通したのは平成22年である。
また、吹田ICと京都南ICの間が往復6車線に拡張され、天王山トンネルは上下線とも2車線のトンネルが2本ずつの合計8車線になったのは、平成10年のことであった。

かつての渋滞の名所という汚名は、返上されつつあった。
ただし、渋滞をなくすためにどれほどの設備投資が必要だったのか、自動車社会というものを考える上で、京阪間の道路地図は大変興味深いと思う。





天王山トンネルを抜け、京都盆地を瞬く間に走り抜けて、逢坂山のトンネルを越えれば、ハイウェイは、琵琶湖の南東を、田園と丘陵の合間をすり抜けるようにくねくねと伸びていく。
滋賀県に入っても、名神高速は、ほんのチラリとしか湖面を見せてくれない。
琵琶湖の向こうに連なる比良の山々も、この日は、垂れこめた雲に覆われて、ほとんど姿が見えなかった。
愚図ついた天候のためか、日が暮れるのも、夏に似合わず駆け足だった。

大阪から北陸へ向かう鉄道は、昭和49年に完成した湖西線で敦賀に直行するが、高速道路は昔ながらの米原経由で北へ向かう。
冬ともなれば、湖西線は比良おろしの強風でしばしば不通となり、金沢・富山行きの特急列車が米原を経由することもある。







米原に近づくにつれて、あたりの景色は湿り気と陰りを帯び始める。

多賀SAで短い休憩をとり、本線に復帰すると、垂れ込めた雨雲の下に、伊吹山が姿を現す。
この山の麓を右へ向かえば関ヶ原、左へ行けば北陸である。
夏とはとても思えない寒々しい光景に、北国に近づきつつあるのだという、心細くなるような情感がこみ上げてくる。
東海道の交通の要所でありながら、毎年、新幹線が雪に悩まされることでも明らかなように、米原は北陸の入り口なのだ。

米原JCTで北陸道へ分岐すると、バスは、琵琶湖の北端にそびえる賤ヶ岳や柳ヶ瀬山の麓を、右に左にと回りこむように分け入っていく。



敦賀ICを過ぎると、折り重なる山並みの向こうに、敦賀湾をちらりと見下ろすことができる。
ハイウェイの高度は変わらず高いままで、海ぎわまでせり出した杉津の山々を、きついカーブが断続する橋梁とトンネルで抜けていく。

北陸道がたどるこのルートを、懐かしいと思う年配の方もおられるかもしれない。

琵琶湖北岸から敦賀にかけては地勢が険しく、9世紀に官道として北国街道が作られた木ノ芽峠は、関西と北陸を行き来する旅人たちが越えるのに大変難儀したと言う。
越前、越中、越後の「越」の由来と言われている。
16世紀に、柴田勝家が、東の栃ノ木峠に北国街道を移動させたほどである。

源頼朝に追われて都落ちする義経主従や、足利尊氏に敗れて再起を誓う新田義貞、永平寺を開いた道元禅師、一向宗を広めた蓮如上人、奥の細道の松尾芭蕉など、数知れない歴史上の人物がこの峠を越えた。
旧暦の10月に木ノ芽峠を越えた新田義貞の軍勢は、例年にない厳しい寒さと積雪に見舞われて多数の凍死者を出したと言う記録が、「太平記」などに残っている。

草の葉に かどでせる身の 木部山 雲に路ある ここちこそあれ

道元禅師が詠んだ歌であるが、「雲に路ある」とは、木ノ芽峠の様子をよく表していると思う。

明治29年に建設された北陸本線も、険しい木ノ芽峠を避けて、海側の山中峠を越えて杉津を経由するルートで建設された。
それでも、急勾配が続く線形は如何ともしがたく、坂に弱い蒸気機関車には難航したと聞く。

海の眺めの類いなき
杉津をいでてトンネルに
入ればあやしやいつのまに
日はくれはてて闇なるぞ

と、鉄道唱歌に歌われる景勝地としても知られていた。
明治42年、後の大正天皇が皇太子時代に行啓された折りには、余りの絶景に見惚れて、暫く汽車の発車を遅らせたという逸話も残っている。

昭和37年、木ノ芽峠の直下に長さ1万3870mの北陸トンネルが貫通し、鉄道における難所は過去のものとなった。



急勾配には弱いけれども、電化が進んで長大トンネルを通り抜けることには何の問題もなくなった鉄道と、勾配には強いものの、排気ガスのために長大トンネルは避けたい自動車という特性の違いからであろうか、高速道路は、昔の街道に回帰した経路で造られていることが少なくない。
東名高速から逸れて、伊勢湾岸道から東名阪自動車道、新名神高速道路を経由する最近の短絡ルートなどは、その代表格で、昔の東海道に近い。

杉津越えも、その1例である。
昭和52年に建設された北陸道は、かつての鉄道に倣って杉津越えをルートに選んだ。
敦賀ICと今庄ICの間では、一部で北陸本線の廃線跡を使用しており、上り線の杉津PAは、杉津駅の跡に設けられている。
旧北陸本線の駅舎跡に建てられた記念碑のすぐ背後を北陸道の高架が横切り、廃線めぐりのファンを、無粋な、とがっかりさせる箇所もある。





杉津越えの途中で、完全に日が暮れた。

車窓が暗転し、窓に映るのは路端に並ぶ街灯と、車のライトだけになってしまった。
それでも、バスの走りっぷりに揺るぎはなく、いつしか山岳地帯を抜けて平坦な福井平野に降りてきたことくらいは、乗り心地から察することができる。
雨脚が強くなって、ライトのきらめきが鈍く幾重にもにじむ。

ふと、芭蕉の「奥の細道」の一節を思い出す。

「漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。
あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。
鴬の関を過て湯尾峠を越れば、燧が城、帰山に初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ敦賀の津に宿をもとむ。
その夜、月殊晴たり。
あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、気比の明神に夜参す。
仲哀天皇の御廟也。
社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。
おまへの白砂霜を敷るがごとし。
往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。
古例今にたえず。
神前に真砂を荷ひ給ふ。
これを遊行の砂持と申侍ると、亭主かたりける。

月清し遊行のもてる砂の上

十五日、亭主の詞にたがはず雨降。

名月や北国日和定なき」

そもそも、北陸はわが国有数の降雨地帯で、中でも福井県は年間降雨量が2700ミリを超えるという多雨地域である。
加えて、芭蕉が旅した仲秋の名月の頃と言えば、秋雨前線の発達する時期で、至って変わり易い天候になる。

僕が大阪から福井へ旅したのは梅雨の真っ最中で、「奥の細道」とは季節が全く異なるけれども、雨に濡れる北国の情緒は同じだった。

峻険な山々から平野への出口に位置する、武生と鯖江の2つのバスストップで降りる客はいなかった。
バスは、タイヤが水を弾く鋭い音を立てながら福井ICで高速を降り、福井市内へ入っていく。
雨に濡れた道路が、街灯に照らし出されて、鈍く光る。
ゴトゴトと、路面電車が行き交う。

最初に、この街から東京行きの夜行バスに乗車した時からの20年以上の時間が、瞬時に短絡した。
あたかも、デジャブを見ているかのような、不思議な感覚だった。

人通りが少なく、居並ぶ建物の灯だけがまばゆい中心街で、バスは歩みを止めた。
駅前から伸びている大通りにある小さなバス停が、念願だったバス旅の終点だった。



翌日も、仕事の続きが僕を待っていた。
間に合うのは、大阪行きの最終の特急「雷鳥」だけである。

関西と北陸を結ぶ伝統の特急列車として昭和39年から走り続けてきた485系「雷鳥」も、順次、新型車両を投入した「サンダーバード」に置き換えられ、この時点で「雷鳥」の名を残しているのは、朝の下りと夜の上りの1往復に過ぎなかった。

北陸と関西の間を湖西線経由で移動するのは初めての経験で、楽しみにしていた。
「雷鳥」の名が消えたのは平成23年3月のことだから、ぎりぎり間に合ったと言うこともできる。
今にして思えば、乗っておいて良かったのだ。
ただ、当時の僕は、世代交代で消えていくものに対する惜別の念よりも、初乗りにも関わらず、颯爽とした新型特急に乗れない恨めしさの方が強く、うらぶれた思いを拭い切れなかった。
旧型車両の最終列車にしか乗れない時間に、雨の北陸の街で、僕はいったい何をしているのだろう、と思う。

正面に見えるどっしりとした福井駅舎は、雨に濡れながらとぼとぼと歩くには、少しばかり遠く感じられたものだった。







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