『愛ゆえに』〜仁徳天皇と磐之媛〜

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大阪の堺市に難波天皇とも呼ばれる、仁徳天皇の御陵がある。ここは、朝鮮半島から船で日本に渡ってきた人々が都へ入るために必ず通る港の入り口。
国内においても、摂津と河内と和泉の接点。三国の境目にあるがゆえに堺と呼ばれ、その中心を三国ヶ丘という。そこに日本最大、日本第3位の古墳が並び立つ。
のちに名付けられた大阪も逢坂からきてる。
交通の要衝であり、人の交流が交流が盛んな場所。
その象徴たる仁徳天皇に焦点をあてて考察してみたいと思う。
仁徳天皇を考える上で外せないのが皇后である磐之媛。嫉妬深い人物と言われている。
イワノヒメの本質をもう少し深くみていきたい…

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イワノヒメは本当に嫉妬深いのか!?
仁徳天皇の皇后にイワノヒメという方がいる。
彼女は初めて民間から皇后になった方。
つまりは、仁徳天皇との熱烈な恋愛結婚だったはず。
お互いが好きで好きでたまらなかったはず。
だが、時代と立場は2人だけの恋を許してはくれなかった。
王が国を治めていくためには力のある部族と血縁を結ぶことで関係を築いていくしかない。
王といえども単独でやれるほどの絶対的な力はなかった。

部族にとっても同じこと。
天皇の子どもを産むことは一族の繁栄を盤石のものにする。
一族の繁栄は、天皇に嫁ぐ女性の肩にかかってくる。

恋愛の世界にだけ生きているわけにはいかなかった。
それが男の理屈。
頭ではわかっても感情の生き物である女性にはそれを受け入れることは難しい。
しかも、身分が低い上に熱烈な恋愛の果てに結婚したイワノヒメにとって、日々の仁徳天皇を取り巻く女性関係は耐えられぬものであったに違いない。

それでも愛する夫のために尽くした方だと思う。
ある日、豊楽(とよのあかり)という宴の準備をするために、料理を盛るための木の葉である御綱柏(みづなかしわ)を取りにわざわざ熊野までイワノヒメが向かった。
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串本の御潮崎神社にあるらしい。


イワノヒメはどんな氣持ちで柏葉を集めていたことであろう。
その帰り道、自分の留守中に夫が応神天皇の娘である八田皇女を宮中に入れて遊んでいたことを耳にする。
集めていた御綱柏をすべて海に投げ捨て、天皇の元には帰らなかった。
イワノヒメの元を仁徳天皇はその後訪れるが、イワノヒメは会わなかったという。
それだけ一途に仁徳天皇を想い続けていたのだと思う。
万葉集にも、一途に仁徳天皇を想うイワノヒメの和歌が四首も残されている。

そのうちの1つを紹介しますね。


ありつつも君をば待たむうち靡くが黒髪に霜の置くまでに

【通釈】じっとこうして、あの人の帰りを待とう。床に投げ出した私の黒髪に、白いものが交じるようになるまでも。

《祥平解説》
白いものが混じるとは白髪のこと。
一生あなたと添い遂げようという切ない女心が綴られる。
あぁ、切ない。。



仁徳天皇陵の古墳の南に全国で三番目に大きいとされる古墳がある。
履中天皇陵である。
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だが、考古学の発達と共に矛盾が明らかになった。
仁徳天皇陵よりも古いのだ。
履中天皇は仁徳天皇の息子。
その御陵が仁徳天皇陵より古いというのは明らかにおかしい。
そして、仁徳天皇陵は間違いなくご本人だ、と勝手に思ってる(笑)
なぜなら、お参りしようとした瞬間に大鷺(オオサギ)が僕の横から現れて御陵のほうへ入っていったから。
仁徳天皇の別名はオオサザキノミコト。
あまりにわかりやすいメッセージに思わず笑ってしまった(笑)
もちろん、仁徳天皇陵ともゆっくり対話できた。

履中天皇陵が仁徳天皇陵よりも数十年古いと聞いたときに直感したのが仁徳天皇の皇后であるイワノヒメ。
イワノヒメの御陵を調べてみると、奈良市の平城京の近く。
まだ詳しくは調べてないけど、どう考えてもここにある理由がわからない。
僕は思う。
仁徳天皇はぜーーーーーったいに!イワノヒメが大好きだった。
ただ、人がよすぎて、誘いを断れない人だったんだ。
イワノヒメが例の事件をきっかけに、もう仁徳天皇と二度と会わない(好きだからこそ、立場上たくさんの女性と交わらなければならない仁徳天皇と一緒にいることが耐えられない)と言ったとき、仁徳天皇は死ぬほど後悔をする。
王としての立場を大切にするあまり、ほんとうに大切な人を失ってしまったと。。

イワノヒメが亡くなったとき、できる限りのことをしてやりたいと思うのは愛する者として当然のことではないだろうか。
それがかつてないほどの大きな古墳をつくらせた。それこそが、履中天皇陵と言われる古墳。
年代も合う。

そして、そのイワノヒメの御陵をじっと見つめるかのようにすぐ真北に佇むのが仁徳天皇陵。
仁徳天皇が亡くなったとき、父である天皇に、母である皇后よりも大きな古墳をつくって威厳を讃えてやりたいと思うのは親を思う子の心だと思う。
履中天皇も反正天皇も允恭天皇のいずれも仁徳天皇と磐之媛の間に生まれた子どもなのだ。

こうして、日本最大の古墳、仁徳天皇陵が生まれた。日本最大の古墳は愛が原動力。
妻を想う愛と、父を慕う尊敬の心。

古代、浪速(なにわ)の海から東を見上げたとき、台地上に三基の古墳が南北に横たわる。
右から母、磐之媛(イワノヒメ)。
真ん中に父、仁徳天皇ことオオササギノミコト。
左に、息子、反正天皇ことタジヒノミズハワケノミコト。
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この三基だけ同じ方向を向いている。
古墳の形は壺の形でもある。

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現代の骨壷の原形。
死者を壺に入れる。
それは再生を意図している。
ツボは宇宙を意味するウツホからきているという話もある。
生を生み出すところ。
死は生の始まり。

今ごろどこかで生まれ変わり、2人は出会い直しができているのだろうか。

僕がずっと前から住みたいと言い続けている御所市の金剛山の山麓はまさしくピンポイントで、葛城高宮跡なんです。そここそが仁徳天皇が訪ねてきても会わなかったと言われるイワノヒメの宮居跡なんです。


(参考)
つぎねふや 山代川を 宮のぼり が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯をだて やまとを過ぎ が 見がし国は 葛城かづらき 高宮たかみや 吾家わぎへの辺り(古事記)

【通釈】山代川を、難波の宮を遠ざかって溯ってゆけば、奈良を過ぎ、倭も過ぎた先、私が見たいと願う国は、葛城の高宮、私が生れた家のあたりなのだ。

《祥平解説》
イワノヒメが熊野に柏葉をとりにいってる間に八田皇女を宮中にいれていた仁徳天皇に怒り、「もうあなたのいる難波には帰らない、私が向かう先は生まれ故郷である葛城の高宮なんだから!」というシーン。
要は『実家に帰らせてもらいます!』を万葉風に美しく表現したもの(笑)

なぜ僕が異常なまでにそこに惹かれたのか、今日でよくわかった氣がします。
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ほんと、ピンポイントに高宮廃寺跡に印をつけてる(笑)


仁徳天皇陵で対話をしてきてすごくよくわかったこと、それは女性との関わり方が僕にそっくり(笑)
そして、仁徳天皇にとってのイワノヒメがニニギノミコトにとってのイワナガヒメなんです。
ニニギは世間体を考えてコノハナを選んでしまった。

ほんとうに大切な人は誰なのか。
常に忘れない自分でいたいです。

僕の大切な人へ。
いつもありがとう(^_^)

愛しております(*^_^*)



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