「比叡山物語:一休和尚の予言」21 | 神即〈いのち〉、〈いのち〉即感謝

神即〈いのち〉、〈いのち〉即感謝

神とは〈いのち〉であり、それへの感謝が信仰だ。あらゆる違いがあっても、それは闘争の理由とはならない。我々は等しく〈いのち〉を生きているからだ。その理解こそが、新しい文明の思想軸となる。






 三年ほど前に小説『森女と一休』(講談社)を執筆している最中、取材で堅田の祥瑞寺を訪れたことがあります。若き日の一休さんが命がけの修行しておられた寺ですが、霊前で読経していると「お前に、桶の水に頭を突っ込む苦しみが分かるか」と言われました。たしかに私も若き日に禅寺でそれなりの苦労はしましたが、桶の水に頭を突っ込むほどの苦しみだったとは思いません。

 ところが、今回の比叡山60日の修行は、それに相当するものでした。今から思えば、比叡山麓にある堅田の土地に眠る一休和尚の魂は、私がやがてその苦しみを舐めることを知っておられたような気がしてなりません。行院では、後半の一ヶ月は密教修行のため刃物の使用が一切認められず、頭髪・ヒゲ・爪を伸び放題にします。その時、トイレにある鏡を見るたびに、私は自分の顔が薄気味悪いほど一休和尚にどんどん似ていくのを感じていました。禅と天台が私の肉体で交叉していたのでしょう。あるいは、いつ挫折してもおかしくない状況で、強靭な意志力を持った一休さんが私に寄り添ってくれていたのかもしれない。