現在、「来るべき世界」(neytron tokyo)に出品している、もう一つの作品「天竺巡礼記念」について少し書いてみようと思います。
「天竺」とはもちろんインドのこと。僕ら世代にとっては、堺正章の『西遊記』が幾度も再放送され、そのイメージが色濃く潜んでいます。
この作品は僕が生まれて初めて行った海外旅行がインドで、それも大した理由なく、『西遊記』の影響と、僕がやってる染織のルーツを探ろうと(そんな大した研究という意味もなく、なんとなくルーツを見てみたいという思いです)、インドをデリーからジャイプル、ジョードプル、ジャイサルメールと西へ、またバラナシと東へ旅をした時の感情を思い出しながら、今の僕なりに消化してつくった作品です。
当時(今から十数年前、僕が大学の学部生だったころ)のインドは今ほど経済成長をする前で、よくいわれていたのが日本の戦後と同じくらいの生活水準だと言われていました。
僕はもちろん日本の戦後を体験したわけではないのですが、現地はそれよりかは生活水準は高かったとは思います。
しかしながら、噂通り、必要以上ののモノや食料や生活環境にどっぷりつかり、それが普通だと思っていた僕にとっては人生観がゴロっと変わるくらいの衝撃的な旅でした。
まちのいたるところでホームレスが生活し、ホームレスの家族や、仲間で生活している光景からはじまり、デリーという一番の都会でも、道路ではラクダが交通期間のひとつして使われ、牛がいたるところで野生化し、、、書くときりがないくらいです。
手や足がない人は自家製の木製カートにのって、お金をせがみ、、、、噂によれば、わざわざ自分の目を潰して、目を見えなくしたり、自分の子どもの腕や足を切って、障害のある人にさせ、お金を集めるといったような。。。
そして、パキスタンとの国境の砂漠の街、ジャイサルメールでは、毎晩のように威嚇射撃が繰り返され、街にも銃をもった軍人たちがひしめき合い、東へ移動する時には、軍人が最も権力があるのか、電車の車両を占領され、抵抗したら銃をむけられ、、、そしてバラナシについて直後、テロに巻き込まれ。。。。
ガンジス川のほとりでは痛々しいくらいの苦行僧がたくさんいて、遺体の焼き場近くのヤグラでは、死をひたすら待っているだけの老人たちがひしめきあって生活し。。。
本当に書くときりがないくらい結構いろいろと体験した旅でした。
でも、なんか、とても不思議な気分でした。もうあんな国行きたくないっていうより、いつかまた行ってみたいと。。。
なんなんでしょうね。この感覚。
でも、インドから抜け出すことができなくなりそうな自分の弱さにも気づき、それ以来、一回もインドは訪れていませんが。
前回のブログに少し書きましたが、僕は今、希望は描けない。希望より絶望のほうに生命力を感じてしまうと。。。
なんとなく、この当時の旅を思い出すと、僕にはその絶望感からくる生命力に近いものを感じます。
田舎のほうに行って、僕に群がりお金をせびる子供たちに、僕は未来の希望より、圧倒的な絶望感に陥りました。
よく、発展途上国の子どもたちには、我々日本人が失った、キラキラとした輝く目があり、また人間そのものとしての存在感があると言われたりもしますが、僕にはそれは残念ながら感じ取れませんでした。
大人も、子どもも目はどんより、そこから将来の希望のような光は僕には見えませんでした。
日本人が高度成長期になくしたものが、本当に当時のインドにあったのか、今でも疑問に思います。
西洋合理社会との出会いで歪まされた、絶望と悪意が先行して僕に伝わってくるのです。
しかし、明らかに違うのは、彼らは「神」を信じてやまないということ。
今回、「記念品シーズ」と名付けたペナントシリーズは、まさに、お土産や記念品という実態の写し、むしろ実態すら明確にあるかどうかわからない(神)、偽物の偽物なんです
僕は「神」の存在に憧れながらも、「神」はハリボテで何もないと分かっている虚しさ、しかしその「神」を信じてしか生きていけないという葛藤。
僕は実在しないヒーロー≒神を、それでも描き続け、あえてもう一段階、偽物の形態を模倣することで、ヒーロー≒神が偽物であることをあぶり出し、しかしながら、それを信じることでしか生きてゆくことしかできない絶望の中から、生命力のかけらを見つけ出したいと思っています。
「神話」のちいさな復権とでもいいましょうか。。。
その偽物の偽物は大衆の膨大な願いが詰め込まれ、偽物ゆえに、きらびやかで豪華絢爛になり、底知れない生命力やエネルギーを放つと僕は考えます。
ここに書いたインドの話はもう十数年前にもなるので、おそらく今のインドはまた違うとおもいますが。。。
ああ。。。またまたうまくまとめられませんでしたが、いつかきっちりと文章化したいと思います。