天職起業で「人生は逆転できる!」講演家・作家

創業・起業・小さな会社やお店の成功事例
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10/02東京「営業マンは断ることを覚えなさい」石原明コンサル公開収録

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●独立起業への芽生え


 中でも熱心に通ったのは、脱サラコンサルタント「創業開発研究所」の小久保社長がやっていた「自分興し会社興しの会」。毎回、創業経営者をゲストに招き、独立起業のケーススタディを聞いた。
 他には出版社「PHP研究所」のサラリーマンで中島孝志という人がやっている「キーマンネットワーク」などに参加した。


 活動するうち、自分なりに独立起業のアイデアが浮かぶ。その一つはデータ情報誌の発行。当時、「オゥトゥジャパン」という企業内起業・新規事業のケーススタディ会員誌があった。社長は日野公造さんといい、私と同じリクルートの契約社員出身だった。


 「創業」や「脱サラ」は小久保さん、「企業内新規事業」は日野さん。毎月毎週の日経新聞や日経産業新聞に、二人のコメントや記事がよく載っていた。創業や新規事業の情報を集めていた私にとって、この二人はカリスマだった。カッコ良かった。憧れた。


 しかし、自分は文章も書けないし、講演も出来ない。やったことがない。ましてや本や雑誌を発行するなど無理だと思った。


 他に気になったのは、広島本社の週刊「キウイ」という週刊誌。新聞の切り抜き情報誌の発行と、読者の異業種交流事業をやっていた。自分も情報収集で様々な切り抜きを集めていたし、異業種交流会にもあちこち参加していたから、それで起業できれば最高だなと思った。でも、そんなのは無理だよなあと諦めた。


 他には「データマン」。これは週刊誌のデータを集めたもの。自分自身が様々な新聞や週刊誌や本から脱サラや新規事業の情報を集めていたので、その手の必要性は感じていた。しかし、これも自分では今さら起業できない。経験も金もない。


●独立起業研修への参加


一体自分は何をしたいのか、できるのか。毎月毎週毎日考えたが、わからない。迷った末、創業開発研究所の小久保先生が2日間の「独立起業研修」をやると知り、3万円と当時の私には高額だったが、思い切って参加した。


 参加者は私の他に50歳くらいの中堅企業サラリーマンが1名。計2名だったが結果としては小久保先生とのマンツーマンでラッキーだった。小久保先生は当時40代前半。脱サラの本も数冊出していた。


 講義を受けた後、メインの作業である、「自分の過去を振り返るシート」の作成をした。それまで32年間の人生を振り返りって永い履歴書を書き出し、改めて自分が得意なこと、できること、好きなこと、興味があることなど、思いつくままに書き出した。


 結果、出てきたのは、「無料職業相談業」+人材紹介業。自分は就職・転職に次々失敗した。リクルートという就職と転職をビジネスにする会社にいたにも関わらず、自分の適職・天職が分からずに会社選びを失敗した。ならば、一般の人はもっとわからないのではないか。その手助けができないだろうかと。


 就職や転職活動の際には求人情報誌を見るが、あれは情報誌とは言っても実態は企業にとって都合のいい広告誌なので、真実は書いていないことが多い。本来はその企業や業界や職種の厳しい現実も知り、果たして自分が合うかどうか判断せねばならない。


 職業相談の場としては職安・ハローワークや民間人材銀行があるが、職安の担当者は所詮は公務員で、企業の実態まではわからない。民間人材銀行は、登録者の1割くらいの「売れる人材」しか相手にしないし、紹介する会社は、金がもらえる人材紹介契約を結んだ会社のみ。大事なのはお金をもらう企業で、真の意味で転職相談者側には立てない。


 私はあくまでも転職相談者側に立ち、共に悩み、共に適性を考え、その相談者に成り代わって就職情報を探し、天職となる会社を見つける。人材を紹介して採用に至った会社からは、年収の3割から2割を人材紹介料としてもらいたいが、場合によっては紹介料がもらえなくてもいい。一番大事なのは、転職に悩む人を救うことだ。やればなんとかなるだろう。こうして私は、無料職業相談業・民間人材紹介業で独立することに決めた。


 人材紹介業は本来、労働省の許認可とか数百万円の供託金が必要だったが、無許可でやっていた外資系のスカウト会社と同じく、表向きは人事コンサルティング料という名目でやることにした。


●左遷された人の悲哀


 1990年の秋、勤めていた(株)ミッド相模原センターの後を継ぐFCも見つかった。協和広告というポーラ化粧品を主力クライアントとする中堅の広告代理店で、年商も100億円を超えていた。なんでこんな立派な会社がこんなFCに加盟したのか。ミッド本部がうまく騙したか。もしくは、協和広告がよほどアホなのか。


 いずれにしろ、これで私は足かせが取れ、独立へ向けて自由になれる。仲良くなった現場の主婦たちに別れを告げて離れるのは寂しかったが。


 協和広告から相模原の現場責任者として送り込まれたのは、いかにも気の弱そうな50代前半の男性だった。完全な左遷。東京都内のきれいなビルでの華やかなマスコミ広告から、こんな田舎の、同じ広告関係とはいえ、まさに場末のチラシ配りの子会社へ出向。生まれつきなのか、逆八の字の眉毛が悲壮感に拍車をかけ、私は可哀想にと同情した。


 他に左遷で来たのは二人。一人は「なんで私が、こんな田舎のチラシ配りの会社に送り込まれるのよ!キー!」とでも言いたげな40歳前後の女性。おしゃれな服とブランドバッグが悲しかった。もう一人は65歳前後の定年間近か、定年後の第2の人生で気楽なモンさという感じの穏和な初老の男性。様々な人生があるのだ。
(その後、しばらくして撤退したと風の噂で聞いた。南無~)


 こうして1990年の年末で相模原事業の引継を終え、私は本社に辞表を出した。その際、人事から、部下はない「本社・営業係長」の名刺を提示され、社長からも引き留められたが、もはや私の頭は独立への期待と夢と不安で一杯だった。


 その頃にはミッド本社は、サンゴの健康食品や車の燃費倍増アイデア商品など昔ながらの詐欺悪徳商品の総代理店にもなり、全国のFC加盟店に流そうとしていた。まさに断末魔というか末期的症状で、会社には何の未練もなかった。


■初めての独立起業。しかし・・・


●わずか半年で廃業


 こうして1991年、平成3年2月22日、異業種交流会で知り合った行政書士に頼み、資本金150万円の(株)アントロポス・データ・ジャパンという法人を設立。新宿御苑の家賃15万円ワンルームマンションに自宅事務所を構えた。貯金は約300万円。


 アントロポスとはギリシャ語の「人間」で、当時創刊された日経の自己実現雑誌「月刊アントロポス」と、憧れていた日野浩三さんの会社「オゥトゥジャパン」から拝借した。


 昼間はフトンを三つ折りにしてカバーを掛けたソファーにし、机やイスは中古や知り合いの不要品。パソコンは初めて購入し、ワープロも見よう見まねではじめた。


 この時点で顧客企業はゼロ。転職相談・登録者もゼロ。今、考えると、無謀意外の何ものでもない。失敗する可能性は限りなく高かった。


(事実、私の場合はすぐに失敗したが、あの無謀さがなければ、いまだに独立できてなかったかも知れない。事前に失敗の可能性が高いとわかっていると、行動できないことが多い。逆に、世間知らずだからの挑戦も多いと思う。挑戦→行動→失敗→改善→行動の繰り返しこそが貴重な経験となる。素人や未熟さ、無知、若さゆえの挑戦は素晴らしい)


 開業後、知り合いへハガキを出した。形は開業案内だが、転職に悩む人を助けたいとの趣旨を文章で綴ったところ、期待以上の反応で転職相談者が立て続けに来た。彼らの多くは20代後半から30代前半で、そのほとんどはどこかの異業種交流会で知り合った人。


 考えてみれば、今の会社に満足している人や必死にしがみつこうとしている人は、異業種交流会なんかには出ない。そんな暇はないし、良くも悪くも全勢力を会社にそそぎ込む。自分もヤマハ発動機~CSLまではそう。会社以外に目を向ける精神的余裕はなかった。 ミッドで会社に失望し、前向きに悩みはじめ、時間もあったので異業種交流会へ参加しだした。勤めていた会社のことは考えず、自分のことだけを考えた。


 もちろん、違う理由で異業種交流会へ出る人も沢山いる。今の会社は辞める気はなく、自己研鑽の勉強をしたい人、純粋に社外人脈を広げたい人、仕事のパートナー、お客を捜す人、参加理由は様々だと思う。


 それはさておき、相談者の話を聞くと、大半の人は自分の希望する業界とか職種は決めていない。つまり、自分と同じように、自分の適職とか天職がわからないのだ。まあ、だからこそ、こういう場に来るのだ。わかっている人はすでにその職場に収まっているだろうし、ダイレクトに企業へ就職活動をするだろう。わからない人だけが相談に来るのだ。


 大半は雑談、相談で終わったが、そのころ、希望会社が特に決まっていない人によく紹介したのが、池袋に本社があったテレマーケティング会社「ベルシステム24」。転送電話装置メーカーでベンチャーの雄「チェスコム」の子会社だったが、チェスコムの経営危機でCSKグループ入りしていた。


 私が転職してもいいなあと思う会社の1社で、かつ、ここの人事担当者は30代半ばの人妻だったが、なかなか私好みで色っぽかった。ここには半年で4名が入社し、「人材コンサルティング料」として1人あたり40万円ほどもらった。


 他に紹介した会社に、異業種交流会で知り合った絵画の販売FC本部「アートレンタシステム」があった。社長からは「君は僕にいろいろよくしてくれると思っていたが、人材紹介で金をくれということか・・」とコチラの魂胆を見透かされて恥ずかしかったが、30万円くらいの紹介料を振り込んでくれた。「ぱど」の倉橋社長も、君は頑張っているからと、半ば無理矢理紹介した人を採用していただき、それなりの紹介料を頂いた。


 出だしは順調に思えたが、売る商品=求職相談者はすぐに枯渇した。なんとか売れる転職相談者を集めねばならないが、広告を出す金はない。求職者、失業者、転職希望者はどこにいる?本屋で求人誌を読んでいる人に声をかけようとしたが、どう見ても怪しまれる。 そうだ、職安だ。失業した求職者は、失業手当や職探しで職安・ハローワークに行く。そこで飯田橋のハローワークに行き、失業手当の説明会に潜入。参加者を見渡し、20代後半で売れそうな風貌の若者に雑談のふりをして声をかけた。まさに人買い同然。


 職安の周辺では求職者に声をかけている人がいるが、あれは保険会社やネットワークビジネスのリクルーターだ。歩合で使い捨ての人員集めで、職がない不安を抱えた失業者にすり寄るハイエナだが、いつのまにか俺も同類になっていた。


 雑談した若者は最初から私を信用し、何度か転職相談に乗った。彼は気胸の持病持ちでたまに発作を起こしていたが、当時、伸び盛りで業界2位の大手パソコンソフト商社「ソフトウエアジャパン」へ紹介。目出度く入社し、良い会社だったので双方とも大喜びした(しかし、その5年後に「ソフトウエアジャパン」は倒産。申し訳ない気持がした)。


 また、いわゆるスカウト活動も1回だけやった。これは古巣のリクルート人材センターの営業マン・六郷から依頼された。既取引会社からスカウトを依頼されたが、リクルート人材センターは登録者を斡旋するのみでスカウトは出来ない。そこで私に声がかかったのだ。依頼先はアメリカ半導体検査装置メーカーの日本法人。その社長からある技術セミナーの参加者名簿を渡され、この参加者なら誰でもいいと言われた。


 私はスカウト活動などやったことはない。いったいどうやればいいのだろう。勤務先の出入口で待ち伏せするか。テレビドラマの刑事のように。でも怪しいな。


 うーん、まあ、要は本人に会って話すこと。まずは単純に会えばいいのだと、セミナー参加者リストの上から、各所属会社に友人を装って電話した。かなりドキドキしながら。


「かやのと申しますが、開発一課の山下さんお願いします」


「どちらの栢野さまですか?」


「友人です」


「わかりました」


「はい、山下です」


「あ、どうもすみません。わたくし、栢野と申します。実は、私は人材スカウトです。ある会社が山下さんに興味を持っています。一度、お時間を頂けませんでしょうか?」


 人材スカウト=何やら陰の世界で暗躍するスパイのような後ろめたさがあり、嫌がられたり怒鳴られたりするのではと心配しながらエイヤで3人ほど電話したが、意外にどの人も好意的だった。


 結果的には「今は転職は考えていません」と拒否されたが、スカウトの声がかかるということは、自分が認められているということ。言ってみれば、既婚者の男性が、妻以外の女性からあなたに興味があります。好きですと言われるようなものだから、悪い気はしないのだと気づいた。


 そして5人目、シーメンスというドイツ系の会社に勤めるエンジニアAさんが気軽に会ってくれた。たまたま職場に不満があり、スカウトを依頼してきた米系企業との条件も双方一致。接触から半年後、スカウトに成功した。報酬は約50万円だった。


 これで俺もスカウターになったと満足感はあったが、徒労感もあった。初めてのスカウト活動だったが、おそらく今回は相当順調に行った方だろう。それでも半年かかった。たった一人のスカウト活動だったが、気疲れした。
 スカウトがうまく行くか不安もあったが、それ以上に、今回の転職がAさんにとってプラスになるのか。一人の人生を変えることになるが、もしダメだったら申し訳ない。そんなことでは仕事にならないぞと自分を叱咤激励したが、二人目のスカウト活動に入ることはなかった。


 こうして独立半年で7人の人材紹介やスカウトが成立。売上は350万円となった。しかし、食って行くには足りず、資金は100万円を切るまでに減っていき、同時に、急速に人材紹介やスカウト活動にやる気が失せていった。


 表向きはボランティア的な転職相談を装いながら、実際はその人を売るという良心の呵責。でも、それは言い訳だろう。どんな仕事にも、そういう後ろめたい部分はある。営利を追求する民間企業なら当たり前だ。ボランティアではないし、ボランティアは結局続かない。そのためには、転職希望者が満足する紹介先企業をもっと開拓せなば。


 しかし、どうもやる気が出ない。こうして迷いが深くなり、貯金も100万円を切り、創業した年の秋には自宅事務所移転を決断。わずか半年で、新宿15万円のマンション事務所から、四谷4丁目の木造風呂なしアパートへ転落した。


●木造風呂無しアパートの悲哀


 ボロボロアパートの6畳一間は家賃6万円。床や階段がギシギシ音を立てる。


階下には正体不明のパキスタン人、隣は50歳位の姉さん女房と20代後半でいかにもヤクザ水商売系旦那の奇妙な夫婦。


新宿駅まで歩いても20分強という大都会のど真ん中だが、この四谷4丁目の路地には貧困の悲哀が漂う。


ああ、俺も堕ちた。またも堕ちた。


車は前の新宿御苑の事務所に来たとき、駐車料がバカ高く、ホンダのシビックは売却。交通手段はヤマハのオフロードバイク・セローに変更していた。


 学生時代以来、約10年ぶりに銭湯通いをすることになった。33歳にもなって・・・。


 学生時代の貧乏は全然苦ではなかった。俺には輝ける未来、大企業で華やかにエリートサラリーマンとして活躍する。そんな将来が確約されていると思っていた。


 それがこのざまだ。


 金が無く、アパートの流しで体を洗った時は、情けなくて涙が出た。


 堕ちた、墜ちた、落ちた。本当に俺は堕ちた。(つづく)

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「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例

日本人事経営研究所・山元さんの出版記念パーティで竹田陽一先生がミニスピーチ。「本を出すと人生が変わる」。変わらない人も多数いるが。





◇香川県高松へ。このマリンライナーからの風景がいいね。  カーブス。このダサさがスゴイ。おばさん向け。
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◇香川県中小企業家同友会の合同例会。約180名が参加。有り難いことです。感謝しかない。
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同友会・東京・墨田支部のブログ より/例会報告は九州ベンチャー大学 でも有名な (株)インタークロスの栢野克己さんです。話面白い。そしてめっちゃ参考になりました!著書 「小さな会社 儲けのルール」は必読です。私も新しい本を購入しサインしてもらいました佐々木さんも本を購入してましたよ。違うグループだったのでわかりませんけど、凄く楽しかったとのことです。


◆以下は女所長・川端さんのブログ より。

今日は九州ベンチャー大学でも有名な(株)インタークロスの栢野克己さんの講演で この人は凄い経歴の持ち主。途中自殺未遂などもあり、今はコンサルタントとして世界をとびまわっておられます。著書の「小さな会社 儲けのルール」はベストセラーになってます。私もサイン本を購入しました握手もして貰ったしね。今回の例会は3支部合同ということもあり4月から企画がスタートして参加者180名の大例会で会場の熱気も凄かった!栢野さんの話もユーモアがあり、凄い参考になって楽しかったし勉強になりました。地域組織率日本一の香川同友会は会員のかたがとにかく熱心でいろんな面で参考になることばかりでしたよ!また機会があれば是非きたいし、沢山のかたと名刺交換出来て盛りだくさんな収穫でした!やはり外にでていろんなかたと知り合うことが大切だと思い知らされた1日となりました。


◆以下は参加者のループネクスト・田村さんのブログ より

高松国際ホテルにて、香川県中小企業家同友会 高松第2支部・7支部・8支部 9月度合同例会がありました。講師として、(株)インタークロス 代表取締役 栢野克己氏に「生存社あり!」~中小企業が生き残るための戦略!?~というテーマでお話していただきました。中小企業の戦い方は、大手と同じことをやっても、どうしようもない。生き残る手段が、必ずあって、それをどう見つけるか。会社経営で成功している人は

1/3が夢や情熱の感情系
1/3が戦術・ノウハウの戦略系
1/3が謙虚さや感謝系
がバランス良く持っている人みたいです。

自分にはどれが足りないのか?今回の講演で感じたことは・経営者は怒られない・・・なので潰れる → なるほどな。(ワタシは怒られるけど)・信念を明確化し発表することで、更に覚悟を決める・・・必然的に壁が生まれてそれを打ち破る為に戦略を考える → 今行っている経営指針を創る会での経営指針書作りと同じ考え方。・ランチェスター本をチェックしたいなどなどですね。今日から実践できることが、沢山あったので、是非とも実践する!!


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         高松の散髪屋                       バイト+世界を放浪するアホなドラマー。イイね
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◆左は東京赤坂見附雑談会。左から世田谷の頑張りすぎて同業から虐められている不動産屋・ウィザード栗田社長(創業物語) 、アパレル学生の氷室さん、杉並区の小野寺税理士。「弱者の戦略・ベンチャー大学栢野社長との雑談会に飛び込み参加!充実の二時間を喰らう!大満足だ」栗田ツイッター より


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                                 ◆左から「社員幸せコンサル」千代鶴さん・鮒谷さん


            ◇以下は「社員の幸せコンサル」千代鶴さんのブログ より。

小企業向け講演家として大活躍する福岡の栢野克己さんと、約20年振りの再開を果たしました。数日前に、栢野さんから、「見つけた!23日、東京に行くから、久しぶりにお茶しない?」とのメッセージを突然いただいたのです。都内のホテルで、その前に打ち合わせをさせていただいていた、これまた栢野さんの知り合いという日本一のメルマガ「平成進化論」の鮒谷周史さん と3人でお茶をし、大いに盛り上がりました。


栢野さんは、いまや「弱者の戦略」や「小さな会社儲けのルール」などのベストセラーを何冊も出版し、講演も年間100回を数える人気講演家です。いまでこそ、確固たる独自の地位を築き、イキイキと仕事をこなしていますが、私がお付き合いしていた頃の栢野さんといえば、サラリーマンを辞めて独立したばかりで、お金もなく、何をすべきかもわからず、ひたすら彷徨い続けていました。食事はデパ地下の飲食店で済ませるみたいな生活をしていたのを覚えています。(失礼!)ただ、彷徨ってはいましたが(私も同じでしたが・・・)、とにかくアクティブで、いろんな所に顔を出しまくっていました。私は、20代の後半に、ある会社の経営を任されたことがありますが、そのご縁を作ってくれたのも栢野さんでした。とにかく、ご縁のある方でした。私が彼のことが好きだったのは、その開けっ広げな性格でした。とにかく飾らない。格好悪いこともみっともないことも、何でもしゃべってしまう。良く言えば正直、悪く言えば愚直。そんな性格が災いして、トラブルも多かったかもしれません。その後、実家の福岡に帰らざるを得なくなって、それ以来、年賀状以外のお付き合いはとぎれてしまいましたが、やがて、活躍の噂を耳にするようになりました。他の誰かの真似をしたり、変に飾ったりはせず、等身大の自分で、体当たりで勝負する。そんな開き直りの精神が、多くのファンを惹きつける、彼の最大の魅力なのだと思います。あれくらい裸で勝負できるような、そんな人間になりたいと思った千代鶴でした。(誉めすぎ。でもありがとう!!栢野)



◇朝6時会に参加のアホ坂本さん。             ◇そうか。芸能人か。スピリチャルはレクレーション
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◇大阪セミナー。祝日休日なのに参加ありがとうございます!夢系6:戦略4。
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「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例

以下は大阪主催・ファーストクラス・小石さんのブログ より


先程帰って来ました(おおっ2時だ) 。本日は、栢野克己氏講演会 「弱者のための成功戦略~今からでも間に合う人生の勝ち方」。 朝から天候が悪い中、たくさんの方にご来場頂きました。講演内容は栢野節炸裂、というか笑いあり学びありの3時間でした。 大手と同じことをしていてはダメ、しかし戦略だけでも夢だけでもダメです。 当たり前のことを本当にコツコツやらないと。 10万回、ド真剣にありがとうを言わないと(笑)。 参加者の方とも触れ合うフレンドリーな内容で、 何回でも聴きたい講演です! 懇親会は大スパーク。 再度みんなで自己紹介! みんながそれぞれ決意を言う! 愛のあるお酒の席でした。 前向きな人達ばかりでとても有意義でした。 途中で京都セミナーと言えばの立石剛さん飛び入り! むらえもんさんや木村典子さんもいたのでセミコンだった模様。 あとはプライベートでお友達とまた飲んでました。色々乗り継いで帰ってきましたが楽し過ぎました。 今日会った全ての人へ、良い日をありがとうございます。 感謝しかない。


 ◇100円ショップ靴下は全部こんなカンジ。        ◇「ありがとう」って伝えなければ。
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10/12福岡「著名・偉人・経営者500人」集会!

        <長谷川さんの古希を祝い壮心を聞く会>


「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例 実は仏壇世界一「はせがわ」Wiki 日本ニュービジネス協議会 の長谷川会長古希70才の集いだが、こんなメンバーが一同に集まること+会えるチャンスは滅多にないので、皆さんにも公開します。遠州流のお茶会も経験できます。これで3000円は超お得です。元総理の安部晋三さんも参加。会場で、または終了後、大いに語り合いましょう。栢野人脈も紹介します。


◆日時・2010年10/12(火)13:30~17:00(出入り自由)

◆会場・ホテルオークラ福岡4F(中洲の北・福岡市博多区上川端・地図)

◆会費・3000円(当日払)


参加者の一部

仏壇日本一・世界一「はせがわ」長谷川会長  インタビュー動画
自然食品通販で日本一「やずや」矢頭美世子会長

日本擁護で入国拒否された呉善花・韓国生まれの日本評論家・拓大教授

「ベストセラー51万部「美しい国へ」著者・安部晋三・元総理大臣

日本武家茶道の源・遠州流・小堀宗実・13世

■明太子日本一「ふくや川原社長■ホワイトデーの創案者「石村萬盛堂」石村社長■九州電力・松尾会長■JR九州鉄道・石原会長■以下の会長社長■セルコムメディコ■福岡銀行■西日本シティ銀行■三和酒類■ゼンリン■西鉄■麻生■井上喜■レイナ■トーマツベンチャーサポート■九電工■フラウ■岩田屋■雑穀米のベストアメニティ■サクセスパワー福岡■九州ベンチャー大学■インタークロス


◇第1部・お茶会13:30~14:30 遠州流(滅多にできない経験です)

◇第2部・セレモニー14:30~ 

・渋谷ちかみミニコンサート・オペラ椿姫より

・安部晋三もと総理と長谷川会長の対談

・日本文化を語る・遠州流小堀氏+呉善花の対談

・「明日、何をするか」講演・長谷川会長


■参加申し込み ・氏名・会社名・連絡先を・以下は「栢野」の連絡先です。

・メール 申込フォーム  または kaya@hf.rim.or.jp  

・FAX 092-781-5354 

・電話 092-781-5252 090-3604-6735 ←質問・問い合わせ

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●東京で失業者。人生やり直し


 まさに人生の敗北者。30才を前にして、今後の人生をどうしようか考えた。もはや大阪にはおれない。恥ずかしい。この土地を出るしかない、出たい。というか、逃げたい。どこへ行くか。故郷へ帰るか。それも嫌だ。恥ずかしいし、都落ちで帰りたくない。


 ならば、リクルート時代、少しは良いことがあった東京だ。土地勘もあるし、良くも悪くも東京は懐が深い。人口が多い東京砂漠だから、人のしがらみもない。成功を目指す人も、失敗した人も、すべてを受け容れてくれるのが東京だ。


 以前のリクルート人材センターへの復帰というか、正社員での中途入社ができないかどうか、一縷の望みを託して前の上司の澄谷さん経由で尋ねたが、結果は不可。そうだろう。こんなダメ人間が採用されるはずがない。


 しかし、ともかく東京へ出よう。東京の清瀬に住んでいた弟を頼り、数日泊まって自分のアパートを探した。そして残り少ない貯金を計算しながら、再就職活動を開始。といっても、最初の3カ月は就職情報誌を眺める程度で、毎日、近所の川や海へ車を走らせた。 やはり心の痛手は大きく、なかなか履歴書応募する意欲が湧かない。日々、ユーミンとサザン、オフコースなど失恋の歌を聴きながら、傷ついた心を癒していた。


 俺はなんでこうなったのか。今回の退社原因はリース会社の仕事が合わなかった、できなかったこと。仕事が自分の能力の限界を超え、ウツ、ノイローゼになった。


 が、以前から仕事には違和感があった。合わなかった。リクルート時代のようなやり甲斐やワクワク感はなかった。でも、同じ職場で嬉々と仕事している同僚は沢山いた。だから。私個人の職場不適合。単純にダメなヤツだったのだ。


■4社目:(株)ミッドに入社


●大企業を諦める


 東京に出て2ヶ月が過ぎた頃、元婚約者から手紙が来た。


「あなたを待とうと思ったが、やはりもう心が離れました。新しい人もできました。さようなら」


 実はあんなサイテー事件の後も、彼女は「あなたが再起するのを待つ」と言ってくれていた。今回の破談は100%自分の責任。彼女に落ち度は全くない。彼女にとってはまさに青天の霹靂。結婚披露宴の1カ月前に社内恋愛の新郎がノイローゼで会社を辞めるとは。本当に俺は最低の男だ。捨てられて当然。彼女にとっては破談で良かったのだ。(風の噂で、今は幸せな人生らしい)


 しかし、ともかく働かねばならない。3カ月が過ぎ、貯金も無くなってきたので就職活動を開始。株式上場しているセンサーのキーエンスは、まあ受かるはずはないと軽い気持で応募したが、意外にも一次試験、二次面接を通過。「おいおい、俺みたいな人間を採用しちゃダメだぜ」と心の中で心配したが、最終で落とされホッとした。


 「惜しかったねえ。君はあと少しだった」と人事担当は言ったが、俺はもはや一流企業には最初から落とされて当たり前の滅茶苦茶な人生。でも、俺の経歴=まあまあの大学で有名企業系に在籍していたことを過大評価したのだろう。30歳ですでに3社を渡り歩き、次は4社目になるのだが、表面上の学歴と社歴の知名度は相手によっては効果があるのかと思った。「真実」を隠しての転職活動は心苦しかったが。


 しかし、他の大手企業や大手関連会社にも応募したが、やはり、プロの人事担当の目は誤魔化せないのか、書類審査だけでことごとく落ちた。年齢のわりに転職歴が多く、どこも3年続いてない。勤務内容もヤマハとCSLは最悪だし、リクルートも少しは実績出したとはいえ、正社員試験に落ちている。そんな経歴に自分でも引け目を感じていたし、自信の無さが出ていたと思う。そして気づいたというか観念した。


 「栢野、お前の経歴はもはやズタズタではないか。表向きは名のあるヤマハ発動機、リクルート、IBM子会社の履歴だが、お前はビジネスマンとしては最低じゃねえか。


 リクルート時代はまあまあの実績だったが、正社員にはなれなかった。他の2社は両方とも仕事が出来ずにノイローゼ・ウツ退社。最低最悪の辞め方だ。


 なあ栢野。もう一流企業とかその系統の会社へ転職するのは諦めよう。

まぐれで入っても後で苦労するぜ。CSLみたいに」


 こうして大手系は諦め、中小ベンチャー企業へ就職活動をシフト。最終的には求人誌で見た(株)ミッドという従業員25名くらいのチラシ宅配ベンチャー企業に採用された。


●FC本部の中小企業へ転職


 ミッドはチラシやDMなどの宣伝物を、主婦組織を使って宅配するFC本部。今でいうポスティング会社の親玉だが、当時、全国約25都道府県にFC加盟企業を構築。全国に約5万人のミッドレディを500世帯ごとに置し、全国約4000万世帯中、約2500万世帯にチラシ類を配布できるネットワークを築いていた。


 FC加盟企業には東京コカコーラボトリング、加ト吉、プラント大手の日揮、九州産交運輸、長崎バスなど、意外にも各県で名の売れた名前が並んでいた。


 また、ミッドの栗林社長が書いた本「脅威のネットワーク・ビジネス」や「営業管理職が読む本」がビジネス書としてはベストセラーになり、ベンチャー系や一部の広告業界ではちょっとした話題の会社だった。


 栗林社長は元ミサワホームの営業本部長として、全国の地場企業と合弁でミサワホームの販売会社を設立。フランチャイズで全国販売網を築いた実績と経験を踏まえ、ニュービジネスに乗り出しているというふれこみだった。


 出社日は昭和63年、1988年12月1日。半年の失業者を経た初出社の日だったが、こともあろうに寝坊をして昼過ぎに出社した。いやはや最低の出だしで、もしかしたら採用取り消しになるかと思ったが、人事担当が「何をしている・・・」と一言苦虫を潰したように呟いただけで、粛々と入社手続きをした。


 四谷3丁目にあったその会社は、今まで勤めたヤマハ発動機、リクルート人材センター、CSLとは明らかに雰囲気が違っていた。それまでの会社はすべて大企業かその系列。今回は典型的な中小企業。ビルはもちろん、オフィスの玄関から内部のインテリア、社員の人相と外観・・・なんというか、落ちたなあと思った。


 先入観と偏見もあるのだろうが、すべてが見劣りする。ああ、俺は中小企業に来たな、堕ちたなと思った。同時に、ここなら俺の居場所もあるのではないか。俺のような汚れた経歴の人間が多そうな感じがした。


 健康保険証を貰おうとすると、総務の女性が言った。3ヶ月経ってからだと。なぜだと聞くと、入社してもすぐに辞めるかもしれないでしょうと。試用期間もあるのだろうが、やはりこの会社は人の出入りが多いのだなと思った。


 そして、一通り事務的な話が終わった後、その女性が小声で言った。


「社長がねえ、あんな男には惚れるなよ。女を不幸にするヤツだって言ってたけど、栢野さん、何かしたの?」


 「えー?何それ?・・なに冗談言ってるの?・・」


と私は直感的に受け答えして、薄ら笑いを浮かべて聞き流しながらその場を去った。


 「ばれている」


 社長は俺の過去を知っている。興信所か自分で調べたかわからんが、俺が前の会社を滅茶苦茶な状態で辞めたのを知っていると思った。一瞬、ヤバイとは思ったが、そんな人間でも採用せざるを得ないほど、中小企業は人材不足なのだ。過去を知られたのは恥ずかしいが、こちらも嘘や隠すのは心苦しい。なるようになれ。


 時は1988年から1989年に移りつつある12月。後で考えると、まさにバブル経済真っ盛りの頃。個人の人生が最悪だったからか、好景気やその恩恵はまったく感じなかったが、なんとか就職でき、固定給をもらえるようになったのは幸運だったのだ。


 仕事は対法人営業だった。新規事業を考える会社にミッド事業を提案し、FC加盟契約を結ぶ。ミッド事業とは、チラシやDMなどの広告宣伝物を一般家庭や事業所に配るポスティング事業。全国主要都市で宅配エリアを決め、約500世帯ごとに宅配する主婦を1人設置して配る。当初は宣伝物の宅配だが、近い将来は全国に商品の流通網・販売網を構築して物販を行う。そのニュービジネスをFCとしてしませんかと。


 日々、帝国データバンクや東京商工リサーチの企業名簿を元に電話をかけ、資料をFAXや郵送。FC説明会への参加勧誘を行った。我々下っ端の営業マンの仕事はそこまで。セミナー集客以降はベテラン営業マンがFC契約の営業を行った。


 当時すでに全国4000万世帯中、約2500万世帯にポスティングする体制にはなっており、そこに流すチラシやDM配布の受注営業もやった。配布料金はチラシで一枚2,7円からだが、私は飛び込みで営業に行った日本勧業角丸証券の本社営業企画部から、全国で配るポケットティッシュDMの配布を受注。新人としては受注額が1000万円を超える大型受注となり、入社早々鼻高々だった。


●自ら左遷を申し出る


 しかし入社3カ月が過ぎた頃、このミッド事業に疑問を感じ始めた。FC加盟には1000万円以上の加盟金と毎月のロイヤルティが必要だったが、黒字になっていたFCは皆無に近かった。「このFCは詐欺かも」


 現場のFCは日々マジメにチラシを配っているが、本部は口から出任せにFCを増やしているだけ。不信感が確信に変わったのは、幹部が元羽毛布団のマルチ商法に関わっていると知ってから。また、転職に失敗した。本当にオレはついてない。


 その頃、神奈川県相模原のFCが撤退することに決定。次のFCが決まるまで本部が直営で現場を運営することになり、誰か行かないかということになった。期間は3カ月。


 本部社員から見れば左遷人事のようなもの。が、私は手を挙げた。どうせこんな会社は辞める。しかし、FCの現場はマジメにチラシ配布作業を行っている。どうせなら現場を経験してから辞めよう。


 案の定、他に希望者はなく、すんなりと私の異動が決まった。実はその頃、本部事務員との社内恋愛に破れたこともあり、本部を離れたかったのだ。まったく俺は懲りない男だ。


 神奈川県相模原市。相模大野の駅裏にその事務所というか作業場はあった。清瀬の自宅からは遠すぎるので、私は相模大野の木造アパートに引っ越しをした。これで社会に出て6回目。毎年のごとく年賀状の住所が変わり、会社も変わっている。しかも、転職の度に会社の格も下がっていく。ダメ人間の証明をするようで、恥ずかしかった。


 事務所には撤退するFCの人がいた。FCの親会社は平塚の米問屋で、本業の苦境を打開しようとミッド事業にFC参画したが、毎年赤字の垂れ流しで撤退することになった。


 FCの所長は50代半ば。このあと親会社へ帰って閑職に飛ばされ、嘆いていたが、海運関係の資格をとって第2か第3の人生を歩もうとしていた。


 在宅でチラシを配るミッドレディ約200人の他、各レディを統括し、割り当てられたチラシを届ける主婦リーダーさんが15人。事務所の常駐は事務パートさん2名と私の3名で、この人員で相模原市約13万世帯をカバーすることになった。
 
 クライアントは車ディーラー、薬屋、不動産、宅配ピザ、クリーニング屋、飲食店、塾、スーパーなど。仕事の大半はチラシ配りで、新聞折り込みが1部3円のところ、我々は2円70銭で配った。クライアントから印刷物を受け取って事務所内へ運び込み、エリア事の仕分け作業。それをエリアリーダーに渡し、各エリアのレディさんが毎週木曜、金曜で各家庭のポストに配る。これが一連の仕事の流れだった。


 私の仕事は営業所長代理として、ミッドレディ全体の統括と顧客への営業。だけのはずだったが、思いもかけぬ重労働が待っていた。


 赴任してすぐ、本部が決めたオフィスに移転することになった。家賃のコストダウンのためである。しかし、そのオフィスを訪れて愕然とした。以前は1階で約20畳だったが、今度はマンション2階の10畳。しかも1階から2階へのエレベーターがなかった。


 ポスティングするチラシは、まずオフィスでエリアごとの仕訳作業をする。そのために受注したチラシを2階まで上げねばならない。紙のチラシは数枚程度はなんてことないが、まとまると重い。毎週では何十万部で数トンになる。


 これをマンション1階から2階まで人力で運ぶのは相当な労働となった。かつ、マンション内でエリア毎に仕分けした後は、再びチラシの束を1階で待つリーダーさんの車まで人力で運ぶ。逞しい主婦の方が多かったとはいえ、女性が重い荷物を運ぶ作業を無視できない。レディさんとの人間関係を築くためにも、私は積極的にチラシ運びを率先した。


 また、相模原市内のエリアは約200ヶ所あったが、毎回どこかのレディさんが休みになり、換わりに私や内勤の女性が配りに行った。1エリア500世帯にポスティングするのに2時間はかかる。1000世帯や2000世帯配ることもざらで、私は上半身ワイシャツにネクタイ、下半身はジーパンで、汗みどろになってチラシをマンション事務所に運び上げ、荒野の部分も多かった工業地帯の相模原の家にチラシを配布した。


 当初は新しい職場に来た緊張感と新鮮さもあったが、すぐにまた落ち込んだ。


「俺はいったい何をやっているんだ。こんな場所でこんな肉体労働を」


 世間的には名のある大学を出たのに、つぎつぎと転職に失敗。結婚にも失敗し、気づけば30歳を越えている。やっているのはチラシの運搬作業と配布作業。ここは首都圏とはいえ、東京都内からは2時間弱もかかる田舎。会社は無名の中小企業。さらに俺がいるのはその末端の代理店が撤退した後の、チラシだらけのワンルームマンション。


 落ちたなあと思った。本当に俺は落ちた。落ちる所まで落ちた。人生の落伍者だ。毎日毎日、営業の合間やチラシ配布のあと、埃っぽい相模原の台地に沈む夕陽を見ながら、自分の人生の黄昏を感じた。なんで俺の人生はこんなことになったのだ。


 しかし、当初3カ月だけの営業所運営の予定だったが、事務所を大幅にリストラしたことで、なんと黒字に転換。FCが見つかるまで継続営業することに。これは誤算だった。 当初は3カ月で辞めるつもりだったが、現場は一所懸命に頑張っている。近隣に接する町田の東京コカコーラのFCとも仲良くなり、立場上辞めにくい。

 まあしかし、次にやることも思いつかない。そのまま、毎日単純作業を繰り返し、気づけば半年があっという間に過ぎた。


●転職活動?を開始


 このままでは茹でガエルになる。ダメになる。会社にも未来がない。会社の中で自分なりの生きがいとかやり甲斐とか、夢や目標を見いだせない。自分の能力不足もあるのだろう。が、とにかく、今のままではダメだ。もう32歳。既に4社目。どうするか。


 幸い、この事務所には上司がいない。行動は好き勝手にできた。その点は自由で良かった。かつ、弱小事務所とはいえ、パートが大半とはいえ約200名のマネジメントする立場だ。まあ、実際はほったらかしというか、現場の主婦の方に自主的に動いてもらったが、今までにはなかった経験だ。


 そんな時、同じ主婦組織で面白いタウン誌を発行・配布している会社があると聞いた。横浜本社の「ぱど」。社長は荏原製作所からの出向で、会社の新規事業として無料配布のタウン広告情報誌を発行していた。同じ広告系の主婦組織と言っても、こっちは単なるチラシ配りで、「ぱど」は個人広告+商業広告でしっかりとした自社媒体に仕上げている。


 憧れの気持とあわよくば転職できないかとの想いもあり、社長の倉橋さんに思い切って電話して会社を尋ねた。1990年当時でオフィスにはパソコンがズラリと並び、20代の若者が熱気ムンムンで仕事をしていた。起業のヒントは、倉橋さんがアメリカで見た個人広告情報誌だというが、「ぱど」の電子出版プログラムは倉橋さんが自分で作成したという。何もかもがミッドとは比較にならない。素晴らしい。


 倉橋さんから転職の打診も遠回しに受けたが、「ぱど」は20代中心の会社。30歳過ぎの自分が入っても追いつけないと思い、後ろ髪を引かれるように事務所をあとにした。


 <その後「ぱど」は全国に展開し、発行部数は毎週約1200万部と世界一に。株式も公開して大成功をしている>


 もう一社、東京に「ドゥハウス」という会社があった。こちらは主婦組織で、食品や家電などの大企業商品企画室などから、モニター・アンケート・市場調査を受注していた。私が会った創業者は小野さんという、学生運動のリーダーのような魅力的な雰囲気を持っっていた。その後に社長となる稲垣さんは、台所に飛び込んで主婦の日常を調査する泥臭さを持ちながら、高度なマーケティング理論をわかりやすく話す論客。


 このドゥハウスにも憧れて転職も考えたが、やはり自分の能力や年齢を考えると、もはや太刀打ちできないと諦めた。


 が、こんな感じで相模原から都内に行く機会が増え、セミナーや異業種交流会というものがあると知った。そこには様々な会社のサラリーマンや中小企業の経営者が参加していたが、私と同じように模索している人も多くいた。


 自分の進む道がわからなかった私は、他の人はどうやっているのか、人生勉強のために参加した。そして、転職ではなく、「独立起業」という選択肢があることを知る。


☆明日のために・その6/この「ぱど」「ドゥハウス」の社長とは、起業後に貴重な人脈となった。気になる人には思い切って会いに行こう。井の中の蛙にならぬよう、異業種セミナーにも出てみよう。


●独立起業への芽生え (つづく)

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●格上の会社へ転職成功!                                 友人が世界一周中


 26才にして3社目の転職活動は苦しかった。リクルートの正社員試験は1年後、またチャレンジできる機会もあったが、その時の私には、「お前は必要ない」と言われた相手に、再びアタックする勇気と自信はなかった。


 バイト契約社員の身分のまま、かつ、アルバイトを統括するリーダーという名の閑職の合間に、試験落第から3カ月ほどして徐々に転職活動を始動。帝国データバンクや日経BPの営業マン、新卒採用でリクルートと同業のダイヤモンドビッグ社、外資系広告代理店のスタンダード通信社、キャノン販売などを受けたが、ことごく落ちた。


 一方では、リクルート100%出資の専属代理店から誘っていただき、グループも仕事内容も同じだったのでかなり心が動いたが、今さら「お前はいらない」と言われた会社の格下組織に入るのは、一生、リクルート本体への屈辱心を持ちそうで辞退した。


 そんな頃、リクルート人材センターから人材紹介業で独立したばかりの先輩を訪ねた。雑談をしている中で、半ば冗談でCSLを受けないかという話が出た。略称CSL、正式社名コンピューターシステムリース(株)は、各業界でトップの日本IBM、オリックス、モルガン銀行の3社が設立したIBM専門のリース会社で、当時の中途採用市場ではちょっとした話題の会社だった。


 毛並みの良さと将来性で人材紹介業、転職希望者双方に人気があったことに加え、東大や京大、早慶などの一流大学卒かつ一流企業の職歴の応募者でも、なかなか合格しなかったからだ。いわば、転職市場における難易度・偏差値が高い会社だ。


 当然、私も知っていたが、まさか自分のような中途半端な経歴の人材が採用されるはずがない。が、もし受かれば華々しいこと。ある意味でリクルートよりも偏差値が高い会社に合格すれば、俺を落としたリクルートの連中に鼻が高い!そんな見栄と虚栄心に加え、受かるはずもないという気軽さから試しに受けてみたところ、なぜか合格してしまった。これには自分も周囲も驚いた。


 でも、この会社なら自慢できるし、周囲への転職理由も説明もしやすい。リクルート社内では、栢野は正社員試験に落ちたからリクルートを辞めるのは周知の事実だが、社外の人への説明がしにくかった。対外的には俺はリクルートの正社員。仕事にも満足している、頑張っていると見られていたはずだし、自分でもそう振る舞っていた。


 それが格上のIBM・オリックス系の会社に転職するのであれば、世間体も問題ない(この世間体を優先したことで後日、またも墓穴を掘ることになるのだが・・・)。


 26才にして3社目の転職はある意味恥ずかしかったが、CSLなら問題ない。今ひとつ、どんな会社でどんな仕事なのかわからないが、会社の経歴や内容では、リクルートのメンバーや友人知人に自慢でき、俺の自己顕示欲も十分満足できる。これ以上の転職先はないなと、CSLへ転職することを決めた。


 入社の意志を伝えた後、配属先が大阪になると聞かされたとき、公私ともに気に入っていた東京を離れるのは寂しかったが、再度の転職活動の労力やCSL以上の会社へのチャンスは滅多にないと自分へ言い聞かせ、私は大阪へ旅立った。


■3社目の転職:IBMとオリックスの合弁会社へ 


「サラリーマン・人間失格で自殺未遂」


●学歴コンプレックス


 CSLはその数年前に設立されたばかりの新会社で社員は50名程度だったが、株主は前述したとおりの大御所ばかりで、資本金も30億円あった。社長は日本IBMの専務取締役が兼任。ナンバー2はオリックス、ナンバー3はモルガン銀行からの出向。部長以上も全員が3社からの出向で、課長以下はほぼ全員がプロパー。


 私が転職した前年に新卒第一期生が入社した他は中途採用だった。大企業の子会社なので生え抜きのプロパーが社長になれる可能性は低かったが、新会社で会社は毎年倍々成長。各部署でのポストも増え、出世の可能性は十分あった。


 しかし、入社早々、軽いジャブを立て続けに受けた。入社手続きをしている最中、人事の天野さんが私の履歴書を見て「ほう、立命館か、珍しい」。CSLは無名だが中途採用市場では最難関クラスの会社で、親会社はそうそうたる一流企業。入社をクリアするには、日本IBM、オリックス、モルガン銀行3社の基準を満たさねばならなかったが、それは実力に加え、相当の学歴も必須だった。


 少し不安はあったが、やはり社員の出身校は東大や早慶を筆頭に一流大学ばかり。偏差値では私の立命館レベルが一番下だった。配属された大阪支店では、同志社大学や関西学院大学出身者がいたが、立命館は関西大学と並んで社内では最低クラス。


 天野さんは慶応出身で、格下学歴の私を露骨に見下してきた。他にも、同じ関西で「関関同立」と同じ枠で括られているが、上格の同志社や関学出身者からは白い目で見られた。自意識過剰かもだが、不利な状況だなと感じた。


 出身大学による就職差別や出世差別。バブル崩壊後、実力主義への移行で無くなりつつあるとは言うが、いわゆる一流大企業では今もかなり残っている。私の時代も東大早慶などのAクラス、その他東京六大学や関関同立のBクラス、それ以下のCクラスの大学と。


 ヤマハ発動機の場合、一流大企業にしては「多彩な」出身大学の採用だったが、それは同業他社では高卒がやる仕事だったからだ。あとで知ったが、ヤマハ発動機でも本社の管理職候補と研究開発の理系新卒採用は一流大学出身者で、私ら現場兵隊・大量採用社員とは別枠だったらしい。


 リクルート社の場合も、社内は完全実力主義ではあったが、正社員の学歴は一流大学卒が非常に多かった。
 とにかく、よく考えれば前々から予想はついたが、私はCSL内では学歴で最低だと認識した。学歴一覧などはないし公表もされてないのだが、ほぼ全員が誰がどこの大学出身かを知っていた。私も含め、この手の会社ではそういう人種が多い。


 仕事で実績を上げると、「あの人は東大だから」、失敗すると、「やっぱ三流大学だしね」と人間自体を見下す。これは中小企業や起業家の世界ではほぼ皆無だが、当時の私は、学歴重視+見栄えのするエリート系企業のサラリーマンであることに価値があると思っていた。


 しかし、社内で学歴最低。これは相当なプレッシャーとなった。かつ、26才で中途入社したばかりということは、実務実力も最低。だが同年齢はもちろん、新卒入社の24才や25才の年下社員に負けるわけにはいかない。早く中堅社員としての力を付けねばと、日々焦っていた。


●この道はいつか来た・・嫌な予感


 入社数日後、実際の仕事に同行するようになり、なんとなく嫌な感じがした。CSLはIBMコンピューター専門のリース会社。リースとは、簡単に言えば長期のレンタル・賃貸契約みたいなもの。IBMのコンピューターは当時、一式入れると数千万円から数億した。


 導入する企業は現金で購入するのではなく、長期契約で毎月のリース料を分割支払いとすることが多かった。我々リース会社の役割は、コンピュータを導入した企業に換わってIBMへ一括で支払い、導入企業からは5年前後のリース契約を結んで毎月リース料を回収する。個人生活で言えば、カード会社や信販会社とほぼ同じ役割。


 IBMにとっては、売ったコンピューターが即現金で回収でき、企業側は手持ちの現金がなくても気軽に分割払いできる。リース会社は銀行などから資金調達し、毎月のリース料に調達金利以上をオンし、その差額で収益を上げる。


 我々リース会社の営業マンの仕事は、いかに多くのリース契約を取るか。契約先はIBMのコンピューターを導入する企業。その導入会社をいかに探すかがキーポイントとなるが、一番手っ取り早いのはIBMの営業マンから情報を入手すること。つまり、我々CSL営業マンの仕事の最初は、IBMの営業所を訪問し、IBMの各営業マンに会い、IBMのコンピューターを導入することになった企業を紹介してもらうこと。


 いち早く、IBMコンピュータ導入情報を取得し、他のリース会社よりも早く顧客企業にアプローチ。与信審査を通し、一番大事なのは、他のリース会社と競合しないこと。競合すると、リース料の値下げ競争になることが多く、当然、利益は減少する。


 いかに早く顧客情報を入手し、合い見積もりにならないようにするか。それはマメにIBMの営業マンと接すること、日々、IBMの営業所に顔を出し、「何かあったらよろしくお願いします!」と愛想を振りまくこと。


 これはどこかで経験した嫌な感覚。そう、ダメだったヤマハ発動機時代のルートセールスと同じだ。主導権が取れない営業。コバン鮫、金魚の糞。人が苦労して取ってきた案件におんぶにだっこ。しかし、逆に言えば「ウ飼いの鵜将」と自分を慰めたが・・・。


 私はIBMの営業マンにペコペコするのが嫌で、自分で飛び込み営業もしてみた。CSLはIBM専門のリース会社だったので、「IBMのコンピューターはいりませんか?」と。リクルート時代で実績を上げた、新規開拓営業力を見せてやるぞと。


 しかし、数十万円程度の広告とはわけが違う。IBMのオフィスコンピューターは、小型でもハードとソフトを合わせ最低でも一千万円前後。かつ、私はコンピュータのことは何も分からないど素人。1週間程度だったが、飛び込みは空振りに終わった。


 仕方なく、IBMの営業所廻りで愛想を振りまくしかなかった。ブラッと顔を出し、IBM営業マンと目を合わせ、彼らが営業先に出す提案書のリース料試算をする。総購入金額と機器の種類とリース期間と残務価値(中古価値)を金利計算できるヒューレットパッカードのポケットコンピュータに打ち込み、「はい。それだと月々のリースレートは1,9です」とか。実に退屈な営業だった。


 極端に言えば、相手に提示できるのは値段だけ。企画や提案はほとんど関係ない。IBMのリース子会社なので、IBMが全部主導する。中には複雑なリース取り組みもあり、裏では複雑な金利計算や契約条項の練り直しをするような案件もあったが、表向きは毎月のリース料の安さが勝負だった。


 会う相手もIBMの営業マンの他は、コンピューターを導入した企業の電算室担当者のみ。こっちは単なるリース屋。相手もこちらもお互い、コンピュータを通じた経営合理化とか戦略の話し相手にはならない。リクルート時代に比べると、経営者に会う機会も皆無に近く、いわゆるやりがいに欠けた。


 もちろん、皆がそうではない。私個人の能力やヤル気不足が一番の原因だ。


 こうして、IBMの営業マンからリース料の見積もり計算を依頼されるのを待ち、単調な計算をし、競合のリース会社が出れば、うやうやしい安値了解を求める稟議書を書いた。 なんというか、パワーがエンドユーザーではなく、身内のIBMと稟議を通す社内に向いている。かつ、自分に合っていない、自分より高学歴で仕事もできる人が多く、今後の出世の可能性も低い。違和感がある。


 などと思いながらも、社会に出て三社目の会社だ。もう辞めるわけにはいかない。


●新人教育が出来ない!


 翌年、新卒の社員が大阪支店に数人配属されてきた。私にとっては後輩。年齢は5才ほど下だった。その頃には社内にも仕事にもなんとか慣れ(たと思っていたが)、社内の若い連中と週に数回はカラオケに行ったり、週末にはテニスをやったり、正社員としてのサラリーマン生活を楽しめるようになった。


 ヤマハ発動機の時は入社9カ月でノイローゼ退社、リクルートは3年弱勤めたが正社員になれず、身分が安定していた時期はなかった。やっと手に入れた正社員の身分。しかも、世間的には無名だが、CSLは資本金30億円の大企業。かつ、入社2年を過ぎた頃に社内恋愛を始め、目出度く婚約。仕事に恋に、人生で最高に充実した時期を迎える。


 まさに我が世の春を謳歌していた中途入社3年目の春、私に初めての部下が出来た。同じ立命館大学出身で新卒入社の女の子。美人で隠れグラマー。心がかなり動揺した。


 私は新人教育係として、日々、彼女と行動を共にするようになった。同じような教育係は大阪支店では私の他に4人。役職はないが、入社3年目、4年目の中堅社員。新しい競争の始まりだ。普段の営業の他、教育係として、いかに新人を育てられるか。マネジャーの登竜門、管理職への一歩。実はこれが私の、地獄への転落のはじまりだった。


 新人からは様々な質問を受ける。しかし、私はほとんどマトモに答えられない自分に愕然とした。曖昧に仕事をこなし、難題を誤魔化してきたつけが来たと思った。他の教育係に比べると明らかに見劣りする。「いかん。こんなところで汚点を表面化させてはまずい」。その焦りがますます私を追いつめた。


 私は初夏に社内結婚を予定していた。しかも相手の父親は親会社IBMの管理職。ここで粗相をしでかすわけにはいかない。式まであと3カ月弱。一番格好をつけねばならない時期。しかし、新人に何も教えることが出来ない。今さら周囲に聞くわけにも行かず、焦りに焦った。


 そして運悪く、私にとっては複雑で難しい案件がIBMから来た。リース料の計算、契約条項の変更稟議、与信審査などを巡り、私はIBMと社内との板挟みになった。おそらく、社内の平均的な社員にはそう大した案件ではなかったが、私には難しかった。


 しかし、新人の教育係も兼ねていため、「その程度もわからないの?」とバレルのが恐く、問題は上司に相談しなかった。そして自分で抱え込み、事態は益々悪化していった。


●あの悪夢が甦る


 5月の連休を悶々とした気持ちで過ごし、6月になる頃には朦朧とした日々が続いた。業務は何とかこなしている。しかし、影では隠した未処理案件がある。新人教育も行き詰まっている。一方で結婚式は1カ月後と目の前に迫る。披露宴の招待状もすでに出した。今は人生で一番カッコつけねばならぬ時期なのだ。


 が、ある日、私は会社を休んだ。体調が悪いと。あのヤマハ発動機時代の悪夢が蘇った。出社拒否。私は仕事から逃げた。


 うまく行かない。通常業務がこなせない、部下を指導できない。つまり、私はダメ社員ですと証明したようなもの。1カ月後には社内結婚する予定なのに。そのプレッシャーは文字通り私を潰した。


 出社拒否と出社を繰り返し、悩んだ末、生まれて初めて精神科の門を叩いた。精神科に行くこと自体がサラリーマン失格と思ったが、悩みが薬で治るならと。


 結果は「うつ病」。やる気がない、落ち込んでいる・・・。が、それは仕事ができないから。出世競争に敗れたから。一番大事な結婚式前に恥ずかしい事態になったから。原因ははっきりしていた。


 数日休んだ後、なんとか這うように会社へ行った。その週末、社内ゴルフコンペがあり、3人のパーティと廻った。病気明けで体に余分な力が抜けたからか、ドライバーがジャストミート。得意げに、同じパーティだった白石常務の顔を見た。


 ところがその顔は私のナイスショットには感心もなく、明らかに軽蔑の表情。


「お前は仕事に行き詰まっているらしいな。うつ病だって?社員失格じゃないの?ああ?」


と声が聞こえるような顔だ。


 愕然とした。打ちのめされた。同時に、終わったとも思った。


 もうダメ社員だとばれてしまった。もうダメだ。心の中の最後の緊張の糸が切れる音がした。精神的に弱っている人間を殺すには、無視する、軽蔑する表情だけで良いのだ。
 
 それから数週間のことはよく覚えていない。またも出社拒否。もう会社は辞めるしかない。同時に社内恋愛の結婚もお終いだ。


朦朧として会社に辞表を提出。式場に破談を伝えに行き、披露宴の案内状を出していた友人知人に電話をした。


挙式直前の破談。最低。恥ずかしい。


 電話を受けた友人も、破談になったと伝えた瞬間、理由も聞かずに「まあ、よくあることだから」と慰めてくれたが、気まずいのか早々に電話を切られる。


 もうすべてはお終いだ。人生で最も大事な、仕事、女・家庭、そして友人知人・親類縁者の信頼も一気に失った。仕事と私生活すべてを失う大失態。まさに自滅だった。


●自殺未遂


 本来なら、会社の上司・同僚・先輩・後輩、取引先、友人知人、親兄弟や親族一同・・・・自分の今までの人生で一番大事な人たちに、一番かっこよく見せ、人生最高の時を迎えるはずだったのに、まさに天国から地獄への転落。婚約者はもちろん、周囲にも多大な迷惑をかけた。全部、自分の責任。最低最悪。こんなに惨めで恥ずかしいことはない。


 絶望


 まさに望みは絶えた。俺はもう生きる価値はない。死ぬしかない。マイナス発想100%。友人知人のすべては去り、声をかけてくれる人もなく、助けてくれる人もなく、自分でも何をどうしたらいいか全くわからない。相談する相手も頼る人もいない。逆の立場で考えれば、こんなサイテーなヤツとは関わりたくないはず。当たり前だ。


 こんな人間は生きる価値はない。すべては終わった。


 朦朧とした意識で、私は夢遊病者のように外へ出た。自宅だった大阪府茨木市千里丘のアパート近くにJR京都線があり、鉄道自殺を考えた。が、踏切で事後の損害賠償で家族に迷惑がかかるらしいと気づき、かつ、バラバラ切断は痛そうだと引き返す。


 ガス自殺は痛みはなさそうだったが、爆発したら周囲に迷惑がかかるし恐い。次は睡眠薬自殺を考えた。これが一番安らかに死ねそうだったが、実際に薬局に行くと「すみません。睡眠薬を下さい」となかなか口に出せない。結局、リポビタンDを買って帰ってきた。


 ビルの屋上からの飛び降り自殺も考えたが、私は高所恐怖症で怖い。


車にひかれるのはどうだ。刑事ドラマなんかで、追われた犯人が道路に飛び出して車にぶつかり、宙に飛ばされて息絶えるシーンがある。あれなら即死でいいかも。


 実際に大通りに出かけ、歩道から車道に「さあ、行くぞ!」と何度か飛び出そうとしたが、かけ声だけで足が動かない。やはり死ぬのは怖い。死にたくない。そう考える余裕はあったようで、自殺は諦めた。


 すべてが白紙になった最後の出社日、会社を出るシーンはよく覚えている。机を整理して持ち物をカバンに入れ、ばつの悪さと恥ずかしさで頬が震えた。それを誤魔化そうと薄ら笑いを浮かべながら、頭だけを中途半端に四方へ下げ、逃げるように出口へ向かう。


 皆が仕事をしながら、横目で私を見ているのがわかる。


「あーあ、栢野さんは結婚式1カ月前に会社を辞めるなんて。仕事も結婚も滅茶苦茶ね。何とも無惨」


 本来はキチンと退社挨拶をするものだろうが、とてもそんな余裕はない。送別会もない。会社側も腫れ物に触るような感じで、何も言わなかった。


 社内の元婚約者は皆と同じく、私が出ていくのに気づかないように仕事をしている、ふりをしている。無理に笑顔を浮かべ、健気な姿が痛ましい。


 本来なら、今頃はホテルで挙式と披露宴をしていたはず。女性にとって、結婚式は一生のうちで最高の思い出になるのに、俺がすべてを滅茶苦茶にしてしまった。


 俺は人類史上最低の男。日本一、最悪最低な人間だ。本当に申し訳ない。しかし、私は一刻も早く、この場を去りたかった。


☆明日のために

・この後も多くの失敗挫折をしたが、自殺まで考えたのはこの時だけ。何度も悩む人生になったが、「あの時に比べれば」と持ちこたえた。どん底経験は必ず活きる。人生に無駄はない!


●東京で失業者。人生やり直し (つづく)

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1、4冊目「やずや七転び八起き」本が10万部になる。年内に。以下、全部<電子出版>も

2、「弱者の戦略」がさらなる増刷になる。文庫本になる。英語版が出る。計5万部

3、「小さな会社☆儲けのルール」がさらに増刷。文庫本になる。計15万部

4、「ボクたちの世界一周」が増刷、新書・文庫本になる。3万部

5、「逆転バカ社長」「大逆転!バカ社長」がさらなる増刷になる。5万部

6、5冊目「竹田陽一物語/あなたもコンサル講師著者になれる」を年内出版・共著・3万部

7、6冊目「人生を逆転する最強の法則」改訂版を出す。年内同時に。共著・10万部

8、7冊目「もし中洲のバカ社長がランチェスター経営を学んだら」2010年3月出版・10万部

9、8冊目「人生の復讐」が第21回・北九州市自分史文学賞受賞・2011年

10、9冊目「経営人生計画書の作り方」2011年5月

11、10冊目「人生は逆転できる!」2011年8月

12、海外放浪体験の本を出す。2012年


以上が本にならずとも、DVD・CD・ダウンロード・直販の電子出版・ブログ・ユースト他が順調だ。


13、国内講演は年間50回×20万円

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15、ベンチャー大学を年6回

16、経営人生計画を年6回

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19、海外の旅を年間5回・バングラデシュ・アフガン・トルコ・中央アジア・ロシア・北朝鮮

20、世界200ヶ国まであと155ヶ国。毎年10ヶ国としてあと15年。完遂する


21、自分と家族の健康。いろいろ苦難があっても「終わりよければすべて良し」になる。

22、親友を少し増やす。最後は家族と友しかいない。


23、紆余曲折あっても個人報酬年間1000万円~が維持できている。ありがとうございます。

24、50にして天命を知り、60にして耳順う。70にして心の欲する・・のとおりの人間である。

25、孔子の人格と阿修羅の闘争心を持つ男になった。100才で。

26、常にすなお、傲慢だが謙虚、相手の話に耳を傾ける人間である。


27、めくるめく様なSEXをする。たまに。妻以外とも。バレテも問題にならない。

28、私と会った人はガンガン幸せになる。私は幸運パワーを持つ人間だ。

29、自己超越の人である。

30、も少し広いマンションか一戸建てに引っ越す。中古キャッシュで。無理ない範囲。

31、宝くじ3億円当たり、自分らは1億で2億は他人に使う。相手がダメにならないように。

32、ユーストに話すだけで自動的に本・DVD・CD・ブログ・ツイッターになる。
33、実は性格の善い人間だ。

34、

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■2社目。リクルート人材センターへの転職


●公務員試験の前にバイトでもするか


 本気で決断したのではなかったが、とりあえず警察官採用試験の参考書を買ってきた。ただ、試験は来年の夏だ。それまでには半年以上も時間がある。ヤマハを辞めたことは実家には話していないし、恥ずかしくて田舎には帰れない。当分、この東京に居続けねばならぬ。そのためには稼がねば。


 何かバイトでもしようと、週刊就職情報という求人誌をめくっていると、日本リクルートセンター(現在の(株)リクルート)という会社が、原稿取材のようなアルバイトを募集していた。


 日本リクルートセンター? 下宿にダンボールで山のような就職情報雑誌を送ってきた会社だ。自分は大企業しか行かないと決めていたから、情報源はダイヤモンド社の上場企業ガイドしか見ず、リクルートブックはほとんど見ずに捨てていた。


 仕事はあの雑誌に載っている企業情報を取材することか。なんだかよくわからないが、取材バイト程度ならできるかも。大学時代、ゼミ論文で外食産業の実態取材でいくつかの会社に訪問して取材したことがあった。バイトだし、気軽に受けてみるかと試験へ応募。


 ところが、試験会場へ行って驚いた。たかがバイトの試験なのに、面接官が6人もいる。なんでだろうと思いながら、ヤマハを辞めた理由や自己紹介を、どうせバイトだからと脚色することなく平然と話した。・・のはウソだな。ダメ社員でノイローゼ退社した・・ことは言わなかった、隠したと思う。


 結果は日本リクルートセンターではなく、その子会社のリクルート人材センターでの採用通知。バイトだし、別に本社でも子会社でもなんでもいい。


 こうして西新橋にあった(株)リクルート人材センター(現在のリクルートエージェンシー)へ出社した。通称RJC。本業は民間人材銀行、転職を考える人の相談にのり、その人にあった会社を紹介する人材バンクだ。


 しかし、私が配属されたのは新しくできたばかりのKD課という部署で、仕事は週刊就職情報の求人広告営業だった。営業?取材じゃないの?お客さんは?ゼロ?自分で探す?どうやって?


 とりあえずは飛び込みでビルを廻ってみて?飛び込み営業?そんなことが俺に出来るはずがない。営業先が決まっていたヤマハ発動機の、バイク屋さん周りのルートセールスでさえダメだった俺。でもまあバイトだし、とりあえずやってみるかと。


 人材募集をする会社から求人広告をもらう仕事。その求人ニーズがある会社をどうやって探すか。まず、やってみたのが飛び込み営業。名刺を持ち、担当エリアである東京都中央区、港区、千代田区の目に付いたビルに飛び込み、受付で「リクルートの栢野と申します。求人広告の案内に来ました。人事担当の方をお願いします!」。


 100件廻っても担当者に会えるのは1割くらいで、会っても席に座って話が出きるのは2、3件。大半は「間に合ってます。いりません!」と断られる。こりゃー厳しい仕事に就いたなあちうのが第一印象。


 しかし、ヤマハ時代と違うウキウキした気持ちが芽生えてきた。厳しいが楽しい。


●同じ営業でも全然違うことに気づく


 ヤマハ時代は、相手がいらないといってもバイクを押し込み営業しなければならなかった。売る相手は自分の担当エリアの国分寺、府中、国立にあるバイク店だけ。そこに会社で決まったノルマの台数を、在庫として毎月買ってもらわねばならない。店頭で売れた分を補充するだけでなく、空いたそのスペースはホンダやスズキにとられないよう、バイク屋の親父に頼み込んでヤマハのバイクを置いてもらう。


 私はこの、相手が「いらない」というのに、無理に頼んで買ってもらうというのがものすごく嫌だった。相手が希望する時に希望する台数だけ買ってもらう。しかし、そんな待ちの姿勢では、ホンダやスズキに店頭シェアを奪われる。理論や理屈を越え、バイク屋の親父に気に入ってもらい、同じバイクならヤマハを店頭に多く並べ、来たお客にヤマハのバイクを優先的に薦めてもらう。


 そのためには、ヤマハの営業マンとして、出きる限りバイク屋のためになることをしなければならない。店頭でよりよく良くバイクが売れるように、様々な販売促進策を提案するなど。


 そう持っていくのが本来の営業の使命だったのだろうが、私は単にバイク屋に顔を出し、何の提案もなく、ただお願いしますとだけしか言えなかった。新人だったこともあるかもしれない。その後の人生で出逢った他の多くの営業マンも、基本的にはこちらの事情などヒヤリングすることもなく、ただパンフレットを出して、コピー機はいかがですか、保険は、金の先物は、と、ただ買いませんかとお願いするだけの営業マンが多い。


 そういう意味では、私も数多くいる新人営業マン、ダメ営業マン、お願い営業マンと変わりなかったのかも知れない。


 とにかく営業マンとは屈辱的な存在だ、相手がいらないと言うのに買わせる。無理矢理売りつける。相手に気に入られるよう、こっちが興味もない話にも微笑んで相づちを打ち、もみ手で相手の機嫌を伺い、可愛がられるような存在にならねばならない。営業とはそういう仕事だと思っていた。


●新規開拓営業は面白い!


 このリクルートの求人広告営業で、以前のヤマハ時代と大きく違ったことは、いらない相手には売らなくて良い、会わなくて良いということ。ヤマハの場合は、嫌な相手にも毎週会わなくてはならなかった。ルートセールスというのはそういうもの。


 しかし、この求人広告の新規開拓営業の場合、お客はゼロ。自分で見つける。求人の予定がない会社には売りつけても仕方ない。「求人広告はいかがですか?」「今はいいよ」もちろん、断り文句であることも多いのだが、こういういる、いらないがはっきりしたところが心地よかった。


 訪問して「うるさい!帰れ!」「間に合ってる!」「忙しい!仕事の邪魔をするな!」みたいなことを言われることも多かったが、それはそれで今後は行かなければいい。


 ヤマハの場合は「来るな!」と言われても行かねばならなかったし、嫌な客、自分と会わない客にも顔を合わさねばならなかったが、この新規開拓飛び込み営業では、営業先は自分で選べる、自分が主導権を取れることが私にはうれしかった。


 飛び込みを始めて1カ月、今だ注文はゼロだったが、「俺は自由だ!」。町中でそう喝采したこともあった。何とか3カ月目に飛び込んだ秋葉原の電子部品商社「サフジ電子部品」から女性事務員の募集で「とらばーゆ」1/4ページの受注をしてから、本格的にこの新規開拓営業が面白くなった。


 飛び込み方法も徐々に、無差別ビル営業から、職安や新聞求人をリストにしたものに変えていき、面会効率・受注確率も高くなっていった。職安に求人を出すのは無料であり、金や予算の少ない企業は、まずは職安に求人票を出す。その求人票は誰でも無料で閲覧することが出来、私は定期的に職安廻りをしてリストアップした。


 また、新聞への求人広告はポピュラーなものだが、朝日新聞や読売新聞はタバコの箱サイズで数十万円する。もちろん、発行部数も求人情報誌の何倍も多いのだが、サイズが小さいので詳しい求人情報は載せられない。有名企業は社名と職種程度でも集まるが、無名の中小企業はわずかな情報では差別化が出来ず、集まりにくかった。


 そこを突いて、新聞に求人を出している企業に電話して「新聞広告を拝見しましたが、反応はどうですか?御社は特殊な技術をお持ちですが、その情報を伝えるには大きな求人広告スペースが必要です。我々の就職情報は新聞と同じ値段で5倍のスペースが取れ、新聞より発行部数は少ないですが、読者は皆熱心な求職者です。読者層も若く、会社選びも知名度より中身を重視します。一度、掲載を考えていただけませんか?」とアポを取ったり、リストに基づいて飛び込みをした。


●仕事を通じて勉強できる


 しかし、新聞広告や職安リストは多くの求人誌営業マンがやっていたので、客先でバッティングすることも多かった。そこで私は、新聞広告ではなく新聞記事をリストにすることも考え、実行に移した。


 つまり、新聞の経済面などで「山川商事が新規事業を計画。営業網を現在の2倍に拡大する予定」とか「何々会社が新商品を開発!」などの発展情報を切り抜き、104の電話で電話番号を調べ、「実は今朝の新聞記事を拝見したんですが、担当者をお願いします」というと、かなりの確率で話が出来た。


 記事リストの場合は我々同業求人誌他社とのバッティングも少なく、相手も記事を見たということで親しみを持ってくれ、会いやすかった。私は朝一に出社し、誰よりも早く日経新聞、日経産業新聞、日経流通新聞、日刊工業新聞、電波新聞、その他専門誌も読みあさり、リストアップしてアプローチした。


 この新聞を中心とした情報集めは浅く広くだが、結果として様々な業界の知識に詳しくなり、私の知的欲求を大いに満たしてくれた。新聞や雑誌や本を読んだ知識があるので、企業の担当者や社長に会った時に質問程度はできるようになり、先方は好奇心はあるが業界のことを知らない小学生に物を教えるかのごとく、こちらが聞きもしないことまで話してくれることが多々あった。


 机上の勉強、情報収集に加え、お客からも様々な業界の勉強が出来る。それは学生時代に憧れていた新聞記者、ジャーナリスト、ルポライターのようだった。注文がもらえなくても、様々な講義が受けられる、知識に、勉強になる。かつ、求人広告の効果が上手く出れば、お客からも感謝される。


 「沢山の応募があったよ。良い人が採用できたよ、ありがとう!」


それはもちろん社交辞令が多かったのだろうが、営業先のお客からそういうお礼を言われることは、ヤマハ時代はなかった。バイクをバイク屋に届けて、売って当たり前。バイクメーカーとバイクを現場で売る仕事は表裏一体で、その間を取り持つルートセールスマンは、バイク屋にとっても使用人のようなもの。というか、皆がそうではなく、仕事が出来ない俺がそう成り下がっていたに違いないのだが。


●営業にやりがいを見つける


 とにかく、このリクルートの求人広告営業は面白かった。同じ営業でもこうも違うのか。ヤマハの場合はバイク屋という決まったお客に定期的に顔を出すルートセールス。リクルートの場合は、お客は一から探し出す新規開拓営業。ヤマハの場合は、工場で出来た商品をそのまま売るだけ。営業マンには商品を改良する余地はない。ホンダがヤマハよりも素晴らしいバイクを出した場合、営業段階ではその商品自体は変えようがない。


 リクルートの場合は、求人広告はお客に合わせて違う。作り方で商品が変わる。原稿は制作スタッフが作るのだが、営業マンの取材の仕方、原稿の作り方、広告の出し方で効果が変わる。そこに営業マンは参加できる。商品作りに関われる。「週刊・就職情報」という完成品はあるが、中の一つ一つの求人広告は、担当の営業マンと制作スタッフとの手作り。まさにこれが企画営業だ。これは私にとって大きなやりがいになった。


 また、私が配属されたのは採用企画課という部署だったが、会社の中で一番新しい部署で、既存顧客がほとんどない。メンバーもほぼ全員が新人。大企業や大口の中堅企業は先輩営業マンが抑えていて、結果として、中小企業やベンチャー企業、新規設立企業を開拓するしかなかった。


 しかし、これも私の知的好奇心を大いに満たしてくれた。大企業の場合、求人広告の担当は総務や人事スタッフが窓口だが、中小ベンチャー企業の場合、人事採用権は社長自らが担当することが多く、面会時の話が面白かったのだ。


 大企業に比べると当然、会社の規模も小さく、入居ビルやオフィスもボロいが、やはりゼロから会社を創り上げてきた創業者の話はスリリング。出来上がって安定した会社よりリスクも多いが、これからまだまだ成長していこうとする意欲や夢や可能性に触れられ、自分も相手の会社の成長に参加することができる。


 また、大半の中小企業の社長は学歴もなく、職歴も大企業ではなく中小企業を数社転職していて、結果として独立起業している場合が多かった。就職した大企業一筋でエリート街道をまっしぐらのみが人生の成功と思っていた私にとって、中小企業への転職や独立起業という選択肢もあるのだと気づいたのもこの頃だ。


☆明日のために・「石の上にも3年」は正解であり無駄。自分に合う適職は必ずある。どうせ将来起業するのなら、ガンガン転職して試してみよう。


●リクルートという会社に惚れた


さらに、会社自体が面白かった。本体の(株)リクルートは昭和35年創業だが、私が昭和58年に入社した子会社(株)リクルート人材センターの創業は昭和52年。会社が若く、伸び盛りで成長あるのみ。朝は7時台から営業会議やロープレ、夜も9時10時までの残業が普通で、その営業体制は体育会的なイケイケガンガンスタイルだったが、それは私にも好感が持てた。


 毎日、毎週、受注状況や目標達成の発表があり、皆からは拍手喝采の嵐。社内は受注を祝う垂れ幕や棒グラフが咲き乱れ、誰がどれだけ実績を上げているかも一目瞭然。各種目標達成の表彰も毎日のごとくあり、私も皆から認められたい、拍手を浴びたい、賞賛されたい、スターになりたいと、気づけばリクルートの仕事に没頭していた。


 こうして入社3カ月くらいの頃には、当初の公務員までのアルバイトという意識は完全になくなり、この会社で頑張っていきたいと思うようになっていた。


 リクルートという会社は、昭和60年代にリクルート事件という大きな挫折はあったものの、当時から現在まで成長を続ける優良企業として名高い。創業者・江副浩正のカリスマ、求人やその後の住宅情報、車、他への広告分野での革新的な商品開発が成功の要因といわれているが、私が思うに、社員のモチベーションアップが格段にうまいと思う。明るく楽しく、限界までチャレンジする環境作り。創業者精神を鼓舞し、早期退職制度を30才から40才の間に導入し、結果として大半の社員は40才までに転職か起業する。


 創業者メンバーは東大教育学部の心理学科出身が多かったが、後から考えると、集団への所属欲求、皆からの認知、自己実現など、まさにマズローの欲求5段階説をそのまま実行に移していた。


●バイト・契約社員という身分に負い目


 入社半年を過ぎ、まあまあの業績をコンスタントに上げられるようになり、時給制のアルバイトから月給制の契約社員に格上げとなった。リクルートはアルバイトでも名刺を全員持ち、対外的には正社員として振る舞う。私の在籍当時は、従業員の約5分の3がアルバイトか契約社員。そういう意味ではアルバイトや契約社員でも社内では肩身は狭くなかったが、外部に対しては後ろめたかった。


 友人知人からは「ほー、リクルートに転職したの?」「いや、正社員ではなくて契約社員なんだ」「ふーん(で、いつ正社員になれるの)」「・・・」と曖昧な返答しか出来ず、お客さんにもいつバレるかドキドキしていた。企業の大事な人事採用関係の仕事をバイトや契約社員がしている、なんだ正社員じゃないのか?とか言われるのが恐かった。


 しかし、バイトや契約社員から正社員になるには相当難しかった。当時の基準は「同年齢のトップクラスの実績を上げている正社員と同等の実績をあげていること」が不文律の基準。多くのバイトや契約社員が正社員への転向を希望したが、まずは社内の推薦がいる。が、その推薦は滅多に出ず、入社1年以内に退社する者が大半だった。また、受けても合格するのは数パーセント以下。


 対外的には一流企業の仲間入りしつつある成長企業・リクルートの正社員、が、実態はバイトに毛の生えたフリーター。私は正社員になることを渇望したが、推薦を受けられる時期を待たねばならなかった。


 以前、「下流社会」という本がベストセラーになった。バブル崩壊後の実力社会の本格的な到来で、収入の格差が拡大。下流下部の人は、正社員ではなくアルバイトや契約社員、派遣社員であることが多いと解説され、正社員でないから当然収入も身分も低く、将来性も見込めず、結果として結婚にも踏み切れない。まさにそうだと思う。


 当時25歳前後の私は何度も恋愛感情を持ってアタックしたが失恋ばかり。その大きな原因の一つは、俺はまだバイト・契約社で正社員ではない。身分は不安定。このままでは結婚できない、結婚する資格はないと潜在意識、顕在意識でも思っていた。


 同じような仕事をして、時には実績も社員以上に上げているのに、俺は3カ月ごとの契約社員。正社員になりたい。しかし、なれるかどうかわからない。では他社に転職するか。しかし、なかなかリクルート以上に魅力を感じる会社がない。1年が過ぎ、そこそこの成績も上げるようになった。特に新規開拓の件数では社内で1、2位を常に争うようになってきた。


 営業方法も徐々に進化した。①飛び込み営業→②リスト営業:職安・新聞や他の求人雑誌→③日経や日経産業新聞などの記事→日経ベンチャー倶楽部など経営者の交流会へ参加。電話や面会時のセールススタイルも進化した。


 最初の頃は、初めからいきなり名刺とパンフレットを見せて売り込みしたが、徐々にヒヤリングスタイルへ変えた。つまり、最初は相手の状況をヒヤリングすることに徹したのだ。電話でも、「リクルートの栢野です。ビーイングいかがですか?」ではなく、「どうもリクルートの栢野です。いつも求人広告の営業電話がかかってきて大変でしょう?」「そうなんだよ。ほんとにあなた達はしつこいねえ」で笑いが出ると話がスムーズに進んだ。


●正社員試験に落第し、号泣


 そして入社2年が経った頃、社内論文大会の「シーガル・コンテスト」が開催された。各部署での自分の活動を論文にまとめて発表するというもので、応募は必須ではなかった。俺は正社員じゃないし、高校までは作文は大の苦手。応募はしようと書き始めたが、〆切が迫っても進まず、会社の床に寝ころんで「あー、ダメだ、書けない」と嘆いたことをよく覚えている。


 私は中央理研、データプローブ、ベーリンガーマンハイムという会社への新規開拓受注営業の論文というかルポをなんとか書き上げた。全然期待してなかったが、なんと私の論文が社内第2位になり、賞金も15万円ほどもらった。まさか自分がそんな作文で賞をもらえるとは思いもしなかった。


 が、後で読み返すとなかなか面白い。私は「日記」の効用が少しは出たなと思った。前にも書いたように、私は高校時代まで作文というものが苦手で恐怖だった。そこで大学に入学したのを契機に、私は日記を書くことと多くの本を読むことを自分に課した。日記は日々の出来事とその思いや気づいたことを書くことが多かったが、結局は自分自身のルポルタージュ日記になり、現在の文章で食うことに繋がっている。が、この文章を書くことで稼げると気づいたのは、その10年後の35才なのだが・・・・。


☆日記やブログを書こう。下手でイイ。営業日報を書くように、自分の人生の日報もつけることは人生の貴重な記録となり、悩みや思うことを書き出すだけでクリーニング作用がある。よく、悩みを解決するには人に話すこと、吐き出すだけで悩みの半分は解決するというが、まさにそうだ。日記に思うことを日々書き連ねるのは、自分で自分をコーチする効果もある。できる営業マン、コンサルタント、カウンセラー、コーチは、相手の話を聞くのがうまい。私も何度も経験があった。こちらは相手の話を聞いただけで売り込んではいないのに、大口の注文が取れることがよくあった。それは相手の社長が自分の悩みや課題を吐き出し、すっきりし、それで問題が解決し、かつ、人は自分のことを知ってくれた人には親しみが湧く。当たり前だが、営業マンも相手のことを知れば知るほど、よい提案や企画ができ、結果として相手に喜ばれる。そう。日記を書くことは、自分との対話で自分コーチングの効果もあり、未知の自分を知ることでもある。日記を書こう。相手の話を聞こう。☆☆


 営業実績では社内トップではなかったが、新規開拓ではトップクラス。かつ、論文大会で「シルバーシーガル受賞」というのは自他共に認める実績となり、上司の推薦をもらって、ついに待ちに待った正社員試験を受けることになった。昭和60年の2月、入社から2年2カ月後のこと。


 正社員になるということは、親会社の(株)リクルートの正社員になるということ。まずは(株)リクルート人材センター内の推薦を受け、(株)リクルートの人事部面接、次ぎにリーダー面接を順当に通過。明日は最終の取締役面接という日、社内のメンバーと前祝いの飲み会を実施、当日の面接に臨んだ。
 
 が、数週間後の結果はアウト。正社員試験に落第。私はヤマハ発動機に続き、リクルートの社員としても落第し、愕然とした。試験に落第ということは、速やかに退社するということになる。自分のデスクに戻り、周囲を何気なく見渡した。忙しく働いている同僚や先輩が見える。私は仕事も好きだったが、共に励まし合うこの人達も大好きだった。


 でも、俺は同志として失格の烙印を押された。お別れの時期が来たのだ。もう、一緒に働けない。そう思うと、不意に涙が溢れてきた。嗚咽が停まらない。自分でも驚いたが、俺はこんなにもリクルートを愛していたのだ。上司の澄谷さんに応接間に連れていかれ、私は大いに泣いた。それまでの人生でこんなに泣いたことはない。


 が、泣きながらおぼろげに、明日からどうしよう、次の会社を見つけねばならないのだなと、試験落第とは違う苦い思いが湧いた。


★明日のために・私はこの後も5社転職失敗するが、リクルート社以上に厳しく、役立った会社はなかった。雲泥の差。バイトでわずか2年10ヶ月の在籍だったが、この時の経験がなければ今はない。一度は、厳しく、強制的に働かざるを得ない成長ベンチャー企業を経験しよう。

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●仕事内容より会社のブランドが大事


 研修センターでの机上と工場組立ライン研修が終わり、いざ、現場の仕事場へ。私の配属先はヤマハ発動機(株)東京支店管轄、ヤマハ東京(株)多摩営業所。つまり、ヤマハ発動機の販売子会社へいきなり飛ばされたのだ。一瞬ギクッと思ったが、俺一人ではなく、新卒採用の文系採用は全員。後から知ったが、メーカーの場合、文系採用の営業職ではよくあるケースだった。


 ヤマハ東京(株)多摩営業所は東京都府中市の刑務所のすぐそばにあった。所員は約25名。所長の他、営業、事務、技術メンテナンスの面々。新卒での配属同期は2人いたが、俺は偏差値で少し勝っていた。


 さて、実は社会人になるまで知らなかったのが営業という職種。研究開発、工場生産、企画、宣伝、マーケティング、営業、事務、保守サービス、法務、海外法人、その他。会社は様々な職種から成り立っているが、当時の私のイメージは就職ではなく就社。


 つまり、職種はある程度どうでもよく、文系エリートの場合、営業や事務や企画や広報など、様々な職種を経験しながら、管理職や部長や取締役になっていくのだろうと、漠然と思っていた。だから、営業という仕事には特別なこだわりもなく、どんな仕事内容かも知らなかった。まあ、物を売る仕事なんだろうな。


 身近では、小売店や飲食店の店頭販売の仕事があるが、ああいう店員なんかはレベルが低い仕事だと思っていた。人に愛想良く、もみ手をしながら物を売りつける・・・っていうのは嫌だなあと。学生時代までの仕事の印象はそういうものなのかもしれない。まあ職種はなんだっていい。入れば何とかなると。

 営業所に配属されて数週間、先輩営業に同行してバイク屋さんや自転車屋さんを廻った。


「どうもこんにちは!ヤマハの栢野です!よろしくお願いします!」


よろしくとは言っても何をお願いするのか。それにヤマハの栢野ではないな。正式には、ヤマハ発動機の子会社であるヤマハ東京(株)に出向の栢野だ。なんか格好悪い。早く、ヤマハ東京(株)の本社管理部門、その上のヤマハ発動機(株)東京支店へ行かねば。


 しかし、営業とは何をするのか、この時点でもよくわかっていなかった。というか、早くこんな現場から足を洗いたいと思った。「なんか合わない」ことが多かったのだ。


 営業所では修理メンテナンスの人間、バイク屋の親父・・・どうも合わない。大体、そういうヤツは学歴も教養もなく、元不良が多い。中学時代に不良から受けた虐めによる偏見か。そう。俺は中小零細や、油まみれの修理などをする肉体労働者を嫌悪していたのだ。


●営業の仕事とは


 日々の仕事でわかってきたが、我々、ヤマハ発動機販売会社営業マンの仕事は、一台でも多くヤマハのオートバイを売ること。それも一般のバイクに乗る人に直接売るのではなく、小売店であるバイク屋さんや自転車屋さんへの卸売り。一部の専門店を除き、バイク屋さんはホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキのバイクを販売している。


 我々営業の仕事は、いかに自社のバイクを店に買い取ってもらうか。他社のホンダやスズキより多く、在庫として持ってもらうか、店頭に数多く並べてもらうか。バイクメーカー4社のうち、バイク屋さんにはヤマハのファンになってもらい、店頭に来た最終消費者の方にヤマハのバイクを薦めて買ってもらう。


 メーカーとしては研究開発と商品企画でより良い製品を製造し、それをテレビCMやバイク雑誌などでマスコミPRをする。実際には、消費者はヤマハやホンダのメーカーからではなく、小売店である町のバイク屋さんで買う(この構造は一般消費財メーカーの場合、ほとんど同じだ。車、家電品、食品、酒、ファッション、雑貨などなど)。


 大型バイクなど一部のマニアな消費者は、バイク雑誌や口コミで買う車種を決めているが、数の出る原付バイクなどは消費者も知識は少なく、大半は店頭で見て、店員から話しを聞いて薦められたりして、どのバイクを買うか決める。


 つまり、商品が売れるかどうかは、①商品そのものの力(バイクで言えば、パワー、機能、燃費、デザイン、価格、イメージ、他)、②CMや雑誌での宣伝・マーケティング、③全国への販売網の広さと多さ、④キャンペーン、⑤バイク店での店頭宣伝、⑥店頭在庫の多さ、⑦店員の接客販売の仕方、他となる。


 このうち、①から④まではメーカー本社の範疇で、現場の営業レベルの仕事の中心は⑤⑥⑦に関わること。つまり、バイク屋さんに、店頭で他社よりも多くヤマハのバイクを並べてもらい、接客においてヤマハのバイクを薦めてもらうか。そう仕向けるために、普段のつき合いが大事になる。


●自社よりライバル会社に惚れた


 結論から言うと、私はこの小売店相手の営業ができなかった。それ以前の問題で、私はヤマハのバイクに惚れることが出来なかった。私は、バイクならホンダが良いと思っていた。それは今もそうだ。エンジン性能、価格、デザイン、会社の姿勢、イメージ、すべてにおいてホンダは素晴らしいと思う。


 相手の幸せを考えると、バイク屋にとっても消費者にとっても、買うならホンダが良いと思ってしまった。これはヤマハの営業マンとしては致命的。が、客観的にはホンダだと思った。劣る物は売りたくない。


 が、こういう姿勢や考えは態度に出るもので、私は積極的に、自信を持って自社の商品を薦められなくなった。営業マンとしてはサイテー。会社から給与をもらう以上、自社商品を売って利益を上げねばならない。なのに自社より他社商品に惚れているのだから、どうしようもない。


 私が入社した前年、ヤマハ発動機は絶好調だった。原付のパッソルが売れ、売れ行きのいい250ccでは、RZという2サイクルもバカ売れ。単月だったがヤマハがホンダを二輪の売上シェアで追い抜き、史上初の二輪ナンバーワンメーカーになった。その勢いに乗り、私が入社した年は文系だけで200名前後の大量採用だったのだ。


 ところがその年、ホンダが本気を出した。今までのヤマハの売れ線に、ホンダはことごとく、強烈な対抗車種をぶつけてきた。原付はタクト、250ccではVT、オフロードではXL。ホンダはほぼ毎週新車種を出した。怒濤の勢い。ヤマハは虎のしっぽを踏んでしまったのだ。後年、HY戦争と言われるバイク戦争となった。


 が、ヤマハの社員として、サラリーマン・営業マン失格者の私は、ホンダのバイクに惚れ込んだ。口には出さなかったが、バイク屋の店頭でホンダのバイクを目にする度、この原付バイク「タクト」の色つや、製品の完成度の高さはどうだ、4サイクルで燃費も良い。このVTに至っては4サイクルの250ccで、パワーに勝る2サイクルのRZと並んだ。当然、燃費も良いし故障も少ない。美しいVツインエンジンのデザインも最高だ。


 それに比べ、ヤマハのパッソルはオモチャみたいだ。RZ250は暴走族に多いし、2サイクルだから音がうるさく排煙も多い。こりゃダメだ、製品としては・・・・こんな評論家になってはヤマハの社員としては失格だ。


●クダラナイお客とは話したくない


 この評論家気質に加え、実は私はバイク屋の親父が好きになれなかった。聞いてはいないが、どうせ学歴は中卒や高卒だろう。店頭にバイクを並べるだけで、あとは油まみれになって修理をする。服は汚い作業着。話す内容は、競馬や競輪や女の話。くだらない。人間としてサイテーの部類だ。


 俺はこんなヤツらと話している時間はない。早くこんな現場を脱出し、本社の管理部門へ行かねば・・と思った。が、今はこいつらに頭を下げてヘーコラ。仕方ない。


 こんな考えは態度に出るのだろう。バイク屋の親父に無視された。が、こっちも嫌い。バイク屋に行くのが嫌だった。会っても話すことはない。バイクのことは俺よりも詳しい。俺には値引きやその他最終決定権はない。単なるお使いみたいなものだった。


(同じ頃、同期の優秀な鬼塚晃は、新入社員でもお客に役立てることはないかと、スーツを脱ぎ捨ててツナギでバイク屋を廻り、店頭バイクの掃除をしていたと20年後に聞いた。彼は現在、去年上場した英語のアルク関連会社の取締役。心構えに雲泥の差があった)


 そもそも、バイク屋の親父のような中小零細企業商店の親父は尊敬できなかった。どうせ、こいつらは勉強が出来なかったんだろう。だから、こんな汚い地べたの現場で仕事をしているのだ。俺は高学歴で大企業に入ったエリートのホワイトカラーだ。本来はこいつらが俺に頭を下げるべきなのに・・・・。おかしい。悔しい。屈辱的だ。


 バイク屋では、ライバルのホンダ、スズキの営業マンにも会う。実は彼らは皆高卒だった。ホンダやスズキも、実際にバイク屋を廻るのはメーカーの社員ではなく、販売会社の社員。ヤマハは販売会社も大卒だった。つまり、ヤマハは同業他社が高卒で採用してる現場の営業マンを、大卒のメーカー採用で販売会社へ出向という形だった。こちらは大卒で、ライバルは高卒。ヤマハ発動機の同期に有名一流大学のヤツが少なかったのはそういうわけだ。謎が解けたね。


 車業界で言えば、俺がやってる仕事は車の販売会社、ディーラーの営業と同じだ。どうせ辞めるのだからという前提の職種。ヤマハ発動機には受かったが、実は高卒と同等の仕事をさせるための大量採用で、最初から学歴や知力は期待されていなかったのだ。


 しかし、私はこのライバルの低学歴者にも負けた。バイク屋に対する営業で、営業といってもバイク屋と仲良くする=くだらない話をするルートセールスだったが、バイク屋はヤマハの私と会うより、ホンダやスズキの営業マンと会うのが楽しそうだった。それは私も同じだった。バイク屋の親父と会うより、他の本を読んだりした方が勉強になる。こんな考えをするだけでまたも失格だ。


●ついにノイローゼになる


 私はヤマハのバイクが好きになれない。ヤマハよりもホンダが良いと思う。バイク屋にとっても、消費者にとっても、良いのはホンダだ。かつ、バイクは果たして何か社会貢献しているのか。原付バイクあたりは実用的だが、スポーツバイクは単なるレジャー。バイクは危ない。車の方がいい。速いバイクは暴走族に使われる。バイクを売ることは、俺がやっている仕事は反社会的なことにつながるのではないか。


 仕事自体、週に1~2回、テリトリー内の同じバイク屋に顔を出すルートセールス。話が合う取引先はない。賭事や女や遊びなど、くだらない話はしたくない。が、そんなことはもちろん言えない。営業で嫌々ながら顔を出し、嫌いな親父がいなければホッとして、いれば愛想笑いでお茶を濁し、「お願いします」と頭を下げるだけ。


 月末になると、お願い営業でバイクの買い取りをしてもらい、それはバイク屋の店頭に座って粘るだけのお願い営業で、販売促進とか企画とかその手の策は何もなく、ただ日々がツライだけ。


 これは何かが違う。ひたひたと忍び寄る劣等感。挫折感。絶望感。高卒のバイク屋に負け、ライバル会社の高卒営業マンにも負けた。さらにヤマハの同期である、立命館大学より偏差値の低い同期にもことごとく負けた。とにかく、毎日がつらくなった。


 お客であるバイク屋を廻る頻度が少なくなり、車でさぼる時間が長くなってきた。さぼるというか逃げだ。どうすればいいか、誰にも相談できない。相談すれば良かったのかもしれないが、上記のようなことは会社の先輩にも同期にも相談できない。出世のためには、仕事が嫌だ、仕事ができないということは隠さねばならない。


 気づけばノイローゼになっていた。現場に配属されて2カ月くらいではなかったか。4月と5月の研修が終わり、6月から現場に出て・・・・あれは8月末か9月の初めだったと思う。メーカー本社の新入社員フォロー面談で、苦しさを隠しきれずに「・・ダメです・・」と弱音を吐いた。


 人事担当の顔色が変わるのがわかった。面談でこんな言葉と態度を示してはマズイ。確実に出世に響く。でも、俺は憔悴しきっていた。その後、寮に閉じこもり、初めて出社拒否もした。会社に行きたくない、仕事をしたくない。俺はもうダメかも知れない。


 そして入社した10月のある日、私は夢遊病者のように辞表を渡辺所長に出した。


●逃げることだけを考えた


 「バカ野郎!」


 大きな声で怒鳴られ、怒られたのを覚えている。こんな挫折経験は生まれて初めて。もうお終いだ、辞めるしかない、とにかく逃げ出たい。が、先のことは何も考えられなかった。


 こんなダメ社員だったが、なぜか慰留され、12月を迎えて2度目の辞表提出。その2カ月の間は何をしていたか全く覚えていない。いや、その2カ月というか、仕事に悩みだした8月以降の5ヶ月間は、まさに悪夢にうなされていたような日々だった。人生で最初のウツだ。


 それまでの人生は自分でも上出来。一応の有名大学に入り、学生時代は本を500冊以上読み、少林寺拳法では関西大会に2年連続優勝。大学の勉強はあまり意味がないと思ったので適当だったが、経営学部らしくその手の本はそこそこ読んだ。


 当時流行っていた日本的経営の本や、高校時代に亡くなった親父の書棚から「経営学入門」とか経営評論家の三鬼陽之介の本を相当読んだ。まさに文武両道。こんな好青年の大学生はなかなかいないのではと自分でも思っていた。


 そして就職は、天下のヤマハ発動機。一部上場企業でカッコイイ有名企業。東大京大や早慶を出て三菱商事や東京海上火災ほどの一流ではないが、自分なりには絵に描いたような成功人生だと思っていた。


 それが入社わずか9カ月で退社。それもノイローゼ退社。辞め方も最悪。格好悪い。とにかく、逃げることだけを考えていた。


 とにかく、これで大企業で出世するという夢は失った。それに俺は民間企業ではやっていけない。他人を蹴落として自分の利益を追求するということができない。お客であるバイク屋がいらないというのに在庫買い取りをお願いする、ホンダやスズキとの戦い、同期生との戦い、ことごとくダメだった。俺は資本主義社会での民間企業人として失格だ。


 そうだ。今さら遅いカモだが、公務員になろう。それも警察官、刑事はどうか。当時「太陽に吠えろ」というテレビ番組があり、悪を懲らしめ、正義を追求する刑事はカッコよかった。少林寺拳法の経験も使える。松田優作でも目指すか。

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◆9/7~11は浜松・浜松・名古屋・名古屋・新潟新発田・五泉で講師をさせて頂く。が、風邪+喉がガラガラで声が出ない。なんとかごまかしたが、小失敗の数々。謝罪。申し訳ない。体調不良や交通の遅れなどもすべて講師の責任。自己管理の怠慢だ。良い経験をした。主催+参加者には申し訳なかったが。


写真はクリック拡大


「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例      「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例
9/7は浜松で加藤建材+高林会計さん主催             中村建設・安全大会  



「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例      「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例
        野原産業・協力会                    名古屋・千種区倫理法人会



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     「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例


新潟・新発田市・青年会議所

参加者の感想1



「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例

     「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例
新潟・五泉・社労士・水戸さん主催




「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例      「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例

参加者のアンケート。他に新発田で「クダラナイ!」という意見もあったが、それはそれで正しい。経営戦略と事例を期待した人には「夢戦感」とかやる気系とかどうでもいい。ここに載せていたが、私のコメントが気に入らないらしく、削除要求をしてきた。それもその人らしい。一番合わないタイプ。が、今回はそういう客層はあえて無視した。皆を満足させると失敗する。翌日の五泉では逆で、経営戦略と事例のオンパレードで4時間。内容的には相当充実していただろう。が、声が・・・・今回のツアーは個人的には失敗だ。体調も内容も。60点。


                                         「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例                                                                             
      「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例
以前、成功事例で紹介した居酒屋だが、1ヶ月後は閑古鳥。成功を維持するのが難しいね。ボクもわからん。



「人生は逆転できる!」小企業成功戦略と事例



靴底が割れた。行脚で磨り減ったのだ。


よう頑張っている。栢野は。





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以下は五泉で主催してくれた社労士・水戸さんのブログ より


9月11日、栢野克己講演会in五泉!ご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました。


以下、完全に自分本位のレポートです。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇

会場エントランスの立て看板完了

手書き(筆)で書けばよかったと反省。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇

会場準備完了

「あ!お茶忘れた!」

当社の庶務取締役(カミさん)に走ってもらいました。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
前座

せっかくなので、私も少し喋らせてもらいました。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
栢野克己さん登場

つい先日訪問されたモンゴルの話しから。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇

参加者の大半は初・栢野

皆さん、旧村松のざいご(=田舎)までありがとうございました。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
いよいよ話は核心へ


8大戦略。

そして夢戦感。


」だけでは生きていけない

感謝」だけでも、ただのイイ人

戦略」で愛する人を救うのだ


これほど腑に落ちる話はありません。

ただ私の場合は、自分を救ってくれた恩人たちに恩返しをするために、「夢×戦×感」を学び実践してゆくのであります。


夢戦感が、なぜ腑に落ちるのか?


なぜか?


講演を5回聞くか、著作を5回読めばわかります。


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購入手続きはお済みでしょうか?


さて


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇

盛りだくさんの講演会のあとは、近くの飲食店に場所を移して懇親会


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
私もビールが入って、完全に主催者の緊張感が無くなっています

しかし、ここで得られるモノが大きいのです。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇

撮った!(撮ってもらった!)

コレがやりたかった! 目的達成クラッカー


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
宴もたけなわ


㈱リンケージM.I.コンサルティングの長谷川社長にバシッとシメていただきました。



栢野さんをはじめ、遠方へ帰られる皆様を見送り、地元の有志数名で2次会へ。


社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
ホルモンで気合を入れ直す

社会保険労務士 水戸伊智郎 新潟発の復活劇
地元商工会、青年部部長のノリトさん(布施さん)と

最後は記憶があいまいです。

(いつもですけど・・)



皆さん、本当にありがとうございました。


--- --- --- ---


<レポート後記>


今回の講演会には、当社のお客様、私の小・中学校の同級生、高校の同級生、東京で開業していた頃のスタッフ、新潟に帰ってきてから公私共にお世話になっている大先輩の経営者、中小企業家同友会の先輩含め仲間たち、ごせん紅葉マラソンの実行委員をともに務める地元商工会メンバーや地元JCメンバー、などなど様々な方面の人たちからご参加いただきました。


自分のこれまでの人生に関わってくれた人たちが一同に会する、というシチュエーションは何かに似ている。過去に一度味わったことがある感覚だなぁと思っていました。


一体なんだろうか?と考えたみたら


自分の結婚式でした。


ははは苦笑


<お読みいただき ありがとうございました!>


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以下は阿賀野市の写真館サンフォート双子のママさんブログ より


昨日は、新発田市の生涯学習センターへ栢野克己 さんの講演会へ行って来ました。
22.9.10k-1.jpg

私が在籍する阿賀野塾のメンバーとともに参加しました☆
昨年の経営革新塾の課題本となった著書の講演会です。
私はチラシで見つけて、真っ先に予約しました。
楽しみにしてた講演は「日本一過激な小企業コンサル・講演家」といわれるだけあり
綺麗事だけじゃない内容に、大きく頷きました。

モンゴルから帰国した栢野氏のパワフルな講演を聞いて、元気とやる気をもらいました。

昨年、栢野氏の著書に掲載された「名刺」を参考に作り直した、自身の「名刺」と
交換できるなんて~(*^o^*) 感激です。
名刺の裏面を見ると
【人生修行中】
○早起き・笑顔・掃除 
○人生の成功は夢×戦略×感謝  のお言葉が☆


22.9.10k-2.jpg
講演後に著書にサインをいただき、みんなで記念写真です。ハイポーズ!

22.9.10k-3.jpg
続けてこちらもドン!!


「夢」を持って行動し、「感謝」の気持ちを忘れずに、「商売」をする上での戦略を持って。。。
この3つのバランスを持って「素直」な気持ちで行動するぞ~

帰ってからも興奮してなかなか寝付けず、いただいた資料を夢と計画で埋めつくし
著書を読み返しました。『夢は描かなければ叶わない』

なんだかいける気がする~(←いつも単純(^▽^;) ・・・)

戦略というと少し聞こえが悪いですが、何も考えずに行動するのとでは
大差がでますよね。 実際、夢ばかりではやっていけないし。


どうなりたいか目標を書き込み、そのためにどうするか?
そして、それをやり続けること。(実は、これが一番難しいことですよね。)

昨年から最近まで本を読んだり、セミナーに出たりしていますが
それを行動に移さなければ、何もなりません。
そんな思いをメンバーで熱く語った夜でした。こういう同士がいることも幸せです。


今朝から眠い目をこすり(ρ_-)ノ 一つずつ実行しております。

「早起きは三文の徳」っていいますもんね(^-^) 健康にもいいし☆-( ^-゚)v
他にも、いいと思ったことをやってみます。

学んだことをちゃんとお客様に還元しなければ p(^^)q
栢野さま、ありがとうございました。

新発田市青年会議所(JCI) の皆さま、最前列の席を用意していただきまして
大変恐縮いたしました(*v.v)。 小林様はじめ、ありがとうございました。

今度、阿賀野市で交流できたらいいですね。

そうせば、またね~(^_^)/~

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■人生は学歴と職歴で決まる。


父が家にいなくなり、家はオレの天下になった。高校2年で多感な次期。些細なことで母にキレ、当たり散らした。


 ある時、キレて思わず窓ガラスを叩くと、粉々に砕け散った。母は弟を抱きしめ、「もうパパが居なくなったのよ!・・・」と泣き叫んだ。窓ガラスまで割るつもりはなかったが、バツが悪く、そのまま自室へ籠もった。まさに鬼の子。が、そこまでのことは年に1回もなく、思春期にありがちなガキだったと思う。


受験勉強は塾にも行かず、独学だった。また、当時は恋愛に夢中で、頭の中の半分はいつも彼女のことばかり考えていた。学年では350人中50番前後だったが、全国模試での偏差値は55前後。国立一期校や早慶も夢見たが、とても受かる見込みはない。


 一刻も早く家を出たかったが、東京まで出る気はなかった。父の保険金など、なんとなく家にはお金はありそうだったが、片親の子供らしく、遠くに行くのは関西まで。さらに、国立が無理な場合、私立は授業料が安い大学を選定。


 実力に見合う長崎大学、関西大学、立命館大学を受験した結果、京都の立命館にのみ合格した。立命館はその後、いわゆる偏差値が上がってブランド大学の下位に食い込むようになったが、昭和52年当時の、特にオレが受験した経営学部は偏差値も55前後。地元の福岡大学や西南大学と大差はない。が、関西私立の雄として「関関同立」と言われていたので、深い事情を知らない人には「ほー、立命館。スゴイね」と言われ、ま、オレにとってはちょうどイイ学歴となった。


■家を出る


京都へ新幹線で博多駅を出る際、母が見送りに来たが、列車が発車したとき、母が目頭を押さえて泣いていた。鬼の子のような振る舞いをしてきたのに、子が離れるときは寂しいのか。しかし、オレの心は完全に京都へ飛んでいた。始めての独り暮らし。これで自由になれる。まさにルンルン気分だった。


学生時代は、まあ、普通の大学生だったと思う。意味のない大学の授業も平均以上は出て、普通にマクドナルドや家庭教師でバイトをし、合間は少林寺拳法と読書をし、毎日、日記を書いた。


 少林寺拳法は、中学時代に下級生から虐められたこと、高校時代に交際していた彼女からフラれたことがきっかけで、いつか見返してやろうと始めた。


 読書と日記は、高校まで作文が一番苦手だったことから。大学は試験が論文中心と聞き、恐ろしかった。とにかく文章を読み、書けば上達するのではないかと18歳から日記を始めた。


 高校卒業間際に彼女に振られ、結局23歳まで想いを引きずり、恋が成就することもなく、また、大学時代は恋人もできなかったが、その青春時代の悩みや想いを自由に書きまくり、この経験が20年後に活きることになる。
 少林寺拳法は当時流行ったブルースリーの影響もあったが、手足の長い私の身体能力にも合っていた。また、少林寺の試合は二人一組の演武なのだが、久保田という、無骨で努力を諦めない相棒のおかげで、2年連続関西大会で優勝という栄誉も得、学内の異種格闘技大会でも優勝した。


 学業も、自分なりには勉強した方だと思う。オヤジの書棚から持ってきた坂本コンサルタントのカッパブックス「経営学入門」や経済評論家・三鬼陽之介氏の本をわからないなりに読み漁った。


 また、のちにイトマン事件や総会屋体質で叩かれることにはなったが、雑誌「経済界」主幹・佐藤正忠氏が選挙違反で逮捕され、出てきた時に書いた「どんな人間になりたいか」には大いに感化された。


 ゼミでも、当時経営学部で一番人気の「渡辺峻ゼミ」に入り、当時流行った「日本的経営」の影響で経営書も読みまくった。卒論は渡辺先生の考えで、図書館の本を切り張りした論文ではなく、各自が興味ある業界の企業に直接訪問して取材。私は京都本社だった「餃子の王将」の経営管理を研究。 


 今考えれば、非常に拙いレベルではあったが、ゼミでは皆の論文を持ち寄って商業出版まで実現した。学問が面白くなった私はあえて留年を選択。5回生の夏にはニューヨークのコロンビア大学へ語学留学。金を出せば誰でも通える英会話コースで、そこは日本でダメな学生のたまり場でもあったが、教師の27歳アメリカ人女性・ジュディと恋に落ち、わずか3ヶ月の間ではあったが、自分の国際関係行動力に酔ってもいた。


★明日のために・その① 


虐められた恐怖で少林寺拳法をやり、作文が恐怖で日記を始めた。格闘技と日記。この2つの経験はスグには役立たなかったが、その後の人生で、私の大きな基礎能力になった。格闘技=闘争本能=起業家精神が身に着き、日記=内省と表現力が身についた。ネットの時代=文章力が大きな武器。格闘技をしよう。日記(ブログ)を始めよう。


■就職活動


 そして臨んだ就職活動。私の中では、一部上場の有名会社しか頭になかった。オヤジはキライだったが、神戸大学を出て銀行取締役のエリートの姿は、子供の頃から見ても憧れたのだろう。立命館では見劣りするが、なんかとか有名大学の一角ではある。


 実際に足を運んだ第一希望候補は丸紅、兼松工商、大沢商会、NEC、松下電器貿易。しかし、各社の出身大学実績を見ると、関西では同志社、関学までが大半。その手の会社では、立命や関大は当落スレスレラインで、事実、私も落とされた。


 OA商社の内田洋行では、立命館クラスは楽勝だったので、つい、面接で「第一志望は松下です」と口を滑らせ、面接官から露骨に嫌な顔をされた。結果は案の定、不合格。


 追い込まれた私は、とりあえずの滑り止めで日興証券と山一証券を受験。今はどうだから知らないが、証券・スーパー・外食産業・車のディーラーは人使いが荒く、そこそこの大学であれば、ほぼ全員が採用になっていた。


 結果、日興と山一に合格。野村とは大差があったが、山一よりは頭一つ抜け出していた日興証券に行くことに決め、内定者研修でも勢いのいいホラ吹いたりして目立った。証券マン。果たして何をやるのか、皆目見当がつかなかったが、とりあえずは一部上場だ。


■そんな10月の半ば、下宿に山のように来る二次募集のDMの中に、「ヤマハ発動機」の名前を見つけた。当時、就職するなら東京か大阪と思い込み、地元福岡はもちろん、ローカル本社の会社は全く眼中になかった。
 が、天下のヤマハだ。オレは学生時代、バイクにもはまっていた。最初は少林寺の仲間である久保田のホンダダックス70cc後部に乗せてもらったとき、俺は一目でバイクの世界に惚れた。当たり前だが、徒歩や自転車よりはるかに行動範囲が広く、公共交通機関と違って自分の意志で自由に動ける。スグにダックスを買い、のちに中古のオフロードバイク・スズキハスラー250ccで全国を放浪した。


 しかし、趣味と仕事は違う。ましてや、天下のヤマハだ。立命館レベルでは受かるはずはないと思ったが、受けるだけ受けてみるかと、大阪の地産ホテルで二次募集試験を受け、5人くらいの集団面接では好き放題に振る舞った。メンバーの中では「勝ったな」と思ったが、超有名企業のヤマハだ。無理だろうと、入社確定を意味する11/1の日興証券・会社訪問準備に備えていた。


 ところが、ヤマハ発動機から採用通知が届いた。一瞬迷ったが、社会人になって女や皆と名刺交換するシーンを想像すると、絶対にヤマハの方がカッコイイ。日興には「すいません。大学院に行くことになりました」とウソをつき、晴れて天下の一部上場企業でCMもやっている、有名会社の社員となることになった。


 これで人生の成功はほぼ確定した。人生はまず、どれだけ有名な大学へ行くかで決まる。次に、どれだけイイ会社に行くか。それは当然、有名な一部上場会社でなければならない。


 学生時代は京大や同志社の連中には引け目を感じ、京産大以下の学歴は見下していたが、次は会社に入ってからの競争だ。ヤマハだから優秀な大学のヤツが多いだろうが、ともかく、これでヤマハ発動機「以下」のサラリーマンには勝った。


 「以下」とは、例えば同期が就職したジャスコやニチイなどのスーパーや証券会社、同業のスズキやカワサキ、その他、九州の田舎会社、東京でも中小企業など、とにかく、会社の規模や知名度で劣る会社の人間は、みんなオレよりも下層だと思った。


 福岡へ報告に行っても、銀行社宅や高校で友達だったヤツが、学歴が福岡大学や西南大学だと見下した。高卒や中卒は、俺の中では人間ではなかった。学生時代に人間を見る基準は偏差値で、社会人なら勤務先のレベル。


 オレと同等だった友人が学習院に行ったと聞いた時、一瞬、偏差値で少し負けたかもと思ったが、一浪と聞いてホッとし、お互い母親と子供の食事会だったにも関わらず、「あー、浪人でね」と吐き捨てた。小学校時代からの親友に対してだ。


 そして、就職先は天下のヤマハ発動機。偏差値で言えば、俺が属していたのは日本の同級生の中で「上の下」、または「中の上」と判断していたが、そのレベルの中では、「立命館→ヤマハ発動機」という肩書はまあまあの成功組だと確信していた。


■またも「俺は勝った」


 しかし、次の問題は入社後だ。会社の中で、同期に勝たねばならない。天下のヤマハ発動機だから、優秀な大学ばかりだろう。俺の立命館では弱いかなあと一抹の不安があったが、研修で磐田本社に皆が揃ったとき、コレは勝てると内心思った。


 出身大学を聞くと、なぜか一流大学がほとんどいない。東大や京大はゼロだし、国立は佐賀大学とか東京都立大学程度。私立も、なぜか早慶は1名ずつで、いわゆる東京六大学や関西も、上智や立教や明治、同志社や関学など、優秀なレベルがほとんどいない。大半が聞いたことのないような大学で、オレの中では人間ではない。(あとで思ったが、たぶん、優秀な理系は別採用)


 これは意外だ。天下のヤマハが、なんでこんなバカ大学出身者ばかりなのだ。しかし、結果として、俺はこの内定者の中で、偏差値では上のグループだ。頑張れば出世できる。部長、取締役、いや、社長も夢ではないかもと、俄然、出世欲が出た。


 本社のある静岡県磐田市での2カ月の研修中、夜遅くまでビジネス書を人一倍読み、新人研修の発表大会では私がリーダーを務めたグループが最優秀賞を受賞。配属先も、出世するなら中央に出るのが有利だろうと東京を希望し、東京支店へ配属決定となった。


 ある有名大学のヤツが研修中にノイローゼになって退社した。また、別なヤツは工場実習で機械に挟まれて腕を落としたと聞いた。「そうか。可哀想に・・」と思う反面、これでまた一人ライバルが減ったと思った。


 レースはもう始まっていたからだ。


(つづく)

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